月曜日, 11月 28, 2005

hardware, software, data

朝3時に目が覚めました。
少し書き物をしてもう少し眠ります。
機械に関して言えばハードウェアの得意な日本です。
最近は良質なソフトも増えていますが、
良質で安価なデータが少ないと思います。

需要と供給、の話で言えば、
需要が多ければ供給する値段が高くなります。
ものやソフト、つまり目に見えるものに関しては
需要と供給というのは成り立つのですが、
データに関しては
なかなか需要と供給が成り立っているとはいえません。

もう少し深く入り込めば、
需要と供給自体は成り立っているのかもしれませんが、
データが広く流通していないので
おのずと値段が高くなります。

学術書の類で、
値段を高くすると売れなくなるから、と言います。
確かに辞書以外で1万円以上する本が飛ぶように売れることはないのですが、
しかし外国の学術書なんかは300ドルでも平気で売っていたりして、
それを買う人も多くいます。
一方でネットに広まる情報では無償で手に入るものが充実していて、
それらのバランスは一体どこから来るのかと不思議な気分になります。

休暇になると日光浴をしながらひたすらペーパーバックを読んでいる、
そんな話を聞くと、
日本で思われがちな本の虫とか雑学おたくとかではなくて、
活字に親しみを覚えるという肯定的な意味を
もっと前面に出してもいいかもしれません。

生きた知識、という言葉について考えます。
どんなものを「生きた知識」と読んでいるかというと、
それは実体化して何かの役に立つ、という暗喩を含むような気がします。
役に立つは利益を得るとかいう経済ベースの話ではなく、
不安定な自分を支えたり人に快い感情を与えるものも
生きた知識だと思います。

本宮ひろ志の話の中に、
漫画家が絵が描けるのは当たり前で、
その絵で何を伝えたいかが問題なんだ、という一節があって、
時折思い出します。
ただ、こういう言葉を聞くと、認められる絵が描けなければ
公表する意味や価値がないと連想してしまうことが
表現の量を少なくしてしまうのだと考えます。

何かを下手な人間は、表現が許されない、
こう書き切ってしまうと、「そんなことはない」と
反応が返ってきそうですが、
今でもそういう雰囲気は強くあります。
そしてそれは自分の中にも強い意識としてあるものです。

下手なところを見せて笑われると傷つく、
その「傷ついたもの」は何なのだろうと思います。
下手だというその結果、
へんてこな絵とか調子の外れた歌とか、を見て
その行為自体や状況という非人間的な現象を笑っているのか、
それともその行為を行った自分自身というもの、
つまり人間的な価値の薄さを笑っているのか、
これがよく混在しています。

持つ者はさらに与えられる、という言葉があって、
この意味をよく考えることがあります。
最初に人より少し得意であったものが
練習を重ねていくうちに上手になっていくという過程でもありますが、
最初に持たないものについての言及がありません。
持たない者だって与えられるようチャンスが必要です。

最初に少し持っている者が続けられるのは、
自分の行動に価値があると信じられるからで、
また周りもそういう視線を送るからだと思います。
少し持っている、持っていないの観念が比喩的なものならば、
ほんの少し持っているところからでも始められる、
そんな風に思えたらいいなと感じます。

あれほど流行ったのにわたしがちっとも知らないのが
ミスチルの歌で、それは最初の流行に乗れなかったから
そのまま追いかけられずにいたもののひとつです。
その手の苦手意識というのはたくさんあって、
苦手意識を持つと思考を停めてしまったように前へ進みません。
後追いするとなんだかかっこ悪く感じるものですが、
それが好きだと公言できなくても
せめて曲ぐらい聞いてみればよかっただろうにと
ずいぶん後悔をしています。

後追いをかっこ悪いと感じるのは、
知識の量を勝った負けたと優劣で決める傾向のせいでしょうか。

物と知識の決定的な違いは、
物が使うと減ってしまうのに対して、
知識は使うほど増えていくことにあります。
100%満足する結果でなくても、途中であっても、
行動を起こしたことを評価する、
そんな気持ちがもっと広まればいいと願い、
そして自分の意識もそう近づけたらいいなと願います。

木曜日, 11月 24, 2005

コンビニ弁当をレンジ弱で7分

とかく「温もりが足りない」といわれがちな
電子レンジは、
早く温めるのとゆっくり温めるのでは
ずいぶん風味が変わります。
レンジ強2分のお弁当は
レンジ弱7分で加熱すると
芯から全体まで温まっておいしくなります。
時間のあるときにお試し下さい。

南無阿弥陀仏と、ひつじが一匹

カフェインの入ったコーヒーが苦手です。
体がとても緊張してしまいます。
たくさんは飲めないので、
小さなカップで飲むか、
カフェインレスのコーヒーを頼みたくなります。

自分の軸を時折見失うことがあります。
おおむね集中できないときに起こります。
ひつじを数えると脳が忙しく動き出して眠れなくなると
何かのメディアが言っていたようですが、
わたしはひつじを数えると良く眠れます。

想像、という定義は
頭の中だけで世界を作ることであって、
小さい頃はよくやっていて、
大人になるとなかなかしないものかなと思います。
この「脳を落ち着かせる」という方法に、
繰り返し脳の中だけの入出力を行う、という行為が
有効なのではないかと思っています。

全ての宗教に祈りという反復行為が伴い、
唱える言葉が存在します。
実在の論議を少し脇において話を進めるならば、
それはひつじが一匹と数えながら眠るのと
特に違いがないような気がするのです。

思考はひとつではない、というのは
かなり前に気がついたことで、
さまざまな感情が自由に表れたり消えたりしています。
これは脳の細胞が個別に活動できるからであって、
手と足を同時に動かせることの理由と
特に大きな違いはありません。
そして脳の中の協調動作が乱れると
混乱してしまいます。

脳だけでの入出力というのは、この乱れた動作を
もう一度まとめ直す意味があるのではないかと
最近思っています。

人の心を落ち着かせるのには「ひつじが一匹」で十分で、
神様を登場させるのは
概念としてちょっと強力すぎる施策じゃないかと考えます。
100mを10秒で走れる人が限られるように、
神様の概念をうまく援用できる人も限られているように
感じるからです。

火曜日, 11月 22, 2005

redundancy

パルス発生器の主電源が入らなくなりました。
予備機を当てて実験を続けています。

小集団の中での個人と、
大集団の中での個人は振る舞いとして異なります。
小集団でキャンプに行ってテントを持ってきた人が
誰なのかはすぐ分かりますが、
大集団で株の売り買いをして
値下げ傾向に導いた人は特定できません。

同じ集団のためとはいっても、
世の中のためになることをしようと考えたときに、
いきなり「汚職のない世の中を作る」とか考えても
うまくは行かず、まず自分が不正のない政治家になるところから
始めなければなりません。
そして自分も一人の人間であるなら、
「不正のない政治家とある政治家」のバランスを
ひとこま変えるのが精一杯かもしれないのです。

たくさんの集団の中では
良い意見ばかりもたれないことがあります。
amazonの書評などを読んでいると、
評論というのは感性によるところが大きいせいか
良いとか悪いとか好き勝手に書かれています。

良い意見ばかりもたれずに過ごしていくことの
難しさを思います。
それ自体はいつでも起こりうることなのですが、
好ましくない反応に対して
無視して過ごすわけにもいかず、
かといって自省ばかりして過ごすわけにもいきません。

何かの行動原理を最終的に興味へと結びつけることに
時折必要性と疑問を同時に感じます。
そこにある必要性があれば決めるのは楽なので
何らかの必要性を探してしまうことがあります。
50:50の大賛成と大反対があったときに、
それでも一歩を踏み出せるかどうかを悩みます。

この国の人らしい感情であれば
50:50の時に踏み出すのはきっとためらいます。
そして行動そのものにも正の側面と負の側面があるとすれば
行動というもの自体はリスクの大きなことです。

しかしためらうことというのは
重要であるけれども行動に移すには
まだ時間があると思っているか、
あるいはどちらでも構わないと感じるようなことかの
どちらかです。
しきたりやマナーというものでその場であたふた悩んでいるのは
それが「本当はどちらでもいい」ことの
明確な表れだと思います。

食器を持って食べてはいけない中国、
食器を持って食べなければならない日本、
それはどちらがよいという言葉では
本来説明をしてはいけないものです。
だからテレビで「マナーの先生」とやらが
偉そうに正負善悪の番人のようなご口上を述べているのを見ると
なんだか腹が立ってきます。

盲目的に従うことは極めて不自由でありながら、
他方で非常に心地の良いものだろうと思います。

月曜日, 11月 21, 2005

prohibited?

黒パンを食べるロシア、
とうもろこしを食べるメキシコと
食べ物は千差万別ですが、
人に関する歴史があるところには
なぜか酒だけはあります。
自分の意識という壁をなんとかして取り払いたいと思うと
何らかの外力が必要なのかもしれません。

気持ちの壁で思い出す話は象を飼いならす話で、
小さい頃に脚を紐のついた杭に縛られて過ごすと、
大きくなっても地面に打たれた小さな杭を見ると
動くのを諦めるのだといいます。

得意なことはいくらでもできそうで、
苦手なことはとても続かないものだったりして、
「持つものはさらに与えられる」の理由は
こんなところにあったりするのだろうかと思うこともあります。

心理学以外の心的効果を除けば、
占いやまじないの類には
まったく信憑性がないことは明らかなのですが、
夜の新宿駅前にはたくさんの占い師がいるし、
雑誌には星座占いが載っているし、
縁起を担ぐ人がたくさんいたりします。

非科学には幾通りもの「答え」なるものが存在するため、
できるだけ気持ちのよりどころに
非科学を持ち込まないようにしてきました。
しかし最近少し発想が変わってきて、
全てが正しく「固定された真実」であるという存在に
人というものは耐えられるのか疑問に思うようになりました。

固定された真実には逃げ場がなく、
好き勝手な行動が許されないことが増えてきます。
もちろん日々の出来事は現象として一つで、
その効果と解釈は関わった人の分だけ存在するのですが、
自分がおかれた状況の解釈を
丸ごと受け入れられない時が時折あります。

そんな時に、世の中的になんだか良く分からないが
受け入れられている「非科学なもの」というのは
その解釈に新しい可能性を残すことができそうで
なんだか期待してしまうのです。

川本真琴の歌の中に
禁止したって人類はぐんぐんはみ出してゆく、
というくだりがあって、
その表現はとても確かな感じがします。
果たしてこんなことをして何になるのだろうと
考えたくなる気持ちは、
生きるために一生懸命になっている時には思いつかないものです。

人間だけがこの世界で住む仕組みを変えてしまう、というのは、
考えることの1/10しか表現できない人間の脳の
せめてもの頑張りなのかもしれず、
そのためにいろいろな壁を感じるということ自体には
それが必要な何らかの意味がありそうだと考えます。

金曜日, 11月 18, 2005

教えてもらいたかったこと

デスクの中の余っていたペンが
最近増えなくなりました。
そういえば身の回りのものも増えなくなりました。
ちょっとした意識改革です。

情報に関して最近さまざまなことを思います。
会社に入るまで会社のことが分からないと心配する
卒業間際の大学生を見ながら、
それは会社が決して積極的には教えようとしないからだろうと
思います。
「門戸は何らかの方法で開いてるのだから
だったら知るよう努力すればいいじゃないか」と言われると
ひどく反発したくなるのは、
「情報開示」と言ってただ雑文交じりの膨大な資料庫の
鍵を開けただけの状態のお役所のある課と同じだからで、
それが誰にでも通じる積極的な開示ではないからです。
特殊な方法、先輩を頼るとか裏口から入るとか
そういう方法は決して「門戸が開いている」とは言いません。

メディア・リテラシーの重要性を思います。
「本人のためにならない」とか分かったような理由で
面倒な気持ちを隠しながらお茶を濁したりせずに、
読みやすく、分かりやすいということを
なぜもっと純粋に追求しないのかと思うことがあります。
禅の思想だか問答なのか知りませんが、
それはひどく人を不公平に、そして不幸せにします。

自分でやらなければ分からないこと、というのは
確かに存在します。
覚える過程で手を使い、頭を使うのですが、
しかし先に手順を聞いたからといって
それが中途半端になることなど少しもありません。
洗練された情報によってより早く理解できるだけです。
物理がここまで進んだのは、
遠回りせずに知識を積み重ねる方法を選択したからです。

これらがどこかで「きれいごと」と言われるのも
どこかで感じています。
人はその淘汰を乗り切るために
個人としては情報戦を繰り広げているからです。
しかしチームであるという意識があるならば
積極的に開示することがプラスになる事だってあります。

大事なのは、
何ができるかではなく、できるようになったことで
一体何が表現できるかにあります。
やってみなければわからない、という言葉は、
半分は本当で、半分は嘘です。
だから何も教えずにただやってごらん、と言うのは
少しも足しになりません。

自分が知らずに困り果てたことがたくさんあったので、
教えて欲しい、という気持ちに
可能な限り応えてあげたいといつも思います。
いざと言うときには
とにかく今自分が持っているものと知っていることを
総動員して事に当たるもので、
知るということはよりよい選択を導くための力です。

木曜日, 11月 17, 2005

階段建設屋

最近試している健康向上対策は
なぜかことごとく成功しています。
しかしそれはストレスそのものを感じなくなっているかもしれなくて、
ストレスがあるときには健康対策って
効果が殆ど現れないんじゃないかと思う今日この頃です。

結果が出て名を残すことばかりでしか評価されない、と
まことしやかに言われる風潮がいやで、
初期の苦しい段階でとても力になってくれた人を
どういう言葉で形容すれば確かな賛辞になるのかと
よく考えていました。
ボスの追悼文の中に
「道をつけてくださいました」という一言があって、
ああ、この言葉だと納得しました。

道を歩くことと道を開くことは別物です。
開いた道は誰でも歩けますが、
何もないところに道を開くことは限られた人しかできません。
このできないという表現にはかなり問題があって、
やればできるかもしれないけれどやりたくないと思う人は
少しぐらいやったらいいじゃないかと思ってしまいます。

この国に新しい宗教も文化も多分必要ないのですが、
正しい気高さ、ある種のプライドのようなものって
少しぐらいは必要じゃないかと感じることが最近増えます。
全く棘がなくて攻撃性のない人が
マスコットのように愛される、というのは
確かに理にかなっているような気もしますが、
多少手ごわくても芯がある人というのは
この国ではとても警戒されます。

ビルを作るには重機が必要で、
電力を作るには核燃料が必要です。
人が進み登る道を作るのであれば、
それに叶った強さを持つ人が求められます。

最近、同じような気持ちを
繰り返し違う表現で書いているような気がします。
こう思う気持ちののなかに何があるのか、
なぜそう思うようになってしまっているのか、
その理由はまだ聞かされていません。

水曜日, 11月 16, 2005

畑の概念

家では玄米茶を良く飲んでいました。
香ばしくて気に入っています。
時折塩を口に含みます。
冬は体が乾燥しやすいのです。

秋になるとさんまが一尾50円くらいで
スーパーに並びます。
安くて新鮮なので買いますが、
ふと一尾50円で経済はちゃんと回るのか
すごく不思議に思うことがあります。

供給が多すぎると値崩れする、
これは市場原理の講義の初期の頃に現れる
基本定理です。
人間の労力と機械の労力を足したものが
市場が求める量より多い場合、
労働が値崩れします。
しかし労働が続かなければ給料は得られず、
どこかで調整が必要になります。

一生懸命働くことは必要だと思いますが、
何のために働こうとしているのか時々考えていないと
労働過多の世界の調整ができません。

この間「叩き台」を作る難しさを話していて、
最も必要な仕事は「叩き台」にあるのではないかと
認識を持ちました。

叩き台は手探りで作られます。
そしてたいていの場合不恰好です。
叩き台があるからこそそれを純化して
より洗練した姿にすることができます。

どちらかと言うと、人は
叩き台を作ることよりも、
洗練させることのほうを好むようです。
楽に何か良い結果が出たような気分になるからです。

叩き台を作るのには
ずいぶん泥臭い手続きが必要です。
情報を集めて試行錯誤して、
それでできたものはその時点では
どこか垢抜けないものだったりします。

でも一度核ができてしまえば、
あとはその核の可能性に応じて
自由に発展させることができます。
それはおもちゃを作る人と、
おもちゃで遊ぶ人の違いでもあります。

どんなに面倒でも、
叩き台を自分で作る気持ちを忘れたくないし、
余剰の労働力は創造的な事柄に振り分けれたらいいなと思います。
それを横取りしたりちょっとだけ使おうとする人は抵抗を持ち、
別の場所で叩き台を作っている人は大好きです。
そして「荒野に畑を広げる」ことに相当するものが
「未知の世界に叩き台を作る」ことだと考えます。

火曜日, 11月 15, 2005

「野球が好きな人」

昨日はずいぶん外が暗くて、
午後4時半になると真っ暗になった感じがします。

野球が好きな人、と表現すると
野球をするのが好きな人、野球を見るのが好きな人、
その両方、という3種類に分けられます。

趣味で野球をする場合は、
観客というのはあってもなくても野球自体はできます。
仕事で野球をする場合は、
野球をする人には野球を見て楽しみにする人がいることで
野球が続けられます。

時折出てくる話の中で、
世の中には2:6:2の法則と言うものがある、といいます。
ある出来事、集まり、など多数のものの集合に対して、
最も重要な寄与をするものは全体の2割、
日によって変動する寄与をするものは全体の6割、
全く寄与しないものは全体の2割、
という風に解釈されます。

野球でも芸能でも、
熱心に応援へ馳せ参じ通うファンの存在が
その後の発展を決めるのだといいます。
彼らは自分自身が「応援するもの」をやるのではないけれど、
それと同じくらいの努力をして注目し応援しています。

ちょっと立ち寄って気の効いたことがひとこと言えて、
立ち寄るも立ち寄らないもその日の気ままで、
という「しゃれたお客さん」の立場でいる場所も
十分あっていいと思いますが、
そういう人もどこかの場所に「一生懸命さ」というものを
持っていて欲しいなとつい思ってしまいます。

お気楽で楽しくて、という感じが持てれば
もっと気持ちには余裕がたくさんできるのかもしれませんが、
そうすることを自分に許すことは難しいし、
そういうものに魅力を感じる感覚も発達していません。

ずっと楽できる生活にはなれないのかもしれませんが、
それでも一生懸命さというものを出せる意志の強い魅力を
自分にも相手にもどこかで求めていくだろうと感じます。
それは何度も自分を試してみて、
一度も変わらなかった部分の一つです。

月曜日, 11月 14, 2005

気持ちが枯れていないとできない仕事

小さなハードディスクを買いました。
USBメモリにしばらく慣れていたのですが、
中途半端に容量が多いとうまく使えません。

およそ力仕事を続けている時期に、
デスクに落ち着いて座って思考するのは難しいものです。
「素早い気持ちの切り替えを」とよく言われ続けてきたのですが、
もともと考え込んでしまう性格もあって、
切り替えろといわれると妙にへそを曲げたくなります。

意識すればするほど増していくものがあります。
タバコを吸いたい人が「タバコをやめろ」と毎日聞かされると、
逆にタバコを忘れられなくなってしまいます。

何か困ったことを手放すには、忘れてしまうことが良いようです。
逆に大事なことは何度も思い出す必要があります。
そういえば学校では覚え方は何度も繰り返し学びますが、
忘れ方を教えてくれることは一度もありません。
人は覚えにくく忘れやすい生き物だから、というのかもしれませんが、
時に忘れられないタイプの人間もいます。

脳を自在に使えるということは、
自在と言う言葉は双方向の意味を成すものであるため、
覚えたことを自由に取り出せるだけでなく、
不要なものは自在に忘れてしまえる能力も必要です。

もの想う秋、とはよく言ったもので、
デスクに座って考え事をするのは秋が向いています。
いたずらに活動的な時期より、
少し気持ちが枯れているほうが考え事は楽なのです。

日曜日, 11月 13, 2005

人にはそれぞれ「必ず理由がある」

秋の山をこれほど美しいと感じるようになったのは
関東に出てきてからです。
九州の紅葉はオレンジ色が多いのです。

タイトルはC&Aのブックレットの一節です。

ニュースとテレビを見ない生活を送っています。
概ね見なくても生活はできます。
しかし人と共通の話題を求めるときには
少々不便に感じることもあります。

この「不便さ」、国によって違いはないようで、
イギリス紳士は社交場のたしなみとして
新しいジョークと最近の話題を用意しておくことが
求められていたといいます。

生きやすさ、というのは
制約条件の少なさ、という尺度で測れば分かりやすく、
条件が増えれば増えるほど生きるのは難しくなります。

争いや矛盾や衝突や、
そういったものは生き物の中では脳の活動という「おまけ」の部分であって、
それらは単体では特に意味を成さないのかもしれないのですが、
しかしそれらが人という種を選び進化させるプロセスの一つで
あるとするなら、
それらには何かの理由があるのだろうと思います。

人間は進化の最終過程に生まれたという説がまかり通っていて、
しかし人間は進化し間違えた生き物かもしれないことは
あまり問題にしようとしないものです。

月曜日, 11月 07, 2005

食塩は体に悪いか

24時間以上起きていたので睡眠不足明けです。
旅する行と座禅の行があったら、
多分旅する行のほうが気分はいいと思います。

今日はすこし食べ物の話です。

食べ物の環境は遺伝します。
たとえば塩味の濃い食事が日常の場合、
体は塩分に慣れるように変わっていきます。
菜食主義と言う人がいて、
その人たちの体は野菜の成分の中から
必要な蛋白を吸収できるように変わっています。

「人間」という単一の標準モデル、という概念が
どこまで通用するかを最近考えます。

個性には、頭で覚えたことから生まれる性格に根ざす面と、
体のつくりや環境・経験から生まれる実体に根ざす面があります。

極端に言えば、脳は単一世代で書き換えることができます。
脳はただのネットワークで、それに何を覚えさせるかで
結果が変わってしまうからです。

これに対して、環境が体の働きを変えてしまうことがあります。
イヌイットかエスキモーなどのカヌー生活をする民族は
生まれつき腕力が強いのだといいます。

食塩を多く取る地域の人たちは
自然と塩分を代謝できるような体になっています。

それでいろいろ考え直すと、
一人暮らしを始めてからしょっぱいものを
あまり食べなくなったような気がしたのです。

数日日常を変えたぐらいでは体は異常になったりしないので
たまに自分を試すことがあります。
そこで昨日から多めに塩分を取ってみました。
夜食の後も眠くならず、
眠い以外は意識ははっきりしていました。

実家にいたときの味付けの濃い食事は、
自然と自分の中に身についているのだろうかと
不思議に思った今日の夕暮れです。

木曜日, 11月 03, 2005

人は皆違っていく生き物

世の中的に平日か休みか、を
一番肌で感じさせるものは、
町の様子とテレビ番組です。
テレビを殆ど見なくなって、
世間と距離を置いてみるのもなかなか楽しいものです。

記憶にはある日不思議だと思って
心に引っかかった言葉が集まります。

「この業界は狭いから」と言う言葉は、
なぜかどこの業界の人からも聞かれます。
業界に広いところなんてあるのだろうか、という疑問が生じます。

「あの人とは根本思想が違っていた」ということが
仲違いの原因になったりして、
しかしある一時期は共通点を持っていたからこそ
そこに共通の時間が生まれたわけで、
果たして「違っていた」ことは
世間的に言われる「勘違い」ではないのではないかと
不思議に思っています。

年は取りたくない、と言いながら、
忙しい今週は早く終わらないかと思う気持ちは
よく分かる心境なのですが、
時間的に厳密なことを言うと矛盾しています。

キャバレーに通う紳士、
マイクを握ったら離さない後援会幹事、
立ち話に熱中する淑女、
共通するのは「話し相手が欲しい」という欲求で、
それは年を重ねるごとに増していくもののようです。

似ているものから始まると、
若者は個性が少ないとか個性を求める、と言う気持ちは良く分かって、
同じ時代環境で育てば多かれ少なかれもともと似ています。

このような連想から行くと、
よくブログの質問にある
「あなたと瓜二つの人が現れたらどうしますか」の問いに対して、
多くの人は「一生理解しあえる話し相手にする」と答えるのが
自然なような気がします。

違う個性に刺激を受け、同じ個性に安心を得るとすれば、
人が違い続けていくということは
安心ではなくなっていくということなのだろうかと
時々難しく考えます。

西洋では個の概念、東洋では集団の概念、と
区別したとしても、
人はいずれ違っていく生き物であることは
どの世界でも変わりません。

水曜日, 11月 02, 2005

頭に優しいノートの取り方、とか

薄い紙が好きです。

実は薄い紙のほうが安いらしいのですが、
値段と好みは関係がありません。

本は頭から読みます。
最後から読んだらお話にならないからです。
それでノートと言うのも本と同じように
最初のページに一番古い情報、
最後のページが一番新しい情報を載せるようになっています。

以前からこの「ノート」の使い方が苦手でした。
自分でメモを取るのに、後で読み返せないからです。

いくつか原因があることが分かりました。
ノートが「ある時間を基点に進む時間で記録される」場合、
一度記憶を「ある時間」まで戻した後、
そこから読み進める、という二回の操作が必要で、
私はこの「ある時点に戻る」際に混乱するのです。

そこでノートをバインダー型にして、
古いページが一番最後に来るようにしました。
こうすると、最近の情報はいつも上にあって、
過去に遡る一回の操作で目的の場所を思い出せます。

新しい情報ほど、最初は何度も復習する必要があり、
時間が経ってもたまには見ることが必要、とは
リビングストンとか言う人の学習曲線に繋がる話です。

ここまで書いて、
だったら今まで通りノートを書いて
逆からめくればいいじゃないかと思ったりするのですが、
こうすると「時間を遡る」ことがイレギュラーだと感じて、
あまりうまく行かないのです。

この方法、本がとても好きで、
お話として全体を理解できる人には向かないかもしれません。
しかし本に書かれたものを読む場合は、
実は現在から未来への時間を使っているので、
最初の情報が一番「古い」必要があります。

自分用のノートを書くという事と、
人に読んでもらう文章を書くことは、
実は頭の働きの方向が逆なのだと感じます。

story-tellingとは、
現在から未来に向かって行われる作業です。