金曜日, 6月 01, 2007

冬に食べていたアイスです。
物珍しさがあって、味よりも楽しみと思って買ったら、
アイスはなめらかでとてもおいしかったです。
自分が前もって思うよりもよい、ということがあると
人は喜びます。

わたしにはアイデアがあるのだ、
だから忙しくて、誰かの手を借りたいのだ、
だからわたしに手を貸さないかと
いろんな人が言いに来ます。

それはおそらく今に限ったことではなくて、
ひとは「脳の出す欲求」が体でできる限界をいつも超えていて、
殻に閉じ込められた脳は出口を探しているのでしょう。

わたしは何かやりたいことがあると
ほとんど自分で解決しようとしてしまうため、
人には「もっと人に頼めばいいのに」と言われます。
人に頼まないのは人を信頼していないからだ、とか
時に言う人がいて、
そうかもしれないと思うときもあり、
そうではないと思うときもあります。

面倒だからとすぐ人に頼む人がいて、
その人は別に信頼しているということとは相関がなくて、
ただ自分に便利であればいいと考えているだけだと思っています。

すぐにしたい、を応援します、というOn Demandに応えることが
果たして「適切なサービス」なのかと
時折考えます。

脳の要求に応えること、が人にとって適切であるといい、
事業者にしてみればそれで散財してくれれば後は知らない、という感じに
受け取れる場面も多くあり、
一時生きていければそれでいい人もいて、
一度その人の感覚になって世界を見てみたいと思うこともあります。

遺伝子には機能発現に必要がないといわれている情報の部分があり、
その部分には「伝えられる心」が書かれているのではないかと
ふと思うことがあります。

長く祖先が語り、思ってきたことは
みな遺伝子の中に書かれてしまっていて、
たとえばある年齢になると発動する「心」があり、
そしてそれを自らの意思として動いては
また記録を書き足していく、そんなことを繰り返している気がします。

気の持ちようで病気が治る、ということは確かにあって、
プラセボは日本語訳で「偽薬」と書いて
それは偽物のようなのですが、
実在する現象であるならそれは意味のある行為です。

気持ちが自分の何を変えるのか、ということを思うとき、
わたしは遺伝子にアクセスしているような印象を持ちます。

全ては跡形もなく消え去ってしまうのではなく、
記憶にないことは忘れてしまうのではなく、
わたしというものは遺伝子を読んだり書いたりをずっと繰り返していて、
その方法として「わたしの言葉」があるのではないかと思ったのです。

遺伝子はその並び、つまり「言葉」に意味があるもので、
もちろんその並びは量子論的に決められた機能を持っていて、
だからわたしの言葉は、わたしに定められた機能を発現します。

隣のデスクの人と話すことは、
その人は「神はルールなのだ」と言い、
わたしは「神はシステムの中にいる」と言い、
それは異口同音であることに気がつくのです。

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