木曜日, 8月 30, 2007

うたうたいの気持ち

「シンガー」でも「歌手」でもなく 歌を歌う人は「うたうたい」だと
自分の中では呼んでいます。

素敵な恋の歌を聴くことと
そのうたうたいが失恋したのだという ニュースを耳にすることは、
こんなに完全な恋が表現できるのに
なぜうたうたいが失恋なんかするのだろう、と
ずっと不思議に思わせてしまいます。

「うたうたいも人だから」はその通りの答えで、
しかしそれを認めてしまうには
耳にした歌はあまりに美しいのです。

すべての機械にはそれを作る「マザーマシン」があり、
その「マザーマシン」だけは人が手で作ります。
しかし機械の世界は常に、
マザーマシンの精度以上の性能を
作られたマシンは持つことが出来ないと決まっています。

人はまったく不完全で、
でも人は自分自身より完全な歌が歌える、としたら、
それが人の不思議のひとつだろう、と思うのです。

?の!

現場を知らなければどんなに平和に「思える」世界であっても
現場を見ると予想とは違った様相になっていたり、
そして難しいと「感じる」世界であっても
飛び込んでみると意外にうまくつかめたりして、
「わたし」の今までの予想が役立たない場面によく出会います。
これを話すと
そんなの当たり前だ、と多分言われ、
しかしこれが常に誰しも持つ普遍的な事実であって
それにいつも手を焼いていることに向き合ってくれる人は
どのくらいいるのだろうか、とふと思います。

「宗教観」を出来るだけ持たないようにしようという発想から、
これまで宗教に関する記事や本には
出来るだけ近づかないでいようという意識がありました。
人が宗教と呼ぶとき何らかの方法で対立を生むことは分かっていて、
宗教を語らずにこの世界を表現する努力をしていました。

しかしこの世界には確かに「宗教観」というものがあるのだから
偏見を持たずに調べてみよう、という試みは
去年の春に始まりました。

買っては読み、しばらく時間を置き、
別の本を探し、という作業を繰り返して
「シュウキョウ」という言葉に
一体どんな人がどんなイメージを持とうとしたのかを
整理することも出来ずただ読み進んでいました。

「問う」という言葉の特殊性、について
人はずいぶん長いこと「問い続けてきた」ように思います。
「問う」という言葉は「無限」という言葉に意味が近く、
無限の定義が「留まることなく増え続けていること」と同じように、
「問う」という言葉は留まることなく歩き続けることのように思います。

たとえば禅は答えのない問答を続けるのだといい、
ヨブ記はただひたすら神の存在を問う人間を描き、
仏教は終わりのない彼岸へと向かう道なのだといい、
そこに共通するのは「留まる何か」を与えることではなく
「常に問いかけること」だけが
人が自らを支えられる方法だと述べているようにも思います。

あるのは物理でも法学でも名前のついた学問でもなく、
「問う」ということであって、
これはどちらかというと敬虔という意味合いが近く、
外に問うaskと内に問うquestionの両面で成り立っていて、
調べていくとreligiousという「状態」が敬虔であるのに対して
religionという「名づけれられたもの」を宗教という別の漢字で充てています。

ある日が昼ごはんを食べながら宗教観の話になったとき、
わたしの話に興味を持ってくれた彼に
「日本人は皆そんなにreligiousなのか」と聞かれ、
[日本人はreligionを持っているのか]という問いではなかったことを
思い出します。

わたしが求めるものは問う状態であって、
しかし宗教は滑走路のようなものであって、
ある点までは地面の助けを借りますが
ある点からは地面を離れて飛び立つように
設計された言葉の集まりであると考えます。

それを意識しているからか、
哲学の最後は問いかけで終わるものが多くて、
そして哲学の最後は自らの存在を否定して終わります。

自らの存在を否定する力を持つもの、
それを人は宗教のいう名のセットとして持っています。

月曜日, 8月 27, 2007

ミームが世界をつつむとき


つくばまつりでねぶたを見てきました。

木曜日, 8月 23, 2007

空想日記

月の話をしながらふと空想しました。

物理を構成する4つの力の起源である
大統一理論を調べるためには、
今人間が手にしているエネルギーの
およそ100万倍の100万倍が必要です。

これを手にするにはコライダー実験と呼ぶ
2物体の衝突実験が必要です。

ここである科学者が
月を光の速度まで加速する原理を
発明したとします。

人はこの世界の起源をはっきりさせなければ
人が存在する理由を説明できないことを知り、
緊張が高まっていきます。

地球上ではもはや大統一理論の実験ができない事を知り、
ある日人間は地球会議を開き
月を太陽系外にあるほぼ同じ質量の惑星に衝突させて
コライダー実験を行うかどうかを決める
すべての国の人が参加する投票をおこないます。

月が消えれば潮の満ち干がなくなり、
あらゆる生態系のリズムを狂わせ、
夜道を照らす明かりもなくなる代わりに、
人はこの世界の起源を明らかにできる
唯一の可能性をもつことになります。

こんな状況になったとき、なんとなくわたしは
人間が「月を失う」ことに賛成してしまう気がするのです。

金曜日, 7月 27, 2007

いくつかの思想からなる5行詩

思想の前提
・非常にしばしば転置を起こしてしまう感覚として、
行動が悪であるというものがあるが、
行い自体に善悪があるのではない:
善の定義は
それが「あり方」の問題であることを指し示しており、
善の定義は具体的行動を規定しえない。

・善の思想は世俗的道徳とは独立した概念であり、
世俗的道徳を完全に満たす善は存在しない。
この意味において、
いかなる人間にも恒常的かつ永続的な善は宿っていない。

・外的な社会の保持には我々は情報と模倣が必要である。
重要なことは外的模倣をしないことではなく、
外的模倣と内的(心的)模倣を混同しないことである。

・真の未知=現在は真の未知であるがゆえに
本来知覚できず、
恐怖は常に既知のものからのみ生じる。


・思想の正しさは
外的世界のいかなる既知の現象にも
その基礎を求めていないときにのみ生じる。

木曜日, 7月 26, 2007

アニマと世間話をする

あくまで比喩として人の命は地球より重いといい、
しかし地球にはたくさんの人が住んでいるのだから
この比喩はどこまで受け止めるべきだろうかと
ふと思うことがあります。

似たような例で、
人間はこの宇宙で取るに足らない存在だといい、
しかしこれを言っているのはあくまで人であるので、
宇宙と人間存在の大小は価値観に拠ったもので、
わたしとあなたは等質であるというのが
適切かな、と感じることがあります。

たくさんの海を見て自分の心の中に海が描かれるように、
たくさんの人間を見て心の中に人間が描かれます。
心理学の言葉でアニマと呼ぶ自分の女性面があって、
時折それを意識することがあります。

そのような心は誰にでもあるのだ、と本にはあり、
しかし心理は主観に基づく個人固有の持ち物であるので
「誰にでも」の客観的観察を前提とした言葉に
なかなか確証をもたせることができません。

女性面があるからといって、
服が着たいわけでも化粧がしたいわけでもありません。
現実の女性の方がよほど綺麗だと感じるからです。

だからといって女性のように遇されたいわけでもありません。
それ自体は良いや悪いではない中性的な現象なのですが、
たくさんの女性がそう思うらしいと書いてある本によるところの
「女性が喜ぶ」ような事柄に興味があるわけでもないのです。

それで日記を書きながら自分のアニマは何がしたいのかと見つめていくと、
どうやらさまざまな感情の交叉を意識する必要なしに
ただ世間話がしたいのではないかとふと思いつきました。

性差を意識することなく話す友達はいますが、
それでもその立場はやはり男性と女性の担当を分けていて、
男性同士、女性同士で話するような
心理状態の基盤の共有を伴う会話にはなりません。
そしてそれは実現できない願いであることに気がつきます。

男性と友達であってもそのアニマが満たされるわけではなく、
女性と友達であってもそのアニマは見出されることはなく、
ただ時折わたしが私以外に友達のいないアニマを訪ねては
月の浮かぶ湖のほとりで
とりとめのない会話をするように思うのです。

火曜日, 7月 24, 2007

読むなら古い本を薦めます

夏なら毎日食べてもいいと思っているものは
そうめんと厚揚げです。
どちらもしょうが、ねぎ、みょうがと
薬味を効かせて楽しみます。

タイムマシンに乗る方法があります。

一本の木について注目すれば
それは時間の経過がわかるのですが、
たくさんの「木というもの」について注目すると
それはある時間幅の中では普遍的として取り扱える
対象になっていきます。

時代を表現するには言語、非言語を含めた
何らかの「情報」が必要です。
そしてその表現の一つが言葉であり、
本はその言葉を残すために作られます。

科学の世界ではその分野の創世記とともに
それに関わりを持ったいくつかの人物の名前と
世に発表した研究論文という「ことば」が紹介されます。

その分野を作った論文なのだから
さぞかし難しいだろう、というのがわたしの予想だったのですが、
なぜか一番初めに書かれた論文が
一番読みやすく平易に記述されているように感じます。

それを引用したものはどれもひどく展開が省略されていたり
理論が発展して見た目が難しくなってしまったりして、
読んでいて面白いものは多くありません。

たとえば物語の感想について詳しく書かれた書物があって、
しかしいくら詳しく書いてあっても原典が持つ意味には届かない、
というものをよく見かけます。
「わたし」に関して記事にするほどの「変わったことがない」と
人はかなり思うようで、
それは確かに同じ「名前」のついた電車に乗って
同じ「名前」のついた場所の席に座り、
自らが考えることではないという仕事をしている、という認識では
それらは「決まっていること」だとみなされる傾向にあります。

あらゆるものが本来「同じ」にはなりえないのですが、
「人と同じことをしている」と感じることもまた
「わたしは特に面白いことをしていない」という連想に向かう
ひとつの理由付けとして使われることになります。

わたしたちは「同じ」であることにもう少しなじむ努力をする一方で、
「同じでない」ことを認めていかなければならないのかもしれません。
日本語が使えるからといって分かり合っているとは限らないし、
それなのにあなたとわたしには同じ重力の仕掛けが働いています。

昔から何度も読まれた本がある、といい、
しかしそれをわたしやあなた自身が読み始めるまで
それはどんなに名著だとよばれていても
本としての役割を果たさないものです。

月曜日, 7月 23, 2007

夏の料理にはよく火を通す

蒸し暑い日が続いています。

食べ物の日持ちをよくするために
「食べられる火の通し加減」よりももっと長く
煮るや焼くの時間を取ることで、
食べ物の日持ちをよくすることができます。
なんとなく中華料理のように
火を入れる時間が短い方が酵素やビタミンを失わずに
済むような気もするのですが、
長く火を入れた料理を食べると
不思議と体が落ち着くような気がします。

煮物というのは本来おいしさを保つために
火を止める時間加減のある料理なのですが、
作って食べるときには頻繁に火入れをし、
しかも煮過ぎてもあまり気に留めずに口にでき、
それが体に優しい食べ物になる理由なのかもしれません。

金曜日, 7月 20, 2007

短報

わたしは普段眼鏡をしていません。
しかし「日常生活する距離の視点」、
50cmぐらいのところの物を見るのがとても苦手です。

エスカレータの降りる場所を
足元を見ずに知ることができます。
視野角が広くなっているようなのですが、
そのせいで一日過ごすと眼がとても疲れます。

中島義道「悪について」を取り寄せています。

世間が決めた道徳が善だとは思っていません。
道徳の是非は時代によって変わるからです。
そして変わるものにしがみつくことはできないからです。

法が善だとも思っていません。
法は人が作り出したもので、利害の調整はできますが
それで社会に絶え間なく生じる「新たな問題」をカバーできてはいません。

わたしが感覚的に信じている善は
自分の都合よりも「それ」が優先できるかであって、
大事な人の定義であればわたしの都合よりも
その人を生かすことを優先することとなります。
それは「自己愛」を脇において考えることでもあります。

だからといってわたしは「善」という言葉が
ポジティブな意味ではまったく好んでいません。
「善」とは肯定的に存在するものではなく、
あらゆる付帯物を否定してなお打ち消せない、という方法でしか
確かめることができないものだと思うからです。

この感覚はおそらく道徳的な法に縛られて安心する人には
まったく厄介なものになります。
可能な限り法の枠の中にいようと努力はするのですが、
絶対に法の中にいるとは約束しないからです。

すべての人がそうである、とは決して言わないつもりですが、
多くの女性の「正しさ」は潜在的に「自己愛=わたしのため」を含んでいて、
わたしが求めるものとは少しだけ違う気がするのです。

わたしは自分のことを正しいとは言わないつもりです。
それが喜ばれることでもなければ好ましいものでもないことも、
まして正直やありのままでなかったことも認識しています。
過ごしている時間のほとんど全てが
自己愛に根ざしたものだとも思っています。
でもわたしは大切に向き合っているときに
「自己愛」から離れた選択をしたつもりです。


火曜日, 7月 17, 2007

祈りという高級言語

東京駅から博多駅まで新幹線のぞみで5時間ほどです。

行きはあなごめしか深川めし、

帰りはかしわめしをお薦めします。

わたしなりに科学の予想をすると、
意識の問題が解かれるその少し手前で
祈りの問題と意味が解かれるだろう、と
最近考えています。

祈りには言葉が必要です。
そして正確な意味での祈りでは
眼に見える物体の対象はありません。

言葉は伝達のための手段だといわれています。
心理学療法などでは意識の間に言葉を介在させて
意識への働きかけを求めます。

言葉は自己認識の手段だともいわれています。
話す対象へと言葉を投げかけることで
それが強化されていくのだといいます。

プラグマティズムの世界においては
「意思」を言葉で作ることになっていて、
自己暗示をかけるであるとか言われています。

計算機に指示を送るプログラム言語は
最初は0と1の数字をいくつか並べたものを
ひとつの「命令」に対応させたもので、
アセンブリ言語と呼ぶこともあります。
アセンブリ言語は非常に高速ですが、
膨大な命令群をアセンブリ言語だけで記述するのは
時間的制約から無理があります。

たとえば漢字を使いたい場合、すべての漢字を
メモリ上のアドレスを指定して表示させるのはほぼ不可能です。

そこで「アセンブリ言語のまとまり」をさらに抽象化したものを
新たに言語とし、これを高級言語と呼ぶことにしました。
こうすることによって、"Aを画面に表示する"というような命令文で
実際に画面にAを表示させることができます。
そこでは計算機的にどのようなデータの流れが存在するかは
見ることができません。

高級言語にはいくつかの欠点もあります。
逐次翻訳型とよばれる高級言語は
すぐに動きますが翻訳プログラムを常に通すために
できたプログラムはあまり速度が上がりません。
一方で先に翻訳してしまう高級言語は
速度は速いのですが翻訳にかなりの時間がかかります。

面白いのは、翻訳機の性能が変わると
同じ高級言語の同じ命令であっても
実行プログラムの速度と機能がまるで変わることです。

時折、祈るだけでは何も変わらない、という人がいます。
祈りは精神の純粋な活動に近いものであるため、
実存主義的な「眼に見える変化」になじまないのだと思います。
しかし祈りは「高級言語」に近い働きがあるのではないかと
最近考えています。

それは誰もが実行できることではないにせよ、
ヨガで代謝や心拍数を変化させたり、
強い意識が病気を治す力を高めることなどの実例から
現象論的に説明できます。
誰でもできないから証明できない、と言ってしまうのは
誰でもスノーボードで宙返りができないから
わたしは信じないというのに近い感じがしています。

人は祈りによってその具体的な方法を意識することなく、
その方法を実行する手段を身につけられるのかもしれません。
そして人が経験によってより適した翻訳機を持つことができれば
同じ願いであってもより叶いやすくなるように思います。
そしてそれ以上に、
祈りはわたしという枠を超えたところへ作用するような気がするのです。

祈りという行為がどのように実体に作用を及ぼすのか、
わたしは試してみようと思います。
現実には叶わないと考えられている願いを、
すべての人に幸せが訪れるよう願うことを、
祈りがどう叶えるのか調べてみたいのです。

木曜日, 7月 12, 2007

慰めと共にあることの意味

雨が降っています。
福岡に比べて関東の梅雨はあまり蒸し暑くないので
それほど気になりません。

わたしが思いめぐらす「ある種の悩み」は
かなりの部分が「ヨブ記」に語られているような気がします。
ヨブは敬虔に生きようとし、自らの罪を認めていて、
それなのになぜ世界はわたしを苦しめるのか、と
神に問いを投げかけます。

周りの人がこぞって悩む彼に性急な結論を与えようとして
理由付けをし幾多の言葉を投げかけますが、
彼は「人の語る言葉で説明などできない」から
「どうか神に問わせてくれ」と願います。

キリスト教を広めるものにとってはヨブ記の章は
「よい事を信じればかならず報われる」と解釈しますが、
これを現実に当てはめれば
そうではないことはよくわかっています。

わたしがヨブ記を読んで慰めを得るのは、
それが最後には救われるという打算的な約束があるからではなく、
同じ悩みと苦しみを感じた人が
以前からこの世界にはいる、ということを認識できるからで、
物語の中のヨブは一人荒野の嵐で立ちすくみますが、
これを読む私の心は彼と共にいて、
わたしが問いかけることと同じことを言葉にし、
ただ同じ苦しみを持つものだけが与えてくれる慰めを
得られるような気がするのです。


「無駄口はやめよ」とか「何にいらだってそんな答えをするのか」という。
わたしがあなたたちの立場にあったなら
そのようなことを言っただろうか。
あなたたちに対して多くの言葉を連ね
あなたたちに向かって頭を振り
口先で励まし唇を動かすことをやめなかっただろうか。

ヨブ記16章3-4

月曜日, 7月 09, 2007

increment, incruded

わたしとわたしたちの動機付けが
すべて何らかの「仮説」に基づいている、という言葉を作ったとして、
それを証明する方法は存在するだろうか、と
ふと思います。
なぜならば、「仮説に基づいている」という言葉自体が
「仮説」である域を超えないからです。
トートロジーのように聞こえるこれが
どうやらある種の普遍性を帯びていることに
ふと戸惑うことがあります。

ここで「仮説」に対する「実証」を考えるとき、
わたしたちは現在のところ「宇宙の始まり」に
実証の由来を求めるほかにありません。
宇宙が始まったことと、時間が進むことだけが
この世界の普遍的な出来事で、
この証明の前にはあらゆる寓話的仮説が排除されてしまいます。
そして宇宙の始まりは
わたしたちすべてがどう生きるかという問いに対して
まだ何らの「言語的」回答が示されていません。

「証明されていないもの」を「仮説」と呼ぶのであれば、
私たちは「仮説」の中で生きていることが「証明」されています。

ここで宇宙は「始まった」としましたが、
宇宙にある「起点」が存在するのか、それとも循環しているのか、
その点について論争が続いています。

わたしたちが何かを決めると行った時に必要なものは、
「絶対的真理」ではなく「仮説」です。
「絶対的真理ではない」理由は、
おそらくわたしたちが「人」に生まれているせいで、
宇宙の果てを観察することもできず
空も飛べないほどの限定された存在だからです。

わたしたちはさまざまな仮説を立てることができます-
神はいるとか、神はいないとか、
争いは続くとか、争いは終わるとか、
幸せはあるとか、幸せはないとか、
そしてすべては「仮説」であるとか、あらゆるものが「真理」であるとか。

しかしわたしが思うことは、
これらすべては「仮説」だろうな、ということです。

日曜日, 7月 08, 2007

Miscellaneous

食材選びに一段落して
新しい器を買いました。
器は大きさやデザインのほんの少しの差が効いてくるもので、
それは宝石をあしらったアクセサリーにも
共通したことが言えます。

日本人はよく「神を持たないこと」を誇っているようなところがあって、
神なんか持つから戦争なんて始めるのだ、と
時に言いたげな場面に時々出会います。
religionという言葉に当てはめた意味について
わたしは時に詰めなければならない考えがあるように思います。

平等院鳳凰堂ができたのは浄土に早く行きたいという
末法思想の影響があったといい、
歴史上人は時々神を見失っています。

神の指針が揺らぐことと
教義が揺らぐことはある意味で等価で、
須弥山を中心とした仏教の世界観が
「地球が丸い」ことを示したキリスト教と衝突したりして、
教義は言葉でできているためにこのような事が起こります。

いくらこのような書き方をしても、
「世に広まった」というときでさえ
必ずそうは思っていなかった人たちの生活があり、
「教義が議論になった」といっても排他的に生活をしなかった
人たちの営みがあったはずなのです。

水曜日, 7月 04, 2007

シャボン玉がストローを離れるその瞬間

空の鳥を良く見なさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。
マタイによる福音書6章26節

火曜日, 7月 03, 2007

探し物は「安心」ですか、それとも「安全」ですか

埋めて戻す、を繰り返す道路工事があって、
たとえばそれは税金の無駄遣いだと言われることがあって、
しかし契約を纏めて収入が減ると嘆くのは土木の人で、
実際の多くの場面では雇用側ではなくそこから会社の経費を引かれて
支払われる労働者が困ることになって、
なぜか無駄遣いの結果益を得るはずの人のところで
収支のつじつまを合わせるようなことになる、
このシステムの醸成とそれにかかる危険の放置が
金融業や虚業の最も深い罪だと思っています。

たとえ虚業でも新しい健全なシステムの構築へと
エネルギーを振り分けられるのであればそれは建設的な仕事で、
わたしたちはそれぞれの職業で
なんらかの「ものづくり」をし続けることが
健全な循環の社会を作る鍵だと信じています。

シソーラスがあって、
それはよく似た言葉を集めて言い換えを促す辞書、という
側面を持ちます。
最近気になっている近い言葉は
satisfyとfulfillの違いで、
それに対する訳に何を当てはめるべきかと考えています。

satisfactionと書くとまず「満足」と出てきて、
一見それでよさそうなときもあるのですが、
満足という言葉はよりfulfilledに近い意味合いを持つような気がして、
それでsatisfactionは「安心」に近い意味を持つのだろうかと
ふと考えました。

調べたところ「充足」という言葉が出てきて、
これなら意味が近づく感じがします。

ではeaseなら「安心」に近づくかというと、
easeは「気を抜く」に近いニュアンスもあって、
安心という状態とはやや異なることに気がつきます。

和英辞典で安心を調べると平和を指す"peace"が出てきて、
peacefulはそれに近い意味合いかもしれないと思います。

reliefは確かに「安心」に近づきますが、
これは「何かからの開放」というニュアンスを含んでいて、
安心は不安と対極にあるものですが
不安から離れることが安心ではないと感じて、
これは安心の意味とはまた違うと思ってしまいます。

気になったのは安心の中にsecuredが入っていて、
今日の疑問はこの「外的・物理的に防備された」というsecuredで
「安心」が得られるのか、というところへと向かいます。

外的に求めるものが「安全」で、
内的に求めるものが「安心」だとすると、
わたしたちは求める方向として二つあることが分かります。
そして方向が異なるのであれば注意が必要で、
安心が欲しいときに安全を求めることは理に適っていないし、
その逆もまた理に適いません。

たとえばいくらドアに鍵をかけても、
それは家を安全に近づけるだけで安心はしません。
一方でいくら安心して橋を渡っていても
橋の点検を怠って強度不足であれば安全ではありません。

安全が安心に繋がるのか、という問いは
わたしは繋がらない、と答えるような気がします。
そして人は非常にしばしば「安全」と「安心」を混同しているような気がし、
また「安全」で「安心」が手に入るか、
「安心している」から「安全である」と思い込んでいるふしがあって、
それが極めて似通った概念であるからこそ
わたしたちは使い間違えるのです。

安全は安全に向かう道があり、
安心は安心に向かう道があります。
そしていついかなるときにも「安全」は担保されないかもしれませんが、
「安心」は求めることができるかもしれません。

月曜日, 7月 02, 2007

fearとseeについて

苦手な仕事に就いたと思うときがあって、
しかししばらくすると自分の得意な持ち場を
生かせる場面が現れることがあります。
この時得意である持ち場というのは
かつて苦手だったけれど我慢して身につけたというものが多くて、
それで「得意」と「不得意」は移り変わるものだと
気がつきます。

あらゆる言語は非常に厳密に言えば翻訳不能です。
それぞれの単語が指し示す意味の範囲が
厳密に同じであることはありえないからです。

それでも翻訳を試みる場合には
何らかの観点から切り取る、という作業を行うことになります。

単語は一つ一つが文化的な成り立ちを持っています。
日本人の間でさえ「その言葉が指す意味は何か」などと
形而学的疑問を投げかける人がいるぐらいなので
違う言葉にすればなおさら異なった意味になってしまいます。

しかしある人がある言語を
「文化的背景との深い関わりを持たずに」用いたとすれば、
実はその言葉は最初から限定された意味を持つことになり、
かなり正確な表現となる場合があります。

日本語ではそれが非常にしばしば行われていて、
新しい現象に対して外国語を借りてきては当てはめ、
その現象のみを指し示すように仕向けることがあります。
それで日本語のjargonには
気取ったようにと揶揄される外国語の単語が並び、
そして外国語の本来の意味に通じている人が見ると
何を言っているのか逆に分からなくなるという現象が発生します。

今読んでいる本のキーワードはfearとseeとtotality、fragmentationで、
全体や断片に相当する言葉は比較的意味範囲がオーバーラップできるのですが、
fearとseeはかなり込み入っていて、
それをどう訳そうかとかなり考えをめぐらせています。
よい表現があったら教えてください。

木曜日, 6月 28, 2007

ある日、月まで燃料の石を拾いに

所を出る直前に携帯電話を水に濡らしてしまい、
携帯を持たないままJRと新幹線に乗りました。
JRのホームに設置してあった公衆電話は
硬貨ではなくテレホンカードでしかかけられないタイプのもので、
10年ぐらい時間が逆戻りしたような生活をしています。

がん細胞の研究をするグループの人と
最近良く話す機会を持ちます。
たんぱく質は「機能」を持つにもかかわらず
それ自身は生物ではない、という話題があって、
「生物」の定義を「自己複製」というものに当てはめていることで
この問いを考え続けています。

機械に原子力の心臓を積み、
自らに工作機械を搭載して
自らとまったく同じ機能の機械を作れるようにしたら
それは生命と呼ぶのだろうかとふと思います。

これほど飛躍した話ではなくても、
街は確実に生き物としての性質を持っています。

新しい街には以前の街からの「文化」が引き継がれ、
経済、インフラ、行政の機能を分割して
それぞれがある程度自立したシステムとなるのだから
十分「生物」の定義に当てはまっています。

それより大きな単位になると
「生命」に類似したシステムを見つけるのは難しくなります。
地球を二つに分けたとしても、
それは小さくなってしまうので
正確には地球はそれ自体が生命としての定義を
持ち得ないことになります。

システムを繰り返すという点では
超新星の単位まで視点を広げる必要があります。

もし「地球を複製する」というプロジェクトが始まったら、
それはわたしたちが「生命」と呼ぶシステムになるはずで、
地球の質量を減らしてはいけないような気がするので
たきぎ拾いに出かけていたように
隣の星まで燃料の石を集めに行くことになると思います。

人はいつか太陽系を再編成できるのだろうかと考え、
そのとき地球自身があたらしい生命単位になるのだろうと思います。

水曜日, 6月 27, 2007

知性の非対称

最近の宇宙論に拠ると、
この銀河系は真球ではなくゆがんでいるといい、
それは宇宙が対称性を持っていないのか、
あるいは観測不能な対称性をもっているのかの
どちらかになります。

宇宙の始まりに非対称がたとえなかったとしても、
高温の宇宙が冷えていく間に統一された力は
その領域によって4つに分かれてしまっています。

仮にそれらの力が統一されたとしても、
多体系の物理は解析的に解くことはできず、
エントロピーがその乱雑さを規定します。

わたしたちは非対称であるこの世界のことと
統一した対称性を求めることについて
可能な限りの理解を深める必要があります。

極めて単純で規則的な微分方程式でさえ
眼に見える現象としてはカオス的になることや、
豊かな実りを授けてくれる自然でさえも
火山や津波や竜巻や地震を引き起こすこと、
晴れと雨が規則的に永遠にやってくることはなくて
それらは偏ってやってくること、
外見は対称であるようでいて
体内のつくり、
臓の位置は非対称であること。

そしてそれらからの演繹で言えば
平和を望む人と争いを望む人は
これからのどんな世界にも必ず存在します。

人間は60兆の細胞からできているのだといい、
時に免疫のフィードバックがおかしくなり、
脳の中ではさまざまな思想が衝突していて、
わたしという人間の中でさえも
調和と争いは日々続いているのです。

世界は「知覚できない何らか」の
バランスをとるようになっていて、
世界に戦争がやまないのはもしかしたら
わたしが平和という偏った状態を望むから
そのバランスをとるために争うのかも知れず、
それでもわたしは全ての人が
その見えない任を果たしていることを見たいと思います。

よく疲れ、時々みっともない思いをし、
風邪を引き、文句を言い、
くだらない思想に翼を与えることがあり、
しかし時に使命にも似たものを感じ、
目的に向かうことがあります。

どうかそれら全てが偏りのない形で認識され、
等身大の人間でいられたら、とよく思うのです。
しかしわたしのあらゆる面が「対称に認識されること」は
この非対称な世界ではとても難しいことかもしれません。

月曜日, 6月 25, 2007

脳はstaticを好まない

100Wぐらいの電源がパソコンに乗ったといって
驚いていたのは約10年前の話で、
今は1kWの電源が乗るのだそうです。
これは電気ストーブをつけているのと同じで、
部屋を閉め切って計算してみたらひどく暑くなりました。

スキーに行ったときに、スキーがうまくなった人から
「うまくなる途中が一番面白いのだ」という台詞を聞きました。

「うまくなりたい」ことと「うまくなる」ことのイメージが
なぜか人はしばしばずれているように思います。

目的があるということの中に、
「そこにたどり着くこと」への願いと、
「目標自体を持てること」への願いが重ねあわされています。

「何かをしたいのだ」という人に、
「じゃあ叶えてあげればいいのだろう」というのは
時に適切で時に適切ではありません。

この世は縁で成り立つのだといい、
それは「この世界がそうなっている」ということと
「脳がそうなっている」ことの二つに理由があって、
時に判断に迷います。