木曜日, 6月 28, 2007

ある日、月まで燃料の石を拾いに

所を出る直前に携帯電話を水に濡らしてしまい、
携帯を持たないままJRと新幹線に乗りました。
JRのホームに設置してあった公衆電話は
硬貨ではなくテレホンカードでしかかけられないタイプのもので、
10年ぐらい時間が逆戻りしたような生活をしています。

がん細胞の研究をするグループの人と
最近良く話す機会を持ちます。
たんぱく質は「機能」を持つにもかかわらず
それ自身は生物ではない、という話題があって、
「生物」の定義を「自己複製」というものに当てはめていることで
この問いを考え続けています。

機械に原子力の心臓を積み、
自らに工作機械を搭載して
自らとまったく同じ機能の機械を作れるようにしたら
それは生命と呼ぶのだろうかとふと思います。

これほど飛躍した話ではなくても、
街は確実に生き物としての性質を持っています。

新しい街には以前の街からの「文化」が引き継がれ、
経済、インフラ、行政の機能を分割して
それぞれがある程度自立したシステムとなるのだから
十分「生物」の定義に当てはまっています。

それより大きな単位になると
「生命」に類似したシステムを見つけるのは難しくなります。
地球を二つに分けたとしても、
それは小さくなってしまうので
正確には地球はそれ自体が生命としての定義を
持ち得ないことになります。

システムを繰り返すという点では
超新星の単位まで視点を広げる必要があります。

もし「地球を複製する」というプロジェクトが始まったら、
それはわたしたちが「生命」と呼ぶシステムになるはずで、
地球の質量を減らしてはいけないような気がするので
たきぎ拾いに出かけていたように
隣の星まで燃料の石を集めに行くことになると思います。

人はいつか太陽系を再編成できるのだろうかと考え、
そのとき地球自身があたらしい生命単位になるのだろうと思います。

水曜日, 6月 27, 2007

知性の非対称

最近の宇宙論に拠ると、
この銀河系は真球ではなくゆがんでいるといい、
それは宇宙が対称性を持っていないのか、
あるいは観測不能な対称性をもっているのかの
どちらかになります。

宇宙の始まりに非対称がたとえなかったとしても、
高温の宇宙が冷えていく間に統一された力は
その領域によって4つに分かれてしまっています。

仮にそれらの力が統一されたとしても、
多体系の物理は解析的に解くことはできず、
エントロピーがその乱雑さを規定します。

わたしたちは非対称であるこの世界のことと
統一した対称性を求めることについて
可能な限りの理解を深める必要があります。

極めて単純で規則的な微分方程式でさえ
眼に見える現象としてはカオス的になることや、
豊かな実りを授けてくれる自然でさえも
火山や津波や竜巻や地震を引き起こすこと、
晴れと雨が規則的に永遠にやってくることはなくて
それらは偏ってやってくること、
外見は対称であるようでいて
体内のつくり、
臓の位置は非対称であること。

そしてそれらからの演繹で言えば
平和を望む人と争いを望む人は
これからのどんな世界にも必ず存在します。

人間は60兆の細胞からできているのだといい、
時に免疫のフィードバックがおかしくなり、
脳の中ではさまざまな思想が衝突していて、
わたしという人間の中でさえも
調和と争いは日々続いているのです。

世界は「知覚できない何らか」の
バランスをとるようになっていて、
世界に戦争がやまないのはもしかしたら
わたしが平和という偏った状態を望むから
そのバランスをとるために争うのかも知れず、
それでもわたしは全ての人が
その見えない任を果たしていることを見たいと思います。

よく疲れ、時々みっともない思いをし、
風邪を引き、文句を言い、
くだらない思想に翼を与えることがあり、
しかし時に使命にも似たものを感じ、
目的に向かうことがあります。

どうかそれら全てが偏りのない形で認識され、
等身大の人間でいられたら、とよく思うのです。
しかしわたしのあらゆる面が「対称に認識されること」は
この非対称な世界ではとても難しいことかもしれません。

月曜日, 6月 25, 2007

脳はstaticを好まない

100Wぐらいの電源がパソコンに乗ったといって
驚いていたのは約10年前の話で、
今は1kWの電源が乗るのだそうです。
これは電気ストーブをつけているのと同じで、
部屋を閉め切って計算してみたらひどく暑くなりました。

スキーに行ったときに、スキーがうまくなった人から
「うまくなる途中が一番面白いのだ」という台詞を聞きました。

「うまくなりたい」ことと「うまくなる」ことのイメージが
なぜか人はしばしばずれているように思います。

目的があるということの中に、
「そこにたどり着くこと」への願いと、
「目標自体を持てること」への願いが重ねあわされています。

「何かをしたいのだ」という人に、
「じゃあ叶えてあげればいいのだろう」というのは
時に適切で時に適切ではありません。

この世は縁で成り立つのだといい、
それは「この世界がそうなっている」ということと
「脳がそうなっている」ことの二つに理由があって、
時に判断に迷います。


木曜日, 6月 21, 2007

首相、今日の体調はいかがですか

日本で言うところの味噌汁は
韓国で言うとわかめスープなのだそうで、
ではイギリスならコンソメスープなのかなと
勝手な連想をしています。

勝手な連想、という動作が難しくなってきました。
ひとつは自分が「適切な連想」ができるようになっているせいで、
もう一つは「ネットで調べれば何かの情報が得られる」という
確信があることです。

ネットの情報は決して「全てが正しい」わけではなく、
大勢を占める情報であっても正確であるわけではないのですが、
「たくさん見ている」ことで次第に判断できるようになる面があり、
「なにもせずにいる」よりも多くの情報を扱うことになり、
「人に聞く」よりも手数が少ない場合があります。

情報というのは現代でも「財産」のように扱われることがあり、
技術の継承でおそらく問題になっているのは
伝える側が情報を「既得権益」的に取り扱うことだろうと思っています。

テレビの画面で見る「首相」は
姿を知ってはいるけれど断片的な声しか聞けず、
しかも自分が質問した答えを聞いたわけでもなく、
そういう意味でコミュニケーションが取れていない存在です。

良く知らない「ある人」の「何らかの行動」に対して
言えることを見つけるのは時間がかかります。
それは「歴史上生きた人の足跡」で、
たくさんの人が意見を摺り合わせてできるものならともかく、
現在形で生きている人の状態を確定するのは
どんなに近くにいても不可能なことだと思っています。

それで「年金問題をどうするつもりですか」と問いかける前に、
「今日の体の具合はいかがですか」と聞いてみるほうが
よほど的を得た質問になるような気がするのです。

銭湯にて


月曜日, 6月 18, 2007

20段分の階段差で変わる世界

梅雨らしい曇り空になっています。

五木寛之の本に出てきた「アウトバーン」の話では、
気圧が低いときではなくて気圧が変わりつつあるときに
事故が起こりやすくなるのだというくだりがありました。
人間はやはりどこかで機械なのだと思います。

たとえば外国に飛行機で行く、というときには
違う国であることを強く意識するのですが、
たとえば一度も行った事のない隣のマンションを見て
そこが外国であるような意識はあまり持ちません。

わたしの仕事場のフロアは3階で、
階段を上った4階は宇宙線や細胞実験の研究者がいます。
昼に話をする機会が増え、
同じ日本語のはずなのに言葉がまるで分かりません。
今日はプラスミドがどうだとかmRNAがどうだとかいう話で、
たんぱく質は機能を持った「生き物のようなもの」であることが分かりました。

よくよく話を聞いてみると常識の範囲までまるで違っていて、
毎日質問しています。

土曜日, 6月 16, 2007

原子力による太陽に対する認識の変化

食べ物の「味」と呼んでいるものは
直接的には主に「香り」のことで、
イチゴ味というときには
主に砂糖とイチゴ香料があれば
最初の良い近似になります。

原子核反応から化学反応とは比べ物にならないほどの
エネルギーが取り出せるという認識は、
どうもその認識自体が
この世界のありようを変えているのではないか、と
ふと考えました。

信仰の形として「太陽信仰」と言うものがあって、
ピラミッドやインカ文明にみられるように
太陽を神として祭る風習は今なお存在します。
しかし日食のメカニズムが理解されていなかった時代と
それが月の軌道のせいだと理解されている時代では
太陽の「感覚的な重み」もまた異なっているように思います。

太陽は物理の観測によって常にある場所にあって、
多少運動に変化が起こるけれど安定な存在だと思われていて、
それで「いつも安定だと思われている」太陽は
当たり前の存在になってしまっています。

わたしたちは「太陽の影響をある程度コントロールする」
と思っていて、
紫外線が有害であるとか夜には電灯がつくとか
太陽の機能を人工的に取捨選択しているつもりになっています。

しかし太陽の光がなければ
もともと地球に生命が発生する可能性はなく、
いくら原子力が発達したところで
この地球の主たる駆動力が太陽であることにも変わりがなく、
人の心に影響を与え続ける「光」の存在もまた
太陽から生まれているものです。

ギリシャ神話では太陽を恐れずにロウの羽で
天へ飛び立とうとした若者の話が出てきて、
わたしたちは無意識に「太陽に近づいている」ような気がします。

金曜日, 6月 15, 2007

1回性の生き物

電車や自動車に乗るようになってから
天気予報が当たるとか当たらないとか
最近はすこし気にならなくなっています。

天気予報というのはいつでも同じ確率で
当たると当たらないがやってくるのではなく、
気象条件の難易によって命中精度が変わります。

特に気圧の山と谷が入り乱れる頃、
たとえば春先の細雨とか梅雨の入り口などでは
晴と雨の境界線が頻繁に列島を横断するので
「降る」か「降らない」かという問いに
うまく答えることができません。

時間を計る、という作業は
「周期的に発生するイベント」の存在を前提とします。
これは古いところでは太陽の周回や振り子、
燃えている線香や水の入ったたらいで、
それが現代では
セシウム原子核の振動数を計っています。

ラジオを聴き始めました。

CDを聞いていると、CDを買った当初は
ちゃんとCDの音が聞こえるのですが、
しばらくするとCDを歌詞ごと覚えてしまって
自分の記憶とCDの音が混在します。
そうするとCDはうまく聞こえなくなってしまいます。

流れる歌から歌詞がわかる人と、
歌詞は見ないと覚えないという人がいます。

覚えてしまった音は「過去の音」で、
それで「いつも違う音がする」ラジオがいいと
思うようになりました。
その点に到って、
流行りとすたりは人が必ず持っている現象だと
認めなければならなくなります。
そして流行りとすたりは
この世界の全てについて起こるのです。

しかし流行りとすたりはやってくるだけで、
ほとんど同じところを行き来しています。
だから西洋文化と東洋文化の注目度は
大きな時間単位で行き来するし、
服の流行りも数十年で行き来するし、
恋の高まりと落ち着きもまた往復するのです。

生き物だけがエントロピーという名の
乱雑さへの進行を食い止めているのだと
何かの本には書いてありましたが、
そのためには太陽に与えられたエネルギーを使っています。
地球に最も大きな影響を与えているものは太陽である、
これはおそらく検証可能で間違いがない話です。

太陽と地球の距離と軌道はほとんど奇跡的なのだといい、
もし0.1%でも軌道がゆがめば
今のような生命は発生しなかったといわれます。

だからわたしたちは
「見えない神」の子という表現が
見えも触れもしない一向にまとまらぬ要素であるなら、
極めて現実的に「太陽の子」と言うことができます。

太陽についての研究はかなり進んでいて、
数十億年先には太陽が巨大化して
地球はその中に飲み込まれてしまうとも言われています。
地球の資源をいくらつぎ込んだとしても
太陽をゆがめることはできないことはよく分かっていて、
そして「永遠の繁栄」は
「太陽がある限り」と言っておくのが妥当なところです。

表現のなかでは主に天が父で大地が母です。
エネルギーを与えるものと受け取るものがいて
その照り返しのはざまに生き物は成り立っています。

神のようになるという目標は想像ができませんが、
太陽のようになるというなら想像ができます。
それは本来大きくて強烈で、いつもある距離で遠くにいて、
あたたかいものです。

木曜日, 6月 14, 2007

既に答えは与えられている

写真を貼るのは好きなのですが、
レイアウトがゆがむのが気になります。

新しさや古さといった表現について
しばらくの間考えを続けてきました。

新しいものに人は飛びつき、
古いものに寄りかかります。

時間の表現は物質に「新しい」と「古い」を別途与えているように
感じますが、
物質、つまり空間と時間は連成した存在なので、
物質のないところに時間はありません。

人は新しいを探してこの世界を飛び回っています。
そして何らかの問いに対する答えを
この世界の外側に求めようとしています。

この世界を作ったのが自分の脳であること、
脳はネットワークでできていることを考えると、
たとえそれが10の1000乗のバリエーションがあっても
有限であることに変わりはなく、
ネットワークの組み合わせ以上の答えは存在しません。

ネットワークの組み合わせは常に存在するので、
この世界の理解というのは「新しい要素を加える」ことにはなく、
ただ「わたしの要素を減らしていく」ことのみが
世界の理解の正確な表現になります。

どんなに複雑な宇宙論も、
どんなに素敵な物語も、
本当は全ての人の頭に最初から入っていて、
わたしたちはただそれに「気付いていく」だけです。

「捨てる」権利を「求める」


カロリーのないコーラ分野でペプシとコカコーラが頑張っているのだそうで、
黒いラベルのコーラを見つけた自販機のそばに
花が咲いていました。
情報の保存についての研究があって、
それは情報を保存したり圧縮したりする場合に
「可逆」と「非可逆」の特徴を取り扱うことでもあります。
情報圧縮は何も遠い世界の話ではなく、
jpegのような画像の取り扱い、mp3のような音楽の取り扱いで
頻繁に現れます。
jpegやmp3について言えば、
原画や原音を「完全には」再現しない、
つまり情報を一部切り捨ててしまうことと引き換えに、
可逆圧縮では得られない「高い圧縮率」を実現します。
その効果は再現させる画像の特徴にもよりますが、
感覚としては概ね10%程の情報切捨てで10倍の圧縮ができます。
人が何らかの数学的理論を思いつくということは
脳自体にその機能が実現できるからでもあります。
人は何かを「選んでいる」といい、
それは自分が一つ一つ積み増ししているような感触を持ちますが、
おそらく脳が行っていることは砂金とりの様なもので、
大量に砂を集めてきてふるいにかけるようなものであります。
この世界の現象を取り扱う際でも同じことが言えて、
解けない微分方程式を無理に解こうとする際に
解が有効な範囲を限定して線形近似を施し、
解ける形の方程式に変形します。
変形することで初めて、少しだけ未来予測が可能になります。
これは明日の天気がほぼ当たること、
1週間後の天気があてずっぽうの期待値以上にほとんど当たらないことを
表す際の話です。
人の脳はそのネットワーク・マトリクスで
問題を解こうとしていて、
しかし要素が多すぎては解けないので
見方を変えて扱う数字を少なくしたり、
不要な要素を切り捨てて解けるようにしたりします。
だから人が望んでいることは全て、
全体を満足するような「不要なものの切捨て」を行っているのです。
だからわたしとわたしたちが望むものは常に「取得権利」ではなく、
「棄却権利」です。

水曜日, 6月 13, 2007

日本語で神は定義できるか



知り合いから生のふきをもらいました。
前の日に作った角煮の煮汁をベースにして
醤油、ミリンで味を調えて仕上げました。
ふきはほろ苦い程度にあく抜きを調節したので
主観的には大人の味になりました。

「見た」文字を「読む」回路に接続するとき、
日本語は「前後の文節との関係性で読みの音を決める」
というプロセスがあります。
つまり見ると読むの間にネットワーク回路が必要で、
しかもこの「読む」は「ルビを振る」ことによって
「見る」からほとんど完全に独立した操作になります。
一つのものに多義的な定義が存在するというのは
よく言えば幅の広がりという表現になり、
しかし絶対感の欠如というのは
極めることに対して大きな障害になります。

月曜日, 6月 11, 2007

コンピュータには「わたし」が残らない

週末、ふきをもらいました。
皮を取っていたら指先があくで茶色く染まって、
野生に近い感じがしてうれしく思いました。

パソコンの画面を見続けるのが苦手です。
なんとなく自分がなくなって
吸い込まれたような感じがするからです。

読み書きするものなら本とノートがあります。
本は持ち歩くたびに少しずつ記事がやわらかくなったり
折れ目がついたりするので、
読んだ、持ち歩いたということが記録されていて
実感として理解できます。

pdfはこの数年頻繁に使うようになった道具で、
21世紀以前にはほとんど存在を知らなかった道具です。
pdfは紙を減らすために作られていて、
なるほど印刷物一つの割合に対しては印刷回数が
減ったかもしれませんが、
印刷物の総量としてはむしろ増えているような気がします。

pdfの困ったところは、何度読んでも折り目がつかないところで、
それで以前読んだpdfはまた真っ白な状態で現れ、
それが逆にわたしを混乱させるのです。

記憶に残っていないものはたどりようがなく、
それで題名とかメモとかを作ってみるのですが、
紙ならすぐにわかる「古くなった程度」さえも
pdfには残っておらず、
それで「わたし」は時々分からなくなります。

金曜日, 6月 08, 2007

2027年を考える

国道16号線はいつも混んでいるのですが、
今日はいつもなら30分で着く20kmの道に
90分以上という予測電光掲示板が着いていて、
暑くて参りました。
雨が少なくて湿気が少ないのが救いです。

人はある日つけた「西暦」というものに振り回されています。
それはこの世界の始まりとは直接つながりを持たない始まりのはずで、
西洋人が「最初に名づける」ことを望むのは
おそらく宗教的な思想と無関係ではないだろうと思っています。

子供の頃に読んだ21世紀の本では、
人の乗り物はみな空を飛んでいて、
無線と動画で対話をしていて、
超高層ビルが立ち並んでいて、という世界のはずでした。

21世紀というものをそんな風に思いながら、
しかしときに思い出すのは
「結婚しないかもしれない症候群」だとか
「ジュリアナ東京」だとか
「キッチンドリンカー」だとか
人は21世紀なんてどうでもよいような素振りをしていたことで、
そしてそれらの出来事でさえも
ある小さなエリアでの関心事を
マスコミという拡声器で拡大していたものだろうというのは
メディアの街とそうでない街の両方に住んでみれば
割と想像がつく話です。

21世紀には科学がより進んでいて、
それらは良い事ばかりしかもたらさないはずであったのに、
科学は核兵器の処理だとか耐性菌の拡大だとかの
到底解決し得ない問題を引き出す結果にもなっていて、
そして20世紀にとって21世紀というもの自体が
ある種の偶像であったことにふと気がつくのです。

2027年というものを考えられるだろうか、と
ふと思いました。

1980年代には2000年が考えられたので、
原理的には20年後を考えることは可能なはずです。
一方で、2027年に何を望めばいいかと考えるときに
多くの人はとても迷います。

一つの理由は、
2027年は5年先ではないので
ほとんど予測がつかないような気がすることです。
もう一つの理由は、いろんなことが「分かった」ことになっていて、
2027年でも飛ぶ車はないだろうと思ってしまうことです。

2027年が想像できない理由はおそらく他にもあって、
2027年の自分の周りに登場させる人物に
誰を選び出すかがはっきりしないことです。
それはなぜか無邪気に選び出すことができず、
選択が誰かの運命に影響することを理解するからです。

しばらく、未来が描けない日がありました。
それは描く力がないのではなく、
わたしが思いのままに描く未来ではいけないのだ、と
言葉にならない言葉を受け取っていたからでもあります。

21世紀を通り越すことと、大人になることは
どうも極めて似通った概念であることに気がつきました。

子供の頃にはどんな誰でも、
まだ来ない未来には自分がいることと、
きっと今よりも良くなるはずだという確信のようなものがあって、
それがある日の自分を支えていたように思います。

いざ大人になると、
夢の中に含まれた「理想郷」は
額面通りには誰一人として叶っていないことが分かり、
時に未来を思い描くのをやめようかと思う人が現れます。

叶うものを夢と呼んではいけないのだ、と
誰かは言います。
わたしには目標しかないのだ、と
ある日思ったことがあります。

わたしが今いる場所は、
10年前の夏に思い描いた場所で、
それでわたしは次の20年を描き出す作業を始めています。

今を見なさい、といろんな人が言います。
でも今には大きさも形もなく、
人は知覚にアナログ的な遅れがあるのだから
正確には今を見ることはできません。
人はコンマ数秒だけ過去を見ていることになっています。

今を見なければ生きていけない、と
いろんな人が言います。
でもそれは未来を描く力を失っていることの裏返しかも知れず、
わたしの考えは続きます。

20年たてば、おそらく多くの「近しい人」を
距離的に、そして時間的に見送っているのだろうと思います。
今までもいろんな人をいろんな形で見送り、
そしてそのたびに悲しい気持ちでいました。

でも本当は時間は全てのものを一緒に運んでいるので、
全てのものは形を変えていつもわたしのそばにあるはずです。
そして2027年には、それらの流転した材料が再構成されて
わたしの前に現れていることになります。

今住む土地、口にできる水は
「ある日」の「誰か」のかけらで、
そのメッセージは地球という枠の中に保存されています。

むこう20年で何百兆キロワットのエネルギーを
原子力で生み出したとしても、
地球の質量は数キロ変わるわけでもなく、
ロケットで地球外に物を運んだとしても
琵琶湖よりも少ない量の飲み水しか運べず、
全てはこの地球にちゃんと閉じ込められているのです。

そして、絵空事ではなく、物理のあらゆる正確さをもって、
わたしはこう言うことができるはずです:
2027年にも、
わたしとあなたは互いのかけらを感じながら
この世界の中に居続けています。

人は非線形物理の演算結果から
未来予測ができない生き物だと言い、
それはこの世界全ての物理についてそうなのですが、
意識がどこから来るのか、それは
客観を伴う物理では説明がつかず、
その説明がつかない意識ならば
人の意識だけは「未来」を見ることができるのではないかと
なぜか今は思っています。

この世界は「わたし」という入れ物の外にある、
それはとても理屈に合わない出来事であって、
そんな出来事が既に起こっているのなら、
未来を描くという作業が、そして見えない何かに祈ることが
それを果たす一歩になる、そんな気がするのです。

わたしはひつじ年のうお座で、
本のお話に拠れば
それらはともに清らかなる物の象徴なのだそうです。



水曜日, 6月 06, 2007

神様のDJ

ビールパーティーなるものをやるのだそうで、
今日は第1回打ち合わせでした。
昨年は所内の敷地も分からなかったので、
イメージがつくあたりが少しうれしく思えます。

ヒトではない生物を研究するグループの人に聞くと、
同じ哺乳類でも、体内の化学物質のフィードバック機構は
驚くほど違っているのだそうで、
薬の効きかたもまた異なるのだといいます。

「心の問題」と呼ばれているものは
そのほとんどすべてが体の中の化学物質によって引き起こされる
ある状態か現象である、ということが
比較的はっきりするようになって、
それでもまだ心を論じるべきなのだろうかと
しばしば考えることがあります。

脳科学で言うところの「クオリア」は
「認識」か「主観」の発生起源に対する疑問を提起していて、
ひとはそれを「魂」とも呼んでいるようです。

人の心はまだかなり分裂しているようで、
歴史の認識がどうであるとかという問題を
あたかも永久不変の問題のように取り扱おうとします。
そして人は「意思」がなんであるかの理解が得られないまま
ある日自分がある人の形の「内側」にいることに気付き、
そして気付きのうちに終わりがあることを知ります。

鏡に映した自分は確かに他人と同じように
人間の形をしているのですが、
この世界で自分だけが宇宙人なのかもしれない、と
思った人はなぜかたくさんいるようで、
それで「わたしは神の子だ」と言い出す者が
歴史上にはたくさん現れます。

人は皆未来が読めないことを嫌います。
明日も太陽は東から昇って欲しいし、
電車は規則正しく動いて欲しいし、
蛇口をひねれば清潔な飲み水が出て欲しいと思っています。

一方で人は「意外性を求めている」のだと時に言い、
しかしそれは常に「連想でカバーできる範囲内の」意外性であることに
時に気づかないようでもあります。

人は昔鏡を見て恐れたといいます。
水に映る自分の顔は自分という認識をもたらすもので、
写真や鏡がなければ人は自分の顔かたちを
写し取って確かめることはできません。

今日は久しぶりに携帯電話を家に置き忘れてしまい、
その空白感は旅先に出たときの自分に似ていて、
確かにここは日本なのですがそれ以上のことが分からず、
ニュースのサイトを開かなければ今日の出来事を
知ったような気になることもできず、
人はこんな気持ちで過ごし、
文や便りや人の帰りを待ちわびてきたのだろうと
妙に納得したような気になりました。

分かることを前提にして考える分からないことよりも、
分からないことを前提にして考える分かることの方が
よりありがたみがあるような気がします。
そして人は時に何をすればいいのか分からず、
緩やかに定められたルールの中に浮いています。

月曜日, 6月 04, 2007

行と列:100回やっても覚えないこと

RowとColumn、
行と列、
いつもどちらが縦でどちらが横か
わからなくなります。
同じように思っている人は結構たくさんいるはずなのですが
いかがでしょうか。

ちなみにEXCEL風に言うと、
ColumnはA、B、C・・・の方で横(列)、
Rowは1、2、3・・・の方で縦(行)
です。

脳にはいくつもの口があって

夜明け前に24時間開いているマクドナルドに行ったら、
3分ほど待って熱々のハンバーガーとナゲットが出てきました。
混んでいないマクドナルドはおいしいのかもしれません。

話すことの効用について考えます。

人はどうやら表現したい生き物なのだと
すがのたいぞうさんの本には書いてあって、
表現と脳のつながりについて考えます。

表現の最たるものは「話すこと」で、
話をして思っていることを言いたいのだけれど
利害を多く含む昼間の世界の誰にもそれを打ち明けられない、と言っては
夜の盛り場で滔々と自説を展開する、
それで成り立つ世界があるというのだから
話すことは人の根源的な欲求のようです。

人は自由に話すという表現をし、
それを「自由」だと呼んでいるのですが、
今朝がたふと、それは「自由にする=制約条件を外す」ことではなくて、
「自分を確定していく=不自由にする」ことではないかと
気がつきました。

人は話していないとき、
その心の中ではさまざまな言葉が乱れ飛んでいるように思います。
心の声は物事を知るにつれて大きくなり、
この世界自体がそうであるように心の声自身も
また百家争鳴です。
エネルギーの場の中から粒子に対して反粒子が存在し、
二つは生成と消滅を繰り返すように、
言葉はそれと対を成す言葉と生成消滅を繰り返します。

脳にはすでにたくさんの人が住んでいて、
それは物語の登場人物だったり、実在の人の記憶だったりして、
その印象がそれぞれ好き勝手なことを話し始めます。

しかし自分が何かの言葉を実際の口に出しているとき、
それらの声は聞こえなくなります。

いかなる形でもかまわないのですが、
声に出すと落ち着くということは確実にあって、
それは「自由の多すぎる」脳を「体で制約する」ことであり、
膨大な経典の知恵の中から即効性のある「落ち着き」を得る方法として
ただ一つの念仏の言葉を唱えればいいのではないかと
たとえば法然は思ったように考えます。

それは巨大な連立方程式を解く場合に似ていて、
仮に何らかの初期値をたくさん与えておくと
階数が減って非常に解きやすくなることに似ています。

人の体は空も飛べない不自由さに行き詰って
空を飛ぶ機械を発明したがり、
しかし人の脳はあまりに多すぎる自由度に参ってしまって
その言葉を纏めてしまいたいと思っています。

進化論では進化の系譜という図があって、
哺乳類の先に人間があるのですが、
同じ進化度を達したとされているのが鳥類で、
体の自由度と脳の不自由さのバランスを考えると
人間ではなく鳥が
最も成功した進化の形なのかもしれません。

金曜日, 6月 01, 2007

その窓は開きますか

建物の中は妙に息苦しく思うことがあって、
窓を開けると気持ちがすっとすることがあります。

建物の設計の打ち合わせに参加しています。

建物というのは外気を建屋内に何度循環させるかが
設計のときに決められるのだそうで、
1回というところもあり10回というところもあります。

循環する空気は人が増えれば酸素が減るはずで、
それで花粉の飛ばない今は積極的に窓を開けています。

何かになろうとすること、それを意思やこころと呼ぶならば、
全ての生き物に心はあります。
環境に応じてその姿を変えていく、
そこには何らかの「意思」があるはずです。

冬に食べていたアイスです。
物珍しさがあって、味よりも楽しみと思って買ったら、
アイスはなめらかでとてもおいしかったです。
自分が前もって思うよりもよい、ということがあると
人は喜びます。

わたしにはアイデアがあるのだ、
だから忙しくて、誰かの手を借りたいのだ、
だからわたしに手を貸さないかと
いろんな人が言いに来ます。

それはおそらく今に限ったことではなくて、
ひとは「脳の出す欲求」が体でできる限界をいつも超えていて、
殻に閉じ込められた脳は出口を探しているのでしょう。

わたしは何かやりたいことがあると
ほとんど自分で解決しようとしてしまうため、
人には「もっと人に頼めばいいのに」と言われます。
人に頼まないのは人を信頼していないからだ、とか
時に言う人がいて、
そうかもしれないと思うときもあり、
そうではないと思うときもあります。

面倒だからとすぐ人に頼む人がいて、
その人は別に信頼しているということとは相関がなくて、
ただ自分に便利であればいいと考えているだけだと思っています。

すぐにしたい、を応援します、というOn Demandに応えることが
果たして「適切なサービス」なのかと
時折考えます。

脳の要求に応えること、が人にとって適切であるといい、
事業者にしてみればそれで散財してくれれば後は知らない、という感じに
受け取れる場面も多くあり、
一時生きていければそれでいい人もいて、
一度その人の感覚になって世界を見てみたいと思うこともあります。

遺伝子には機能発現に必要がないといわれている情報の部分があり、
その部分には「伝えられる心」が書かれているのではないかと
ふと思うことがあります。

長く祖先が語り、思ってきたことは
みな遺伝子の中に書かれてしまっていて、
たとえばある年齢になると発動する「心」があり、
そしてそれを自らの意思として動いては
また記録を書き足していく、そんなことを繰り返している気がします。

気の持ちようで病気が治る、ということは確かにあって、
プラセボは日本語訳で「偽薬」と書いて
それは偽物のようなのですが、
実在する現象であるならそれは意味のある行為です。

気持ちが自分の何を変えるのか、ということを思うとき、
わたしは遺伝子にアクセスしているような印象を持ちます。

全ては跡形もなく消え去ってしまうのではなく、
記憶にないことは忘れてしまうのではなく、
わたしというものは遺伝子を読んだり書いたりをずっと繰り返していて、
その方法として「わたしの言葉」があるのではないかと思ったのです。

遺伝子はその並び、つまり「言葉」に意味があるもので、
もちろんその並びは量子論的に決められた機能を持っていて、
だからわたしの言葉は、わたしに定められた機能を発現します。

隣のデスクの人と話すことは、
その人は「神はルールなのだ」と言い、
わたしは「神はシステムの中にいる」と言い、
それは異口同音であることに気がつくのです。