似ているようで違う二つの目標
杉樽醤油というのを使っています。
今日買いに行くと売り切れだったので
紫峰という醤油を試してみました。
割と気に入ってます。
クリシュナ・ムルティの本を
2冊取り寄せました。
一つは「恐怖なしに生きる」で、
もう一つは「自我の終焉-絶対自由への道-」です。
既存の宗教団体への所属や組織や手段に拠らず、
「神と呼ぶ、本当は名前をつけられない何か」と
私との結びつきによる、
全ては神から与えられ、預けられ、
通り過ぎる感謝というものと、
日本語訳で「愛」と訳されたものが必要であると
彼は説明します。
この彼、既存の宗教団体は全て「世界の問題」を解決しない、と
看破しているのですが、
他の宗教の本や心理学の本を読んだことがない、という彼に
果たして「解決しない」という台詞が出せるのかと
疑問に思います。
仏教では「法と己のみを灯火にせよ」と説いていて、
仏教聖典の中でかなり早い段階で目に止まった言葉でした。
ここで「呼び表せない何か」には
「法」あるいは「仏」の文字が当てられています。
キリスト教系の本で「愛」と訳された漢字は
仏教なら「仏性」に当たります。
そして色々な宗教を調べていくにつれて、
中心的に謳っているエッセンスはどれも大した差がなくて、
理解ある人が読めば同じ状態に近づけるような気がします。
たとえば聖書と教典、おなじように日本語で書いてあっても
用語の違い、意味範囲の違いがあるので
同じ漢字を同じに訳すことができません。
言葉の並びと比較に捉われる限り
相互変換はできないのです。
クリシュナは「愛」を広めることで
この現実世界に変革が生じる、と説明しますが、
そう心から思う人とそれを誤解した人の混成集団によって
教団は構成されています。
そして平和への道のりが
「精神への不断の注目」を必要とする、つまり
何らかの条件が必要なのであれば、
それは条件がつくなら誰でもできるものではなくなるので、
この世界には苦しむ人と苦しまない人の二つが必ず現れます。
宗教が目指しているものは、
「争いのやまないこの現実世界を平和にすること」なのか、
「争いのやまないこの現実世界で平和に生きること」なのか、
どうもこの二つが混在しているようで分からなくなります。
たとえば比喩的にいわれるのは
小乗仏教とか原始仏教と呼ばれるものは後者の思想で、
大乗仏教と呼ばれるものは前者を含む思想です。
そして後者は人間として可能なのですが、
前者が人間という生き物に実現可能なのかと考えると
なぜか無理だと思ってしまうのです。
全ての人が逆立ちすることはできないように、
おそらく神や愛の思想を感覚として理解し維持することが
全ての人にできるほど人は均質ではないからです。
地球の始まりにおいて、DNAの鎖という単位から細胞へと変わり、
細胞群は種となるのですが、
種が変化しても細胞は細胞のままで、
生き物なのですが進化が取り残されたような感じがします。
人を構成する細胞はその一つ一つが目的を知りません。
細胞群を手として使っているのは人という意識です。
これと同じように、
「」を構成する人間はその一人一人が目的を知りません。
人の群れを何かとして使っているのは「」という意識なのかと
ふと思います。
その上に拡張するならば、
『』を構成する「」はそのひとつひとつが目的を知らないことになります。
「」の群れを何かとして使っているのは『』という意識なのかと
ふと思います。
その「」や『』に人のような意識があるのかどうかはよく分かりません。
しかし人がその構成要素になっているのは確かなようです。
ということは、もし「」に上位概念の神という名前をつけるならば、
神が我々を作っているのではなく、
我々が神を構成していることになります。
体の各所が適切な信号、喜びや痛みを『私』に伝えることで
私は体全体を適切に保とうと努力します。
ということは、人というシステムが適切な信号、喜びや悲しみを
「」に伝えることで
「」は人間全体を適切に保とうと努力するはずです。
この上位にある意識、への移転というものが
来世とか菩薩の曼荼羅といった、無限に上位概念へと拡張する
思想を呼んだのだろうかとも思います。
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