2027年を考える
国道16号線はいつも混んでいるのですが、
今日はいつもなら30分で着く20kmの道に
90分以上という予測電光掲示板が着いていて、
暑くて参りました。
雨が少なくて湿気が少ないのが救いです。
人はある日つけた「西暦」というものに振り回されています。
それはこの世界の始まりとは直接つながりを持たない始まりのはずで、
西洋人が「最初に名づける」ことを望むのは
おそらく宗教的な思想と無関係ではないだろうと思っています。
子供の頃に読んだ21世紀の本では、
人の乗り物はみな空を飛んでいて、
無線と動画で対話をしていて、
超高層ビルが立ち並んでいて、という世界のはずでした。
21世紀というものをそんな風に思いながら、
しかしときに思い出すのは
「結婚しないかもしれない症候群」だとか
「ジュリアナ東京」だとか
「キッチンドリンカー」だとか
人は21世紀なんてどうでもよいような素振りをしていたことで、
そしてそれらの出来事でさえも
ある小さなエリアでの関心事を
マスコミという拡声器で拡大していたものだろうというのは
メディアの街とそうでない街の両方に住んでみれば
割と想像がつく話です。
21世紀には科学がより進んでいて、
それらは良い事ばかりしかもたらさないはずであったのに、
科学は核兵器の処理だとか耐性菌の拡大だとかの
到底解決し得ない問題を引き出す結果にもなっていて、
そして20世紀にとって21世紀というもの自体が
ある種の偶像であったことにふと気がつくのです。
2027年というものを考えられるだろうか、と
ふと思いました。
1980年代には2000年が考えられたので、
原理的には20年後を考えることは可能なはずです。
一方で、2027年に何を望めばいいかと考えるときに
多くの人はとても迷います。
一つの理由は、
2027年は5年先ではないので
ほとんど予測がつかないような気がすることです。
もう一つの理由は、いろんなことが「分かった」ことになっていて、
2027年でも飛ぶ車はないだろうと思ってしまうことです。
2027年が想像できない理由はおそらく他にもあって、
2027年の自分の周りに登場させる人物に
誰を選び出すかがはっきりしないことです。
それはなぜか無邪気に選び出すことができず、
選択が誰かの運命に影響することを理解するからです。
しばらく、未来が描けない日がありました。
それは描く力がないのではなく、
わたしが思いのままに描く未来ではいけないのだ、と
言葉にならない言葉を受け取っていたからでもあります。
21世紀を通り越すことと、大人になることは
どうも極めて似通った概念であることに気がつきました。
子供の頃にはどんな誰でも、
まだ来ない未来には自分がいることと、
きっと今よりも良くなるはずだという確信のようなものがあって、
それがある日の自分を支えていたように思います。
いざ大人になると、
夢の中に含まれた「理想郷」は
額面通りには誰一人として叶っていないことが分かり、
時に未来を思い描くのをやめようかと思う人が現れます。
叶うものを夢と呼んではいけないのだ、と
誰かは言います。
わたしには目標しかないのだ、と
ある日思ったことがあります。
わたしが今いる場所は、
10年前の夏に思い描いた場所で、
それでわたしは次の20年を描き出す作業を始めています。
今を見なさい、といろんな人が言います。
でも今には大きさも形もなく、
人は知覚にアナログ的な遅れがあるのだから
正確には今を見ることはできません。
人はコンマ数秒だけ過去を見ていることになっています。
今を見なければ生きていけない、と
いろんな人が言います。
でもそれは未来を描く力を失っていることの裏返しかも知れず、
わたしの考えは続きます。
20年たてば、おそらく多くの「近しい人」を
距離的に、そして時間的に見送っているのだろうと思います。
今までもいろんな人をいろんな形で見送り、
そしてそのたびに悲しい気持ちでいました。
でも本当は時間は全てのものを一緒に運んでいるので、
全てのものは形を変えていつもわたしのそばにあるはずです。
そして2027年には、それらの流転した材料が再構成されて
わたしの前に現れていることになります。
今住む土地、口にできる水は
「ある日」の「誰か」のかけらで、
そのメッセージは地球という枠の中に保存されています。
むこう20年で何百兆キロワットのエネルギーを
原子力で生み出したとしても、
地球の質量は数キロ変わるわけでもなく、
ロケットで地球外に物を運んだとしても
琵琶湖よりも少ない量の飲み水しか運べず、
全てはこの地球にちゃんと閉じ込められているのです。
そして、絵空事ではなく、物理のあらゆる正確さをもって、
わたしはこう言うことができるはずです:
2027年にも、
わたしとあなたは互いのかけらを感じながら
この世界の中に居続けています。
人は非線形物理の演算結果から
未来予測ができない生き物だと言い、
それはこの世界全ての物理についてそうなのですが、
意識がどこから来るのか、それは
客観を伴う物理では説明がつかず、
その説明がつかない意識ならば
人の意識だけは「未来」を見ることができるのではないかと
なぜか今は思っています。
この世界は「わたし」という入れ物の外にある、
それはとても理屈に合わない出来事であって、
そんな出来事が既に起こっているのなら、
未来を描くという作業が、そして見えない何かに祈ることが
それを果たす一歩になる、そんな気がするのです。
わたしはひつじ年のうお座で、
本のお話に拠れば
それらはともに清らかなる物の象徴なのだそうです。
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