木曜日, 5月 12, 2005

すこしまじめに、死生観について

夕ご飯にカツとから揚げを頼んだら
ちょっと多すぎました。
缶コーヒーばかり飲んでいます。

自分の中で最も、という事は1つしかないものです。

「最も」尊敬するボスが亡くなられました。
病気によって、というよりは
体力が持たなかったのかもしれません。

一ヶ月ほど前からお見舞いに行っていました。
心配でお見舞いに毎日押しかけている、というのは
まるでお別れの準備をしているみたいに感じるのが嫌だったので
時折顔を見に行くよう努めるのが精一杯でした。

この1ヶ月、仕事を続ける理由について、自分の生き方について
毎日のように自問してきました。

研究をするものは「ライフワーク」と言って、
ひとつの研究分野に自分の研究人生を賭けているところがあります。
それが好きでもあるし、大切でもあるし、
しかし先が読めない仕事として辛いところもある、
そんな気持ちを混合したようなところで
ルーチンワークには生涯ならないようなことをしています。

わたしが研究所へやってきた3年前の5月にも
尊敬する研究者が若くして亡くなりました。
あの時は何もしてやれない自分が情けなく、
悔やみながら日々を過ごしてきました。
だから余計に、今のボスの元での仕事は
できるものは何でもやろう、と思ってきました。

ボスが別のプロジェクトに駆り出され、
見よう見まねで今の研究を引き継ぎ始めて1年半になります。
駆り出された先は時限付きのプロジェクトだったので、
3年から5年すれば戻ってくる、
だからそれまでは持たせていかなければ、と思っていました。

わたしはもともとそんなに決心が強いほうではありません。
弱音を吐いたことが何度もあり、
自分が情けない日が何日もあり、
途中で投げたくなることが何度もありました。
誰でもそうなんだよ、と励ましてくれる人もいてくれるのですが、
自分の無力さは自分が一番良く理解しているものです。

それでもこの世界にしがみついていられたのは、
ボスが戻ってくることを心から待ち焦がれていたから、というのが
大きな理由のひとつになっています。

亡くなってしまったら自分は涙を流し、
辛い気持ちを抱えたまま毎日を過ごしていくのだろうか、と
思ってきたのですが、
その日が来ても泣くことはありませんでした。

生きた人の痛みや辛さを思って涙を流すことはその人にも通じますが、
亡くなってしまった人そのものに直接してあげられることは
本当はもうひとつもないのです。

人に報いることは、
病の床で旅立つことを見守ることよりも、
生きている間にその人の願いを叶える努力をすることでありたいと
思います。

このまま終わっては悔しいじゃないか、と
ボスと話した一言が頭に焼き付いていて、
今はただ仕事を前へ進める以外のことが思いつきそうになく、
こうしてマシンに向かっています。

生の終わりには本来生の終わり以外の意味はなく、
それ以外の意味を考えようとするのは残された者たちなのですが、
わたしにはそのボスが生きようとしていた生き方と
これからどう付き合っていこうかと考えています。

わたしにはボスを生き返らせることなどできない存在です。
たくさんの人に慕われ、愛されたボスだったので、
わたしの思いもその中のほんの少しなんだろう、と思います。

でも彼の生き方にわたしが習い、
彼が好きだったものを共に好きでい続けることで
わたしには彼にできることが
まだほんの少しでも残されていないだろうか、と
こんなことが頭に浮かびます。

わたしには今までどおり毎日を
きちんと過ごして行こうと思います。
ボスは、君が向かう方向と発想は間違っていない、
あとは時間と経験が積み重なれば良いだけだ、
と言ってくれていたからです。

彼に地上での形があろうとなかろうと
そんなことはあまり大きな問題ではなく、
わたしにはまだ彼を慕わなければならない時間が
これから先にたくさん残されているのです。

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