火曜日, 1月 30, 2007

自転車に乗れれば

最初に自転車に乗ったときのことをおぼろげに覚えています。
大は小を兼ねると思ったのか小学生にしてはとても大きな自転車で、
走り出すまでにずいぶん転びました。

自転車に乗っている間、考え事ができるようになり、

自転車に乗ることは体の一部になりました。

どうも仕事も同じようなものらしくて、

仕事はいつも意識を持ってやろうと今まで心がけていたのですが、

あるところまで行くと複雑な作業でも体が勝手に動きます。



月曜日, 1月 29, 2007

人を機械としてみれば

甜茶を飲んでいます。
小学生のころ友達の家の近くにあったお寺で
花まつりに
甘いお茶を飲んだ記憶が忘れられずにいます。
あれは甜茶でしょうか、
あるいはアマチャヅルでしょうか。

加速器ではビームが光の数十%の速度で回ります。
光より速い情報伝達手段はないので
いくら高速の信号線を使っても
リアルタイム制御に間に合わないことがあります。

踊るロボットを作るとき、
音楽とシンクロして見える動きを出す場合、
腕や足の慣性があるため
動きの信号は音楽が聞こえるよりも
先に発生していなければなりません。

わたしたちが「リアルタイム」で見た、触ったと知覚しているものは
情報的に言うと0.何秒か前のものであって、
実時間での現象ではありません。

バットで飛んできたボールを打つ、
ただこれだけのことなのですが
意識の上では遅れてしまうので処理できません。

空間と時間は本当は区別がないので、
今の3次元空間で人間は右に行ったり左に行ったりできるのと同じように
時間も前と後にいける時空があります。

時間が一方にしか流れないというのは
いまだに不思議のひとつで、
普段「明日」と思っているものは
今までの連想で作られたものであって、
時間の始まりがあるかどうかは分からず、
かつ現在というものを捕まえることができないので
3次元の空間では実際には明日がありません。

理論は「宇宙の始まりが分からない」といいますが、
本当の現在というものも
人にはまた分からないものです。

木曜日, 1月 25, 2007

長高エネルギー宇宙線の閃き

世界には一体何の役に立つのだろう、と
首を傾げたくなる技術が発明され、
しかし時間が進んで少しずつ世界が変容すると
その技術なしでは成り立たない世界に
なっていたりします。

核の話は日本人なら
原子爆弾が最初に来るのですが、
原子核の応用は身近にあって、
普段食べているジャガイモの発芽を抑えるために
放射線が使われています。
その量は微量なので
改質することも遺伝子変異することも特にありません。

宇宙のはるかかなたでは
星が生まれたり消えたりしていて、
人間が地上では作り出せない
超高エネルギーの放射線が
たまに地球まで到達します。

宇宙船に積まれた電子計算機では
この高エネルギー放射線でメモリの値が書き換わり
故障の原因になるそうで、
耐放射線性に優れた=放射化しにくい物質を使った
半導体へと作り変えているのだそうです。

星の放射線がメモリを書き換えるほどの力なら
人間の脳だってこの放射線で神経に信号が発生するわけで、
わたしたちが何かをひらめくときには
本当に「星のお告げ」が届いているのかもしれません。

土曜日, 1月 20, 2007

似ていると思う曲

お酒はちっとも強くありませんが、
ウィスキーをストレートで少しずつ飲むのが気に入ってから
焼酎をストレートで少しずつ飲むのも
なかなかおいしいなと思うようになりました。
毎日飲むわけでもなく量はたかが知れていて、
750mlのボトルで2ヶ月以上かかります。

カーペンターズの"I need to be in love"という曲があって、
邦題は「青春の輝き」なのですが
訳した歌詞を見ても今ひとつ的を得た気になりません。

恋の歌として訳したのが意図的かどうかは分からないのですが、
"I need to be in love"のloveは
男女間の恋と神を象徴する愛の意味を重ねていて、
どちらかと言うと"神との愛に生きよ"という表現のように思うのです。
そうみるとその後の歌詞、
「この不完全な世界に完璧を求めようとして
それが馬鹿げたことだとしてもまだそう信じている」
という表現は、
欲を捨て神との喜びに生きよと人は言い、
それが正しいことだと頭では分かっているのに、
やっぱり私は愛する誰かを必要としている、
という風に聞こえるのです。

サザン・オールスターズの"Dirty Old Man"は
このカーペンターズの歌にどことなく近いと思っていて、
「明日を・・・信じるならば」
「神が決めた小粋なルールには
早幾年過ちと無礼見舞い中」という歌詞があります。

木曜日, 1月 18, 2007

この世界が「わたし」であるならば

確かジョン・グレイ著
「ベストフレンズ・ベストカップル」か
「本物の愛を手に入れる365日」かの
どちらかだったと思いますが、
章の始めのほうに、
「大切なことは、頭で理解し、実践し、身につけた後、
それらを一度すべて忘れ、再度思い起こした後に身につく」
というくだりがあって、
「忘れる」というところに妙な引っ掛かりを
覚えたことがあります。

アインシュタイン150の言葉の中に、
完全な羊の群れを作るには、とにもかくにも
自分が羊になることである、というくだりがあって、
この意味もまた考えの対象になっていたものでした。

クリシュナムルティ「恐怖なしに生きる」を読んで、
恐怖とは自分の記憶と思考そのものである、と書いてあり、
意識の上の記憶が積み重なるほど
恐怖は増えていく、という点にふと納得がいきました。

聖書の一説には
アダムとイブは「知恵の木の実」を食べたために
罪と死の苦しみを負うことになった、とあって、
なぜ知恵を手に入れることが罪と死なのか
いまひとつよく分かりませんでしたが、
意識と恐怖の関係からいうと
確かに知恵と記憶そのものに罪と死の概念が含まれています。

パンドラの箱に閉じ込めて封じられたものは
「未来を全て分かってしまう災い」であって、
それゆえ災厄の中でも希望を持って生きていけるというくだりで、
知ること、区別をつけることが苦しみのもとになるという
点につながります。

矢井田瞳の歌"BuzzStyle"に
もしかしたらあたし自体いないのかもしれない、という
一節があって、
やはりひっかかりの元でした。

中島義道「生きにくい・・・」の本の中には
「時間に関しては過去と未来はなく、
その認識のもとにはわたしは全てと一体化し、
そして「わたし」がなくなってしまう」という意味の
くだりがあります。

時間は記憶と思考が作るものである、という点には
クリシュナムルティもアインシュタインも同じように述べていて、
アインシュタイン150の言葉では
「過去、現在、未来の区別は、どう言い張っても単なる幻想である」
と綴られています。

無意識に人に暖かい気持ちを向けられる、
という表現なら
わたしにはこの気持ちはよく分かるのです。
長く調べていくと、
世界にある宗教の「本質」はどれも同じに見えてくる、
そしてそれらを拡張していくと
この世界の「あらゆるもの」がどれも同じに見えてくる
ことになります。

だからキリスト教の神への誓いは
「全てを信じ」という一見妙な台詞になるのだと
なんとなく納得しました。

小さいころに思った疑問のひとつに、
自分が意識で捉えたことを書いて残そうとすると
書いている最中にまた意識が発見する、
延々とそれを繰り返すので
いつまでたっても書き終わらず、
書くこと以外何もできなくなってしまうな、と
思ったことがあります。

九九を覚えたとき、
わたしは何も見ていないし、書いてもいないのに
どこを参照して覚えたことを復唱できるのだろうと
不思議に思っていました。

意識の上に知識を並べて執着しなくても
どこかで覚えているのだから
人は無意識という文字をあてたものは
もはや自分にさえ
見ることも知ることもできない「本来のわたし」
があります。

人にとても優しい気持ちを持ったときに
わたしには「降ってくる」イメージがあって、
それに従っている時はとても幸せで、
降ってくるイメージに選ばれた人も幸せになります。

そして「いろんな人が考えた」結論は、
私自身が「この世界」なのであって、
わたしが心を優しく暖かく保てていれば
この世界は喜びに満ちることになります。
表現することで誤解は生じるかもしれませんが、
わたしの心、今を常に暖かい気持ちで救うことが、
とりもなおさずこの世界全てを救うことになるのだ、
というところに行き着いた気がします。

そして「約束の地」と「さとりの境地」は
今ここにあるのです。

可能性という記憶の海に溺れるとき

黒豆をあげたらあんパンになって戻ってきました。
パン生地が柔らかくてとてもおいしかったです。

昨日ネットで行き当たった話題は、
イラクの劣化ウラン弾の話でした。
その話を文字として読むと、
今すぐにイラクに行って何かすることが
わたしの目的なのではないかという気持ちが生じ、
しかし物体として動けていない自分がいて、
自分に「その行動は実現できる」という可能性が
わたしに葛藤をもたらします。

仕事をしながら、
こういう類の葛藤が1日中続くことがあります。

それが可能である、という現象は
飛行機という機械を運転する人がいて、
外国へ出国できるビザや税関が用意され、
現地での生活に必要な物資と食料の調達ができ
現地でのネットワークに参加できて
初めて発生するものです。
あらゆる技術が可能になっていて、
たくさんの人がその手段を可能にしているから
わたしにはその可能性が「ある」と考えることになります。

この気持ちは、献身の気持ちか、
あるいは義務の気持ちなのか、
それとも死の恐れからなのかと
気持ちが生じたときにふと思います。
それに準じることとして
募金をしたり人のためになることを
日常の中で探したりするのですが、
満たされない心は続きます。

たとえイラクの問題に手を貸せたとしても
世界のどこかではやはり人を必要とする出来事が
起こり続けていて、
やっぱり包括的な解決にはなりません。

たとえば、この場所にとどまり、
この場所での仕事から人のためになるものを発信し
人や物の流れをあるべきように心がけ、
隣人を大事にするということも
またわたしには同じように必要であって、
そしてそれらすべてもまた叶わない願いです。

「なにか」に対する声にならない祈りが必要なのは、
すべての人に幸せになってほしいと願う可能性の大きさと、
その可能性の海に溺れてしまいそうなわたしの小ささの
隔たりを埋めるものとしてだと思っています。

水曜日, 1月 17, 2007

現代版「芋とかぼちゃ」考

仕事場の近くに中華やさんがあって、
香りが良くて気に入ってます。
回鍋肉が好きで、
大学の近くにある中華やさんの回鍋肉は
肉が皮付きなのが気に入ってます。

多くの人の前で話をするとあがってしまう、という人に
「大衆を芋とかぼちゃの集まりだと思ってごらん」と
話をするたとえを聞きます。

このたとえ、額面通り受け取ってしまうと
わたしにとってはとても奇妙に聞こえる台詞で、
ちゃんと見れば人の顔は人の顔の像をしていて、
顔もなくごつごつした芋とかぼちゃに
置き換えられるわけはないのです。

大量の芋やかぼちゃの中にいてもあがらないのに、
人の中にいるとあがる、というのは
それが「人」というなにやら別種のもので
芋やかぼちゃとは違う、と思うからです。

もし芋と人に共通の性質を見出すとするなら、
人だって芋だって原子からできてるじゃないか、と
考えてみることになりますが、
次は「人には意思がある」という点に
つまずきます。
つまり人はわたしを「解釈する」という作業をするのが
とても厄介だ、と思うのです。

わたしたちが危険だと「認識」したものを避けるために、
人はあらかじめ未来の予想を立てて
思考実験の中でその危険を取り除こうとします。
人前で何かをして笑われる、という可能性を
「危険」だと判断してしまうと、
これでは人前に出ることが困難になってしまいます。

ここで笑われる、ということの多義的な意味を見ます。

ある人は滑稽さやひょうきんな面に喜んで笑い、
ある人は人の失敗する姿で自尊を満たそうとして笑い、
ある人は周りが笑っているという雰囲気に連動して笑い、
ある人は周りが笑っているから
自分も笑わないとと妙な義務感を出して笑い、
ある人は昔何かで笑った記憶が再現して笑い、
ある人は目の前に展開されていることなど全く気にならず
自分の頭の中の面白いことに対して笑います。

その中には笑わない人がいて、
何かの記憶からけしからんと怒る人も、
また何かの記憶から嘆き悲しむ人もいて、
そして「たくさんの人」は一斉に異なった反応を
ひとつの行動を起こした一人の人に示します。

大衆、というものの難しさは、
何をどう努力してもその人たちすべてが
100%同じように感じるわけではない点にあります。
その中で心配になるのは、
誰かの心に引き起こした感情が
めぐり巡って自分の身を脅かすのではないかという点です。
特にすべての人に負の感情を与えたくないと思った場合
人前に出ることができなくなってしまいます。

そこまでたどり着くと、
自分の行動を現象の反応から
「良い」と「悪い」に分離し続けた場合
自分が極端に両方向に分離されてしまいます。

それでも人前に立って話すことを可能にするには
いくつかのアプローチがあるように思います。

人が話すわたしの行動についての「良い」と「悪い」よりも
わたしが人に優しくありたいと思っている、
すべての人を生かしたいと思っている、その状態が
わたしの行動を可能にする基準である、
その上でならば外的なあらゆる結果と感情の束縛から
自由である権利を得る、ということを
確認することが必要になります。

その権利は「わたしの意識」からは与えられず、
いかなる人間からも与えられず、
ただこの世界にあまねくある「何か」から
与えられることになります。

この問題を考え始めたのは、
遺伝子型が一致するのに
腎臓自体が病気であって摘出しなければならない腎臓を、
腎臓の機能不全で腎臓を必要とする患者に
移植することを是とした医師のニュースがあって、
人が文書で作った「決まりごと」の慣習や法に触れるとしても
人が生きられるようにすることを優先した、
この瀬戸際に立ってしまった医師は
一体どうすればよかったのだろうと思ったのがきっかけです。

法に従う側ではなく、法に携わる人間は
法が「人の作り物」であることを知っています。
そして法がこの世すべての「問題=苦しみ」を解決しない、
ということも分かっています。
人を大切に思う医師はその良心に基づいて
「人が生きる」ことを選択するために
敢えて法の制限を乗り越えたのだと思っています。

これを外野から
生きる死ぬはその人が解決すべき問題であって
あなたにはその責任がないとか、
法の解釈はたくさんの人で決めたのだから
守らなければならないものなのだ、とか
あれこれ言うのは勝手なのですが、
「ぜひとも生きたいのです」とすがりつくように
患者から頼まれ、
そして医師がその行動を起こすか起こさないかで
人の生きると死ぬが決まる、という現場では
人が作った法律やあらゆる決まりごとは
やはり人の作った法程度の力しかないのも知っていて、
法に従っても法そのものに
人の命が消えるという結果の因果を負わせることはできず、
絶え間のない葛藤となります。

この「問題」にはある種の解決があって、
もし「ぜひとも生きたい」という執着を患者がもたず、
この世界で生きていけたことを感謝できる、
そういう心の状態を持てるならば
医師に負担になるような苦しみも、
またこの世界から自分の生を解き放つ苦しみも
共になくなってしまうのです。
しかしその決心を起こすこと、は医師にはできず
それぞれの人が自発的に決心するしかありません。

この医師に慰めを出せるのはもはや人ではなく、
この世界を作ったなにかしかないようにも思います。

火曜日, 1月 16, 2007

人間がどう生きるべきか、の判断に宇宙論まで必要か

掌の中の無限、という本を手に取りました。
チベット仏教と天体物理学の知的交流で、
書こうとしていたことがよく書かれていて、
面白く読んでいます。

宗教は宇宙観を必要とし、物理学もまた宇宙観を必要とするなら
至る場所はおそらく同じで、
知的領域のすべてにわたって陣取り合戦をしているような感じがします。
ただ特に西洋物理が出した成果には特徴があって、
そこには誰でも再現可能な物理法則が適用されると
事物をコントロールできるようになることで、
人はそのせいで空まで飛べるようになりました。

宗教はやはり多義的な面を持ちたがるのか
そのあたりはよくわからないのですが、
「慈悲」とか「仏性」とか「愛」と呼ぶ感覚について
どうもうまく説明しているようには思えません。

自己犠牲や利他、というものなら動物も持っていて、
たとえば親鳥が巣を狙う鳥の注意を逸らすため
わざと目立つ場所で傷ついたような振る舞いをするとか
いくつも例はあります。

集団生活の秩序、というものも動物は持っています。
蟻などは立派に共同体を作り上げているし、
猿だってコミュニティを持っています。

人間はどうしても「この世界の特別」でありたがるようですが、
仏教的感覚で言うと
一切が空であるのなら
人も動物も意識の存在として変わりありません。
そして意識そのものの問題に関して
物理学と宗教はどちらも確証を持っていないのです。

生き物は和を持って生き続けることが目的であるのなら、
地球のサイズと生産力を考えて
人の数が地球全体として増加に向かうような
システムを考えることで十分で、
それを目指すものが「仏性」や「利他」に当たると考えます。
宇宙の始まりはどちらかというと
「この世を作ったなにか」を語っているようなもので、
仏性を語ることとはおよそ質が異なります。

ちなみに高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」の中には
協調と拒絶に対してそれぞれに報酬があるシステムを仮定し、
協調同士は相互に得点し、拒絶と協調の場合は
拒絶側に得点があり、拒絶同士では得点がない、
というような過程で、コンピュータプログラムコンテストを行い、
二つのプログラムが対決するとどうなるか、
どのようなアルゴリズムがもっとも生き残るか、という
実験を行った様子が掲載されています。

最後まで高い点数を維持したプログラムの原理は
驚くほど簡単で、
「最初に協調を出す」
「相手が協調した次の手は協調にする」
「相手が拒絶した次の手は拒絶にする」
「履歴を持たない」
というだけの特徴しか持っていないのだとありました。

人がたくさん生きられるようにすること、という方法は
すでにある程度結論が出ているようにも思うのですが、
環境に適応した生物が選択的に淘汰で残ることや
特徴の異なる生物が混在して住む場合には
ひとつの種類の生き物だけが残ることがまれである、
というシミュレーション結果もあります。

たとえば消費エネルギーが多く必要で分裂が早い細胞と、
消費エネルギーは少なくて済むけれど分裂が遅い細胞が
同じセルの中にいると、
そのセルの中の食物の取り合いになって、
最初は分裂が早い細胞が優勢になるのですが、
セルの中の食物は枯渇するので
その段階で分裂の早い細胞は先に消滅が早まり、
結果として両方がある割合でセルに残るのです。

人は多様であることをその条件として持っているならば、
この世界は戦争を終わらせることはできないけれど
人が死に絶えることもない、という結論になるのだろうかと
ふと思います。
この結論に対して、すべての人に一致した知識の流布を望む宗教は
どんな意見を示すのでしょうか。

月曜日, 1月 15, 2007

風が吹けば桶屋が儲かる、の思想から

およそ学問と名づけられたもの、
それに対してわたしたちは「違うもの」と区別するのですが、
学問はすべて「言葉」によって成り立っているものであって、
それは事象を映したシンボルではあるけれど
それは物ではありません。

池谷祐二「進化しすぎた脳」の中に、
思考は言葉でできている、というくだりがあって、
「言葉」を使わずにこの世界を説明できるか、という
点に疑問を持ちました。
この世界の何かを「言葉」というシンボルに置き換え、
その「抽象化した概念」を操作することで
わたしたちは物理的な出力をしているのですが、
一方で「言葉」によって各人の意識世界が作られていて、
その意識世界がどんな状態であるかで
この「物理的な世界」での「個人の認識」が変わります。

言葉が厄介なのは、
「神」とここに書いた文字に対して
「わたしが定義した意味」と「わたしではない人が定義した意味」
は異なっていて、
どうしても単一のものにはならないという点です。
そしてさまざまな人が「感じた」という「神」が「感覚」なら
それは言葉で表現できるものではなく
個人がその全感覚で取得するものだとするなら
わたしたちは「神」の「何」を伝達しようとしているのか
不思議に思います。

わたしが苦しむとき、
わたしはわたしの意識が自動的に発する
「言葉の演繹」と「思考」の流れ、
そして感覚によって自動的に変換される言葉を
「言葉として扱うこと」を止めてしまえば
「未来」も「過去」も「時間」もなくなってしまい、
苦しいという「状態」は過ぎていくものだということに
ふと気がつきました。
それはできる人には簡単にできて、
できない人にはとても難しいことなのだとも思います。

感情を表そうとシンボル化した言葉、というものがあって、
言葉は継続して状態を保持するものであり、
言葉の組み立てや演算が思考であるため、
感情を離れるには自分の思考が延々と生成し続ける
「言葉」から離れ、
目に飛び込んでくる「文字」や耳に飛び込んでくる
「音声」を自分の思考=言葉として認識させないように
する必要があります。

時々言葉を忘れようと思います。

線形性と呼ばれている現象があります。
簡単に言うと、
初期値のわずかな変化は結果に対してもわずかに変化し、
そしてここの現象を分離した上で解析的に表現できる、という
性質を表したものです。

わたしたちが厳密に「解いている」気になっている数学は
解けるものだけを扱っていて、
方程式はその条件をわずかに変化させただけで
あっという間に解けない=人間はその解析式を知らない状態に
入ってしまうことがあります。

数学的にカオスと呼ばれる現象があって、
それは非線形方程式を主に数値的に調べたときに現れるもので、
初期値のほんのわずかな違いが時間発展すると
それが結果をまったく異なった予測不能の状態にしてしまいます。

カオスの例は蝶と竜巻で、
ある条件下では日本で蝶が羽ばたくか羽ばたかないかが
アメリカに竜巻が起きるか起きないかを決める
引き金になる場合がある、というものです。
どんな小さな出来事のどんな小さな変化も、
大きな体系の中では無視することができない要素であり、
この世界のすべての「パラメータ」を一瞬にして取得することは
今の人間には不可能であるため、
物理的現象に関してはどんな予測を立てても
それが本当なのか確かめることができず、
しかも計算精度の問題から
どうやら現実世界のコピーをとったとは言えないのではないかという
心配が生じます。

カオスの「混沌」はしかしもう少し説明する余地があって、
ただ乱れるだけではなく、
あまり遠くまで演繹しなければ擬似的な線形性を保つものや
循環した状態に入るものなどがあって、
その場合比較的良い予測ができることもあります。

現実世界にこのことを当てはめるならば、
わたしの行動は「何かの現象」を生み続けていて、
当座は予想がつくのですが、
「思考」による未来の予想はまったく役に立っておらず、
そしてわたしの行動はおそらく、
知らない誰かを生に留め、知らない誰かを生から開放している、
ということになります。

それは「この世界には善と悪という二つのものがあるのではなく、
それらは同時に起こり、かつ不可分なものである」
というところが当を得ている気がします。

日曜日, 1月 14, 2007

似ているようで違う二つの目標

杉樽醤油というのを使っています。
今日買いに行くと売り切れだったので
紫峰という醤油を試してみました。
割と気に入ってます。

クリシュナ・ムルティの本を
2冊取り寄せました。
一つは「恐怖なしに生きる」で、
もう一つは「自我の終焉-絶対自由への道-」です。

既存の宗教団体への所属や組織や手段に拠らず、
「神と呼ぶ、本当は名前をつけられない何か」と
私との結びつきによる、
全ては神から与えられ、預けられ、
通り過ぎる感謝というものと、
日本語訳で「愛」と訳されたものが必要であると
彼は説明します。

この彼、既存の宗教団体は全て「世界の問題」を解決しない、と
看破しているのですが、
他の宗教の本や心理学の本を読んだことがない、という彼に
果たして「解決しない」という台詞が出せるのかと
疑問に思います。

仏教では「法と己のみを灯火にせよ」と説いていて、
仏教聖典の中でかなり早い段階で目に止まった言葉でした。
ここで「呼び表せない何か」には
「法」あるいは「仏」の文字が当てられています。
キリスト教系の本で「愛」と訳された漢字は
仏教なら「仏性」に当たります。

そして色々な宗教を調べていくにつれて、
中心的に謳っているエッセンスはどれも大した差がなくて、
理解ある人が読めば同じ状態に近づけるような気がします。

たとえば聖書と教典、おなじように日本語で書いてあっても
用語の違い、意味範囲の違いがあるので
同じ漢字を同じに訳すことができません。
言葉の並びと比較に捉われる限り
相互変換はできないのです。

クリシュナは「愛」を広めることで
この現実世界に変革が生じる、と説明しますが、
そう心から思う人とそれを誤解した人の混成集団によって
教団は構成されています。
そして平和への道のりが
「精神への不断の注目」を必要とする、つまり
何らかの条件が必要なのであれば、
それは条件がつくなら誰でもできるものではなくなるので、
この世界には苦しむ人と苦しまない人の二つが必ず現れます。

宗教が目指しているものは、
「争いのやまないこの現実世界を平和にすること」なのか、
「争いのやまないこの現実世界で平和に生きること」なのか、
どうもこの二つが混在しているようで分からなくなります。

たとえば比喩的にいわれるのは
小乗仏教とか原始仏教と呼ばれるものは後者の思想で、
大乗仏教と呼ばれるものは前者を含む思想です。
そして後者は人間として可能なのですが、
前者が人間という生き物に実現可能なのかと考えると
なぜか無理だと思ってしまうのです。
全ての人が逆立ちすることはできないように、
おそらく神や愛の思想を感覚として理解し維持することが
全ての人にできるほど人は均質ではないからです。

地球の始まりにおいて、DNAの鎖という単位から細胞へと変わり、
細胞群は種となるのですが、
種が変化しても細胞は細胞のままで、
生き物なのですが進化が取り残されたような感じがします。
人を構成する細胞はその一つ一つが目的を知りません。
細胞群を手として使っているのは人という意識です。

これと同じように、
「」を構成する人間はその一人一人が目的を知りません。
人の群れを何かとして使っているのは「」という意識なのかと
ふと思います。

その上に拡張するならば、
『』を構成する「」はそのひとつひとつが目的を知らないことになります。
「」の群れを何かとして使っているのは『』という意識なのかと
ふと思います。

その「」や『』に人のような意識があるのかどうかはよく分かりません。
しかし人がその構成要素になっているのは確かなようです。
ということは、もし「」に上位概念の神という名前をつけるならば、
神が我々を作っているのではなく、
我々が神を構成していることになります。

体の各所が適切な信号、喜びや痛みを『私』に伝えることで
私は体全体を適切に保とうと努力します。
ということは、人というシステムが適切な信号、喜びや悲しみを
「」に伝えることで
「」は人間全体を適切に保とうと努力するはずです。

この上位にある意識、への移転というものが
来世とか菩薩の曼荼羅といった、無限に上位概念へと拡張する
思想を呼んだのだろうかとも思います。

木曜日, 1月 11, 2007

釈尊のメッセージは科学的な方針だったのではないか

小さな頃から海老が好きで、
100円回転寿司にいくと生海老、甘エビ、海老を
3皿ずつぐらい取ります。
ねぎも好きで、ねぎ焼きを喜び、
味噌汁にはねぎが山ほど入っているのが好きです。

この2年ほど、意識や実在に関する本を意識的に読んで
そこに意義が見出せるかどうかを探していました。
以前から科学のいくらかを知ってきて、
科学と宗教の整合というテーマに
何度か特別な興味を持ったことがあります。

宗教史の中ではそれは大問題だったようで、
ガリレオが受けた宗教裁判は天動説の否定であって、
天動説は当時のカソリックの支持教義であって、
それは天動説が崩れると無矛盾であって完成された教義に
欠陥があることになるから、という理由でした。

高校のときに聞いた話では、
仏教が須弥山(しゅみせん)という山の周りに海があり、
海の果てがあって鉄柵と断崖のようになっている、
という説を説き続けていて、
西洋から丸い「地球儀」がやってきたときに、
それが本当なら仏教の正当性が失われると
大騒ぎしたというのを聞きました。

今でこそある意味で「宗教」は「心」の問題であるという
認識がそれなりに発生し
物質に対しては「物理」を適用する習慣がつきましたが、
もともと「宗教」の守備範囲は全能を目指していて、
それはこの世界を完全に作った「何か」を説くための
基礎材料として必要な情報だったからです。
そして原理主義と呼ばれる人たちの思考の中では
今でもおそらく物理より宗教の本が説いた世界観が優先します。
そして物理の限界点にいる人たちが考える思考には
「神ならこの世界をどう創っただろう」と想像するのです。

そういう観点で行くと、
「宗教」という名前は「世界観」と同義であって、
今の科学者の役割も果たしていたことになります。
そして「あいまいだ」と揶揄されやすい仏教の本質は、
現代人でも混乱しそうな現代物理の思想:
物質の粒子・波動の2重性や
「物」の状態としてのエネルギー・質量の2重性、
量子論の不確定性原理、
物質の局在と存在確率、
「完全に無の空間=真空」に発生するエネルギーの存在などを考えると
現代物理とは今のところ矛盾しないように思います。

その理解の上で、「意識」の問題に触れます。

宇宙の始まりはビッグ・バンにあって、という台詞は
概ね誰でも聞いたことのありそうな言葉ですが、
その世界は超高エネルギーの世界であって
生物はもちろん原子さえ存在しない世界です。
生き物がいないのだから、生と死はなく、
生と死がなければ欲も意識もなく、善と悪もありません。

宗教はその「混沌」である宇宙の始まりと「人間の発生」との関係を
どう説明するかに長い間苦労してきました。
キリスト教の中心では「神のヒト創造」という問題を持ち出し、
「死」と「罪=悪」とを結びつけました。
そのうえで改めて「霊的に神と結ぶ」ことによる「人の救い」を説きます。

ダーウィンの進化論はこの「創造」に抵触するため
長らく解釈が待たれていましたが、
「突然変異」が不連続な生命の変容をもたらすことから
「ヒト」が長い生命の系譜を引き継いだ存在であることは
次第に理解されつつあります。

そして現れたのが生物と非生物の違いについての問題で、
神が生き物を「非生物的世界」とは別に作り出した、という解釈に対し、
原始地球の高温の海から生命が発生するか、という問いに
どうやら物理的現象として生命が発生する可能性がある、ということが
実験によって追跡されつつあります。

もし生命が物理的現象として発生したものであれば、
生命はすべて「物理的現象」で説明できてしまいます。
事実、たとえそのシステムすべてが理解されないほど複雑であったとしても、
人間の構成要素は原子であり、電磁気的信号が流れ、
化学反応が起こり、量子効果が働く世界であることは
疑う余地がありません。
宇宙の始まりに善と悪がなかったのだから、
生命の現象についても
何が「善」で何が「悪」であるかを説くことができなくなる恐れがあり、
それはやはり「生」と「死」であるならば
人が何をやっても罪にはならないことになります。
法の秩序を維持できなくなることを恐れ、
アメリカでは物理や生物学の歴史系譜に
「神の意思」をうまく説明できなくなりかかっていることが大問題で、
「サムシング・グレート」という「人を超えた何か」という表現を載せるかどうかで
議論が始まっています。

そしてこれらを理解したうえで、
なお物ではない「意識」がなぜ発生しているかだけが
問題として別個に残るのである、というのが
釈尊の解釈であり、
現在では脳科学者が「クオリア」と呼ぶものを追って
意識学会という活動が議論されています。

「欲」の根拠については
「自分という個体が生きること」を求めることと等価であって、
それは生き物の目的が生き増えることにあるから、となります。
ところが欲の追求だけでは
社会システムが動物と同じ状態になってしまいます。
「欲」の発動は遺伝子の働きによるもので、
それさえも物理であり何かを「分かる」という
「意識」とは別だというところまで話が進みます。

そして、「意識」は「何」を目標にすればいいのかと
おそらく釈尊は考えます。

ここからは想像ですが、
釈尊のいた2500年前でどのくらいのことが分かっていたか、というのが
ひとつの世界観を創る元であるので、
分かっている範囲を想像すると、
生物学的な発想には行き着けると思います。

盲導犬訓練に向いた犬の血統というものがあって、
それは何世代もかけておとなしい血統が続いて
遺伝が安定したものを呼びます。

日経サイエンスの本では、
手漕ぎカヌーに乗って漁をする民族は
何世代もその生活をするうちに
生まれつき上腕が発達するようになったといいます。

釈尊は遺伝学的な変容について知り、
そのわずかずつの可逆的あるいは不可逆的な世代変容に
気がついていたのではないかと思います。

これまでの進化の過程からすると、
人間もまた進化の過程の一つであり、
「意識」の使い方が何千世代にもわたって続いていけば、
人は既存の「生き物」の常識からかけ離れた
「新しい生き物」へと進化を遂げるだろう、と
考えたのではないかというのが今一つの仮説です。

恣意的に「新しい生き物の発生」を目標とすると書きましたが、
その根本で「欲」から離れた思想をするならば
実はその目標にさえも「とらわれない」ことが必要になります。

つまみ読みで勝手な読み方をすると
経典の中では華厳と理趣は異なった思想というよりは似通った思想であって、
「大いなる意思のメッセージの元に自由になる」という意味で共通しています。
わずかな違いを見つけようと思うと、
華厳が仏性を育てる意思によって未来を「意識」によって選択していくけれども、
理趣はそれらの意識によらずとも、「意識」の認識さえあれば
あらゆるものが自動的に進化のプロセスになっているはずだ、というところに
あるという感触を持ちます。
それが「抑制」と「開放」の表現の差として表れるのではないでしょうか。
ただ、どちらの方針にしても「意識」というものの存在を
この物体と物理とは独立したものとして明らかにし、
「メッセージ」を受信できる状態で「欲」というものに結びつけることを必要としています。

ここでは「意識」の拠りどころとして
「仏性」という言葉をあてます。
それはふとした折に「発動」するもので、
やはり遺伝子の中に書かれている「メッセージ」だと思うのですが、
欲があるうちは発動が抑制される類のものです。

たとえば自ら望んで他の生き物のために
自己犠牲を払える、それが喜びとなるという状態を
ひとつの仏性として解説してあります。
それは生物学的には「すでにある現象」ではあります。

通常遺伝子の故障というのは修復して直してしまうのですが、
人間の細胞レベルでは「アポトーシス」という現象があって、
遺伝子内の増殖抑制の機能が失われた細胞などが
体全体の機能やサイズを正常に維持するために
細胞自身が自殺します。
増殖抑制が失われ、
かつアポトーシス発動ができなかった細胞ががんと呼ばれるもので、
がんは病気ではなく遺伝子の故障です。

細胞は好き好んで勝手にアポトーシスするのではなく、
そして他の細胞からアポトーシスを引き起こされるのではなく、
システム内での役割を理解して自発的にその役目を終えます。

ヒトというのは「生き物として」死を恐れるようにできているし、
ひとという「意識」が「生き物」に結び付けられている限り、
死は避けられないものです。
そこに「苦しみ」と呼ばれる感情が発生し、
その状態を「生き物」は望まないことから、
知覚できる「意識」の定義を「生き物とすべての物理現象」から
切り離すことが必要であり、
現在の意識が生まれ変わりを確認できないけれども
「意識」の時間的な不消滅、つまり
「生き物という物質」に意識が発生する生まれ変わりの現象を
否定せずに説明することが生き物としての人の「意識」を
物体が発生した「欲」の束縛から解放することになります。
その自由を持って「救う」という表現にしたということと
解釈しています。
最終的には「生まれ変わり」さえ放棄する、
つまりこのただ一度の意識の発生を喜び、
その意識が「大きなシステムの維持」と
「生き物の進化の過程に参加する」こと、
そして「仏性という遺伝子に書かれた発動を維持・伝達する」ことを
目標とするよう求めているのではないかと解釈しています。

「意識」が「物理学的な何かを離れたもの」である以上、
「意識」が何であるかは現在でもつかむことができていません。
しかしあらゆる物理とまったく結びついていないからこそ、
「意識」は何の方法を使っても原理的に誰にも奪うことができないのです。
「わたし」は「わたしの意思」なのであって、物ではありません。

この意味で個人のたったひとつの「持ち物」とは「意識」だと言えます。
それは哲学でいう意識の不思議へとつながります。

「意識」が人の上に乗り継いでいく以上、
何千世代かかってもいいから
「欲」の存在に苦しまない、仏性に従った
「新しい生き物」を作っていくことを意識の目標に定め、
遺伝子を長い時間をかけて書き換えていくと、
仏性の発動確率が十分に高まってゆき
未来の時の中で発生した、しかし過去の生命の記憶を持たない「意識」は
「新しい生き物」のシステムの中で、生死の苦しみを意識せずに
「この世界を意識する」作業をより円満に続けられるだろう、
そして「新しい生き物」として完全ではなくても
これらのことを知ることができたのならば
現在の生き物であっても「意識」を徐々に自由にできるだろう、
というのが釈尊の考えた
「すべての「人=意識」を救うための妙なる慈悲」という
プログラムであるように思います。

もしそれが完全に行われるならば、
人のなかに細胞があり、細胞一つ一つが生命を持ち、
それらはすべての細胞が持つ「遺伝子のメッセージ」に従っていて、
発生のときと消滅のときを知っており、
その事実に何の矛盾もなく協調した動きとして「人」という物質があり、
発生のときと消滅のときが「何かのメッセージによって」与えられており、
そのメッセージに従うならば、人という意識と物体の集まりは
「巨大なシステムである何かを維持する」ことになります。

仏教に不思議な興味を持って眺めているのは、
たとえ世界に人の言葉や行動による法も秩序もなくなってしまったとしても、
人には埋め込まれた「仏性のメッセージ」があるので
どんな世界になっても人はその仏性の自動的な発動によってシステムを維持し続けるはずだ、
だから生と死に関しての心配はなくしてしまいなさい、と言っている点で、
人が「意識」に目覚めていることこそが大切だ、というアドバイスは
不思議とわたしを安心させるのです。