月曜日, 3月 03, 2008

淘汰は誰が引き受ける

バッティングセンターに行きました。
一度速度の速いコースで目を慣らすと
遅いコースで楽に見えるようになるのが少し不思議です。

わたしたちは相反するようなシグナルを受け取ることがあります。
「すべての人に食料を」と言い、
「このまま人口が増えれば地球が破綻する」と言います。

淘汰という言葉があって、
環境の変化によって特定の性質を持つ生物や事象が
選択的に優位な生存をする、という意味で用いられます。

人口飽和が今頃地球の関心事のようにとり上げられるのは不自然で、
小さな村の人口が飽和したところに旱魃が起こり
人為的に人口調整を行った例は数知れずあります。

ペストの流行、旱魃、厳寒や地震の猛威は
人の増加を阻んできました。
そしてこれらに対する対策から、医療や生活技術が発達していきます。

わたし自身が人間であり、生きることを望む限り、
わたしの言葉として「淘汰は必要であった」と言うことはできません。
しかしながら、人間は自然から力を引き受ける形で社会を成立させていて、
自然が生と死をもたらす力を持っていたならば、
引き受けた力で人間が生と死をもたらさなければならないだろうというのは
そこに「わたしの言葉」の領域を超えた真実があるのではないかと
ふと思うのです。
それはわたしが「リンゴは地面に落ちる」と言おうが言うまいが
現象としてリンゴが常に地面に落ちることと同じであるか、という問いです。

あくまで個人の生を望み、それを擁護する社会、
社会の最大公約数の人間を残すために選別を迫る社会、
わたしたちは神や自然から力を引き受けた瞬間から
この選択を私たち自身がしなければならないことになってしまっています。

生贄など未発達な文明が作り出した野蛮な習慣だ、などと
文化史は論じておきながら、
現代の人柱は「選択を下したもの」であり続けていて、
そこから一歩も進化していない、
だからそれに変わる選択法はないのだろうかと考えは巡ります。

「全てを捨てなさい」という言葉は思考の放棄ではないはずです:
それは変わり行く時と歩みを共にすることです。
自分が幸せになったからといって考えをやめてはいけないのです。

奪うと奪われるの別なく
あたたかい気持ちで過ごし、人と接することができれば、
それが最初の原点なのに、と春に思います。

木曜日, 2月 28, 2008

アナロジーがきかないもの

画面が光っているからなのか、
ディスプレイの文字はいつも読みづらく、
しかも画面は単一なのに内容が頻繁に切り替わるので、
それは「データ」ではあるのですが、
紙に書かれたデータと違い、どこか生き物のような
感覚を持ってしまいます。
コンピュータは決して紙に代われないのではないか、と
ふと思います。
たとえばコンピュータが架空の書棚を作り出し、
そこから「本を取ってノートに書く」ようなことをすれば
問題は解決したように見えますが、
結局のところそれは「現実の紙の概念」をコピーしただけであって、
紙の概念そのままだということになるのです。

アイグラスとグローブを使って、
情報の世界という「部屋」を作り、
コンピュータらしい複製や検索や演算の機能と
現実空間を混ぜてしまうと、
それは「魔法の世界」で遊んでいるのと同じことです。

結局脳は、脳だけで思考するにはもう限界があり、
体の記憶に助けを求めてきたような印象を受けます。
コンピュータで仮想空間を作るということは、
結局身体性が知性の方向を規定したことと同じです。

車と人は「システム」としてみると
とてもよく似ています。
心臓はエンジンで、エネルギーがガソリン、
循環器は水循環と油循環、
電気製の神経があって恒温調節のエアコンもついています。
最近は履歴や故障診断までする
高性能のCPUという頭脳もつきました。

心臓手術は精密なもので、
エンジンのシリンダーブロックをオーバーホールするのと
とてもよく似ています。
循環系の治療はオイルのフラッシングやクーラントの交換に相当します。
体の老化は酸化に由来するとされ、
抗酸化物や皮膚ケアをするように、
車のボディが錆びてしまうから
防錆したり塗装したりするのも全く同じです。

このアナロジーの中でがんはどうだろう、と
ふと考えました。
がんは正確には「細胞の設計図の故障」に相当するもので、
分裂が止まらなくなってしまいます。

がんが車のアナロジーではなかなか説明できないことに
意識が向いています。
そこでがんは極めて生物的な現象だろう、と
ふと思いました。

わたしたちは石や純粋な水や、いわゆる「非生物」に対して
特別の考慮を要しません。
動物愛護の問題にしても、環境保護の問題にしても、
考慮を要するとされるのは常に生物です。

自らへの愛の拡張が世界の愛の具現になるというのは
心理療法家や宗教家の中に共通の思想が見られます。

一方で生き物は種を残すために個体数の調整を必要とする場面があります。
象の保護区で増えすぎたことを心配する向きがありますが、
他の共生する生き物の中で相手の個体数を調整する場面というのは
存在するのだろうか、と考えることがあります。

車社会で程度の良い車が増えすぎると、
新しい車を作るためにはそれなりに走る車にあれこれと理由をつけて
スクラップにしなければなりません。
小さな村で食料の供給が限られた集落では、
養老孟司の本にあるように「生存調整」を行わなければなりませんでした。

人の機能と「意識」の分離について考えると、
人の機能は化学プロセスの上に成り立っていて、
気分の高揚や抑うつが化学的反応によって説明できることが
分かってきました。
一方で、その化学的反応と「意識」のあいだに
接点をいまだ見いだせずにいます。

人のニューロンモデルは多入力1出力の集まりで、
出力は0と1のような閾値を持ちます。
それらを繋いだ線の信号重率が変われば機能が変わり、
ある日人間をどう育てるかが科学的に決められるだろうと考えています。
それらを踏まえてもなお「意識」というものは分からないのですが、
しかし「意識」はつねに「脳の機能」の結果を観測しているとするならば
正確には「意識」を取り扱う必要はなく、「脳の機能」を取り扱えばよいことになります。

確かに「意識」は「人が機械である」ことを拒絶します。
しかし「人がよくできたマシンである」という説明には
なんの否定もはさむことができません。
車が何を考えているのか分からなくても、
油を差し手入れをすれば順調に動き出すように、
人の意識が何であるかわからなくても、
人という機械の手入れをしてやれば、
それにつながれた意識はそれで事足りる、ということになります。

いつか、人の機能についての疑問がなくなる日が来るでしょう。
しかし、その日が来てもなお、意識の問題だけは人の存在には残るでしょう。
その意識の問題は、人ではない存在になったときには
解決するのだという気がしています。

都会とは珊瑚礁の海

最近うどんをよく食べています。

土曜の昼にNHKを見ていると
グレートバリアリーフの話題が出てきました。

美しい、色とりどりの海洋生物と
透き通って澄んだ海は、
しかしえさとなるプランクトンが少ない海である、と続き、
それは食べるということからすっかり離れてしまった
都会のように見えました。

「清潔さとは他の生物を排した状態」というくだりは
従軍宣教師を研究している方の言葉で、
ふと「聖なるもの、美しいものと排他性」の緊密な関係について
意識が向くことがあります。

美しいものを希求するのは
何も人間だけではありません。
熱帯魚はその体の柄で自分をアピールし、
そして柄には「流行」があるとさえいうのです。

無生物は物理法則とは関係のない「美しさ」を希求しません:
私たちは宇宙の色や原子の形に「美しさ」を見いだしますが、
宇宙の色や原子の形は生物の認識以前に「ただあった」のであり、
それが「美しい」と感じるかどうかは人によります。

小さい頃、
この世界には二つの宇宙があり、
外的な物理的宇宙から小さなかけらを取り出し
ボトルシップの船を組み立てるようにして内的な宇宙を作っているのだろうと
考えたことがあります。

認識とは外界の宇宙の姿と、
内界の宇宙の姿が透明なスライドに重ね合わせて表現されているような世界だ、と
時折思います。

河合隼雄の本の中に、
自己の存在は絶対性をもつもの、というくだりがあり、
ここで「絶対」とは「相対的でない」という意味と
「二つの対ではない」という意味を持ちます。
あらゆるものが相対的だといったのはアインシュタインで、
そこから「相対性理論」の名前はついています。

この世界をいくら眺めてみても-
この世界の中は相対的であることを示しています。
古く言い尽くされた昼と夜の、天と地の、男と女の、生と死の対比は
どこまでも相対的存在です。

「二つの宇宙」はそれぞれが独立です:
外界の太陽とは別に体内時計があるように、
必ずしも生物は外界に順応しきっているわけではないのです。
それはもしかしたら、ある日太陽が消滅して
夜ばかりの世の中になっても順応できるようにと
意識してのことかもしれません。
隕石衝突で滅んだとされる恐竜の後を生き延びた生物は、
長い闇と吹雪の世界を経験しています。

人間は3と言う数字に特別な意味を見いだしてきた、と
河合隼雄の本は続きます。
世界には相対的な二つのものしかない、とすると、
どこかからもう「一つ」の独立要素を含めることで
この世界の「3」が揃います。

最後の一つを、人間は自我と呼んでいるのだろうか、とふと思います。

水曜日, 2月 20, 2008

ノートパソコンのそばのノート

帰りの運転で聴くFMでは「生と死」についての記事を集めていて、
ある地域では自殺した遺体をみんなで袋叩きにする、
それはその体には悪魔が取り付いているとみなされるからだそうで、
生命とは生命を維持する存在であるという認識を
優先させた思想だと感じました。

ひとつのツールで仕事がなぜできないのだろうと
時々不思議に思います。

ノートは演算とコピーに向かないし、
パソコンはメモ代わりには使えません。
「ノート」の代わりになるべく、という願いで作られたような
ノートパソコンには、
しかしながら仕事で使うために
傍らにノートをおく必要が生じます。

ノートパソコンから「ノート」の機能を奪うことはほとんどできず、
「教科書と電卓と電話」の代わり、といったところでしょうか。

火曜日, 2月 19, 2008

FMラジオ

おひさまがのぼって
あたたかいかようびのあさです。

iPodにラジオをつけてチューニングすると
建物の奥ではNHK FMが一番感度よく聴けます。

NHK FMは昔から外国のクラシックとかギター音楽を
よく流していて、
どうして日本発の曲ではこんな風に安らぐ曲がないのだろうと
複雑な気持ちになったりして、
しかしその感情が、
普段わたしが取り除きたいと思っているナショナリズムを
根底にもつものであることにふと気がつきました。

生物学者と話をしながら、
国の誇りというものが郷土愛に根ざすものであると
いうところでやや押し問答をしています。

優越、つまり他の国より勝っているとか
独自性、つまり他の国にはないものであるとか、
つまり誇りというのは一種のこだわりです。

世界の物質には境界がないといい、
しかし「わたし」はいつも現れるのです:
「わたし」の認識は食べ物や外界の刺激で
ある規則を持って変わってしまいます。

ケン・ウィルバー「無境界」を読んだ後なのに、
「わたし」は「わたしの体」の境界を出てはいけないのではないか、と
ふと思いました。
わたしにわかるのは五感と過去の記憶だけで、
木星の裏側は「わたし」ではないのです。

わたしが「わたしのからだ」の中に閉じている限り、
実はナショナリズムは「存在しない」ことになるのでしょうか。
しかしひとはその発生にへその緒を使うように、
生活を始めてもその糧を必ず海と大地に求めます。

海とは不安定な場所です。
人は海の中に住み続けたためしがありません。
しかし一人で立つようになった人間にとって
本当の母は人間ではなく海にその役割が移ります。

父である空の藍と母である海の蒼の間に、
きっと人はあるのです。

月曜日, 2月 18, 2008

モノズキ日本人

時折非通知の電話が携帯にかかってきます。
しかしそれで誰かすぐに気がつくほど
わたしは鋭くありません。
かけるのを遠慮するか名前入りでかけてくれるか
どちらかにしてもらえないだろうか、と
ふと思います。

高速の料金所がETCになるときに
特に従業員から反対の声が上がらなかったのだろうかと
時折不思議に思っています。

極端な例ですが、
フランスの役所では人減らしに反対するために
わざわざほとんどの書類を紙ベースにしているのだそうです。

日本人は多分日本が狭いと思っています。
しかし広く開けた田舎町に住みたいとはほとんど言いません。

都市化した社会の機能は
都市においてなされる、と言うのは都会人の錯覚で、
化学プラントも工場もみんな海のそばや郊外にあります。
都市は地域からの入力を消費するか加工するか転送するか
主にそれだけで成り立っていて、
書籍や映画などのメディア的機能が例外的に産物となりえますが
都市は物質的産物を基本的に持ちません。

高速道路や鉄道が高額であるというのも
遠くへ行く大きな障害になるとよく言われています。

自動販売機の設置密度がこんなに高い国が
他にあるのだろうか、と不思議に思います。
日本人は人にお金をつけません:
「自動化できる何か」には積極的にお金をつけます。
ロボットが流行り出している理由の一部はそのせいだし、
それはマッサージ機の延長でもあります。

30万円のマッサージ機と、
たとえば月1回3000円で人にマッサージをしてもらうのとでは
8年経ったら同じになります。
マッサージ器を買ったら
確かにいつでもマッサージしてもらえるのですが、
効果がずいぶん違います。

8年経ったときにマッサージ機が手元に残るという点で
マッサージ機は利点があるのかもしれませんが、
故障して5万円かかったらどうするのだろうとも
ふと思います。

壊れない白物家電のように
火加減まで気にしながら黙々とご飯を炊いたり
洗濯をする機械がいて、
「機械は人を便利にする」と思っています。
それは機械に仕事を奪われている過程でもある、と
ふと感じることがあります。

機械化は地方の生産者にとって福音かもしれず、
しかし「人的サービスによる労働」だけが仕事となる都会では
機械による自動化が人と争うことになります。

「たまに失敗するかもしれない」が
「時々すごくうまいものが食べられる」手作りよりも、
「ほとんど失敗しないが毎日全く同じ味」の既製品を好むのが
おそらく日本人のようです。

かさ地蔵の例ではないけれど
石でお地蔵さんを作ったら知らない間にいいことをしてくれた、というのが
日本人の思想には埋め込まれているのかもしれません。
人間にとって他人という人間は理解がややこしく、
日本人は炊飯ジャーの方が好きなのかもしれないのです。

日本には多分、仕事がないのではないのです:
ただその仕事を積極的に機械にやらせようとしています。
それはもしかしたら大航海時代に奴隷と言う制度を持とうと躍起になった
ヨーロッパ人からしてみると、
機械という奴隷を作り続けている日本人、と
見えるのかもしれません。

一神教のように扱われているキリスト教だと思う人たちにとって
信者以外はもしかしたら人間には見えないのかもしれず、
それはほとんどが宗教の名を借りたナショナリズムやエゴイズムであって、
科学者の中でも聖句を
適当な免罪符に使っている人をわたしはよく知っています。

人はそれを見分けることができないのでしょうが、
当の本人がその人自身と向き合う神に後ろ指を指されます。
自らの神に真剣であるよりも
人は楽するのが好きだ、という
ありふれた結論に向かって今日は結びます。

水曜日, 2月 13, 2008

モノローグな人間に出会う

曇り空の朝は明け方がいつもより遅くやってくる気がして、
季節が少し逆戻りしたような気持ちになります。

人が言葉を話す「もの」だとしたら、
本は「ずっと同じことを話しているもの」と考えてもよく、
時折いろんな文字が目に留まります。

医学界新聞の中に名越康文さんのコラムがあり、
小学校4年生のときに
「なんで人は死ぬのか。
死ぬのであれば、なぜ生まれてくるのか」と
悩んだ、というくだりがありました。

もちろん答えは書かれておらず、
また意見も述べられておらず、
ただ問いを発したままの文章ですが、
これが一番共感できる中身でした。

「なぜ人は死ぬのか」を確かに人は知りません:
しかし「なぜ人は生きるのか、なぜ死ぬのか」と人生をかけて問う人に出会った時、
わたしは一番ほっとするような気がします。

時折考えるくらいの人はたくさんいると思います。
ずっと考えている人もたくさんいるのかもしれません。
でもなんとなくこの問いを考え続けてくれる人は
とても少ないような心細さがあります。

たとえば、わたしのために祈ってくれなくてもいいのです。
救いの手を差し伸べてくれる必要もほとんどありません。
わたしが誰かに望むことがあるとすれば、
「なぜ生きているのか」への真剣な問いを
その人自身の問いとして持ち続けてくれること、
そして時々考えたところを聞かせてくれること、
その一点にあるような気がします。

そのときだけ、なぜかはわからなくても
「生きていてよかった」とは思えるのです。

考え続けることは保存して取ってはおけません:
わたしはいつまでも考え続けています。
それがわたしに似た誰かの願いに似ていればいいなと
時折思います。

火曜日, 2月 12, 2008

人間は原理的に人間の問題を解決しない

白いものばかりで鍋を作ろうと思いたち、
白身の赤魚、鱈、カレイ、手羽元、
えのき、豆腐、白菜、かぶ、うどんを材料にしました。
さわやかな食後感でした。

この世界に人間がわたしひとりしかいなければ、
法律が定めるところの罪の問題は生じません。
罪とは人と人の間に生じるものだからです。
宗教的には自殺を罪に規定しますが、
その場合天国に行けないことと墓で弔ってもらえないという
「社会的死」が認められないだけで、
一人しかいない人間がいなくなったところで
それを裁く別の人間はいないのです。

安藤昌益は集団生活を必要とする社会は
その構造自体に問題が生じると考えました。
自分が住むよりはるかに遠くで採れ作られる物質を
必要とすれば世が大乱を起こす、というのです。

地産地消ということばがあって、
その土地でできたものをできるだけ取り入れようという思想で、
これを究極的に突き詰めると安藤の思想になります。

たとえば日本人にとって
バナナが不可欠な食物であるかどうかはわかりませんが、
日本がバナナを輸入することで地球の遠い国との接点ができ、
そのシステムにまたがって生活する人が生じることで、
ある地域とある地域に物質的接続を生じます。

人間に「意識」を抜きにして考えれば、
人間の知覚は全て体という物質を通して生じます。
たとえばほとんどの人にX線は見えません。
いくら太陽系の動きが計算できたからといって、
太陽の一区画で生じる
フレアの発生時間まで予想できるわけではありません。

人間が脳のサイズで規定された分以上の能力を
人はもっていないのです。
だから脳が限界まで複雑になったとしても、
この世界の複雑さを再現することはできないのです。

分子コンピューティングという技術があって、
計算体系にDNA様の鎖になる物質を使います。
問題に相当する鎖をビーカーに放り込んで混ぜると、
答えだけが長い鎖になって現れる、というのだそうです。

世界全体をシミュレートするには
つまり「もうひとつの宇宙」をどこかにつくり、
その様子を非干渉的に測定すれば完了します。

人間はどうにかして人間の問題を解決しようとしているのは
実は集団あるいは都市に生きる人間に固有の現象かもしれません。

冬のない国、たとえば赤道に近い国では
働かなくても食べ物が採れ、
その地域における集団の役割は
より環境の厳しい国での集団の役割よりも緩やかです。

ひとは「母なる大地」と名づけましたが、
天が父で海が母である、と最近思っていて、
多分地は父でも母でもありません。

人間の問題が一向に解決しないのは、
あなたやわたしが人間であるからであって、
人間ではない上位概念になれたときには
人間の問題を「解決したもの」として取り扱えるでしょう。

あなたは人間であると自らに認める限り
人間の問題を背負う必要はありません。
解けるかもしれない問題は解く努力ができますが、
解けないとわかっている問題を解くことはないのです。
自分の体の問題を解決するのが人間の意識の目標であるように、
人間の問題を解決するのはあずかり知らぬ上位概念の目標です。

光速以上の速度を持つ世界は
光速以下の世界からは到達できませんが、しかし禁止されておらず、
上位概念は光のカーテンの先にあるのかもしれません。

木曜日, 1月 31, 2008

書きっぱなし

ハリアーハイブリッドを選びました。

ホンダという会社はたいへん不思議な会社で、
独創性が非常に高いにもかかわらず
「エンジンに取り憑かれている」としか思えない方針に
しばしば出会います。

「エンジン」がなければイノベーションが大変強いのです:
航空機もロボットも作ってしまいました。
コンセプトも設計も大変見事です。

しかし「エンジン神話」が常に二の足を踏みます:
エンジンの最適化にこだわりすぎて
V10の複雑システムを F1に持っていったために
トータルシステムを犠牲にして
ホンダは勝てなくなっていったし、
車はエンジン以外の性能、
ボディ剛性とか質感に車間の個体差を感じにくいのです。

確かにホンダのエンジンは
文句なく世界一の確信があります:
しかしハイブリッドシステム「IMA」を作ったとき、
「ハイブリッドシステムでアイドリングストップをしない」というのは
あまりにエンジン主体の意思が見えます。

ホンダは「モーターアシスト」という用語を捨てません:
モーターは「アシスト」、補助であるというのです。

「インサイト」の設計を知ったときに、
エンジンシステムには大きな改造を加えず、
全アルミの高価なボディと軽量化、
空力改善の追求で
確かに世界一・35.5km/Lの記録を作りましたが、
修理に高等な溶接技術を要求するアルミボディと
加速感に乏しいパワートレイン、
4人乗れず荷物が詰めない構造は
「車としてのロバスト性」を全く考慮していないことに
目が留まりました。

回転数に対するモーターのトルク域とエンジンのトルク域は
理想的な相補的関係があり、
「ハイブリッドシステム」が「エンジンシステム」を
一切妥協せず全方位的に超えられる理由はそこにあります。
しかしそのためには
「エンジン中心主義」を「捨てる」必要が発生します。

ハイブリッドシステムは
エンジンがもつ「連続回転体」と「エネルギー発生源」の主特性から
「回転体」としての特性のみを積極的に失わせる、
いうなれば 「エンジンをデジタル的(不連続)に使う」技術であって、
もはやエンジンが「回転の主役」ではないのです:
エンジンとは「効率の良い回転数」が決まっています。
それは「エンジンをアナログ的に使う」アプローチの延長では
導けないのです。

エンジンを不連続に使うからこそ
低回転では非効率である 排気量の大きなエンジンを採用でき、
モーターを主役とみなすからこそ
出力の大きな電力システムを積極的に開発して
大きなエンジンとのバランスを取ることが可能になります。
ホンダの最大の革命のタイミングは
「みずからのエンジン音の呪縛を超克する時」に重なるはずです。

巡り巡って書きたかったことは、
もしホンダが真の「ハイブリッドシステム」を作ったら
必ずCR-Xからの後継機にしようと願っていたのに、
ということです。
CR-Xはそのくらいエンジン音が好きな車でした。

水曜日, 1月 30, 2008

笑うとは何か

橋があるとその橋は大抵渋滞します。
昔の人が川を隔てて街の区分を決めたのは自然で、
たかが川ひとつで生活が極端に異なるのだから
海を隔ててしまった場所の生活は全く別だという気がします。

人の死がとても嫌いで、
ホラー映画も仁侠映画も全く観ないのに
がんに関わる研究をするようになったのは複雑な気分で、
本当はとても苦手な分野です。

苦手であるからひとつひとつのプロセスを
意識に乗せ、自らに承認を求めながら作業をこなす必要が生じ、
それは別の視点での理解に近づきます。

哲学がいくら「死」は存在しないといっても
外的な「死」は存在します:
それは肉体的に不可逆的な機能停止です。

葬式で笑ってはいけないのはなぜだろう、と
ふと考えています。
「笑う」のは不謹慎だ、と人は言います。
しかしなぜ人が「笑う」のかと問われて、
「笑う意味」について考える人がどれだけいるのだろう、とも
思います。

しばらく書きながら考えます。

愛する家族を失った者にとって死は悲しむべきものであり、
笑うことは悲しみの対極にあるもので、
共感をそぐから、というのが多分一般的な意見になりそうで、
しかしここで「死」が「悲しむもの」である前提は
疑われる必要があります。

苦痛にさいなまれてベッドに縛られているものにとって
死は唯一絶対の解放ではないか、と思うのです。

死別と言う言葉があるように、
死は別れだとされています。
別れとは「コミュニケーションが不能になること」であって、
死んだ人とは話すことができず、
それは遠く別れ離れた人と話せないのと同じです。
そして生きて別れた人とはコミュニケーションの可能性が残されますが
死んだ人とは対話としてのコミュニケーションを失います。

しかしそれらを差し置いても、
葬式で笑ってはいけない理由とはなりえません。
非常に極端な例を持ち出せば、
「死んだ後も人に笑い転げて欲しい」と願った落語家の葬式で
笑ってあげなければ、
まわりの家族にはともかく本人の意思には背きます。

このことから、
死の意味は社会的関係性の中に
多分に存在することがわかります。

自分が死んだら悲しんで欲しい、という気持ちが
人に葬式で悲しみを表現させる原因となっています。

悲しむとは「現前した状況の否定」です。
そこから、笑うとは「現前した状況の肯定」であることがわかります。
「死を受容しない」「死を受容したくない」という気持ちが
「笑ってはいけない」に繋がります。

笑いが「肯定」を表すのであれば、
「笑わない日本」は「肯定していない日本」と同じです。

それでは「死」を「肯定する」ことが可能だろうか、と
考えの焦点は移ります。

笑いは「全面的な受容」に相当する、
そうすると笑いが「一部分だけの受容」を表すことはありません。
「全面的」という言葉には特有の響きがあり、
「全部」は完全に汎用である必要を求めます。

この世界を見て笑っていられない、と感じ、
それは「受け入れられない」ものがあると感じるからです。
たとえば目の前で人が死んでいなくても、
「人は死に続けている」こと自体が逃れようのない普遍的な事実で、
これを拒否することはできません。

生物は本態的に死を恐れる存在です。
たとえ動物に感情があるかどうか不明であっても、
何の理由もなく命を絶とうとはしないのと同じです。
脳に欠陥が生じた場合はこの限りではありません。

単細胞生物にアポトーシスはないが、
動物の細胞にはアポトーシスがあるのだそうで、
自らの存在確認機構というのは
集団としてのシステムに特有の機能であることがわかります。

もし人間が一人で生きられるとしたら、
もうすこし正確に言うと、人間の細胞がひとつでも生き続けられるとしたら
本来死ぬことを心配する必要はありません:
個々の細胞が離れて生存すればいいからです。
人間の細胞が単体で生きられないこと、
人の意思に「自殺」=アポトーシスが組み込まれていることは
人間は最初から「人間社会」というシステムの一部であることに対応します。

人間とは「個体で生きることを選択しなかった」生物に
分類されます。
そして社会システム自体はそれが生き物であるならば
「死」を受容できません。
社会システムは常に、それ自身の死を選ぶぐらいなら
その構成要因である人間の一部の死を選択し続けます。
それは人間が焼けた山肌を登るときに、
手をやけどして手の細胞を犠牲にしてでも生き残るのと同じです。

人は常にただ生きているのではありません:
自らの中でさえ常に死と再生を伴わせて生きています。
そして不要な細胞を「殺し」、必要な細胞を「生かして」
システムを維持しています。

「笑い」の積分量が
「生存と死」を分ける引き金になっているのではないだろうかと
考えは進みます。
もし「笑う」が重要なシグナルだとしたら、
「笑う」力とは社会システム自体が発動する感覚であるはずです。

平均寿命を延ばすことによって、
人は死から「ただひたすら遠ざかって」きたのです。
戦後の人口増加が「生」を増やし続け、
「生物学的生」がその生命単体で保証されていたために、
これまでは「笑う」という秩序を必要としなかった、と考えます。

人間はいうなれば「自らの細胞というシステム」の管理者であり、
「社会システム」の被管理者です。
社会を構成するためには人間は生きていなければならず、
この観点から「人間の死」は基本的には否定されます。
しかし「社会システムの死」はそれよりも強い否定を要請します。

生物的死と社会的死を独立した象限としてとると、
死には4つの意味があることが分かります。

人間としての死が社会システムの死を遠ざける場合、
人間としての生が社会システムの死を遠ざける場合、
人間としての死が社会システムの死を近づける場合、
人間としての生が社会システムの死を近づける場合です。

1番目が社会的役割を終えたものの死、
2番目が新たに生まれ社会的役割を果たすものの生、
3番目が社会的役割を果たす能力があるものの死、
4番目が社会システムを破壊するものの生に対応します。

このうち、両方の生を選ぶことが理想ですが、
人間の死は避けることができません。
一方で、生き始めた人間にとって生も避けることができません。

がんの患者はこの象限が混在し始めます。
完治の見込みを失う場合が特に複雑です。
人間としての生は確かに続いていますが、
その生の維持のために大きな社会システムの力を
必要とするようになります。

患者を治すというのは
「社会システム」の生と
「人間」の生を維持する両方の意味があります。
個人としての人間は、この二つのシステム、
生物的人間と社会的人間のシステムの両方に通用する
回答を見つける必要があります。

「娯楽」や「享楽」の笑いではなく、
豊かな微笑みの発露としての笑いとして、
社会システムの秩序レベルと「笑いの総量」は
強い相関があるような気がしてなりません。

「笑い」とは社会システムに秩序をもたらす原動力でしょうか?

笑いは受容であるならば、
がんであることを受容することはどこから生まれるのでしょうか?
それは可能でしょうか?
めぐりめぐってがんの患者と向き合うとき、
わたしは「笑い」をどう取り扱えばいいのでしょうか?

私自身にこれを置き換えるならば、
人間の最後の仕事は「自らの死」を「受容する」ことになります。
これは人間の生がある限り本態的に不可能なことです。

人にこれを当てはめるならば、
がんの患者に「笑いかける」ことはまったく可能であって、
不謹慎でも何でもありません:
それが-「存在の受容」が
「人が死ぬ尊い存在であると受容する」と表現する限りにおいて、
「微笑みかけること」が意味を持つのです。

人間という意識にとっての幸せとは、その終末の間際まで
「存在の受容」を受けることであって、
もっと拡大すればこの世界の終末の間際まで
「存在」を受容されることだろうと思います。

過去に生を受けたものすべてが「その生の受容」を望んできたのです。
だから私たちはこの世界を受容して次へ送ります。

自らの死に対してなお「笑う」ことができるならば、
それは社会システムの生へと意識を移行する準備が進んだことを意味します。
人間は社会よりも小さく、その定量的判断はできません。
しかし自らのアナロジーから、
その「定性的判断」が可能です。

他者に対する「存在の承認」としての「笑い顔」が必要です:
それは常に社会秩序をもたらすからです。
世界は対称にできています:
人はすべて「泣いて」生まれるのであれば、
人は「笑って」その生を閉じることが対称です。

月曜日, 1月 28, 2008

霜柱

8センチほどの長さの霜柱を見つけました。

金曜日, 1月 25, 2008

本からのひと言

「花には枯れる自由がある」、というくだりが
春日武彦さんの本に出ていて
ふと目に留まりました。

花はいつまでも咲いていたいだろう、
美しさを全うせず早く枯れてしまってはかわいそうだろうというのは
わたしの思い違いなのかもしれない、と
考えを改めることにしました。

咲こうとみずから宣言する花にのみ、
雨は降り注ぐ意味を持ち、
そのとき花が求めるから
日の光は降り注ぐのかもしれません。

火曜日, 1月 15, 2008

今は何度目の開闢だろうか

今朝は海沿いの町にも霜が降りたようです。

極端で非現実的な状況を仮想することは、
混沌とした現実の中から特徴を取り出すことです。
加速器は「非現実」のエネルギー世界を作ることで
この世界では縮退した4つの力を個別に取り出して観測します。

この操作を人に当てはめると、
人の混沌とした日常を観察するためには
人にとって極端で非現実的な状況、
つまり人が生を終えるという状態を仮想することで
日常の生に含まれる要素を観察します。

昨年の年末は
仏教の本とクリシュナムルティの本を集め、
今年の年末は
がん医療のコミュニケーションスキルの本を集めました。

死について時折思うことがあります。
それは「死」という文字のほうが恐ろしくて、
実際に生を閉じる人を間近で接するときには
同じ恐ろしさはない、ということを不思議に思います。

死にゆく者のひとつの役目は、
生きている者に対して
それが恐ろしくないことを
証明して見せることではないだろうか、と思っています。

死というものが恐ろしいのではないのです:
わたしたちが恐れる「死」が表現するものは
ほとんどの場合の死に伴う苦痛と
自らの制御がままならない不全感に対する恐れです。

自然界での生活にとって苦痛とは主に死に近づくことであるから
階段は気をつけて降りることを覚えます。
ひとという生き物は苦痛を避けるよう
何十年もかけて必然的にその術を学んでいきます。

人間より大きな単位の生き物=システムとして「町」があります。
そして「町」はそれ自身の消滅を恐れます。
だから都市機能はその機能を果たす人が入れ替わることで
正常に生き続けます。

都市が生き物であるならば、
都市にはその終わりがあります。
それは「会社の終わらせ方」と同じような問題で
「都市の終わらせ方」というものを考える必要もあるだろう、と
思いました。

終わりを決めて何かを始める、ということは
言い換えるとゴールを決めてスタートを考えることと同じで、
目標とは「終わり」のことです。

生き物はその役割を
その生きているうちにだけ引き継がせることができます。
人の目標や都市機能や会社の方向は、
それらが生き物のような性質を持っているのであれば、
ある目標を目指している途中のエネルギーから次の目標は「新たに生じ」、
新たに生じたそれが
次の主軸となって走り出す、という性質を必ず持つはずです。

適切な長さの期間を持つ目標が必要です:
短すぎては次の目標を生み出す土壌が育たないし、
長すぎてはそれ自体の目標が叶わないまま終わってしまいます。

ボスという人としての形がいなくなってもうすぐ3年になります。
しかし意志を引き継いだ人たちによって
彼の願いは確実に叶いつつあります。
彼は人という形を失っただけのように思います。
彼の「意志」はそれ自体、立派に「生きている」のです。

宇宙は0秒が分からず、
今の宇宙が160億年ぐらいだと言われていますが、
この世の対称性から考えると負の時間があるはずで、
この宇宙は何度もビッグバンが起きていて、
その何回目かが今の宇宙である、と考えるのが
妥当ではないか、という気がしています。

たとえ人が自ら滅ぶ道を選んだとしても、
宇宙はそれ全体が開闢から「やり直す」のです:
そして次の宇宙が開かれたとき、
もう一度あなたにもわたしにも形が与えられるでしょう。


木曜日, 12月 06, 2007

知的労働について

写真1:霞ヶ浦近くの古墳
外面的にいくら強気でいたとしても、

それほど世界は悪くないはずのときでも、
どうしようもないほど心が落ち込むことがあって、
その理由も解決法も分からず、
こんなときに限って物理も役に立たず、
今日はそんな感じです。

知的労働には際立ったいくつかの特徴があります。
まず「表現」によって初めてその輪郭を得ること、
そしてその「表現」には時間がかかるにもかかわらず
「表現の伝播」は極めて短い時間ですむこと、
そして「知的労働」は
最終的に印刷物やディスクの生産という
「知的理解を必ずしも伴わない労働」に変換されうること、
などが挙げられます。

本の「内容」は作家の知的労働で生み出されるものですが、
それを「印刷物」にする過程では物質価値としては
紙の価格とインク代と印刷機の価格と輸送費の総和になり、
コンビニでA4一枚が10円で採算が取れているのだから
物質的価値としてはたいした値段になりません。

知的労働とはその「内容」に価値がありますが、
その「内容」はある意味では
「知った途端にその価値が失われる」ものでもあります。
週間誌に全く同じ内容の情報が
決して二回掲載されないのはいうなればそういうことです。

ある種の知的労働はたとえば掃除機のように、
それを作るために高額な設備投資を要するわけではなく、
また一度生産されたら何度も実用として役立つ、
という類のものでもありません。

大仏や茶器のように
知的生産物が「一点もの」になることはほとんどないのです。
ゆえに知的生産物は「物質的価値を伴わせる」、
つまり限定盤を作ったり豪華な表装にしたり
高価な材料で作ってみたりして再生産を抑制します。

「知的生産」が価値を保持しうる条件の一つは、
それを「理解するためには取得者の時間を要するようなもの」である場合です。
だから「難しい=理解と習得を要する」教科書は
値段が下がらないのです。

「知的生産」が価値を保持しうる条件のもう一つは、
それが「秘密に取り扱われるもの」である場合です。
つまりその情報の開示を受ける「前に」
情報の公開抑制とその対価を事前に「契約する」手続きを行います。

知識は人にとっての豊かさのひとつである、と思うから
わたしは自分の知っていることが
人に役立つなら惜しまず広めていこう、
とこれまで考えてきました。

しかし知識の開示が「知識の価値を破壊する」のであれば、
わたしは秘密を持たなければならないのだろうか、としばらく考えます。

「失敗学のすすめ」を書いた畑中洋太郎さんは
「日本人は知識を外国に開示しすぎである」と言います。

秘密の増加によって
知的価値を生産する社会は言うなれば「不透明な社会」でもあり、
知らないふりをしたり構成員を限定したりしなければ成立しない社会になります。

「役立つ=力がある」と分かった途端に人が飛びついてくる世界、
そして「役立つこと」を秘匿して保持する社会、
その循環は人の欲によって造られていて、
だから欲と力は決して「善ではない」ことになります。

「弱いものをいじめることが絶対的な悪である」理由は、
人は完全な善を持つことができない存在ではあっても
相対的に「弱いものの方がより善に近い」ためであって、
力の保持は必然的に善から遠ざかる可能性を持ちます。

だからといって
「弱いもの」は「強くなろうとする意思を持っている」必要があり、
自らが進んで「弱い側を顕示することで善を装う」のは
力の保持を自らの存在条件とする人間としての条件に反します。

わたしが専業主婦のある側面を決して好まないのは、
たとえば「昼下がりに集まってただお茶を飲んで過ごす」ことに
なんらの後ろめたさも感じていない人がいて、
何の社会参加を行っていない人たちがいるからです。
専業主婦になるために性や美しさを使う、というのであれば
それらは全くの悪となります。

そして「自らは悪い」という意識を持てない人たちが
実は一番悪い、というあべこべな結果になります。

人間存在の苦しさというのは、
その存在を成り立たせるためには力が必要で、
しかしその行使は決して善にはなりえず、
だから自らの生きている時間が長くなれば負う罪の量が増え続けることに、
意識的あるいは無意識に気がついているからなのでしょう。

わたしは時が力が与えることを知っています。
そしてそれは、決して手放しでは喜べないのです。
その力を意味づけできる理由はたった一つで、
それが「より善に近いものを守るための剣」になるときだけです。

金曜日, 11月 30, 2007

北風に向かって怒るとき

人に向かって怒ることはできないけれど
寒い北風に向かって怒ることはできます。

風はどこまでも続いていて、
その怒りはわたしたちが神と呼ぶ
何らかの存在のもとまで届いているのかもしれません。

火曜日, 11月 20, 2007

漢字という、絵でも言葉でもない存在

朝晩が寒くなって、
ついに先週は車の窓ガラスに氷が張りました。

過冷却の水は外的振動によって凍るので、
うっかり水滴だと思ってワイパーをかけると
その途端に水滴が凍る、というような
物理的には興味深い現象を見ることもできます。

飛行機の前に座った人が読んでいたスポーツ新聞を
覗き見してみると、
特大の縁つき文字で「脳梗塞」と書かれていました。
それはまるで、字を見ただけで気分が悪くなるようでした。

どうしてだろう、とふと思いました。
外国のゴシップ記事ではこんなに内容の数文字だけで
意味を表して紙面を埋めてしまうようなページを
見たことがないのです。

それでふと、アルファベットは限られたいくつかの言葉でしか
「短いが強い意味の言葉」を持つことができないことに
気がつきました。

「脳」という字は明らかに[brain]を表しているのですが、
脳は1文字でbrainはそれそのものが読みに近い5文字で、
漢字は読みの「言葉」から遠く離れていることに気がつきます。

英語の文章は単語の間が空いていて、
これに対応するものは実は
「筆文字のときに重要な言葉は大きく書く」
のような対応で作っていたものを、
「マス目に並べる」ことにしてしまって
活字を読みにくくしてしまったのではないかとも思っています。

こういう日記の「書き方」-
わたしが画面の端から端まで文字を並べないのは、
ひとえに「活字を読みやすくする」ためです。

新聞や公共の文書に、
「もっと読みやすい活字表現を採用してくれないか」と
よく思うことがあります。
たとえば、文節ごとにもっと隙間を空けるとか、
何か色分けをするとか、そういう何らかの工夫です。

わたしたちの「言葉の問題」、
つまり「読みと書きの乖離」を埋めるためには、
より分かりやすい文字が必要で、
それは「ひらがなとカタカナを多く使う」こと、
たとえば主文は大小のひらがなで書かれていて、
ルビ側に漢字がついているとか、
思い切った改革が必要ではないかと感じます。

日本語を読みやすく直そうという試みは、
日本人が始めたいと思うのです。


火曜日, 10月 30, 2007

見方の違い

宗教の概念があるから人がまとまるのではないのです。
人はまとまろうとするようにできているから宗教ができたのです。

同様に、宗教の概念があるから人が争うのではないのです。
人は争うようにできているから宗教の概念は対立するのです。

まとまろうとする働きも、争おうとする働きも
もう再現性のある科学の言葉で説明可能です。
それはこのわずか数十年の間に起こっていて、
ほとんど全ての「過去の推測」は棄却されてしまうほどです。

人は絶えずどこかでまとまろうとしていて、
そして人は絶えずどこかで分裂しようとしています。

だから
「すべての人がこれら全ての情報を知れば幸せになる」と
考えを結んでしまうのは性急です。
情報は正しい組み合わせで提供されなければならず、
そして情報を覚えておく力には個人差があります。

「お念仏」は、
「あまりに難しい経典を知らなければ幸せになれない」のでは
「不平等だ」と思う気持ちが作らせたひとつの技術です。
繰り返すリズムは確かに人を安心させるのです。

敬虔的感覚と科学的感覚は
等しい重さで持たなければならないのではないか、と
最近考えています。
どちらかが重すぎる場合、何らかのバランスが狂います。

もし民がたくさんの科学知識を持たなければならないとしたら、
そのときこそより強力な敬虔に対する感覚が必要です。

敬虔的感覚と科学的感覚は
どうやらシンクロトロンの集束電磁石に似ています。

集束電磁石には2種類あり、
片方は水平方向の集束で垂直方向は発散する磁石で
もう一方は垂直方向の集束で水平方向は発散する磁石です。

どちらか一方ではビームを絞ることができないのですが、
両方を組み合わせるとなぜか水平方向も垂直方向も絞れます。

なぜ科学と宗教があるのか、というのは
論理的な半分の脳と感覚的なもう半分の脳が作り出した
二つの見方、
意識と無意識の両方だといわれれば説明がつくのかもしれません。

しかしたとえどんなに「説明」がついたとしても、
「この世界はなぜできて、どうしてわたしはここにあるのか」を
説明したことにはなりません。
それだけが、この世界のただ一点の不思議として
昔も今も、そしてこれからも
全く変わらず存在し続けます。

木曜日, 10月 25, 2007

風と炎

風はそれ自体は燃えません。

でも風がないと薪は燃えないのです。

水曜日, 10月 24, 2007

盾と専守防衛

盾を持つのだと言います。
それは守るためなのだと言います。
しかし盾は無害ではありません。
盾があれば矛が傷つき砕かれるのです。

攻めるにしても守るにしても、
兵は「傷つく」ことを前提とした任務です。

ドイツの宗教心が保たれている理由は、
兵役の体験によって
「人は争いを起こさないためにどこかが力の保持を行う」必要を
民が認識するからであるように思います。

わたしはその理由を
「強い軍隊が必要である」や「兵役が必要である」
という肯定的理由として使いません。
しかし、人は見たことのないものや経験したことのないものを
決して肌身の感覚としては理解できないのです。

進化には何億年もかかるのです。
人間はまだせいぜい登場から数万年ではないかと言われています。
それはきっと気の遠くなるような話です。

土曜日, 10月 20, 2007

ショート・レポート

時折カップめんを買うと
ノンフライであるかどうかを気にします。
麺がおいしいのです。

「人は見たいものが見える」と言った人がいて、
「人間は都合のよいことだけを知りたがる」と言った人がいて、
そこから分かることは
「人はこの世界をどう扱ったらいいかは分からない」ということです。

先日雁の群れをみました。
魔女の宅急便みたいに、ほんとに逆V字を描いて飛び、
しばらくすると先頭が入れ替わるようすが観察できました。

魚の群れは「全体を知って」動いているのではなく、
「自分の近傍」に対する振る舞いだけが決まっていて、
それだけで群れで泳ぐ性質が保たれます。

遠隔相互作用の例は電磁力で、
近接相互作用の例は核力です。

人間にはひとつの脳幹とふたつの大脳があり、
ひとが「世界はひとつ」とか「二つの相補性」とか言いたがるのは
そのせいであるような気がします。
脳が二つのパーツで構成されている限り、
世界の争い、つまり自身の葛藤は続くのかもしれません。