木曜日, 1月 18, 2007

可能性という記憶の海に溺れるとき

黒豆をあげたらあんパンになって戻ってきました。
パン生地が柔らかくてとてもおいしかったです。

昨日ネットで行き当たった話題は、
イラクの劣化ウラン弾の話でした。
その話を文字として読むと、
今すぐにイラクに行って何かすることが
わたしの目的なのではないかという気持ちが生じ、
しかし物体として動けていない自分がいて、
自分に「その行動は実現できる」という可能性が
わたしに葛藤をもたらします。

仕事をしながら、
こういう類の葛藤が1日中続くことがあります。

それが可能である、という現象は
飛行機という機械を運転する人がいて、
外国へ出国できるビザや税関が用意され、
現地での生活に必要な物資と食料の調達ができ
現地でのネットワークに参加できて
初めて発生するものです。
あらゆる技術が可能になっていて、
たくさんの人がその手段を可能にしているから
わたしにはその可能性が「ある」と考えることになります。

この気持ちは、献身の気持ちか、
あるいは義務の気持ちなのか、
それとも死の恐れからなのかと
気持ちが生じたときにふと思います。
それに準じることとして
募金をしたり人のためになることを
日常の中で探したりするのですが、
満たされない心は続きます。

たとえイラクの問題に手を貸せたとしても
世界のどこかではやはり人を必要とする出来事が
起こり続けていて、
やっぱり包括的な解決にはなりません。

たとえば、この場所にとどまり、
この場所での仕事から人のためになるものを発信し
人や物の流れをあるべきように心がけ、
隣人を大事にするということも
またわたしには同じように必要であって、
そしてそれらすべてもまた叶わない願いです。

「なにか」に対する声にならない祈りが必要なのは、
すべての人に幸せになってほしいと願う可能性の大きさと、
その可能性の海に溺れてしまいそうなわたしの小ささの
隔たりを埋めるものとしてだと思っています。

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