風が吹けば桶屋が儲かる、の思想から
およそ学問と名づけられたもの、
それに対してわたしたちは「違うもの」と区別するのですが、
学問はすべて「言葉」によって成り立っているものであって、
それは事象を映したシンボルではあるけれど
それは物ではありません。
池谷祐二「進化しすぎた脳」の中に、
思考は言葉でできている、というくだりがあって、
「言葉」を使わずにこの世界を説明できるか、という
点に疑問を持ちました。
この世界の何かを「言葉」というシンボルに置き換え、
その「抽象化した概念」を操作することで
わたしたちは物理的な出力をしているのですが、
一方で「言葉」によって各人の意識世界が作られていて、
その意識世界がどんな状態であるかで
この「物理的な世界」での「個人の認識」が変わります。
言葉が厄介なのは、
「神」とここに書いた文字に対して
「わたしが定義した意味」と「わたしではない人が定義した意味」
は異なっていて、
どうしても単一のものにはならないという点です。
そしてさまざまな人が「感じた」という「神」が「感覚」なら
それは言葉で表現できるものではなく
個人がその全感覚で取得するものだとするなら
わたしたちは「神」の「何」を伝達しようとしているのか
不思議に思います。
わたしが苦しむとき、
わたしはわたしの意識が自動的に発する
「言葉の演繹」と「思考」の流れ、
そして感覚によって自動的に変換される言葉を
「言葉として扱うこと」を止めてしまえば
「未来」も「過去」も「時間」もなくなってしまい、
苦しいという「状態」は過ぎていくものだということに
ふと気がつきました。
それはできる人には簡単にできて、
できない人にはとても難しいことなのだとも思います。
感情を表そうとシンボル化した言葉、というものがあって、
言葉は継続して状態を保持するものであり、
言葉の組み立てや演算が思考であるため、
感情を離れるには自分の思考が延々と生成し続ける
「言葉」から離れ、
目に飛び込んでくる「文字」や耳に飛び込んでくる
「音声」を自分の思考=言葉として認識させないように
する必要があります。
時々言葉を忘れようと思います。
線形性と呼ばれている現象があります。
簡単に言うと、
初期値のわずかな変化は結果に対してもわずかに変化し、
そしてここの現象を分離した上で解析的に表現できる、という
性質を表したものです。
わたしたちが厳密に「解いている」気になっている数学は
解けるものだけを扱っていて、
方程式はその条件をわずかに変化させただけで
あっという間に解けない=人間はその解析式を知らない状態に
入ってしまうことがあります。
数学的にカオスと呼ばれる現象があって、
それは非線形方程式を主に数値的に調べたときに現れるもので、
初期値のほんのわずかな違いが時間発展すると
それが結果をまったく異なった予測不能の状態にしてしまいます。
カオスの例は蝶と竜巻で、
ある条件下では日本で蝶が羽ばたくか羽ばたかないかが
アメリカに竜巻が起きるか起きないかを決める
引き金になる場合がある、というものです。
どんな小さな出来事のどんな小さな変化も、
大きな体系の中では無視することができない要素であり、
この世界のすべての「パラメータ」を一瞬にして取得することは
今の人間には不可能であるため、
物理的現象に関してはどんな予測を立てても
それが本当なのか確かめることができず、
しかも計算精度の問題から
どうやら現実世界のコピーをとったとは言えないのではないかという
心配が生じます。
カオスの「混沌」はしかしもう少し説明する余地があって、
ただ乱れるだけではなく、
あまり遠くまで演繹しなければ擬似的な線形性を保つものや
循環した状態に入るものなどがあって、
その場合比較的良い予測ができることもあります。
現実世界にこのことを当てはめるならば、
わたしの行動は「何かの現象」を生み続けていて、
当座は予想がつくのですが、
「思考」による未来の予想はまったく役に立っておらず、
そしてわたしの行動はおそらく、
知らない誰かを生に留め、知らない誰かを生から開放している、
ということになります。
それは「この世界には善と悪という二つのものがあるのではなく、
それらは同時に起こり、かつ不可分なものである」
というところが当を得ている気がします。
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