月曜日, 2月 28, 2005

麻酔手術

土曜の小運動会で右腕が筋肉痛です。
日曜日は久しぶりに意識を失ったように眠っていました。

情報を発信したほうがいいのか、しないほうがいいのか
時折考えることがあります。

情報公開という言葉が取り上げられるようになって、
官庁などが非公開にしてきた文書を公開するようになりました。
ところが、公開した情報はあまりに膨大で、
しかも内部の人にしかわからないような分類のままだったので、
「公開した」という事実だけを作り
「公開されたことの意味」が得られないままでいることが問題だと
思っています。

情報戦の中では稚拙なやり方だと思いますが、
大量の「必要性が薄い」情報の中に「重要な」情報をちりばめると
情報の価値が下がって使いづらい情報になります。

このような、一見悪意のないようで大きな罪のある行動に出た部門を
取り締まる法は存在するのでしょうか。

それでは全く打つ手がないかというと、
現代ならスキャナとOCR、数人の人手があれば
デジタル処理化して計算機に情報を検索させることが可能です。
官庁の情報には著作権が存在しないので、
必要であれば情報をネットに乗せてボランティアで読んでもらうことも
可能です。

地球外生命体を探すプロジェクトや、
ゲノム解析のプロジェクトなどでは、世界中の「あまった計算機資源」を
活用した作業が進められています。

それでは、人は何でも知ればいいかというと、
「何でも」というところには疑問が残ります。

デジタル情報には「誤り補正」という機能があって、
それは通信の途中でビットが間違って発信されても
それを見つけられる機能のことなのですが、
だからといって「人は空を自力で飛べます」といった内容の誤りまで
補正してくれるわけではありません。

ひどい殺人事件が何度もおきました、
だからこの街は危険です、という表現は
正しいようで正しくありません。
殺人事件は主に個人的な人間関係から生じるもので、
街や地域に根ざした問題から生じていない限り
街そのものとは関係がないからです。

ニュースが取り上げる事柄は
そもそも「問題がある」事柄が多いため、
都内のカルガモをたくさん報道するのは
ニュースの内容が少しでも中性になるようにするためでしょうか。

情報を受け入れ、処理するには相応の知的体力が必要です。
だからといって情報が都合よく隠蔽されていい理由はどこにもないのですが、
どうなっているか気になるでしょうから
麻酔せずに手術して差し上げましょうかとお医者さんが言ったら
ほとんどの人が断るのと同じで、
知覚できないからうまくいくことというのは
確かに存在するのです。
それは人が万能ではないから起こる必然であって、
それそのものは受け入れる必要があります。

アインシュタインの本の中に、
人間性に絶望してはいけない、
なぜならわたしたちは人間なのだから、というくだりがあります。
この言い回し、すこし気に入っています。

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