水曜日, 3月 23, 2005

人が想像力を働かせられる限界が、国なのかもしれない

いくら世界の裏側にも人がいて、
人間のしての営みを送っているとしても、
自分の目で見たり聞いたりしなければ
どうしても信じられない人というのはたくさんいるものです。

すべての人が、想像力だけで世界を理解できるほどの
力があれば、地球というひとつの国が成り立つかもしれません。
しかし現実は、小泉さんの日常生活がわたしの日常生活には
影響を及ぼさないし、
日々の行動を決めているのはわたしに近い人たちとの関係によって
生まれているもので、
そういう中から「世界を意識する」のは
どうやっても難しいものなんだと思っています。

大きな力で、一度に物を動かしてしまえれば
話は割と単純なはずなので、
多くの人が「政府がよい案を出せばもっとよい生活ができる」と
連想するのは無理もない話です。
実際に不正などが起こっていれば、余計にそういう気持ちは
高まります。

だからといって、全ての不都合さを政府に求めるのも
また難しい話です。
政府は「遠い親戚」のようなもので、
個人に個別に働きかけるようなデリカシーはないからです。
「腰が痛いので政府の人に揉んでもらう」という連想は無理なのです。

戦火の中でも平和を願う集団は存在したし、
バブルの中でも生活が大変だった人もいるし、
世の中の大きな流れと自分の流れというものが
完全には同一ではないということの中に、
幸せもあれば苦しみもあるような気がしています。

「世界は小さくなりました」が文明化の合言葉でしたが、
もう20世紀も終わってしまったので、
改めて「世界は大きく難しい」と言ってしまおうと思っています。
質量で言えば、地球は人の10の23乗倍も重いのです。

0 件のコメント: