木曜日, 3月 31, 2005

緑色が好きなのを思い出しました

偕楽園そばの公園にコクチョウがいました。

くちばしが鮮やかな赤色です。

最初に好きだと思ったいろは緑色です。
それで緑色を意識した服を選んだりするのですが、
どれもあまり似合いませんでした。

自分が好きな色については
ずいぶん長いこと模索してきました。
自分以外の人が色をどう捕らえているかというのは
とても興味があります。

次に好きになった色は赤でした。
赤が好きだという人がいたからです。
いろいろな形で赤を手にするのですが、
しかし自分が持っているものが赤い必要はあまりなくて、
その人が赤い色を似合うようにつけていれば良いのだと
だんだん思うようになりました。

その次に好きになった色は青でした。
青はなんとなく男性的な色だと思ったからです。
それでいろいろな形で青を手にするのですが、
どれも青単色では今ひとつ似合わないな、というところへ
行き着きました。

黒には一番最後に行き着きました。
しばらくはモノトーンの服ばかりが集まり、
しかし黒にもいろいろな違いがあることに気がつきました。

それで色探しの旅は一段落し、
自分に似合うと思う色は黒になったのですが、
周りにあるものでは緑が好きだということを思い出しました。

メディア・アート展でのサイトで、
世界中の人に「どんな色が好きか」とアンケートをした結果があって、
みな面白いほどに青が好きでした。

赤は情熱の色だといわれていますが、
青い色のほうが色温度は高いのです。

水曜日, 3月 30, 2005

ノーベル賞にはしごをかけられるか

食べ物はあまりまとめて買いませんが、
時折本をまとめ買いします。
面白そうな本、というのは
なんとなく目に留まっていて覚えているものです。

小柴さんの研究半生を綴った本、
「物理屋になりたかったんだよ」を読みました。

例えば、研究をしていると
「その研究はノーベル賞取れる?」と聞かれることが時々あります。
ノーベル賞というのは誰もが知っている賞という意味で
インパクトがあるものですが、
受賞の対象となるには
「核となった研究が大きな結果を生んだ」
という後追いの風が必要だということはあまり知られていません。

林檎が欲しい、と思えば
今ならスーパーに行く、という具体的な行動を思い浮かべますが、
ノーベル賞が欲しい、と思っても
いったい何をしたら良いかはあまり良く分かりません。
この意味で、ノーベル賞という言葉は通常抽象的なのです。

ノーベル賞を取るためには、「その前段階」が必要です。
おそらくそれは「研究成果」を上げるという梯子が必要です。

ところがこの表現でもまだ抽象的で、
「研究成果」を上げるためには、
「研究を支えるための実験装置や人材」が必要です。

さらにこの表現でもまだ抽象的で、
「研究を支えるための実験装置や人材」を得るためには、
「それに至る実績と新しいアイデア」が必要です。

まだまだ説明を具体的に掘り下げていくと、
「それに至る実績と新しいアイデア」を得るためには、
「実績を上げる努力と時間」が必要です。

「新しいアイデア」はなんだかひらめきのように思われますが、
実際には実験の結果を見ながら練りあがってくるようなものです。
そのためには小さな仕事でも良いから
自分の手でやってみる、というところが
最初のスタートであるように思います。

目の前に林檎がある、という状況があって、
その林檎からスーパーの名前しか思いつかないか、
あるいはその林檎から宇宙の成り立ちを想像できるか、
その違いは大きいものです。

火曜日, 3月 29, 2005

私たちは、みかんの皮を新しく発明しました、と言っているにすぎない

先週後半は野田の東京理科大まで
物理学会を聞きに行っていました。

カモミールのお茶で一息入れました。
Windowsのショートカット本とかを買って
少しパソコンをさわるのが楽しくなってきた今日この頃です。

ちょっとおやつに、と思って
でこぽんを持って行きました。
みかんは大きかったので手に持ったまま行ったのですが、
オレンジの皮は見た目に鮮やかだし、
皮は柔らかいので包丁はいらないし、
皮は自然に帰るので帰りは手ぶらだし、
ただの皮なのですがとても便利だと思いました。

エコロジーというのは、
流行としての側面と必要性としての側面から成立した分野だと思っています。

必要性というのは、資源が少なくなった、というよりは
「ものを捨てる場所がなくなった」ことに起因するものです。
例えば仏壇であれば、手放すときに「お焚き上げ」という儀式を通して
仏壇を「捨てる」ことができるのですが、
今の世界では物を手放す場所が「ゴミ箱」しかない状態で、
捨てること自体に罪悪感を感じてしまうことがよくあります。

例えば結婚式では引き出物は大きくて重いほうが良いとかいうと、
なぜか食器セットだったりするのですが、
普通の人付き合いをしていると、一人暮らしなのに
食器セットが3つぐらいあったりして、
なんだか困ってしまいます。

それでいてこの食器、お祝いの気持ちが入ってしまっているので
自分の手で粗大ごみに出すという連想ができず、とりあえず
食器棚の中に箱ごとしまわれていたりします。

大なり小なりこれはみんなが困っている出来事だと
わたしは考えているのですが、
それでも「縁起」を大切に、の一言で押し切ってしまう世界は
お幸せなようないびつなような感じがします。

もちろん縁というものは大切にしたいもので、
自分ではどうしようもない「他力」の世界に敬意を表すための
縁起の考え方は人として自然だと思いますが、
人間という実体が幸せになるためには
縁起で押し切ってはいけないものもまだあるんじゃないか、というのが
遠回りした今日の感想です。

水曜日, 3月 23, 2005

人が想像力を働かせられる限界が、国なのかもしれない

いくら世界の裏側にも人がいて、
人間のしての営みを送っているとしても、
自分の目で見たり聞いたりしなければ
どうしても信じられない人というのはたくさんいるものです。

すべての人が、想像力だけで世界を理解できるほどの
力があれば、地球というひとつの国が成り立つかもしれません。
しかし現実は、小泉さんの日常生活がわたしの日常生活には
影響を及ぼさないし、
日々の行動を決めているのはわたしに近い人たちとの関係によって
生まれているもので、
そういう中から「世界を意識する」のは
どうやっても難しいものなんだと思っています。

大きな力で、一度に物を動かしてしまえれば
話は割と単純なはずなので、
多くの人が「政府がよい案を出せばもっとよい生活ができる」と
連想するのは無理もない話です。
実際に不正などが起こっていれば、余計にそういう気持ちは
高まります。

だからといって、全ての不都合さを政府に求めるのも
また難しい話です。
政府は「遠い親戚」のようなもので、
個人に個別に働きかけるようなデリカシーはないからです。
「腰が痛いので政府の人に揉んでもらう」という連想は無理なのです。

戦火の中でも平和を願う集団は存在したし、
バブルの中でも生活が大変だった人もいるし、
世の中の大きな流れと自分の流れというものが
完全には同一ではないということの中に、
幸せもあれば苦しみもあるような気がしています。

「世界は小さくなりました」が文明化の合言葉でしたが、
もう20世紀も終わってしまったので、
改めて「世界は大きく難しい」と言ってしまおうと思っています。
質量で言えば、地球は人の10の23乗倍も重いのです。

土曜日, 3月 19, 2005

生産力は既に過剰である

近くの空き地に桜が咲いていました。

紅梅の苗木がひとつ欲しいなと思う今日この頃です。
この間実験植物園で見た
不思議なサボテンの木も1本欲しいです。

もったいないの言葉を残そう、というニュースがありました。
使えるものは再利用しよう、という試みは
地球の資源を無駄遣いしない、という意味で重要です。

でも、と思います。
生産する仕事がなくなる人はどうしたら良いのでしょうか。

機械の力によって、
人はものすごい生産力を身につけてしまいました。
それによって世界中に物を売ることになったのですが、
需要がないと売れません。

アインシュタインの本の中に、
手段は完全になったのに、肝心の目的が分からなくなったところが
今の世界の特徴でしょう、というくだりを見て、
なんだか似ているな、と思いました。

もったいない、だから物を大切にしよう、
しかしそれでは仕事のない人が増える、とするならば、
仕事が欲しい人は生産によって食べていけないか、と
単純に発想するのも仕方がないと思います。

これまでの信号電球の交換費用を頼りに事業を続けていた人たちが、
ダイオードランプが信号に使われると寿命が延びすぎて困る、として
故意に寿命を従来の10倍に押さえたのだそうです。
気持ちは分かる、とするのか、
そんなことは許されない、と思うのか、
意見は分かれます。

しかし今まで国にぶら下がってしまい、
新しいものを開発する努力を欠いてしまったことは
認めなければいけません。

生産力を落としながら、それでもたくさんの人が生きられるようになるために、
情報産業や科学、発明、芸術、文学などは
決して機械に代替できない想像の世界として
これから大きくなっていくと考えられます。

金曜日, 3月 18, 2005

たとえ確率は1/2でも

でこぽんが送られてきました。

実に甘くて大喜びです。

風杜さんの紹介してくださった
「旅する哲学」の読書は後半へと差し掛かりました。

都市生活がもたらす、
労働力の集約による生活の便利さ、
しかし
人が自然と手を繋ぐすべを失ってしまうことによる、
自己の不明確化と精神の不安、という問いかけとその答えについて
冷静に書かれた内容は、
こういう助言を心から待っていたんだ、と感じるのに
十分すぎるほどでした。

わたしにはこの本ほどの精緻な内容をレビューできないので、
いつもどおりの日記を続けます。

人にはうまくいくときとうまくいかないときがあります。
うまくいかないことを目の前にすると、
どうしてうまくいかないのだろうとか、
そうして自分は進歩しないのだろうか、と
自己嫌悪に陥ったりすることもよくあります。

「マーフィーの法則を読むと、
目の前にあることは常に確率1/2で、
うまくいくか、うまくいかないかだと
書いてあったりします。

どんなに努力しても確率が上がらないのであれば、
いつまでも挑戦の半分は失敗するということになります。

それでは何も進歩していないかというと、
挑戦した半分は成功として残り、
残りの半分は経験として残っていくんじゃないかと
思っています。

全く成功の確率が変わらない二人の人がいて、
二人は挑戦した人と挑戦しなかった人だったとすると、
確かに長い時間をかけても二人の成功の確率は変わらないのですが、
成功した数と経験した数が変わってきます。

そして成功の確率が変わらないとしても、
挑戦した人は新しく挑戦する数が減り、
成功する方法を選ぶことができるようになっていきます。

どんどん新しいことに挑戦しなさい、という人がいて、
しかしこの台詞にはどこか説明し忘れた箇所が残っているようで、
それが何であるかをずっと考えていました。

それは、挑戦して得た結果は、再利用でき、
2回目はずっとうまくいくようになる、ということではないかと
思うのです。

情報の価値は再利用ができるかどうかで決まる、というところに
最近注目しています。
挑戦には、その結果を再利用することで
たくさんのおまけがついてくるのです。

清水國明というひとがいて、
多芸多才でたくさんのことに挑戦し、
アウトドア生活やバイクレースなどを経験しています。
しかし、彼が話す
「常に新しいことに挑戦していきたい」という言葉は、
格好はよくて、しかし時々振り返る勇気を忘れてしまうのではないかと
考えています。

今年の目標は、再利用ができる基礎固めです。

水曜日, 3月 16, 2005

アンプを下さい

実験のデータ整理を始めています。
時間が許すのならゆっくりデータと付き合いたいのですが、
他の仕事も重なってくると
どうしても急いで仕上げないといけない
切迫感に駆られます。

どんなにがんばっても、
人ひとりの活動量というのは限りがあります。
例えば労働的に言えば、
人力飛行機で離陸するのにおよそ300Wぐらい出しています。
ターボドライヤーの1/3ぐらいしか出力されないのです。

大きな事を始めようと思うと、
自分の行動を増幅する必要があります。
手紙は全国に届きますが、
郵便局があるから数千キロ離れたところに届くわけです。

パソコンや電話も増幅器のひとつです。
計算をしてくれたり、遠くに声を飛ばしたりできます。

プレゼントも増幅器のひとつです。
自分の想いを形にして渡すことができます。

なんだかとても当たり前のことを書いているようですが、
自分が人ひとり以上のことをしたいと思うのであれば、
身近にある装置は自分の意思の「増幅器」である、
という認識が必要だと思っています。

火曜日, 3月 15, 2005

本はなぜ必要か

気分や状況に関係なく、
いつでも好きだと思うものやことがあります。
水をよく吸うタオル、霧吹き、シャワーを浴びること、
パッションフルーツ、火を起こすことです。

今日は炭の火に当たれて幸せな気分でした。

情報化社会、という言葉は現代を表す言葉として
広く使われていますが、
情報が必要ではなかった時代なんてそもそも存在しないのではないか、というのが
最近の感想です。
どんな時代でも、自分の経験から導かれたことを伝えることに成功したものが
次の世界を作っていけるのだと思っています。

今日はメディアの話です。
この日記はネットを通して人に伝わりますが、
紙に纏められれば本になります。
ネットで本が探せます、とはよく言いますが、
それなら本の中身をデジタル化して見られるようにすれば良いじゃないか、と
時々思っていました。

確かにどこでも見られるという点では
ネットで見られるのは便利なことですが、
移動中の車内でパソコンを持ち歩くわけにもいかず、
液晶の画面はまだ紙の印字よりも読みにくいので
自然と本を選ぶようになります。

もうひとつは、機械はどこかに「壊れるかもしれない」という心配が
残っている気がするのです。
本はページが折れ曲がっても読めますが、
機械はデータが読み出せないと修理する手段がすぐ手に入らないのです。

ということは、安心して使える情報端末に必要な条件の一つは
「どんなに手荒く扱っても壊れない」という安心感であると考えます。

G-SHOCKが好んで使われるようになったのは、
機械でありながら極めて壊れにくい条件を持てたからだとも言えます。

もうひとつは、ページをめくった量によって
自分がどれだけ読んだかを質量的に把握できることにもあります。
人は五感によって知覚できることを重視するからです。
情報端末は勝手に質量が増えたりしません。

本は質量によって情報を支えているために必要とされるのであり、
デジタルデータが質量を伴って知覚されるようになるまでには
もう少し時間が必要かもしれません。

木曜日, 3月 10, 2005

調停方法としてのお金

小さな新幹線が雑誌「ラピタ」についていました。

九州新幹線も登場するそうなので、
今から楽しみにしています。

法律事務所の人と話をしていて、
そもそも裁判ってどういうことなのか、と聞いたところ、
民事の最終的な判決は全てお金で表現される、
という一言を聞いて、
当たり前のようでありながらとても驚きました。

つまり、さまざまな利害という実体を
お金という単位を用いて「換算」し調整するであって、
刑法のような善悪の判断、というものとは
性質がまるで異なるのだ、ということが分かったのです。

物理の式は常にイコールをはさんだ左辺と右辺は
同じ次元を持っているという決まりがあります。
鉄の1キロと綿の1キロはどちらが重い、というなぞなぞがありましたが、
これと同じです。

会社を買収する話があって、
「何でもお金で買えば良いのか」とも思ったのですが、
確かに会社を買収するのにはお金以外では買収できません。

ただ、なぜ買収劇をよく思わない連想が働くかというと、
気持ちの奥底に
「ただ上層部が儲かり、社員を働かせるためだけに
買収するのではないか」という心配がよく当たっているからです。

会社が利益を上げなければならないのは、
会社はその活動によって社会に貢献しなければならないからです。
ただお金を貯めて早くリタイアするためのものではありません。
その意味で私欲の大きすぎる社長は非難されるべきです。

社会に貢献しない会社はもともと必要がないのです。

ではお金で会社を買うことがよくないかというと、
善意を持って使う人のために
会社をお金で買うというシステムが必要なのです。
もし何をもってしても買えない、というものが会社であれば
それはそれで独占的でありおかしいのです。

放送会社の買収劇、それに反発する市場と議会、
どちらの良い分もよく分からないのは、
それらの行動が「どのような社会貢献」をもたらすかという
明確なビジョンがないためです。

100億であろうが100円であろうが、
わたしたちは自らと社会を共に幸せにするために
お金を使うのです。

水曜日, 3月 09, 2005

心に風邪を引いた日本人

今週はシミュレーションばかりしています。
シミュレーションの世界は本当に計算機だけで閉じていて、
神様が箱庭で遊んでいるような気分になります。
しかしパラメータを少しでも入力し間違うと、
「この世にはない」物理の世界をシミュレーションしてしまうことも
時々あります。

第2次大戦以降、日本人は心のどこかで
風邪を引いたままでいたように思います。
どんな規則も法案も、
統治国アメリカの顔色を伺いながら決めてきたところが
あると感じるからです。

そして統治国であったことをよいことに、
アメリカは自国にとって都合の良い政策をとって
日本を経済発展させました。
ゆとり教育、労働時間の短縮、関税自由化など
ことあるごとにいちゃもんをつけては
日本を手なづけようとしたのです。

いくつかの誤算は、あまりにも経済復興がうまく行き過ぎて
経済摩擦を招いてしまったことと、
離れた島国ゆえの国民性は変わらず残ってしまったことでしょうか。

さて、イラク戦争後、アメリカの態度は一変しました。
友好的で、評価が高くて、文化を重んじる、
そんな表現ばかりがマスコミに並ぶようになりました。
ハリウッドの映画スターも多数来日するようになったし、
なんだか狐につままれたような毎日を過ごしています。

郵政民営化、株式の市場開放、族経営の終焉、
アメリカ風邪が治った日本には
やるべきことと見届けることがたくさん待っています。

火曜日, 3月 08, 2005

北を忘れて何が悪い

打ち合わせに出ると話さなければならないテーマが
いつもたくさんあります。
腕を組んで悩み続けるよりずっと健全ですが、
ひたすら体力を使います。

太陽の周りを地球が回っている、というのは
地動説の考え方です。
何かのニュースで、「太陽が地球の周りを回っている」と思っている
小学生が何割かいたという報道があり、
「学力低下」という言葉が頻発していました。
違和感を感じていたら、やはり同じように発想した方がいました。

http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/2787045

厳密なケプラーの定理を用いて物理的に言えば、
重力場での2体運動は、太陽も地球も、
お互いの周りを回っている、というのが正解です。
ただ質量差があまりに大きいため、
太陽が静止した系で取り扱ったほうがよく精度が出せる、というだけの
話です。
だから太陽が地球の周りを回っていると発想したところで
何の間違いもありません。

聞き伝えの常識でしか物を見られなくなった大人の学力低下のほうが
よっぽど心配です。

人間は環境に順応していく生き物です。
地下鉄を降りて目的の場所まで行くのに、
案内の地図が貼ってありますが、
あの地図は全く北を上に意識して描かれていません。
車に乗らない限り、建物を探すのに方位はあまり重要ではなくて、
分かりやすい路地に合わせて発想するほうが楽なのです。

ゆえに、都会でうまく生活するようになると、
北がどちらかという発想を捨てることが必要な局面が出てきます。
同じ報道の中で、太陽がどちらから昇るかを答えられないと
いう情報も付け加えられていましたが、
原因は同じです。

生きるために知らなければならないことというものが
あまりにも増えすぎたら、
それは生きるための制約条件なのであって、
人間が幸せになるのを妨げていく可能性が十分にあります。
全ての生き物は
生まれてすぐには本能以外の知識を持たないのです。

月曜日, 3月 07, 2005

デザインで何かを選ぶ

へらを買いました。
お菓子のクリームやすり鉢のゴマペーストをきれいに取れる
あのへらです。
小学生のときになぜかへらをお小遣いで買った記憶があって、
久しぶりにへらが使いたくなりました。

今夜はミートソースの手打ちスパゲティです。

携帯電話を替えようと思い立ち、お店に行きました。
契約している途中で、
この電話は取り扱いエリアが九州なので
その店では機種変更ができないと言われてしまいました。

第3世代と呼ばれている携帯電話に市場が切り替わっている
過渡期の状態のようで、
FOMAでも少なからず最初はトラブルがあったといいます。

新しい機能に乗り換える、ということも重要だったのですが、
最近はデザインの良いものを意識して選ぶようにしています。
何かを選ぶ基準というものがあって、
その基準はさまざまあるはずなのですが、
自分にとって一番「当てになる」最近の基準は、
どうやらデザインのようだと気がつきました。

金曜日, 3月 04, 2005

忙中閑有り

デスクには万年筆が置いてあります。

万年筆は上手に取り扱わないとインクが飛んでしまいます。
心を落ち着けて文字を書こう、と
思っていることが必要です。

良い言葉を知りました。
「忙中閑有り」というので、
世俗が忙しそうに見えても、そのどこか、あるいは自分の心の中には
余裕が生じているものだ、という意味に捉えました。

人前でスピーチをする手前の数時間を考えてみると、
人前に出る前に自分のテンションが低かったり、
頭の中でうまくいくイメージが湧いてこなかったりすると
よく焦ります。
この状態を引きずったままスピーチが始まったら
本当にうまくいかないんじゃないかと心配するからです。

それで一生懸命テンションを上げようと自分をせきたてて
瞬間湯沸かし器的な緊張感を持たせてみるのですが、
それでテンションが上がっても、
完全にベストな状態にはなかなかなれません。

加速器はいくつかの性質の違う加速器を繋いで使います。
低エネルギーの状態から高エネルギーの状態まで、
それぞれにあった加速器を通しながら
順序良く荷電粒子を加速していくのです。

その様子を見ながら、
超高エネルギーの世界でさえ
順序良く手順をたどる必要があるのだから、
自分の気持ちも少しずつ持ち上げらればいいんじゃないか、と
最近思うようになりました。

インスタントラーメンは確かにお湯を入れて3分で出来上がります。
でも工場のラインの上では、
普通のラーメンよりはるかに多くの工程と
長い製作のべ時間がかかっているのです。
そういう意味ではちっともインスタントではありません。

何かを高速に処理するにはそれなりの「仕掛け」が必要で、
その仕掛けを作るのにはやっぱり時間がかかるのです。