水曜日, 5月 31, 2006

職務質問

日常的に心に浮かぶことがあって、
思ったときに書き留めておかないと忘れることがあります。
忘れてしまった「あのこと」は
自分の頭の中でどうなっているのだろうと
ふと想像します。
釣り逃した湖の魚のように、
自分の無意識の中で泳いでいるのでしょうか。

一般的な性質として、
あるものの境界に近付くほど事態がややこしくなります。
ややこしくなる、とは考慮に含む事象が増える、というもので、
個人の存在に関わるもの、
俗に言うプライベートの部分が境界の限界です。

プライベートという日本語の言葉には
今現在は「普段は見せない秘密」というニュアンスを含みます。
公的なものと私的なものは、
公開と秘密とは異なるもののはずですが、
なぜか私的なものは秘密ということになってしまっています。

個人として思い考えることを私的として、
それに周りを見回して考えたことの影響を考慮したのが公的なら、
公的と私的の間には繋がりがあり、
情報の隔絶が起こっているわけではありませんし、
また公的と私的が反対要素であるわけでもありません。

秘密の取り扱いについてふと思います。
秘密が人を守り弱くするだけのものであれば、
守秘義務が課せられた法律家や医師はすべからく弱くなるはずですが、
実際はそうなっていません。

わたしの印象では、秘密という言葉のインパクトは
日本ではとりわけ大きいと感じることがありますが、
一方で一定の条件の下では見せてもらって当たり前だという概念も通っています。
ただ日常的に生じている秘密はいくらでもあって、
着替えている最中は席を外すことだって秘密のひとつですし、
美しいレストランで食事をしているときには
調理場の流しで皿洗いをしているところは見せないものです。

本当の秘密が守られるとは、
情報が鍵をかけて保管されることではなく、
これは公開したくないと宣言したことが
正当な事象として十全に認められなければなりません。
秘密の捉え方と個人の概念とは緊密な関係がありそうです。

秘密が当然として認められて初めて、
個人という概念も成立するように思います。
日本人は純粋で生でピュアなものが好きだと公言して憚りませんが、
本当の純粋さは非常に複雑な世界を経験して内包しているはずで、
単極で居続ける無知さを肯定するものではありません。

情報公開で何もかもガラス張りで、
日本の芸能人のようにどこまでも個人を失うのか、
それとも秘密結社や汚職や談合のように
すべてが闇の中に包まれるのか、
こういう極端なケースばかりの極端で稚拙な状態から進歩して、
公開と秘密のバランスをどこかで上手にとっているようなケースを
もう少し追求すべきだと思っています。

晒されるか閉ざされるか、という選択は
昼は摂氏150度、夜は零下数十度の月の表面のようで、
それでまともで美しい生命など育ちようがないのです。

火曜日, 5月 30, 2006

仮想質問

歩く機会が増えました。
道にはよく花が咲いていて、春の季節は目に快いものです。

テレビを時折見ていて、わたしなりに解釈に困る言葉があります。
「あなたは私が望むことを何もしてくれないじゃない。
私のことを大事に思っているの?」

この「大事に思う」という言葉、落ち着いて考えないと何かつかめないので
しばらく考えます。

望むことをしてくれるという行為が大事に思うことであるか、と考えると
そうではないだろうと思います。
何らかのサービスなら職業で受けることと同じで、
多少の抵抗はあっても大事に思うかとは別に行動があるものです。
同様に、大事に思うことの表現は煩わしく面倒なことを
自分の代わりに解決してくれることと等価だろうか、と考えると
そうでもないだろうと思います。

では、大事に思うことは
私と自分が同じことを望み好んで同じ場所にいることと等価だろうか、と考えると
そうでもないだろうと思います。
好みは個性を表しているものであって、強要はできないものです。

私のことを思っているのならこれをして欲しい、という台詞があって、
多分そんなもので思いの量を測られるのなら、
思うこと自体をやめるとふと思います。

自分がやりたいことが
人まで巻き込まなければならないと分かった場合、
やりたいこと自体を考え直すことがあります。
他人を目的達成の不可欠条件にすることは基本的にないし、
自分と他人の区別をつけない人を時に不思議に思います。

わたしが心から望むことは、
あるべきものがあるべきように保たれ、
たくさんの人の中で純粋に大切にしたりされたりして生きることだけで、
家族であれ組織であれ、
特定の何かだけを選び続けることは
どうしてもできないと思っています。
自分が選び出した少数の人だけが幸せであれば、
後の人たちへはただ幸せになっていたらいいねと願うだけで
地球の裏側がどうなっても特に気にしない、というような人に
自分がなりたいとは思えないし、
そういう人に心が惹かれるとも思えないのです。

わたしがいつも大事に思う人は、
自分の意思でたくさんの人に幸せを与えようとしている人で、
その人は特別にこちらを向いていなくてもいいし、
何かを与えてくれなくてもいいと思っています。

自分には何もくれないのに変じゃないか、と
思われるかもしれませんが、
自分の意思でたくさんの人に幸せを与えようとすることを
現実に見せてくれていることが一番満たされるのです。
何かが欲しいわけではなく、
なぜかとても与えたくなるような気持ちで近づきたいと思うのです。

どうしてと言われてもなにもうまい説明はできず、
ただわたしはそう思うだけだとしか言えませんが、
そう思うことはとても確かなのです。

火曜日, 5月 23, 2006

無心といけにえとばば抜きと

ちょっとおどろおどろしいタイトルですが、
言語化せず雰囲気でコミュニケーションし、
難しい仕事を負担する段になると
社会はこういう現象になります。
魔物なんていない、と科学はすっかり
社会システムを明らかにしてしまったように触れ回りますが、
とんでもない、とふと思いました。

魔物とはつまり、非言語で投射される人の心です。

月曜日, 5月 22, 2006

人間にとっての距離とは、精神的な近しさの度合いである

地図を見てびっくりするぐらい遠いなと思った道のりでも、
なぜか歩いてしまうと簡単に着いてしまいます。
これは歩かないことで距離の感覚が分からなくなっているせいで、
メンテナンスも必要です。

隣町でも行ったことがない場所は遠いものです。
「知らないこと」と「知らない場所」の概念は
まったく一致します。
どちらも、初めて通過する直前での想像では
途方もなく遠く長く感じるのです。

知らないこと、知らない場所へ行くためには
どんな人でも最初は勇気が必要です。
知らないことを何度も繰り返すうち、
「知らないこと」という一般的な事象に対して
どのような姿勢で向かえばいいかが分かってきます。

ふと冒険がしたくなって、でも躊躇して諦めてしまっても
特に自分を責めることはありません。
にわかに冒険に行きたいと動かずに息巻くぐらいなら、
行けない自分を認めてしばらく閉じこもっていれば、
退屈して出たくなるものです。

冒険が要請されることがあります。
仕事においては未知のものに挑むことで新しい市場を開くため、
対価を受け取って冒険をすることになります。
そのうち冒険が嫌いになってしまうこともあります。

未知の世界へは要請されていくものではありません。
自分が望んで冒険を挑んでも断念することさえあるのだから、
人に頼まれたぐらいの動機付けではエネルギーが足りなくなるのです。

冒険にだって練習が必要です。
チュートリアルのように分かっている場所を数回めぐって、
自分で探すべき項目を覚えていきます。
小さな冒険ができるようになれば、
大きな冒険をするチャンスも生まれます。

小さな場所での小さな失敗は、
大きな場所での大きな失敗を避けるために便利です。
失敗が悪のように決め付けてしまわず、
どのくらいの失敗までは起こりうることにするか、
それは物を作る人間にはいつも気にかかっていることであって、
この話題を問いかける、というのが
意識に対するひとつの試金石のようだと感じています。

金曜日, 5月 19, 2006

光っていると、輝いている、の違いについて

話題を思いつく時期は不連続に訪れるので、
そのときに書き留めておきます。

今朝道を歩いていると、
雨の中で明るく光る場所を見つけ、
そこに花があることに気付きました。
それは「輝いている」という表現がぴったりでした。

雨の日はたくさんあって、
花はそのときいつでも光っているのだから
輝いたという表現になったのは
その日の私の状態の違いに拠ることになります。

自分の気持ちの状態が良くないときは、
光を見ても輝いているという表現にはなりません。
蛍光灯は白い色で、夕日はオレンジ色というだけです。
白もオレンジも、絵の具のそれとさほど変わらないように
感じてしまうのです。
ところが輝いているなと思うときには、
光を放っていない物体でさえも不思議な輝きがあるように思われるのです。

日常が平板になった、という表現があって、
これは物が実際に絵を見ているような状態になることだとしたら、
輝いている、と輝いていない、の違いがはっきりします。
平板になったときは絵の具のようで、
いきいきとした時は立体的に感じるのです。
脳が疲れると2次元的処理、
活発だと3次元的処理になったりするのでしょうか。

光っている、ではなく輝いている、という言葉を使ったのは
実に何年ぶりかで、
それがどうしてなのかはあまり理由が分かりません。

木曜日, 5月 18, 2006

散文的日記

Although all the people have a lot of knowledge and wisdom,
some does not have a knowledge to share each other.

パソコンにソフトをインストールしている間は、
パソコンの潜在的能力が上がりますが仕事は為されていません。
ドイツの諺に「万書を読んだ愚か者」というのがあって、
本だけ読んで何も行動しなかった人のことを言います。

深く考えることと追求を深めずに行動することの
両面は、このような関係に良く似ているのではないかと思います。

日本的な基本精神として求道があり、
道を究めることが美徳とされています。
しかし究める道には原理的に終わりがありません。

求道のもつ問題点は、
周りの人より十分達者である、という外的要因によって
行動できるかどうかが変わってしまう状態に陥りやすいことです。
下手を見せたら「恥」ということになるからです。

それを懸命に逃れようとして、
僭越ながらとか若輩者ですからとか
さまざまなカウンターを用意することになります。

深く追求すること自体はとても重要なことです。
自分の進む軌道を変えるからです。
しかし軌道が変わっても進まなければ前へは動けません。

それはまるで地球を回る月のように、
月が周回し続けるためには、
軌道半径を大きくしたらより速く進む必要があるのと同じです。

深く考えることと、迷いを振り切ってたくさん行動することは
まったく違ったものではなく、相互補完された要素と感じます。

今日世界が終わってもいいという日もある

小さいキーボードは打ちにくい、と
ピッチの違うノートパソコンを触って思います。
DELLのキーボードはピッチが小さいのです。
固いキーボードも苦手です。
キーボードが柔らかいと不評なVAIO S[SZ]ですが、
個人的にはとても気に入っています。

今日はこんなことを思いました。

思いつける限り十全に満たされて、ふと
今日みたいな日は世界が終わってもいいなと思う瞬間が
たまにあります。
それは全てを為した事実から来るのではなく、
多分自分の状態が勝手にそうなるのですが、
死はある日にとって非常に怖いもので、
しかしある日にとっては怖くないものになっているはずです。

そういう日に痛みがなく生命が終わるものだとすれば
了解する人は割といるのではないかと考えます。

世界が相互作用するためには物質的なやり取りが必要ですが、
その一部を写像した脳の中はあらゆる情報が近接しています。
現実に嵐を起こすのは莫大なエネルギーシステムで、
簡単には嵐を作れませんが、
その写像である脳の中では
脳の中の地球一つを消してしまうほどの嵐、
つまり感情の急激な変動が比較的簡単に作れます。

多くの人が語るように、
一度問題を十分自分に覚えこませ、
良く打ち込んだ後であれば、「全く関係ないことをする」時に
価値ある発想は生まれると言います。
この「十分に」というところが大切で、
不十分ではいけませんが、
いつまでもしがみついてはいけない類のものです。

「全く関係ないこと」は
実世界の現象として関連を持たない、という意味ですが、
脳にとっては刺激が別の角度からやってくるだけです。
実世界では関係ない二つの事象は関係ないことのままで
それぞれが時間発展し続けるだけですが、
脳にとって入力された全ての事柄は単独は存在できず、
相互に作用を起こします。

脳が一部分興奮すると、
それが脳の全く関係ない箇所へと波及できるということは、
ある一つのことに自信が持てると、
様々なことに自信が持てるひとつの理由になります。

コーラの炭酸に刺激されて新発明を思いつく、
たとえばこんなことが本当に起こるので、
人はひらめきを呼ぶ何かを楽しみに待っています。

火曜日, 5月 16, 2006

自信を見せる、を仕事にする

昨夜と今朝は妙に調子がいいなと思っていたら、
物理的身体は行動した分だけ反動が来ます。

仕事に関するいろいろについて、
手技はいろいろな人から何度も学びました。
しかしなんとなく人と接しながら学ぶ回数が少なかったものがあって、
それは「どんなときも自信を見せること」かもしれないと
ふと思いました。

正直である、ということの捉え方というのは、
自分の心に従うことではあるのですが、
しかしそれは揺らいだ自分も含めて
何もかも見せてしまうことなのだろうか、と
考え直そうとしています。

喜びと悲しみに比較的強く連動して、
自信があると自信がないが今は存在しています。

静かな自信を見せることが
重要な仕事として認識できるのであれば、
ひとつ自分に課してみようと思います。

わたしは少ない休みでよく働くものでいたいのです。

赤ペンを標準に

駅の中にテナントが増えるようになりました。
月替わりのお菓子屋なんかもあります。
国営から企業に変わると自由度が増えます。

メモを取るペンの色、
何かによると赤、青、緑の3色ペンを使うように、とか
書いてあります。
ちなみに男性は赤い色が見えづらい人がいるのだそうです。

3色をノートに使うとどうも落ち着きません。
黒と一番合いそうなのが赤い色です。
それで自分のメモを赤い色で取ってみることにしました。
気分の緊張が和らいだ感じがします。
赤い色は危険な色と言われながら、
なぜ気分が落ち着くのか不思議に思います。

身に纏う色が赤では落ち着きませんが、
見る色として赤は安らいで良いと思います。

月曜日, 5月 15, 2006

どんな力であっても

最近の好きな数字は「2」です。
二つの視点が自分に必要なことがよく分かる気がするのです。
車も二つの動力がついているものを希望します。

およそ力と名づけられたものは
作用と反作用が生じます。
文字にしてしまうとたったこれだけのことなのですが、
案外反作用を考えないことが多いのです。

人が信じ頼ってしまう全てのもの-
それが神だったり法だったり鰯の頭だったりするのですが、
溺れて寄りかかった時点で反作用に負けてしまいます。

人と人が真に支えあうのであれば、
もたれあうことではなくて
まずそれぞれが一人で立っていなければと思います。

空を飛び、核で電気を作り、
高エネルギービームで癌さえ治してしまう時代、
人にとって向き合わなければならない最大の力は
人であるように思います。
もし自然の災いが人を結び立ち向かわせる重要な要素であったとしたら、
近代文明は災害によって命が奪われることを防いできましたが、
人を結束させるための手段もまた失ったといえます。

木曜日, 5月 11, 2006

丁寧語に含めるニュアンス

久しぶりに日記を書く気分になりました。
見てもらうというより、書くのは「ある日の自分」に
今の意識を届けるためだろうと最近思います。

人と話すとき、どんな言葉にしようか
時々考えます。
丁寧語、尊敬語、謙譲語などがあって、
常体を殆ど使ったことがありませんでした。

常体を使わない、あるいは使えない自分は、
多分時々人にどんな印象を与えるか心配になっているのだと思います。
それで少しずつ常体を言葉に取り入れることにしました。

これは一つの「心をあまり揺らさずに会話をする」練習かもしれないと
思っています。

一方で、丁寧語で会話するときにも
幅広いニュアンスを含めることがあるということに
意識が向き始めています。

「常体に近い」丁寧語というのがあって、
メールなどでは気持ち的に(+1)ぐらいのニュアンスが出せないかと 
ちょっとした努力をしています。