月曜日, 2月 28, 2005

バッティング練習場で速い球を打つ

ゆとり教育の見直しと言われますが、
教育指導要領はいったい誰のものなのでしょうか。

儒教的感覚には「血族」という意識が残っていて、
世襲を重要視します。
この場合西洋の「個人」にあたるものは存在しません。

儒教の負の側面として、
概して親がこどもを自分の「もの」として考えてしまいがちになります。
個人とは、たとえ自分の子供でも「個人」なので、
家族としてのまとまりとは別に人格を認めることになります。

では東洋ではみんな儒教的かというとそうではなくて、
仏教は個人を明らかにしています。

お受験だとか塾通いだとか言いますが、
一歩間違えば、言葉は何であれ「自分の子供だけは」という
親の欲がさせる競争です。
そんな欲深く醜い親に育てられては子供がかわいそうです。

勉強法についてあれこれ言われていますが、
暗記や試験が一概に良いとか悪いとかという問題でもありません。

バッティングに行って、90km/hのボールを打つのが難しくても、
最初に110km/hのボールを見ておくと打てたりするものです。
一度現場で必要とされる以上の訓練によって、
ここ一番を確かなものにしていく、という方法は
理にかなっている部分があると思います。

さて、Windowsでマウスを使って操作できるプログラムでは、
どんなに小さなプログラムでも最低限のGUIコードが埋め込まれています。
そしてWindowsの機能が拡大していくと、
最低限必要なコードの量も増えていったのです。

「最低限のコード」に相当するものが初等教育であるならば、
社会が成熟していくに連れて必要な教育量も変化していきます。
ただそれを学校で学ぶか社会で学ぶかの違いだと思っています。

めぐりめぐって学習指導要領の改善というのは、
あくまでこどもたちが自分の考えを表現しながら
助け合って生きていけるようにするためのものだと考えます。
世界的な格付けのためとか、経済のためとかであれば
とりたててやる意味はありません。

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