木曜日, 3月 10, 2005

調停方法としてのお金

小さな新幹線が雑誌「ラピタ」についていました。

九州新幹線も登場するそうなので、
今から楽しみにしています。

法律事務所の人と話をしていて、
そもそも裁判ってどういうことなのか、と聞いたところ、
民事の最終的な判決は全てお金で表現される、
という一言を聞いて、
当たり前のようでありながらとても驚きました。

つまり、さまざまな利害という実体を
お金という単位を用いて「換算」し調整するであって、
刑法のような善悪の判断、というものとは
性質がまるで異なるのだ、ということが分かったのです。

物理の式は常にイコールをはさんだ左辺と右辺は
同じ次元を持っているという決まりがあります。
鉄の1キロと綿の1キロはどちらが重い、というなぞなぞがありましたが、
これと同じです。

会社を買収する話があって、
「何でもお金で買えば良いのか」とも思ったのですが、
確かに会社を買収するのにはお金以外では買収できません。

ただ、なぜ買収劇をよく思わない連想が働くかというと、
気持ちの奥底に
「ただ上層部が儲かり、社員を働かせるためだけに
買収するのではないか」という心配がよく当たっているからです。

会社が利益を上げなければならないのは、
会社はその活動によって社会に貢献しなければならないからです。
ただお金を貯めて早くリタイアするためのものではありません。
その意味で私欲の大きすぎる社長は非難されるべきです。

社会に貢献しない会社はもともと必要がないのです。

ではお金で会社を買うことがよくないかというと、
善意を持って使う人のために
会社をお金で買うというシステムが必要なのです。
もし何をもってしても買えない、というものが会社であれば
それはそれで独占的でありおかしいのです。

放送会社の買収劇、それに反発する市場と議会、
どちらの良い分もよく分からないのは、
それらの行動が「どのような社会貢献」をもたらすかという
明確なビジョンがないためです。

100億であろうが100円であろうが、
わたしたちは自らと社会を共に幸せにするために
お金を使うのです。

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