Surviver's Guilt
GWに入って2日目の雨です。
実家の居間で布団に入りながら日記を書いています。
最近日記のような実体表現をしないと
自分のことが曖昧になってもやもやする感じがします。
脳とはもともと曖昧なものなのです。
福岡は東京と同じ放送局がテレビで受信されるので、
チャンネル番号だけを読み替えてニュースを見たりします。
読み替えテーブルは、
テレビ朝日は10→1で、
NHK総合は1→3、
NHK教育は3→6、
TBSは6→4、
日本テレビは4→12、
テレビ東京は12→14
です。
毎日列車事故の話で、
今日は事故の後のボーリング大会が取り上げられていて、
司会者のキャスターが怒っていました。
この報道について少し考えてみました。
昔、高速道路の事故を処理するパトロール隊の特集をテレビで見たときに、
パトロール隊の勤務は8時間の3交代制が組まれていて、
しかし事故は起こり続けている、というところを見たときに、
シフトから離れた人は罪の意識に襲われないだろうか、と
思ったことがあります。
自分がいれば救えた命がある、
こういう意識をどう取り扱ったらいいのかわからないのです。
夜回り先生で広く知られている水谷さんは
おそらくこの意識を原理主義的に取り入れてしまった人だと思います。
自分の生活を投げ打って、子供が非行への一歩を
踏み出さないよう尽力されています。
その行動について私情を挟むことはできないのですが、
水谷さんも人の子であるならば、
両親がいて、友達がいるのだろうから、
その人たちのために存在する水谷さんとして生きてあげることも
必要なことだと思って欲しいな、と感じています。
都市化する、ということを思います。
都市生活では、たくさんの人が同じ場所で生きるための
コンセンサスと呼べるものが存在しているのだな、と
街に住んでいて感じました。
たくさんの人がいると、その数だけ衝突数が増えてしまい、
その全てに対して「感情を最大限に尊重しながら」生活すれば
社会生活が成立しなくなってしまいます。
同じ街中、とは言っても、
すべての人が毎日亡くなった方のお悔やみに行くことはできないのです。
街にはたくさんの人が生活するために
高度で複雑な機能が要求され、
その機能が複雑であるほど
人間に要求される仕事量は多くなっていきます。
それをうまく機能させ、かつ人間としての自由を分け合うために、
「時分割」という方法を使っているのだと思います。
時分割には
「仕事としての分割」、という一義的な意味と
「責任としての分割」、という暗黙のうちに受け入れている
意味があります。
仕事中に責任を負い職務を全うする、
しかし仕事でないときにはその責任からは解放されている、
ということを無意識に行っています。
そうでなければ、パトロール隊で仕事をする人は
続けられないと思うのです。
これは遠いアナロジーでは
有限責任の会社の関係に似ています。
有限責任の会社では、利益を法人という「架空の人間」と
共有しなければなりませんが、
起きた損害については、株主は出資金を失うまでで済み、
会社が出した負債の責任についてはその任を負いません。
これは人がどこまで責任を負うか、
ということを明確にしているのです。
しかし無限責任の会社では、出資者は利益のすべてを掌握できる代わりに、
すべての負債について責任を負わなければならないのです。
ボーリング大会に参加した人は
その意識の中で
有限会社のような「責任の時分割」を行ったものと考えられます。
対して、テレビ報道の「職務時間外の行動に対する批判」は
無限会社のような「24時間の職務追及」を求めているものと考えられます。
都会人は二つの意識の中で揺れています。
「職業人」としての自分、「個人」としての自分を
切り替えることが必要なのか、
それとも「職業人」として人生を全うすべきか、
無意識のうちに難しい判断を迫られているのです。
日本で思う、「息苦しさ」のようなものの正体は、
職業を「無限責任」として滅私奉公することを
人に暗黙のうちに要求することにあるのではないかと
思うのです。
責任追及が無限に続くからこそ、
だれも責任を取ることを極端に恐れるのです。
そこに赦しの概念は存在しません。
JR西日本の「社員教育」と称した
ミスをした運転員への上司の陰湿な追求には
「無限に責任を取らせる」ということを
「会社を代表する上司として」要求する、という
光景がみられます。
おそらく、「自分も若い時分には通ってきた道」という
心の中の鬱屈した気持ちが蓄積されていて、
その気持ちを部下にぶつけて開放しています。
そこには「自分は人間である」という意識は薄く、
「自分のなすことは世のため人のためだ」と思い込もうとしています。
「世」と「人」っていったい誰のことなのでしょうか。
ほんとに世のためならば、
まず目の前にいる人を幸せにすることから
始める必要があります。
「世」とは「人」という実体を指すものから外れてはならず、
決して抽象化してはいけないのです。
閉じた世界で生きようとする人たちが、
「感情的な負の遺産」を脈々と継承しているように思います。
経済ベースには乗りませんが、
これも日本で生きていくことで受ける
立派な不良債権の一つです。
人には他人に対して職に殉じることを要求し、
それを社会のたてまえとして共有しているが、
自分はその際限ない要求の中で苦しんでいる、
わたしにはそのように感じられます。
その連鎖から抜け出したいと
多数の人が切実に願う日は来るのでしょうか。
わたしたちが精神的に解放されるためには
いくつかのプロセスが必要です。
まず、社会として生きる人間の行動は
すべて有限責任であることをコンセンサスに持つ必要があります。
そして非常時がおきたときに、
「どこまで責任を取れば」社会的に認めてもらえるかを
みんなが個人的に話し合えば良いと思うのです。
「そんなの理想論だけど、できるわけなんかないよ」と
どうか言わないで欲しいのです。
それは「職業人として」生きていくことと同時に、
「一人の人間として」生きていくことを満足するために
必要な措置だと思います。
仕事は人が助け合って生きていくために行う行為であって、
責め苦を負わされる伏魔殿じゃないのです。
そして、こういう事故が起こったときに、
みんなで責任者を感情的に袋叩きにしないことです。
責任者が少しでも「自分にはやむをえない理由があった」とでも言おうものなら、
口裏を合わせたように「生意気言うな」と総攻撃する習慣をやめることです。
社会生活では、自分が「野次馬」であると思わないことが
必要です。
次に非難の矢面に立たされ、
日本人のコンセンサスで作られた同じシステムでもがき苦しむのは
あなた自身かもしれない、ということを
よく認識して欲しいと思います。
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