火曜日, 4月 19, 2005

文字文化についての動機付け

水前寺清子の「365歩のマーチ」では、
1日1歩、3日で3歩、
3歩進んで2歩下がる、というくだりがありますが、
1日1歩であるならば
この「2歩下がる」は2日かかるのですが、
1日のうちに「3歩進んで2歩下がる」のであれば
やっぱり1日1歩で合っているのかなあ、などと
いろいろ想像をめぐらせている今日この頃です。

リテラシー、ということをふと考えます。
リテラシーとは、literatureの原義である
「文字」が読み書きできること、から派生して
メディア・リテラシーという言葉のように
「何らかの情報を取り扱う技術」という風に拡張解釈されています。

後世に何かを残せる、としたら、
お金とか土地とかいろいろあるんだとは思いますが、
その中で「情報を残す」ということに
今ひとつ関心が薄いように思います。

情報そのものは媒体が変わっても存在し続けるもので、
本がネットに置き換わって進化したとはいっても、
情報そのものがないとどちらもただの入れ物です。

情報そのものが消滅する時は、
情報を含んだ媒体が消滅したときです。
すなわち、情報そのものには延命策があります。

まだまだパソコンソフトのヘルプファイルを
読むのが苦手です。
どこに何が書いてあるかを探すのが面倒なのです。

文章を書いて読んでもらう側になって、
いったい文章にする意味とはなんなのかを考えてきました。
ある人が言うには、
「論文とは自分の名前を載せた勲章みたいなもの」という
表現でした。
しかし名誉のために文章を書くのであれば、
わたしには書く意味がありません。

自分が前に書いてみた拙文が
紀要集に掲載されていたりしますが、
それを読める人であれば、誰でも平等に
その情報を知ることができるようになります。

対して本人が媒体を通じて情報を残していないと、
情報を受け取れるかは本人の恣意的な問題によって
おおきく左右されてしまいます。
これはある意味で不平等さを拡大するものとも
なりかねません。

この意味で、文字にされたものというのは
それに興味を持ち、手に取った人には
何の区別もせず平等に情報を与えることができる
ありがたい道具であることに気がつきます。

つまり自分が知っていることを文字にする、ということは、
大きな目で見ると平等な世界を作るのに役立っている、とも
言えそうなのです。

行動、というものの中に
日本人は言動とは異なる
ある種の聖域感を持つものかも知れないのですが、
文書化、というものは言動とは異なる側面を持つ、ということに
もっと目を向けても良いと思います。

執筆という作業によって世界が平等に近づくという動機付けがあれば、
喜んでその任務を請け負いたいと思います。

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