木曜日, 1月 11, 2007

釈尊のメッセージは科学的な方針だったのではないか

小さな頃から海老が好きで、
100円回転寿司にいくと生海老、甘エビ、海老を
3皿ずつぐらい取ります。
ねぎも好きで、ねぎ焼きを喜び、
味噌汁にはねぎが山ほど入っているのが好きです。

この2年ほど、意識や実在に関する本を意識的に読んで
そこに意義が見出せるかどうかを探していました。
以前から科学のいくらかを知ってきて、
科学と宗教の整合というテーマに
何度か特別な興味を持ったことがあります。

宗教史の中ではそれは大問題だったようで、
ガリレオが受けた宗教裁判は天動説の否定であって、
天動説は当時のカソリックの支持教義であって、
それは天動説が崩れると無矛盾であって完成された教義に
欠陥があることになるから、という理由でした。

高校のときに聞いた話では、
仏教が須弥山(しゅみせん)という山の周りに海があり、
海の果てがあって鉄柵と断崖のようになっている、
という説を説き続けていて、
西洋から丸い「地球儀」がやってきたときに、
それが本当なら仏教の正当性が失われると
大騒ぎしたというのを聞きました。

今でこそある意味で「宗教」は「心」の問題であるという
認識がそれなりに発生し
物質に対しては「物理」を適用する習慣がつきましたが、
もともと「宗教」の守備範囲は全能を目指していて、
それはこの世界を完全に作った「何か」を説くための
基礎材料として必要な情報だったからです。
そして原理主義と呼ばれる人たちの思考の中では
今でもおそらく物理より宗教の本が説いた世界観が優先します。
そして物理の限界点にいる人たちが考える思考には
「神ならこの世界をどう創っただろう」と想像するのです。

そういう観点で行くと、
「宗教」という名前は「世界観」と同義であって、
今の科学者の役割も果たしていたことになります。
そして「あいまいだ」と揶揄されやすい仏教の本質は、
現代人でも混乱しそうな現代物理の思想:
物質の粒子・波動の2重性や
「物」の状態としてのエネルギー・質量の2重性、
量子論の不確定性原理、
物質の局在と存在確率、
「完全に無の空間=真空」に発生するエネルギーの存在などを考えると
現代物理とは今のところ矛盾しないように思います。

その理解の上で、「意識」の問題に触れます。

宇宙の始まりはビッグ・バンにあって、という台詞は
概ね誰でも聞いたことのありそうな言葉ですが、
その世界は超高エネルギーの世界であって
生物はもちろん原子さえ存在しない世界です。
生き物がいないのだから、生と死はなく、
生と死がなければ欲も意識もなく、善と悪もありません。

宗教はその「混沌」である宇宙の始まりと「人間の発生」との関係を
どう説明するかに長い間苦労してきました。
キリスト教の中心では「神のヒト創造」という問題を持ち出し、
「死」と「罪=悪」とを結びつけました。
そのうえで改めて「霊的に神と結ぶ」ことによる「人の救い」を説きます。

ダーウィンの進化論はこの「創造」に抵触するため
長らく解釈が待たれていましたが、
「突然変異」が不連続な生命の変容をもたらすことから
「ヒト」が長い生命の系譜を引き継いだ存在であることは
次第に理解されつつあります。

そして現れたのが生物と非生物の違いについての問題で、
神が生き物を「非生物的世界」とは別に作り出した、という解釈に対し、
原始地球の高温の海から生命が発生するか、という問いに
どうやら物理的現象として生命が発生する可能性がある、ということが
実験によって追跡されつつあります。

もし生命が物理的現象として発生したものであれば、
生命はすべて「物理的現象」で説明できてしまいます。
事実、たとえそのシステムすべてが理解されないほど複雑であったとしても、
人間の構成要素は原子であり、電磁気的信号が流れ、
化学反応が起こり、量子効果が働く世界であることは
疑う余地がありません。
宇宙の始まりに善と悪がなかったのだから、
生命の現象についても
何が「善」で何が「悪」であるかを説くことができなくなる恐れがあり、
それはやはり「生」と「死」であるならば
人が何をやっても罪にはならないことになります。
法の秩序を維持できなくなることを恐れ、
アメリカでは物理や生物学の歴史系譜に
「神の意思」をうまく説明できなくなりかかっていることが大問題で、
「サムシング・グレート」という「人を超えた何か」という表現を載せるかどうかで
議論が始まっています。

そしてこれらを理解したうえで、
なお物ではない「意識」がなぜ発生しているかだけが
問題として別個に残るのである、というのが
釈尊の解釈であり、
現在では脳科学者が「クオリア」と呼ぶものを追って
意識学会という活動が議論されています。

「欲」の根拠については
「自分という個体が生きること」を求めることと等価であって、
それは生き物の目的が生き増えることにあるから、となります。
ところが欲の追求だけでは
社会システムが動物と同じ状態になってしまいます。
「欲」の発動は遺伝子の働きによるもので、
それさえも物理であり何かを「分かる」という
「意識」とは別だというところまで話が進みます。

そして、「意識」は「何」を目標にすればいいのかと
おそらく釈尊は考えます。

ここからは想像ですが、
釈尊のいた2500年前でどのくらいのことが分かっていたか、というのが
ひとつの世界観を創る元であるので、
分かっている範囲を想像すると、
生物学的な発想には行き着けると思います。

盲導犬訓練に向いた犬の血統というものがあって、
それは何世代もかけておとなしい血統が続いて
遺伝が安定したものを呼びます。

日経サイエンスの本では、
手漕ぎカヌーに乗って漁をする民族は
何世代もその生活をするうちに
生まれつき上腕が発達するようになったといいます。

釈尊は遺伝学的な変容について知り、
そのわずかずつの可逆的あるいは不可逆的な世代変容に
気がついていたのではないかと思います。

これまでの進化の過程からすると、
人間もまた進化の過程の一つであり、
「意識」の使い方が何千世代にもわたって続いていけば、
人は既存の「生き物」の常識からかけ離れた
「新しい生き物」へと進化を遂げるだろう、と
考えたのではないかというのが今一つの仮説です。

恣意的に「新しい生き物の発生」を目標とすると書きましたが、
その根本で「欲」から離れた思想をするならば
実はその目標にさえも「とらわれない」ことが必要になります。

つまみ読みで勝手な読み方をすると
経典の中では華厳と理趣は異なった思想というよりは似通った思想であって、
「大いなる意思のメッセージの元に自由になる」という意味で共通しています。
わずかな違いを見つけようと思うと、
華厳が仏性を育てる意思によって未来を「意識」によって選択していくけれども、
理趣はそれらの意識によらずとも、「意識」の認識さえあれば
あらゆるものが自動的に進化のプロセスになっているはずだ、というところに
あるという感触を持ちます。
それが「抑制」と「開放」の表現の差として表れるのではないでしょうか。
ただ、どちらの方針にしても「意識」というものの存在を
この物体と物理とは独立したものとして明らかにし、
「メッセージ」を受信できる状態で「欲」というものに結びつけることを必要としています。

ここでは「意識」の拠りどころとして
「仏性」という言葉をあてます。
それはふとした折に「発動」するもので、
やはり遺伝子の中に書かれている「メッセージ」だと思うのですが、
欲があるうちは発動が抑制される類のものです。

たとえば自ら望んで他の生き物のために
自己犠牲を払える、それが喜びとなるという状態を
ひとつの仏性として解説してあります。
それは生物学的には「すでにある現象」ではあります。

通常遺伝子の故障というのは修復して直してしまうのですが、
人間の細胞レベルでは「アポトーシス」という現象があって、
遺伝子内の増殖抑制の機能が失われた細胞などが
体全体の機能やサイズを正常に維持するために
細胞自身が自殺します。
増殖抑制が失われ、
かつアポトーシス発動ができなかった細胞ががんと呼ばれるもので、
がんは病気ではなく遺伝子の故障です。

細胞は好き好んで勝手にアポトーシスするのではなく、
そして他の細胞からアポトーシスを引き起こされるのではなく、
システム内での役割を理解して自発的にその役目を終えます。

ヒトというのは「生き物として」死を恐れるようにできているし、
ひとという「意識」が「生き物」に結び付けられている限り、
死は避けられないものです。
そこに「苦しみ」と呼ばれる感情が発生し、
その状態を「生き物」は望まないことから、
知覚できる「意識」の定義を「生き物とすべての物理現象」から
切り離すことが必要であり、
現在の意識が生まれ変わりを確認できないけれども
「意識」の時間的な不消滅、つまり
「生き物という物質」に意識が発生する生まれ変わりの現象を
否定せずに説明することが生き物としての人の「意識」を
物体が発生した「欲」の束縛から解放することになります。
その自由を持って「救う」という表現にしたということと
解釈しています。
最終的には「生まれ変わり」さえ放棄する、
つまりこのただ一度の意識の発生を喜び、
その意識が「大きなシステムの維持」と
「生き物の進化の過程に参加する」こと、
そして「仏性という遺伝子に書かれた発動を維持・伝達する」ことを
目標とするよう求めているのではないかと解釈しています。

「意識」が「物理学的な何かを離れたもの」である以上、
「意識」が何であるかは現在でもつかむことができていません。
しかしあらゆる物理とまったく結びついていないからこそ、
「意識」は何の方法を使っても原理的に誰にも奪うことができないのです。
「わたし」は「わたしの意思」なのであって、物ではありません。

この意味で個人のたったひとつの「持ち物」とは「意識」だと言えます。
それは哲学でいう意識の不思議へとつながります。

「意識」が人の上に乗り継いでいく以上、
何千世代かかってもいいから
「欲」の存在に苦しまない、仏性に従った
「新しい生き物」を作っていくことを意識の目標に定め、
遺伝子を長い時間をかけて書き換えていくと、
仏性の発動確率が十分に高まってゆき
未来の時の中で発生した、しかし過去の生命の記憶を持たない「意識」は
「新しい生き物」のシステムの中で、生死の苦しみを意識せずに
「この世界を意識する」作業をより円満に続けられるだろう、
そして「新しい生き物」として完全ではなくても
これらのことを知ることができたのならば
現在の生き物であっても「意識」を徐々に自由にできるだろう、
というのが釈尊の考えた
「すべての「人=意識」を救うための妙なる慈悲」という
プログラムであるように思います。

もしそれが完全に行われるならば、
人のなかに細胞があり、細胞一つ一つが生命を持ち、
それらはすべての細胞が持つ「遺伝子のメッセージ」に従っていて、
発生のときと消滅のときを知っており、
その事実に何の矛盾もなく協調した動きとして「人」という物質があり、
発生のときと消滅のときが「何かのメッセージによって」与えられており、
そのメッセージに従うならば、人という意識と物体の集まりは
「巨大なシステムである何かを維持する」ことになります。

仏教に不思議な興味を持って眺めているのは、
たとえ世界に人の言葉や行動による法も秩序もなくなってしまったとしても、
人には埋め込まれた「仏性のメッセージ」があるので
どんな世界になっても人はその仏性の自動的な発動によってシステムを維持し続けるはずだ、
だから生と死に関しての心配はなくしてしまいなさい、と言っている点で、
人が「意識」に目覚めていることこそが大切だ、というアドバイスは
不思議とわたしを安心させるのです。

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