水曜日, 1月 17, 2007

現代版「芋とかぼちゃ」考

仕事場の近くに中華やさんがあって、
香りが良くて気に入ってます。
回鍋肉が好きで、
大学の近くにある中華やさんの回鍋肉は
肉が皮付きなのが気に入ってます。

多くの人の前で話をするとあがってしまう、という人に
「大衆を芋とかぼちゃの集まりだと思ってごらん」と
話をするたとえを聞きます。

このたとえ、額面通り受け取ってしまうと
わたしにとってはとても奇妙に聞こえる台詞で、
ちゃんと見れば人の顔は人の顔の像をしていて、
顔もなくごつごつした芋とかぼちゃに
置き換えられるわけはないのです。

大量の芋やかぼちゃの中にいてもあがらないのに、
人の中にいるとあがる、というのは
それが「人」というなにやら別種のもので
芋やかぼちゃとは違う、と思うからです。

もし芋と人に共通の性質を見出すとするなら、
人だって芋だって原子からできてるじゃないか、と
考えてみることになりますが、
次は「人には意思がある」という点に
つまずきます。
つまり人はわたしを「解釈する」という作業をするのが
とても厄介だ、と思うのです。

わたしたちが危険だと「認識」したものを避けるために、
人はあらかじめ未来の予想を立てて
思考実験の中でその危険を取り除こうとします。
人前で何かをして笑われる、という可能性を
「危険」だと判断してしまうと、
これでは人前に出ることが困難になってしまいます。

ここで笑われる、ということの多義的な意味を見ます。

ある人は滑稽さやひょうきんな面に喜んで笑い、
ある人は人の失敗する姿で自尊を満たそうとして笑い、
ある人は周りが笑っているという雰囲気に連動して笑い、
ある人は周りが笑っているから
自分も笑わないとと妙な義務感を出して笑い、
ある人は昔何かで笑った記憶が再現して笑い、
ある人は目の前に展開されていることなど全く気にならず
自分の頭の中の面白いことに対して笑います。

その中には笑わない人がいて、
何かの記憶からけしからんと怒る人も、
また何かの記憶から嘆き悲しむ人もいて、
そして「たくさんの人」は一斉に異なった反応を
ひとつの行動を起こした一人の人に示します。

大衆、というものの難しさは、
何をどう努力してもその人たちすべてが
100%同じように感じるわけではない点にあります。
その中で心配になるのは、
誰かの心に引き起こした感情が
めぐり巡って自分の身を脅かすのではないかという点です。
特にすべての人に負の感情を与えたくないと思った場合
人前に出ることができなくなってしまいます。

そこまでたどり着くと、
自分の行動を現象の反応から
「良い」と「悪い」に分離し続けた場合
自分が極端に両方向に分離されてしまいます。

それでも人前に立って話すことを可能にするには
いくつかのアプローチがあるように思います。

人が話すわたしの行動についての「良い」と「悪い」よりも
わたしが人に優しくありたいと思っている、
すべての人を生かしたいと思っている、その状態が
わたしの行動を可能にする基準である、
その上でならば外的なあらゆる結果と感情の束縛から
自由である権利を得る、ということを
確認することが必要になります。

その権利は「わたしの意識」からは与えられず、
いかなる人間からも与えられず、
ただこの世界にあまねくある「何か」から
与えられることになります。

この問題を考え始めたのは、
遺伝子型が一致するのに
腎臓自体が病気であって摘出しなければならない腎臓を、
腎臓の機能不全で腎臓を必要とする患者に
移植することを是とした医師のニュースがあって、
人が文書で作った「決まりごと」の慣習や法に触れるとしても
人が生きられるようにすることを優先した、
この瀬戸際に立ってしまった医師は
一体どうすればよかったのだろうと思ったのがきっかけです。

法に従う側ではなく、法に携わる人間は
法が「人の作り物」であることを知っています。
そして法がこの世すべての「問題=苦しみ」を解決しない、
ということも分かっています。
人を大切に思う医師はその良心に基づいて
「人が生きる」ことを選択するために
敢えて法の制限を乗り越えたのだと思っています。

これを外野から
生きる死ぬはその人が解決すべき問題であって
あなたにはその責任がないとか、
法の解釈はたくさんの人で決めたのだから
守らなければならないものなのだ、とか
あれこれ言うのは勝手なのですが、
「ぜひとも生きたいのです」とすがりつくように
患者から頼まれ、
そして医師がその行動を起こすか起こさないかで
人の生きると死ぬが決まる、という現場では
人が作った法律やあらゆる決まりごとは
やはり人の作った法程度の力しかないのも知っていて、
法に従っても法そのものに
人の命が消えるという結果の因果を負わせることはできず、
絶え間のない葛藤となります。

この「問題」にはある種の解決があって、
もし「ぜひとも生きたい」という執着を患者がもたず、
この世界で生きていけたことを感謝できる、
そういう心の状態を持てるならば
医師に負担になるような苦しみも、
またこの世界から自分の生を解き放つ苦しみも
共になくなってしまうのです。
しかしその決心を起こすこと、は医師にはできず
それぞれの人が自発的に決心するしかありません。

この医師に慰めを出せるのはもはや人ではなく、
この世界を作ったなにかしかないようにも思います。

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