水曜日, 6月 06, 2007

神様のDJ

ビールパーティーなるものをやるのだそうで、
今日は第1回打ち合わせでした。
昨年は所内の敷地も分からなかったので、
イメージがつくあたりが少しうれしく思えます。

ヒトではない生物を研究するグループの人に聞くと、
同じ哺乳類でも、体内の化学物質のフィードバック機構は
驚くほど違っているのだそうで、
薬の効きかたもまた異なるのだといいます。

「心の問題」と呼ばれているものは
そのほとんどすべてが体の中の化学物質によって引き起こされる
ある状態か現象である、ということが
比較的はっきりするようになって、
それでもまだ心を論じるべきなのだろうかと
しばしば考えることがあります。

脳科学で言うところの「クオリア」は
「認識」か「主観」の発生起源に対する疑問を提起していて、
ひとはそれを「魂」とも呼んでいるようです。

人の心はまだかなり分裂しているようで、
歴史の認識がどうであるとかという問題を
あたかも永久不変の問題のように取り扱おうとします。
そして人は「意思」がなんであるかの理解が得られないまま
ある日自分がある人の形の「内側」にいることに気付き、
そして気付きのうちに終わりがあることを知ります。

鏡に映した自分は確かに他人と同じように
人間の形をしているのですが、
この世界で自分だけが宇宙人なのかもしれない、と
思った人はなぜかたくさんいるようで、
それで「わたしは神の子だ」と言い出す者が
歴史上にはたくさん現れます。

人は皆未来が読めないことを嫌います。
明日も太陽は東から昇って欲しいし、
電車は規則正しく動いて欲しいし、
蛇口をひねれば清潔な飲み水が出て欲しいと思っています。

一方で人は「意外性を求めている」のだと時に言い、
しかしそれは常に「連想でカバーできる範囲内の」意外性であることに
時に気づかないようでもあります。

人は昔鏡を見て恐れたといいます。
水に映る自分の顔は自分という認識をもたらすもので、
写真や鏡がなければ人は自分の顔かたちを
写し取って確かめることはできません。

今日は久しぶりに携帯電話を家に置き忘れてしまい、
その空白感は旅先に出たときの自分に似ていて、
確かにここは日本なのですがそれ以上のことが分からず、
ニュースのサイトを開かなければ今日の出来事を
知ったような気になることもできず、
人はこんな気持ちで過ごし、
文や便りや人の帰りを待ちわびてきたのだろうと
妙に納得したような気になりました。

分かることを前提にして考える分からないことよりも、
分からないことを前提にして考える分かることの方が
よりありがたみがあるような気がします。
そして人は時に何をすればいいのか分からず、
緩やかに定められたルールの中に浮いています。

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