火曜日, 12月 21, 2004

論文書きは縫い物に似て

最近の掃除道具はよくできています。
非常に細い繊維でできているウレタンスポンジとか、
風化サンゴの粉末を使った洗剤などがあります。
油性ペンで書いた跡だろうがカーペットにこぼしたカレーだろうが
何でも取れてしまいます。
それらの技術の原型は多分、昔であれば「おばあちゃんの知恵」として
代々引き継いでいく類のものだったと考えます。

ラスト・クリスマスの最終回を見ました。
みんなが幸せになる話はいいと思いますが、
誰とでもくっつけばそれでいいってもんじゃないだろう、というのが
正直な感想です。
ドラマに引き込まれるのは、そこにある種の「現実味」があるからだと
思っています。

年明けの提出に向けて論文書きを始めました。
一行ずつパズルを埋めていくような作業が続きます。

論文を書こうと決めてから、どういう方法で書き足していこうかと
いろいろ考えてきました。

最初は、何かの本で読んだ一節のように、
「書きたいことを付箋紙に貼って散文的に並べ、それらをつなぐ」
ということをやってみたのですが、
この方法は私に合っていないらしく、文書が少しもまとまりません。

それは、おそらく英語論文と日本語論文の壁に突き当たったのです。

英語の本とか小説はどれもめちゃくちゃ厚いのです。
日本語のようにさらさらと斜めに読み流すことができません。
書くほうに体力が要求されるなら、読むほうにも体力が要求されるのです。

よって、英語論文は物語を人に話して聞かせるような内容になります。
それは「わかる」ことを前提にして書く日本語と、
「わからない」ことを前提にして書く英語の違いであるように思いました。

「わかる」ことを前提にして書く日本語も、実は最近減ってきたと感じます。
それは日本人がさまざまな世界で生きるようになり、
「個人の常識」として持っている範囲が広がってひとつに括れなくなったからでしょう。

「読む側にわかりやすく」を実現するには、実は
「誰が読むか」を決め、
「どの言葉までは説明なしで通じて、どの言葉に説明が必要か」を
明らかにしなければなりません。

英語の教科書では、読者ターゲットを広くしようと
最初の導入部が長々と書いてあることがありますが、
内容が3章ぐらいになると専門用語が突然増え始めます。
それゆえ、途中から拾い読みできたためしがありません。

日本語の教科書では、
主に説明と内容はひとつの章で閉じていることが多いので、
途中からページを開けても中身を理解できて便利です。

もともと話が長いといわれているわたしは、
どちらに向いているのでしょうか。

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