見方の違い
宗教の概念があるから人がまとまるのではないのです。
人はまとまろうとするようにできているから宗教ができたのです。
同様に、宗教の概念があるから人が争うのではないのです。
人は争うようにできているから宗教の概念は対立するのです。
まとまろうとする働きも、争おうとする働きも
もう再現性のある科学の言葉で説明可能です。
それはこのわずか数十年の間に起こっていて、
ほとんど全ての「過去の推測」は棄却されてしまうほどです。
人は絶えずどこかでまとまろうとしていて、
そして人は絶えずどこかで分裂しようとしています。
だから
「すべての人がこれら全ての情報を知れば幸せになる」と
考えを結んでしまうのは性急です。
情報は正しい組み合わせで提供されなければならず、
そして情報を覚えておく力には個人差があります。
「お念仏」は、
「あまりに難しい経典を知らなければ幸せになれない」のでは
「不平等だ」と思う気持ちが作らせたひとつの技術です。
繰り返すリズムは確かに人を安心させるのです。
敬虔的感覚と科学的感覚は
等しい重さで持たなければならないのではないか、と
最近考えています。
どちらかが重すぎる場合、何らかのバランスが狂います。
もし民がたくさんの科学知識を持たなければならないとしたら、
そのときこそより強力な敬虔に対する感覚が必要です。
敬虔的感覚と科学的感覚は
どうやらシンクロトロンの集束電磁石に似ています。
集束電磁石には2種類あり、
片方は水平方向の集束で垂直方向は発散する磁石で
もう一方は垂直方向の集束で水平方向は発散する磁石です。
どちらか一方ではビームを絞ることができないのですが、
両方を組み合わせるとなぜか水平方向も垂直方向も絞れます。
なぜ科学と宗教があるのか、というのは
論理的な半分の脳と感覚的なもう半分の脳が作り出した
二つの見方、
意識と無意識の両方だといわれれば説明がつくのかもしれません。
しかしたとえどんなに「説明」がついたとしても、
「この世界はなぜできて、どうしてわたしはここにあるのか」を
説明したことにはなりません。
それだけが、この世界のただ一点の不思議として
昔も今も、そしてこれからも
全く変わらず存在し続けます。