木曜日, 1月 18, 2007

この世界が「わたし」であるならば

確かジョン・グレイ著
「ベストフレンズ・ベストカップル」か
「本物の愛を手に入れる365日」かの
どちらかだったと思いますが、
章の始めのほうに、
「大切なことは、頭で理解し、実践し、身につけた後、
それらを一度すべて忘れ、再度思い起こした後に身につく」
というくだりがあって、
「忘れる」というところに妙な引っ掛かりを
覚えたことがあります。

アインシュタイン150の言葉の中に、
完全な羊の群れを作るには、とにもかくにも
自分が羊になることである、というくだりがあって、
この意味もまた考えの対象になっていたものでした。

クリシュナムルティ「恐怖なしに生きる」を読んで、
恐怖とは自分の記憶と思考そのものである、と書いてあり、
意識の上の記憶が積み重なるほど
恐怖は増えていく、という点にふと納得がいきました。

聖書の一説には
アダムとイブは「知恵の木の実」を食べたために
罪と死の苦しみを負うことになった、とあって、
なぜ知恵を手に入れることが罪と死なのか
いまひとつよく分かりませんでしたが、
意識と恐怖の関係からいうと
確かに知恵と記憶そのものに罪と死の概念が含まれています。

パンドラの箱に閉じ込めて封じられたものは
「未来を全て分かってしまう災い」であって、
それゆえ災厄の中でも希望を持って生きていけるというくだりで、
知ること、区別をつけることが苦しみのもとになるという
点につながります。

矢井田瞳の歌"BuzzStyle"に
もしかしたらあたし自体いないのかもしれない、という
一節があって、
やはりひっかかりの元でした。

中島義道「生きにくい・・・」の本の中には
「時間に関しては過去と未来はなく、
その認識のもとにはわたしは全てと一体化し、
そして「わたし」がなくなってしまう」という意味の
くだりがあります。

時間は記憶と思考が作るものである、という点には
クリシュナムルティもアインシュタインも同じように述べていて、
アインシュタイン150の言葉では
「過去、現在、未来の区別は、どう言い張っても単なる幻想である」
と綴られています。

無意識に人に暖かい気持ちを向けられる、
という表現なら
わたしにはこの気持ちはよく分かるのです。
長く調べていくと、
世界にある宗教の「本質」はどれも同じに見えてくる、
そしてそれらを拡張していくと
この世界の「あらゆるもの」がどれも同じに見えてくる
ことになります。

だからキリスト教の神への誓いは
「全てを信じ」という一見妙な台詞になるのだと
なんとなく納得しました。

小さいころに思った疑問のひとつに、
自分が意識で捉えたことを書いて残そうとすると
書いている最中にまた意識が発見する、
延々とそれを繰り返すので
いつまでたっても書き終わらず、
書くこと以外何もできなくなってしまうな、と
思ったことがあります。

九九を覚えたとき、
わたしは何も見ていないし、書いてもいないのに
どこを参照して覚えたことを復唱できるのだろうと
不思議に思っていました。

意識の上に知識を並べて執着しなくても
どこかで覚えているのだから
人は無意識という文字をあてたものは
もはや自分にさえ
見ることも知ることもできない「本来のわたし」
があります。

人にとても優しい気持ちを持ったときに
わたしには「降ってくる」イメージがあって、
それに従っている時はとても幸せで、
降ってくるイメージに選ばれた人も幸せになります。

そして「いろんな人が考えた」結論は、
私自身が「この世界」なのであって、
わたしが心を優しく暖かく保てていれば
この世界は喜びに満ちることになります。
表現することで誤解は生じるかもしれませんが、
わたしの心、今を常に暖かい気持ちで救うことが、
とりもなおさずこの世界全てを救うことになるのだ、
というところに行き着いた気がします。

そして「約束の地」と「さとりの境地」は
今ここにあるのです。

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