人間がどう生きるべきか、の判断に宇宙論まで必要か
掌の中の無限、という本を手に取りました。
チベット仏教と天体物理学の知的交流で、
書こうとしていたことがよく書かれていて、
面白く読んでいます。
宗教は宇宙観を必要とし、物理学もまた宇宙観を必要とするなら
至る場所はおそらく同じで、
知的領域のすべてにわたって陣取り合戦をしているような感じがします。
ただ特に西洋物理が出した成果には特徴があって、
そこには誰でも再現可能な物理法則が適用されると
事物をコントロールできるようになることで、
人はそのせいで空まで飛べるようになりました。
宗教はやはり多義的な面を持ちたがるのか
そのあたりはよくわからないのですが、
「慈悲」とか「仏性」とか「愛」と呼ぶ感覚について
どうもうまく説明しているようには思えません。
自己犠牲や利他、というものなら動物も持っていて、
たとえば親鳥が巣を狙う鳥の注意を逸らすため
わざと目立つ場所で傷ついたような振る舞いをするとか
いくつも例はあります。
集団生活の秩序、というものも動物は持っています。
蟻などは立派に共同体を作り上げているし、
猿だってコミュニティを持っています。
人間はどうしても「この世界の特別」でありたがるようですが、
仏教的感覚で言うと
一切が空であるのなら
人も動物も意識の存在として変わりありません。
そして意識そのものの問題に関して
物理学と宗教はどちらも確証を持っていないのです。
生き物は和を持って生き続けることが目的であるのなら、
地球のサイズと生産力を考えて
人の数が地球全体として増加に向かうような
システムを考えることで十分で、
それを目指すものが「仏性」や「利他」に当たると考えます。
宇宙の始まりはどちらかというと
「この世を作ったなにか」を語っているようなもので、
仏性を語ることとはおよそ質が異なります。
ちなみに高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」の中には
協調と拒絶に対してそれぞれに報酬があるシステムを仮定し、
協調同士は相互に得点し、拒絶と協調の場合は
拒絶側に得点があり、拒絶同士では得点がない、
というような過程で、コンピュータプログラムコンテストを行い、
二つのプログラムが対決するとどうなるか、
どのようなアルゴリズムがもっとも生き残るか、という
実験を行った様子が掲載されています。
最後まで高い点数を維持したプログラムの原理は
驚くほど簡単で、
「最初に協調を出す」
「相手が協調した次の手は協調にする」
「相手が拒絶した次の手は拒絶にする」
「履歴を持たない」
というだけの特徴しか持っていないのだとありました。
人がたくさん生きられるようにすること、という方法は
すでにある程度結論が出ているようにも思うのですが、
環境に適応した生物が選択的に淘汰で残ることや
特徴の異なる生物が混在して住む場合には
ひとつの種類の生き物だけが残ることがまれである、
というシミュレーション結果もあります。
たとえば消費エネルギーが多く必要で分裂が早い細胞と、
消費エネルギーは少なくて済むけれど分裂が遅い細胞が
同じセルの中にいると、
そのセルの中の食物の取り合いになって、
最初は分裂が早い細胞が優勢になるのですが、
セルの中の食物は枯渇するので
その段階で分裂の早い細胞は先に消滅が早まり、
結果として両方がある割合でセルに残るのです。
人は多様であることをその条件として持っているならば、
この世界は戦争を終わらせることはできないけれど
人が死に絶えることもない、という結論になるのだろうかと
ふと思います。
この結論に対して、すべての人に一致した知識の流布を望む宗教は
どんな意見を示すのでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿