金曜日, 4月 29, 2005

将棋を習っておけばよかった

三宮へは何度か来たことがあって、
それなりに道を知っているはずだったのですが、
夜行バスを降りると知らないような景色が広がっていて、
しかしそれは三宮の駅前、という
場面に出会いました。

自分の中で「背圧の処理」と名づけているものがあります。
それは「後片付け」のようなものなのですが、
すこし持たせたい意味が異なります。

私は部屋の中のガラクタを捨てることには
慣れてきましたが、
物事に区切りをつけるのが苦手です。

さて、時間を測定可能にするものというのは。
時間によってあるものの状態が変化し、
しかる時間の後ある状態へと戻るもの、と
決まっています。

区切りとは小さなサイクルの終わりの部分を
意識することから始まります。

最近で出た日本のポップスを聴いていて思うのは、
フェードアウトで終わる曲が少なくなったなと
感じることです。
ちゃんとピアノの和音で閉じていたりします。

フェードアウトはその曲がいつまでも
残ってしまうような感じがあって、
それを狙って意識的にフェードアウトをさせるのはよいのですが、
落としどころに迷ってフェードアウトさせた曲は
なんだかもやもやした感触が残ります。

バブルが終わったことは、
人に終わりを意識させるようになったのでしょうか。

定年以前の退職も、夫婦の離婚も、
ある意味では「終わりがない」と意識されるようなものに対して
終わりを設けたものだと思います。

なんでも終わればいいというものではないのですが、
人は自分の命が終わって
何もかもわからなくなってしまう前に、
人が取り扱う物事には終わりがあり、
そのための準備は
特別に用意しなければならない、
ということを学ぶことで
心の落ち着きが得られると感じています。

小田和正の「風の坂道」という曲の中に、
この時が永遠に続いて欲しいと願うときに
人生には終わりがあると感じた、という感じの
くだりがあります。
終わりがあると意識するのは後ろ向きな意味ではなく、
そういう風にしかできていないこの世界の事実を
逃げずに受け止めることでありたいと思います。

人としての終わり、この世界としての永遠、
それは矛盾するものではないはずです。

将棋を習っておけばよかったと思います。
ある程度の許容できる犠牲の見積もりの元で
大局的に決着をつけて終わる、ということの
ヒントがありそうな気がするからです。

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