水曜日, 4月 20, 2005

ひと雨ごとにあたたかく

中尊寺です。

梅との対比は歌川広重を意識してみました。

今日はわたしの本嫌いについての話です。

小学校に入るまでは
家にあった百科事典のページをめくるのが楽しみで、
二十数巻ほとんど目を通していましたが、
本がお勉強になってから、一度読書が好きではなくなりました。
読書感想文が苦手だったのです。
まず字を読むことが苦痛でした。
さらに、どんな感慨も湧かなかったのに、
感想を述べよというのも納得が行かない話でした。

その意識は中学校が終わるまで続き、
読書感想文もなくなったので
3年間で3冊しか借りに行きませんでした。

曲がりなりにも本を借りに行く、という習慣ができたのは
高校に入って3年目ぐらいの頃です。
どちらかというと、最初に本を読み始めたのは
格好つけたかったから、という理由だったと思います。
ジャンルは小説と、科学もののみでした。
それ以外は伝記も歴史も経済も哲学も全く読みませんでした。

確かに本を読み始めるきっかけは
純粋な動機ではなかったのですが、
そこは作家の力があって、物語に引き込まれるような
感覚を体験することができたのは幸せでした。

大学に入って、再度本から縁が遠くなりました。
書いてあることが難解なものばかりになってきた、というよりは、
現実世界をなんとかするので精一杯で、
空想の世界へ行くほどの余裕が持てなかったためです。

そんなわけで、
本が好きな時期と、嫌いな時期が大きく分かれています。
わたしは本が好きな人の気持ちも、
本が嫌いな人の気持ちも中途半端に理解しています。

この1、2年ほどは
暇があれば本屋に行って何かを買ってくるような
生活を送っていました。
とにかく何でも良いから読んでみたくなったのです。
小説が一番少なく、新書とビジネス書が一番多い感じです。
ビジネス書は研究と何の関係もなさそうですが、
関係ないからこそ読んでおきたかったのです。

最近小説を読まなかったのには理由があって、
それは小説は意図的に不完全にされた人間が
意図的に事件を起こしている、と
感じられたからです。
まっとうな人間ならそんな常軌を逸したことはしないだろう、というのが
それまでの感想でした。
そして人間はそんなに不完全であってはならず、
理想を求めていかなければならない、とも思っていました。

しかし最近になって、
どこまでか突き詰めると
どうせ人間は不完全じゃないか、という
気持ちが少しずつ増えていきました。
そして自分の理性も欲も、
結局は不完全な結果を導いてしまうことがあるのだ、ということも
徐々に受け入れられるようになりました。
それから小説を読むのが改めて好きになりました。

人間は書き換え可能な知識が非常に多い代わりに、
本能と呼ばれている
自然と一体化するために必要な記憶をほとんど持っておらず、
どうかするとその本能さえも書き換え可能であったりするため、
生まれてから自然と一体化するための努力が必要な
生き物なんだな、と最近感じます。

書き換え可能な知識がどれだけ自然に近づけるかで
その人の自然界での行動範囲が変わってきます。
恋はおそらく本能の一部であり、
それを理性で捉えようとするとおそらく破綻するだろうと
今は思っています。

歴史を良く調べれば、
人生の道筋などというものが示されたことは
過去に一度もないことに気がつくはずです。
大学があろうが、会社があろうが、
年金があろうが、法律があろうが、
それと自分の人生の道筋とはやはり異なっているものだと
時々は思い返したいなと考えています。

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