金曜日, 7月 29, 2005

ネクタイ姿でケーブルを張る

文書を作るときにWordをなんとなく使いたくならないのは、
文字を打ったときの反応がコンマ数秒遅れるからだと思っています。
反応の遅い装置で仕事をすると、
なんとなく発想も遅くなってしまいそうな気がするのです。

仕事の効率、という言葉と一緒に
よく「時間単価」という言葉が出てきます。
労働作業は続けると気持ちがすっきりするので
ケーブル張りをしたりするのですが、
「任せられるものは任せてしまいなさい」と
時々上のほうから指示が飛んできます。

確かにケーブル張りは
電工の専門家に頼んだほうが早くて正確です。
ところが電工さんを頼むのに手間がかかり、
細かくケーブルの経路を説明するのに時間がかかり、
日中のスケジュールの調整をするとあっという間に
数日なくなってしまいます。

つまり外注にすると
小さな仕事ではオーバーヘッドが無視できなくなるのです。
見積もりの時には
このオーバーヘッドを勘定に入れることが大切です。

「プラグマティズムの徹底した国」とは
ある先生の言葉ですが、
アメリカでは分業すると決めたら徹底的に分業していて、
これは「相手の仕事をしてはいけない」という意味にもなります。
それで膨大なオーバーヘッドを抱えることになります。

なんでも自分でやる、
なんでも外注する、のどちらにも最適解はなく、
その判断に多くの知性が要求されるようです。

月曜日, 7月 18, 2005

週末記録

寸胴鍋いっぱいにスープを取り、
半分に煮詰め、
デミグラスソースを加えて
ビーフシチューを作りました。

奥行きのある味にするには
いくつか鍵になる材料があります。

日曜日, 7月 17, 2005

新しいことを覚え始めた時に、なぜか弱くなる

JR鳥栖駅のかしわうどんです。

薄めのだしにかしわが乗って290円です。

今日のタイトルは
自分の中では結構いい表現を見つけたと思っています。

「知は力なり」「ペンは剣より強し」といっても、
それより知ることの難しさを思います。

漫画が好きで見よう見まねで描いていたら
クラスの話題になった男の子がいたとして、
勢いでアニメーションの世界に飛び込んだけれど
うまく行かなくなった、とかいうのに似た話が
ちらほら聞かれることがあります。

お笑いの番組を見ながら、
きっとクラスの人気者が嵩じてこの職になったのかな、と思うと
意外とそうではなかったりします。

中国語を真面目に始めています。
それまでは漢文調のイメージで中国語が書けていたらしいのですが、
文法をやり始めると途端に書けなくなってしまいました。

恋をするまでは、どんなことも
涼しい顔で通り過ぎることができたのに、
恋をし始めた途端にいろんな感情につまずく自分がいて、
恋は人を支え強くするものだと思っていたのに、
なぜ恋をすると弱くなったような気がするのだろう、と
思ったことがあります。

自分が弱くなってしまう、と感じることが怖くて、
恋の感情を心の隅へ押し込めてしまう人も
きっといるのだと思います。

自転車は乗れるようになるまでに
ずいぶん転んでけがをしますが、
ちゃんと乗れるようになると
今まで行けなかったたくさんの場所へ
自分を連れて行く助けになります。

新しいことを始めること、というのは
言い換えると「不安定性を受け入れる」
ということかもしれません。

機械では新しい自由度ができるたびに
共振の周波数が一つ以上発生します。
この共振点を通過するまでは不安定な動きをする機械ですが、
より高い周波数では安定になります。

一度新しいことを始めたら、
それが自分にとって強くなるためのものになるまで
少し時間をかけてみると良いのかもしれません。

ブルートフォース

研究テーマを出してくれた
弓道が趣味の60代の先生がいて、
最近の仕事スケジュールの忙しさを
「昔は学生と一緒に弓を引く余裕があったのに」
と表現していました。
今思えば先生の「昔」は30年ぐらい前のはずなので、
1970年代ということになります。

どうも日本には戦後のどこかで
一息ついた時代があったようなのです。

ジュリアナに行ってみたかった、と話す先輩もいますが、
忙しくて何かに追われて幸せではない日本のイメージ、とは
バブル期にちょうど重なるのではないだろうか、
そうするとバブル自体が幸せな時代ではなかったのではないかと
最近思っています。

「ブルートフォース」という言葉を
聞いたのは研究所に来てからのことです。
わたしのアプローチを見る人は、
それはブルートフォースなやり方だけれど、と
意見をもらうことがあります。

ブルートフォースを調べてみると、
「全ての組み合わせを試すこと」という意味が含まれた言葉で、
ネットワークに侵入する時のパスワードを
全ての場合について力技で試すところからきているそうです。

国語の教科書に載っていた一節で
チンパンジーとオランウータンの行動パターンの違いが出ていて、
ある課題が与えられると
チンパンジーは総当りで試すけれど、
オランウータンはじっと考えてから試す、というところを見て、
わたしはチンパンジーのタイプだろう、と
友達に言われたことがあります。

思いついたらまず動いてみる、というのは
熟考して一手を打つ方法よりも
ずっとスマートではないのだと思います。
でも、できればこういうブルートフォースなやり方にも
何か良いところがあればいいなと願います。

たった一人の心理戦

ホットケーキを焼く匂いが好きで、
不思議と自動的に幸せな気持ちになれます。
そんなわけで出張先の朝ごはんで
パンケーキが出ていると嬉しくなります。

この数ヶ月、
一人だけで考えていることがいくつかあります。
悩み事、というのは
ある程度方向が見えるときには人に話せるのですが、
自分でもどう扱ったらいいか分からないときには
話せないものだったりします。

人から見ると考え事をしている時は
ぼんやりしているように見えるのだそうですが、
本当にぼんやりしている時も半分ぐらいあります。

自分の心と戦うことがあります。
臆病になって逃げたくなる気持ちが出てくると
無理やり押さえ込んで一歩前へ出ます。
本当の敵は自分自身の中にある、という言葉が
最近特に現実味を帯びて感じられるようになっています。

しかしもう少し踏み込んで考えると、
戦って勝つよりは戦わないで勝てる方法があればより良いのであって、
恐怖心そのものを小さく消してしまえないかと思ったりしています。

木曜日, 7月 14, 2005

中に入れているものと鍵の大きさ

書きたいテーマその8。

月曜日, 7月 11, 2005

表現するために勉強する

在庫管理という考え方があって、
「できるだけ多く持つ」ことが必ずしも
良い結果を生まないという前提で行う考え方が
結構気に入っています。
どんなに高級な飛行機でも、
プライベートビーチまでは積んでいないのです。

なぜ勉強しなければならないか、を
問われて、きちんと答えられるか?という「質問」が
よくメディアには登場します。
そのメディア自体は、実はその「質問」に対する
「回答」を準備していない場合がほとんどで、
なんだか禅問答のように考えさせられ続けるが、
答えが曖昧で勝手に申し訳ない気持ちにさせられてしまう、
どうにもたちの悪い質問です。

比較として少し違う点を挙げると、
禅問答にも何らかの回答は準備されています。 
そしてその回答が準備されたものと異なっていても、
筋が通っていれば正解です。

わたしは「大人のひと」からよく
いたずらにこの類の質問をされてきた気がしますが、
あまり当を得た回答を聞いたためしがありません。

ずいぶん前に知り合った友達の話で、
「いい人間」という表現はあるけれど、
「大人」という表現はない、ということを
聞いたことがあります。
大人といっても良いひとも悪い人もいる、
だから大人と呼ばれるからといって
それ自体にあまり意味はない、という
表現だったと思います。

勉強する意味については
現時点では次のような答えを持っています。

生きるというのは情報の受け渡しでできているもので、
それは遺伝子であったり文化であったり
さまざまなのですが、
地球に対して十分小さな個々の存在が生きていくためには
その仕掛けが分かっているほうが生きやすいのです。

第1次産業だったら勉強はいらないというのも
全く正しくなくて、
自然を観察する力が必要で、
よく実る方法を蓄積していかなければなりません。

芸術だったら勉強が必要ないというのも
全く正しくなくて、
個展を開くには社会のシステムと
少なくともコンタクトを取る必要があるし、
予算を集めるのには企画力が必要です。

他人と「何らかの方法で」情報をやり取りする手段として
文字の取り扱いは必要だし、
物の取り扱いのために数学が必要です。

そしてそれらの結果を伝える表現方法が必要なのです。

「社会契約論」という言葉がありますが、
社会を人が創造によって作りだし、
それに縛られるようになったのではなくて、
人はもともと社会を作って生活する性質のために
さまざまな関係性が勝手に生じてしまう生き物なのです。

知性のため、ホワイトカラーのため、の
いずれも正解ではなく、
人という生き物がその時代で生きていくために
世界の仕掛けをその都度覚えていく、ということが
「勉強」をする意味なのだと考えています。

日曜日, 7月 10, 2005

新聞記者が大量のメモを取る

Bloggerの日記は便利で、
自分のブログには
「閲覧ページから書き込める」アイコンが現れています。

TBS「文化遺産」を録画していたら
20話分ぐらい集まりました。
お気に入りはイスファハーンです。
瑠璃色の石細工で埋め尽くされたドームを見てみたいです。

おばあちゃんの知恵袋は、
聞いたら何でもそらんじて教えてくれるイメージがあるし、
物語のヒーローが
何か行動を起こす前に調べ物をしているイメージはありません。
その場ですぐやってくれる、
この姿に人はいつも憧れるものなのだろうと思います。

大量の情報を扱う仕事、で
思いつくのは新聞記者で、
とんでもない記憶力を持った人たちが
魔法のように言葉を紡いでいくという
印象しかありませんでした。

仕事場を見せてもらって思ったのは、
彼らは「スクラップブック」で情報を集め、
自分の得意な情報を集めている様子でした。
スクラップブックを作る過程で情報が選ばれ、
集めることで仕事の源になっている様子が
良く分かりました。

なんでもメモを取る、ということに対して
結構抵抗はありました。
会話中では話の流れを妨げるわけにはいかないし、
そらで覚えている方がかっこいいのです。

でも新聞記者でさえメモを取るのだから、と思うと
余計なこだわりは少しずつ消えていって、
自分もメモやスクラップブックを用意できるようになりました。

何かを既にできている人を目の当たりにすること、
それは何かを始めるときに生じる
心の抵抗のような壁を取り除いてくれるのに
とても良い効果があります。

金曜日, 7月 08, 2005

小説家=シミュレーションプログラマ

一日計算機でコードを書いていると、
それは日本語として読むことができず、
ほとんど言葉を話すことがありません。
これと同様に、
数式を展開している間も表現できる言葉になりません。

脳科学の本では、
感情は言葉によってできているという
一見逆説的な結論が導かれていて、
言葉にならないものの取り扱いは
もともとかなり難しいのではないかと最近思っています。

「ライフゲーム」とか「セルゲーム」と呼ばれる
自己発展型シミュレーションコードがあります。
格子のます目の中には一つずつライフを入れることができて、
人は初期状態を決められます。
一度決めてしまうと、後は3セル×3セルの情報を1単位として
その単位中にライフが1つだと消滅、
2つだと現状維持、
3つだと増加、
4つ以上だと消滅という決まりに沿って
1プロセスずつ処理されていきます。

このゲームが面白いのは、
うまい初期条件を設定すると、
ライフの発展が見事な幾何学模様を描いたりすることです。

小池真理子「恋」のあとがきを読みながら、
「突然ひらめいた人物設定」のくだりは
このライフゲームの話に良く似ているなと思いました。

小説家はシミュレーション・プログラマと同じだと思います。
短く終わる初期条件もあれば、
長編になる初期条件もあります。
途中で人物に手を加えて設定をかきまぜることで
さらに混沌とした状態を作ることもできます。

しかし小説には終わりがなければならないので、
混沌とした模様の中から最後には規則的な絵柄が現れてきて、
綺麗に消滅するか、
無限維持状態を保つか、
循環状態にするかをしなければなりません。

「人物が活きている」小説は
まるで作者が演者の行動を描写している感じがして、
作者が操り人形のように演者を動かしている感じがしません。

小説家はその心の中で彼らが生きる場所を与え、
あとは脳が自己発展的にそれを追う、
その様子を作者が書きとめていく、
こんなイメージを持つようになりました。

シミュレーションが実験よりも良いところは、
どんなパラメータも意のままに覗けるところで、
小説がドキュメントより優れるとしたら、
日常では覗けない全ての人物の心の動きが
明示的に表現されることにあるのだと思っています。

単色の20世紀

不二家ネクターがとても好きです。

ネクターはnec-が表すとおり不死のニュアンスがあって、
「神様の飲み物」という意味が語源です。
よくこの言葉を見つけたものだと感心します。

日本の夏休みは原爆と終戦で色づいています。

高専にいた頃の歴史のテストは大学のようで、
あるテーマに沿って論を展開しなさい、というものでした。
あるテストで終戦60周年について、という題が出ました。

戦争解釈というのは主に戦勝国側の意見ばかりが通ります。
「レキシ」は人という主観を持った観測装置が
自分のいる立場を含めて人間の動きを記述していくもので、
天体望遠鏡のような主観を持たない観測装置が
天体の動きを追跡するのとはわけが違います。

物理的解釈では
「事実が人の数だけ存在する」ことはありえませんが、
歴史的解釈では容易に成り立ちます。

それゆえ、わたしは今でも
「戦後とは関係のない8月」という意識を
取り払えずにいます。

しかし他の国の1945年をみると、
たとえばバウハウスなどの建築改革が起こっていたりして、
活気にあふれた人々の生活があります。

戦後を見つめることは確かに大切なのですが、
果たして「日本から見た1945年」だけを頼りにして
過ごしていくべきなのかどうかは
改めて考え直さなければならないと思います。

これを思ったのは、
日本が戦後の特需に湧いていた1960年から1970年にかけて、
ベトナム戦争が起こり、文化大革命が起こり、冷戦が起こりと
世界のあちこちで心を痛める出来事が起こっていて、
しかし多くの人が「受験のための暗記物」ぐらいの感覚しか
もてないのではないかと考えたからです。

この傾向は日本に限ったことではなくて、
実際、北朝鮮の拉致事件が大きく取り上げられていたときに、
アメリカの何人かの人にこの事件を聞いたところ、
「その事件は何だ」と聞き返されてしまいました。

自らの地で五感を使って得た情報を元に
人は動いていくものだと強く思います。

ロンドンで起こっているテロがニュースで放映され、
直後にふるさと町便りのコーナーがあって、
その町へ観光へ行くことのほうが現実味を帯びていたりするもの、
それが人間の大きさを表す印なのかもしれません。

ヨロシクオネガイシマス

赤は興奮の色、と
色彩の本には書いてあるのですが、
赤は色温度が低く、
瞳孔に入ると目の緊張が緩む側で焦点が合うのだそうです。

パソコンの壁紙を探していたら
青いものばかりしかなくて、
赤い壁紙を探しています。
なぜか「赤」は仕事場で好まれない色なのかとも思うのですが、
仕事の緊張を解くために赤い壁紙を使ってみます。

メールの書き出しには結構迷わなくなって、
相手の名前と自分の名乗りを入れてから
要件を始めるのですが、
メールの末尾に何を書くか、は
いまだに少し悩んでいます。

「よろしくおねがいします」という一文があって、
なんとなく使いやすくて書いているのですが、
一体何を「よろしく」してもらおうとしているのか
はっきりしないままでいました。

申し送り、作業の指示などのメールの末尾は
「よろしく」でもいいのかもしれません。
ところが事務報告や提案などでは
「よろしく」の意味がぼけてしまいます。

最近不自然な文体で「よろしく」と自分で書く時の心境が
どうも不安定だと思っています。
恐らく何かに息切れしているのです。

画面に現れる文字は全てデジタル文字なので、
形も色も同じなのですが、
書く人の個性がはっきり出ます。
自分を表現するのは難しいけれど、
自分を隠してしまうこともまた難しいと感じます。

「最重要」と「リスクメーカー」

沖縄そばです。

沖縄は豚肉をおいしく食べる文化なので
脂の部分に旨みを感じられる食感が必要です。

今日は似ているものの話の続きです。

最重要課題、とされるものの取り扱いが、
なぜいつも厳重に鍵をかけて閉じ込めた後で
腫れ物をさわるような方法しかないのかが
気になります。

最重要であることと、それが内包するリスクが高いこととは
必ずしも一致しないと思っています。
たとえば、官庁の仕事が止まってはいけないのであれば
普段から組織業務を冗長化してバックアップを作っておけば
何とかなるのであって、
責任を負った人が倒れないようにする、は
あまり優れた解だとは思いません。

長嶋さんが五輪野球の監督になって、
ほとんど神様のように扱われてたのは
別に構わないのですが、
倒れるまで責任を負わなければならない、というのは
やっぱりかわいそうな気がします。
そこまで尊敬するのであれば、
なぜ彼の肩代わりをしようとしないのかが
わたしには理解できないのです。

困ったときの神頼み、とはよく言いますが、
日本人には「人間を超えた存在」としての
神という概念はほとんどなく、
「神技」的な能力を持つ「現人神」のような人間、
というのが知覚できる最高の存在だと思います。

信じる存在としてよく似ているのですが、
西洋的な神は形がないゆえに心を支えて、
信じる者自身に力が与えられるのに対し、
現人神は形があるゆえに現実を変える力が与えられていて、
信じるもの自身の願いを本当に叶えてくれないかという
即物的な願いになってしまいます。

この国が「他人に」求める人間の質は
西洋よりもはるかに高くて、
人間以外のものに心の支点を置かない限り
人間そのものが苦しい思いをすると感じています。
かといって西洋的な神を取り入れたところで
それは木に竹を接ぐような作業だとも思っています。
なぜそういう神を作り出すまでに至ったかが
日本の中だけで知覚できる発想では
理解できないと考えるからです。

「科学信仰」という言葉があって、
科学の援用結果を丸ごと信じてしまうことを指します。
「絶対に正しい」というのが日本人には安心される言葉のようで、
深夜のテレビショッピングなどは
まさに「科学信仰」にぶら下がったような商品説明をしています。

西洋的な発想では、
「科学」を通して「神は本当にいるのか」を探しているのであって、
科学はその道筋に至る為に積み上げる階段のようなものです。
それゆえ、実験が今までの理論を否定すれば
科学は容易に考えの変更を迫られます。
しかし科学そのものを信仰してしまった場合、
「変わり行く科学の姿」をただ信じて受け入れるような
安易な結果を招きかねません。

と「西洋」について良さそうな事ばかり挙げましたが、
彼らが神の概念を捨ててしまった場合は
もう誰にもその行動を止められない
危険な人間が出来上がります。
欧米文化がやってきて凶悪犯罪が増える、と
ニュースは脅したりしますが、
日本人はすべての人が
「他人をリファレンスにする」という
モラルの鎖をつけられているので、
彼らのように常軌を逸するところまでは行けません。

他人をリファレンスにする、といえば
魚の群れや鳥の集団が作る行動は
「近くの仲間とつかず離れずし、
移動の方向を合わせようとする」という規則性だけで
まるで統一した意思による命令があるように感じるほどの
複雑な動きをするのだと言います。
これは考える各単位に意思を持たせた
複雑系の概念を持ち込むことになります。

小学校の頃の1年の目標には
「自分で考え」という一文があったのですが、
本当に自分で考えると
日本では異端視されるか象徴になるかの
どちらかしかないんじゃないかと心配する
今日この頃でした。

火曜日, 7月 05, 2005

mixture

麦ご飯が好きです。
食べたときにあまり甘みを感じず
さっぱりと食べられるところと、
麦粒のつるつるとしたぬめり感が楽しくて、
麦とろご飯はよくおかわりします。

似ているものほど区別がしにくい、ということに
最近注目しています。

連想、というくらいで似たようなものは覚えやすい、
というイメージがわたしにはあるのですが、
似たようなものはそれが似ている度合いが強いと
どう区別していいか分からなくなることがあります。

これは以前色の話で、
国によって表現豊かな色の種類は違うのだと
聞いたあたりで強く意識しました。
確か日本は緑色の表現が多かったと記憶しています。

表現が単語として違わなければ、
特別な表現をつけて色を修飾しなければなりません。
「天使の銀色」という表現をした人がいて、
おそらくそれはプラチナシルバーのことだと思うのですが、
一事が万事こんな感じです。

どこまでか行くと人は必ず違っているものなのですが、
似たところを見つける嬉しさと
違うところを見つけた可能性は
どちらにも良いところがあります。
ドリカムのアルバム「MAGIC」の一曲「go for it!」には
あまりにも違いすぎる彼とは合わないと思っていたら
実は自分が広がるチャンスだったんだ、と気づく歌で、
結構気に入っています。

似ているところと違うところ、
やはり相補的に必要なのだと思います。

似ていることを求めるのは
人の社会性からくるもので、
違うことを求めるのは
人の進歩性からくるものだと思っています。

土曜日, 7月 02, 2005

最良の「選択」を

わたしにとってちょうど良い大きさの
シミュレーション・サイズという考えがあって、
概ねそれは1時間ぐらいで終わってくれるものです。
3分で返事が戻ってくるものは気が落ち着かないし、
1日かかるものは退屈なのです。

なんでも最速で解く計算機だけじゃなくて、
ほとんどの計算を1時間かけて終わるように
調節してくれるプログラムがあったら
人間と付き合いやすいかなと思ったりします。

ラジオ中国語を聞いていますが、
1日のうちに少ない話題を繰り返し聞くようにして、
多くの話題を聞き過ぎないようにしています。
記憶は似ているものを入力されると
かえって混乱して覚えられなくなるのだそうです。

プールのおじさんと話していたことがあって、
わたしは進歩のために今の限界を見定めることが必要だと言い、
おじさんは諦めに繋がる限界はないと信じていたいと言いました。
恐らく良く似た「目標の立て方」だと思うのですが、
表現はさかさまです。

徳間書店「プロ論」のなかに、
直感を信じて動いていこう、というくだりがあって、
しばらく考え続けています。

直感が「世の中に沿う」結果を出す場合には
それを信じるとうまく行きますが、
「世の中に沿わない」結果を出す場合には
信じるとうまく行きません。

直感も訓練だとふと思います。
人間は最初から固定された世界観を持って
生まれてくるわけではないからです。
そして直感を信じて動いた結果が
いつも散々な結果だったら、
直感を信じたくなんかならないはずです。

直感を信じるのではなく、
信じられる直感を持つ、のほうが正確な感じがします。

難しいのは、
「瞬間的に決める」直感は
一体どうやって訓練されるのかが分かりにくいところだと
考えます。
分からないものは分からない、のままでは手も足も出ないので、
一歩踏み出す方向が必要です。

直感は、それを思いついたずいぶん後になって
その理由が説明できるようになることがあります。
直感と、それに基づいて動いた結果をよく考えれば、
自分の直感は無意識のうちに何を思ったのかが
分かると考えます。
これを繰り返すと、自分の無意識を
調節できそうな気がしています。

直感で動く場所にも注意が必要です。
たとえばいくら大志を抱いているからと言って、
いきなり手持ちのお金を集めて、
ラスベガスに飛んで大儲けしようと思っても
それはほとんどうまく行きません。

直感で動いていい場所は、
十分に経験が得られるが、
動いた結果どうしようもないことにならない所、だと
思っています。

この「どうしようもならない」場所の意識が
人によって大きく違うのですが、
直感を良く調べたいときには
自分が普段ブレーキをかける一歩先までは
踏み出すといいと思います。

日本人は安全が好きなので、
大抵、自分が限界だと思う一歩先だったら
どうしようもないことには到底ならないからです。
そして経験が積まれる事で、
直感で動ける範囲が広がっていけば、
次第に限界自体も広がっていきます。

ある局面において、
すぐに決めなければならない箇所というのは
多く存在します。
「ザ・ゴール」の本の文章ではないのですが、
散発的でも瞬間負荷が最も大きいラインが
ラインの成否を決める生命線で、
ここに相当量の余裕を持たせておく必要があるのは
人も同じです。

散発的でも瞬間負荷が最も大きいライン、というのが
人間で言えばちょうど直感が要請される局面であり、
そうすると
直感は相当チューニングされていなければならないと
考えが導かれます。

加速器にはチューニングと呼ばれる作業があって、
これは目的のビーム出力に近づけるために
さまざまなパラメータを調節することです。
多変量の最適化が試行錯誤で行われる、
これは実際の現場もシミュレーションも全く同じです。
線形方程式は確かに最初から最後までが
矛盾のない一つのストーリーになりますが、
人生は線形ではないのです。

マネーロンダリング

日本語は英語のアルファベットを
ローマ字読みしたり発音読みしたりするので、
ゲルマン帝国とジャーマンポテトとドイツワインは
同じ場所のものであることがひと目では分かりません。

マネーロンダリングと言う言葉があって、
launderingと書かれれば
ランドリーと同じだと分かるのですが、
なぜ読みが違うのか分からないままでいます。

資金洗浄、と訳されてしまっても
何のことだか分からない「マネロン」ですが、
流通ルートから外れて取引された健全ではないお金を
公の消費購買や店舗運営、貯金などを通じて
正規のルートの取引に乗せてしまうことを指します。

「白い猫でも黒い猫でも、
鼠を取る猫が良い猫だ」と言ったのは
毛沢東で、
実利があれば手段は問わない、という意味なのですが、
この実利の意味をただの経済的な富ではなくて、
もっと良いことに割り当ててみるのはどうだろう、と
ふと思うのです。

民事裁判の最後はお金の話になる、
これはお金の単位を「言葉」のようにして
扱っていると考えると分かりやすいです。
さまざまな事情で生まれた「理由」を
「金銭的価値」に翻訳して積み上げます。

夜遅く銭湯に行った時のニュースで、
沖縄に基地を作ると言うので、
代わりに1000億の予算投入がされた、という
特集を見ていました。

受け入れている人は、
それによって仕事が作られるからという理由であったり、
受け入れていない人は、
基地ができてしまえば当分撤去できないからであったりします。

自分の町に基地がやってくる、としたら
自分は何をするだろうかとしばらく考えています。
結論に至るかどうか分かりませんが、
演繹を始めます。

核燃料処理施設でもそうですが、
できればおぞましげな現場というものは
近くで見たくない、というのは心情だと思います。
しかし平和とは確かにその半分を戦力で維持していることは
間違いのない事実であって、
基地は戦力の拠点として必要です。

この点だけを考えると、
どこかが受け入れなければならない基地であれば、
人に押し付けるぐらいなら自分たちが受け入れても
良いのではないか、と考える余地があります。

ところが「基地を作る理由」という点へ行くと、
「政府の方針だから」という
理由になっていない説明を押し通されている、と
ニュースは続きます。
納得がいかないから受け入れられないのです。

わたしには公務員になった友達が何人かいますが、
彼らはとても心優しく、誠実な人柄です。
自分の町のことを昼も夜も大切に考え、
できる限りの努力をしてくれていると感じます。
だから「政府に問題がある」という言葉を
できれば彼らには使いたくないとも思っています。

「政府の方針だから」と口にした役人さんや、
明らかに質問とずれた回答を続ける広報の人は
どんな気持ちでその台詞を口にしているのだろうと
考えをめぐらせます。
彼らにも答弁が矛盾していることは分かっているのに、
それをしないとくびになるからなのか
本心は取り出すことができません。

三菱自動車の設計を担当していた人で、
力学的に見ると仕様の耐久年数を満足しないことが
十分予想できていたのに、
問題のある部品を作り続けていた部門に対して
異議を唱え続けていた人がいて、
しかし会社の圧力で左遷されてしまったと言います。

共通することは、
「言うとおりにしないとくびになる」ということが
足かせになっている、ということです。
「言うとおり」というのは、
人のためになる指示にも
人のためにならない指示にも
従わなければならないということです。

この傾向を未来永劫変えることは人である限り不可能で、
それは保身や名誉、自己顕示の感情は
誰にでもあって、それが何かの理由で行き過ぎると
社会のためにならない事をし始める、というところに
問題の発端があるからです。

ならばこの矛盾を抱えたまま
人のためにならない指示を減らしていくには
どうしたら良いのかを考えてみます。

まずは「言うとおりにしないとくびになる」という恐れに
何らかの方法で対処する必要があります。
方法はおそらく二つあって、
「くびになっても構わないように対策する」か、
「くびにできないように対策する」かを検討します。

我慢していれば明日がある、は
それが本当に必要なときもありますが、
だいたいは純粋に思考停止しているのであって
どう考えても人間的な答えではないと思うのです。

前者のほうは、
次の仕事場を探し始めることかもしれないし、
貯金や投資を始めることかもしれません。
相手が準備しているのなら、こちらにも準備が要ります。

後者のほうは、
相談機関や評価機関の存在を探すこと、
あるいは社内で同じ気持ちを持つ仲間を探すことに
繋がります。
くびにする人間を説得できるのが一番良いのですが、
心に風邪を引いてしまっている人には話が通じないので
もっと極端になれば、相手の生命線を握るような
情報か行動があれば良いと思います。

外資系のリストラでは、
日本で訴えを起こすのではなく本国で訴えると言うと
見たこともないような和解案が
出てくることがあるのだそうです。
使えるものは何でも使わなければならず、
使えるものは探さなければなりません。

正しいことに敢然と立ち向かう、
聞こえは良くて潔いのですが、
抽象的なイメージのままではいけないし、
丸腰で勝てない戦いをしてはいけないと思います。

戦後行われたのは財閥解体で、
これは大きな集団が持つ力を恐れてのことであり、
大局的にみた会社は
労働組合を縮小させようとしているし、
「言うとおりにする」労働力を求めるという
傾向もやはり変わらないと考えます。

良いものは残らねばならず、
そのためには動かなければならないと思います。
大声を張り上げてやりあうのが苦手であれば、
水面下で始めれば良いのです。

陰徳という言葉があって、
これも行動はしているのです。