月曜日, 5月 16, 2005

自分がマイノリティーになることを、受け入れられるか

疲れているせいで判断力は鈍り、
ここ数日危なっかしいことばかりです。

テネシーへ出張してきました。
今日は集中力がほとんどなく、
右車線の運転に慣れているはずもなく、
うっかり交差点を飛び出して合流したら
車をぶつけそうになり、
運悪く通りがかったパトカーに捕まってしまいました。

ボスの写真を持ってきました。
最初は大丈夫だと思っていたのに、
時間が経つにつれてさみしさのようなものと
満たされない気持ちのようなものが訪れてきます。

この国に来ると、日本にはない孤独感を感じます。
それは言葉が通じないということではなく、
この国にとって自分が少数派であることからくるものであり、
この国は表面では個人以上の付き合いがないからです。

勝ち組という言葉があり、とても流行っていて、
まだまだ使われています。

勝ち組について時々考えます。
勝つか負けるか、というのは、スポーツなどでは分かりますが
人生にとって勝つか負けるかというのは
主観以上にはよく分からないものです。
錦を着て憂う人あり、という言葉がそれを良く示しています。

勝つのが個人ではなくて
「集団」というところも気になります。

「集団」としたのは、多くの人がいい思いをするように、と
心がけた言葉のようでいて、
自分だけ勝ってしまっては「少数派」になることを恐れている
言葉ではないかと思っています。

勝ちの組と負けの組、
試合が一度しかなければその数は同数います。
そして、トーナメントになれば
一つの勝ち組以外はみんな負けてしまうのです。

「勝ち組」と言っているときには、
なぜか「勝っている人の数」が圧倒的に多いようなイメージを
持たせているような気がします。
それは「仲良し」「仲間はずれ」とどう違うのか説明がつきません。

心の底では、日本人は「勝つこと」の意味が
あまり分かりたくないのではないかと思っています。
勝ちと負けというのは、本来は状態をはっきりさせるための言葉で、
勝ったほうも負けたほうも
個別の事象に区切られた少数派になることを覚悟しなければなりません。

全てではありませんが、
自分と親しいと思う人たちは、
自分が少数派であることを少なからず意識し、
それに難しさや抵抗を感じながらも
少数派である状態を受け入れている気がします。

一匹狼的なところがありますが、
その人らしさ、というものを
その人自身が認識していることに対して
強い共感を覚えるのです。

ボスはぞろぞろと連れ立って歩くのを嫌う人でした。
そんな姿にみんなが憧れたのは、
自分というものを持っている彼に惹かれたからだと思います。

みんな仲良し、ができるということは
社会生活では「協調性」として認識されており、
特に「協調性」という言葉は悪い意味を帯びていないようです。

しかし「協調性」というのは「雰囲気に合わせる」ということで、
芯になるものが決まらない限り、
どんなものでも「周りに従えば」協調性があると言われると
どこかで信じられていないでしょうか。

アメリカでよく言われる「自由な雰囲気」というのは、
個人として人を取り扱うからだ、ということと同じくらい、
住んでいないからだと思うこともあります。
住んでいても永住権がなかったりします。
代わりにこの国に生まれ育った人は、必ず近所やいろいろな人から
「協調性」を必要とされているのではないかとも思います。

この国ではありませんが、「ブリジット・ジョーンズの日記」でも
年に一度のホームパーティーが「義理の付き合いだ」と言っています。
この国であれば、仲間はずれにされたくなくて
麻薬に走ったり、年上の異性と早く関係を持ちたがったりしていて、
マイノリティーであることには強い不安を持っているのです。

しかし「人が集まることの中にある心地よさ」というものは
確かにあります。
人はどこかで
「一人では生きていけないかもしれない」
と思っているのであって、
社会生活の中では有形無形の協力が必要になってしまっていて、
たくさんの人に認めてもらえるほうが生きやすいのです。

しかし「生きていく」ということと
「自分を持つ」ことは本来は別のことのはずであって、
マイノリティーになったら、それはそれで生きていくのです。

少数派は、たくさんの人には認めてもらえないかもしれませんが、
非常に好きになってもらえる可能性を持っているのであって、
それで何も文句ないじゃないか、と思うのです。

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