ボランティアの概念
カロリーの多い食事が多いアメリカですが、
不思議と体重は増えず、
よい体調が続いています。
まわりにカロリーが多い食事があることと、
それで体重が増えることは別の話です。
せっかく外国にいるので、
外国らしいことを書いてみようと思います。
セントラルパークで、
彫像のパフォーマンスをしている人がいて、
あまりに動かないのが面白くて、
1ドル置いてきました。
ボランティア、という言葉を日本で聞くと、
なんだか公明正大で、命がけで獲得しなければならない
狭い定義のイメージを連想しがちなのは
わたしだけではないと思います。
しかしたとえば、大道芸人がストリート・ショーをしていて、
応援のために投げ銭をする、というのだって
立派にボランティアだと思うのです。
普通のショーやコンサートは、
見るために必要な対価があらかじめ提示してあって、
積極的に行く、という行動は能動的に感じられても、
見る側はその提示に受動的に応じるという流れを取ります。
何も値段を提示されていないからこそ、
自分自身でその価値を定め、認めてあげて、
自分にできることをする、という自分が判断するプロセスの中に
ボランティアの良さがあると考えています。
ハングリー精神が大切、などといいますが、
その表現には飢えと欲を混同したようなところがあるのではないかと
最近思います。
飢えていても実りの時をじっと待つ人もいるし、
飢えてもいないのに過食して命を落とす人だっています。
公園の中や車通りの多い交差点で、
街中を馬車に乗って移動する結婚式を挙げたカップルを何組か見ました。
その手のパンフレットに見るような、抜けるような青空でもなく、
あちこちで都会の音が響いているのですが、
それでも二人は幸せそうな顔をしていました。
自分で自分自身を満たすことの一面に含まれる
大切さを思います。
全ての人の脳が神経を介して直接つながっていない限り、
幸せについての共通認識など本当はないのです。
喜捨という、悪用される危険が多いけれども大切な概念があります。
自分から何かを進んで手放すことで、
一番楽になるのは自分自身だ、という考え方です。
相手が喜んでくれるから何かをする、
必要であると宣言されているから何かをする、というのも
やはりボランティアと結びつけるのは難しいと感じています。
日本で「自己満足」というと
なぜか殆どの人が喜びません。
もちろん定義の仕方はいろいろあるのですが、
「他者を差し置いて自分だけが満足する」という利己的な満足と、
「誰かの力を借りずに自らを満足させる」という自立的な満足が
混同されているような気がするのです。
人間という字は面白くて、
人と人の間にいるもの、という表現がよくされます。
それなら、人間であることに疲れたら、
人と人の「間に」いるのをやめたらいいと思うのです。
つないでいる両手を離してしまうと心細いから、
片方の手は人とつないでおいて、
もう一つの手は、人間性を見出せない自然とつなげばいいと思います。
人は自然との間の関わりによって
十分満足することができることを知っているはずです。
アインシュタインの本の中には、
動物と仲良くしなさい、そうすればあなたは
何事にもわずらわせられることはないでしょう、という
くだりがあったり、
安藤忠雄の「建築を語る」の本の中では、
旅に出て、自分と向き合わざるを得ない時間を持つことが
大切だというくだりがあったりします。
どれも同じことを言葉を変えて表現しているように感じるのです。
研究所の食堂で研究者と話題にしていたのは、
神の存在や概念だったのですが、
わたしはこれも「人間ではない存在」を
意識する助けになるだろうと思います。
そしてボランティアというのも、
やはり自分を満足させるために行うものだと思います。
ボランティアの目的が決められているからといって、
必ず相手が喜ぶわけではないからです。
ボランティアが行動の対象とするものは
あくまで人であることが多いのですが、
しかし人を通じてその人の背景世界に影響を与える、と
いう見方をすると感覚が平衡に保てます。
たとえ他者にボランティアと名づけられたことをしなくても、
自分自身を機嫌よく保って笑顔で生活してみる、
これだって立派なボランティアです。