月曜日, 9月 24, 2007

四ツ谷16:00

飛行機の中はかなりの騒音なので
耳栓が欠かせません。
移動の機内は映画を一本見たら良いほうで、
大抵はその前後に慌しく準備をしているので眠ってしまいます。

10億人ぐらいが一斉にジャンプすると
大きな地震か津波が起きる、というような話をどこかで読んで、
地震が起きるかどうかはともかくとして
それだけの人がたったひとつの目標に向かうことができたら
いろんな不可能が覆るだろうと思います。

世界中全ての人が平和でありますように、と
わたしを含めて今までこの世界でどれだけの人が祈っただろう、と
想像します。
相当な人数がいるはずで、
ところがこの願いが叶ったことは一度もありません。

願って叶わなかったのでそれで終わりではないのが
この世界の時間の定めで、
叶わなかった人はそれからの時間を
願い続けて過ごしていくのか、願いを打ち捨ててしまうのか、
様々な葛藤状態に置かれます。

生き物は厳しい環境におかれて進化するのだといい、
そして互いに争うのだといい、
それがまるで生き物の定めのように言われます。
わたしはこの世界をそんな仕掛けにしてしまった「何か」は
どう考えても設計ミスをしているようにしか思えないのです。

金曜日, 9月 21, 2007

"Happy" + "End" = "Happy End"

なぜお酒に強くなるのかは
酵素の有無だというのは一応分かっているのですが、
ではその酵素の有無は何で決まるのかはいまだ分からず、
世の中の話題というのはもう少しつつくと「分からない」が出てきます。

それでいたずらな人は
「なんだそんなことも分からないでよく研究ができるな」なんて
言いたがる人が多いのですが、
そういう人は大抵自分に自信のある分野でしか意見を言わないもので、
「わからない」ことに怯える「けんきゅうしゃ」は
「研究者」の定義=分からないことへの敬意と憧れをもつことに
反していると思います。

「ハッピーエンド」という言葉を不思議に思います。
「時間の限られた物語」の中では「終わり」が決まっていて、
だから「エンド」の意味は「物語の終わり」という意味なら明確です。
しかしこの世界が「終わる」という表現は
その可能性がほとんどありません。
地球にとって生命のなかった時代の方が圧倒的に長くて、
そして地球から生命がいなくなったとしても
この宇宙は広がり続けていく固有の時間を持ちます。

しかし人は「終わりよければすべてよし」に見られるような
「ハッピーエンド」思想をどこかに持っていて、
それがなぜなのかをしばらく考えていました。

人は物語をあるまとまりで終えるように、
区切りのない時間を昼と夜のセットで終えます。
そして眠りはおそらく「おわりのしるし」です。
人は意識のあるあいだ、つまり起きている間しか
正確には生を意識できず、また自身を意思によって動かせません。
人はおなかが満たされると眠たくなる、
それは「意識の放棄を許していること」であって、
その「安らかな眠り」が「ハッピーエンド」のもとではないかと
最近考えています。

安らかな眠りの前に描く想像は
「明日も良いことがあるだろう」という期待で、
そして人は明日にちゃんと期待を描くことができ、
それが最後の明日であってもこの世界に期待する練習を
実は眠るという手続きで行っているのかもしれません。

人類には確かに問題が消失したことは一度もありません。
しかし人類すべてが希望を完全に失ったこともまた一度もないのです。

木曜日, 9月 20, 2007

カワイタコトバ

今年は暑かったので
デスクの下にサーキュレーターを置きました。
説明書きを読むと
「冷えすぎるので風を人体にあてないでください」とあって、
もっと冷えても良いのに、と思ったりします。

アメリカの記者だか忘れましたが、
表現に形容詞はいらないと言っていた人がいて、
ふとそのことを思い出します。

目の前にリンゴが3つある場合、
二人の人が見ると何かが「3つある」ことは了解します。
しかしこれを形容詞で表現した場合、
リンゴ園に住む人は
3つのリンゴを少ないと言い、
リンゴが1個1億円の国に住む人は
3つのリンゴを多いと言うとします。

形容詞は感覚に対する言語表現であって、
共通了解が取りにくいものでありながら、
生活の質感におおきな影響を持つ言葉です。

乾いた表現を求める、
つまり静止画の写真に似た描画をするなら、
澄み切った青空、よりも
8月のメキシコの雲ひとつない青空、のほうが
より印象を確定的なものにします。

打ち合わせで「全部」や「絶対」をよく使う人に出会うと、
台詞の意図を読み取れず
話が食い違っていくことがあります。
「全部」や「絶対」はとても使いづらい単語で、
それは「全部」や「絶対」に相当する現象が
この世界にはもともと少ないことに起因しています。

「なんて青い空なんでしょう」という感嘆の台詞と、
「こんな空を以前見たのはいつだろう」という感嘆の台詞、
なぜか形容詞の少ない台詞のほうが訴えるものがあり、
それは「熱狂する歌は規則正しく歌われている」ことに似て、
冷静さが感情を動かす例でもあります。

火曜日, 9月 18, 2007

高速増殖炉と核融合炉と

どんな大都会でも夜は眠る人が多くて、
その様はとても静かで、
もしこの世界の人の睡眠時間が1日16時間で
起きている時間が8時間だったとしたら、
人間世界に起こる問題そのものが減るのではないかと
ふと考えています。

エネルギーという言葉をわたしたちは簡単に使い、
それが力学的・電気的・熱的・核力的のいずれかに該当することを知っていて、
かつそれらの定義も変換公式も分かっているのですが、
「エネルギー」が何であるかはいまだに分かっていません。

人はエネルギーという言葉に特別な響きを与えます。
食べ物は体にエネルギーを与えるものとして重要で、
寒い冬をしのぐために熱エネルギーが必要で、
パソコンを動作させるために電気エネルギーが必要で、
岩盤を削るために力学的エネルギーが必要です。

世界中がお金をかけようとしているものが
高速増殖炉と核融合炉です。

高速増殖炉は言うなれば今の核分裂型原子炉の派生型で、
ウランの代わりにプルトニウムを原料にします。
「燃える」ウラン235の濃縮に限りがあることと、
「燃えない」ウラン238から「燃える」プルトニウム239までのプロセスは
中性子が2回入射するだけで済むことが動機付けになっています。

核融合炉は2重水素と3重水素の衝突、
あるいは2重水素同士の衝突で発生するエネルギーで、
2重水素だけを燃料にできれば原料は海水だけで済みますが、
3重水素が必要な場合加速器か原子炉が必要になります。

エネルギー問題が切実なのは、
自国のエネルギー供給装置運転を他国が掌握した場合、
エネルギーが戦略的に用いられる手段になりうるからです。

それでは人間がみな薪を燃やして暖をとればいいかというと、
今の人口ではあっという間に森林を切り尽くしてしまいます。

自然界のピラミッドでは
連鎖の頂点に存在する種の数は極めて少ないことが
バランス成立の必要条件になっていて、
連鎖の頂点に上ってしまった人間は
明らかにこの法則に反しています。

細胞をシャーレで培養すると、
シャーレ一面に培養し終わると
細胞は互いに連絡して分裂を止めるのだそうで、
これをコンフルエントと呼びます。

金魚は水槽の大きさ、つまり酸素溶存量に合わせて
成長する大きさを変えています。

人が地球というシャーレの上に満ちたとき、
人は何をするのでしょうか。

金曜日, 9月 14, 2007

きみはともだち

うつぶせになって寝る、という健康法があるそうで、
健康な人はまっすぐ仰向けで寝るのだと思っていて
仰向けで寝ようと努力していたのをすっかりやめて
枕を抱きかかえるようにして寝ています。

背中を温める、も始めていて、
手足のこわばりは背中をうまく伸ばせないのに
理由がありそうだと考えるようになりました。

この数ヶ月聴いているのが浜崎あゆみと平井堅で、
どちらも福岡の出身で、
そして少し花開くのに時間をかけたうたうたいです。
「恋じゃない歌」をちゃんと聴けることは意外に少なくて、
そしてわたしは曲のリズムや流行ばかりに気をとられていて
特に浜崎あゆみの方は
歌詞をちゃんと聴いていなかったことに気がつきました。

幸せになるために生まれてきたんだと
思う日があってもいいのだろうか、という問いに
うたうたいは「いい」とも「よくない」とも言わず、
「わたしはそう思いたい」と言います。
シリアスな歌詞にポップなリズムがついている、
なかなか良いものだと思います。

月曜日, 9月 10, 2007

客観について

車の中でCDを聞きながら思うことは、
曲と曲の間にほとんど無音時間がなくて、
一人の歌手のアルバムを再生すると
リズムの違う曲が矢継ぎ早に流れてきます。

最近のオーディオはどんな曲も継ぎ目なしに再生するので
せっかく気持ちがリズムに同調したと思った途端に
違うリズムになり、時折違和感を感じることがあります。

曲と曲の間の無音時間を自由に設定できるCDが
あったらいいのに、と思ったりします。

文書を書くときに、客観とか第三者の視点でという表現を
非常にしばしば耳にし、
しかし一人の人間、言い換えれば統合されたひとつの人格が
「他人の視点」や「別の視点」を持つことは決してありえない、と感じ、
それで「客観視せよ」という人の話が理解できずにいます。

わたしは理解できない言葉で動きが取れなくなることが多く、
「コモンセンス」の意味があまりよく分かりません。
個人の経験はどこまで行っても個人の経験で、
想像したものが外れていることがあまりに多いからです。
それで勢い話は長くなり、摺り合わせに長い期間を必要とします。

わたしは相手の言葉のセットとその連想を理解し、
相手はわたしの言葉のセットとその連想を理解します。

日本語は曖昧だという表現をよく聞きますが、
曖昧であることはすべての言語にありうる可能性であり、
曖昧な印象のひとつは話し手が使い方のセットを明確に保持しないからであり、
もうひとつは一人ひとりに「にほんご」があるということを認識しないからです。

そして「ひとりひとりのにほんご」があるという強い認識から
「共通了解を作る動き」が生じるのであって、
言語はその表現そのものが理解の前提条件なので
「言わないでわかってくれ」は絶対に成り立ちません。
そして「阿吽の呼吸」と日本人が呼びたがるものは
大抵のところ表情と間の取り方という非言語の「表現」であって、
それは会うことでしか理解できず、
「阿吽の呼吸」を求める限り
「明示的な文字表現による理解」からは離れていることになります。

日本人はメールを使うのだといい、
しかしこれらの環境を考えてみると
日本人の意思疎通法にメールは向いていません。
そして会って話す、つまり極めて近距離の情報伝達だけが有効であるので
「国がまとまらない」印象は「表現に用いている形態」に理由があります。

それは俳句の世界にも似ていて、
俳句が好まれるのは多様な読み方、
つまり空に雲があるというような再現する普遍的事実を許容でき、
各人がその環境に出会ったときに普遍的事実のフレームワークが
適切に機能する、というようなものであって、
ある時刻のある現象を切り出して永久保存するような使い方をしていません。

日本人にとって英語は大抵「ある特殊な職業条件に対応した言葉」であるので
限定した世界で使えば誤解が少ないと言うだけであって、
英語も知れば知るほど十分曖昧になって行きます。

そこでどうするかと言うと、契約書や特許の書類などは
最初に「この単語はこの意味範囲のみに限定する」というセットを大量に作り、
それを骨組みとして境界の内側に論理構造を修飾します。

「客観」とは言うなれば「別の立場」、つまり書き手と読み手であって、
客観は決して想像で作れるものではなく、
ひとつの人格が書き手の経験と読み手の経験をもつことです。
そこには「わたし」という書き手と「わたし」という読み手がいるのであって、
決して真の他人の視点ではありません。

「真の他人の視点」を忠実に考えれば考えるほど
本来は「わからない」だけが絶対的な真実になるはずです。

もしわたしが書き手にアドバイスすることがあるとしたら、
客観という言葉は使わないだろうと思います。
書き手は自分で読んでいて納得するものしか書けず、
それは常に一人称であり、
言葉は経験という事象と言葉の間の連想によって成り立っています。
その関係があるからこそ「職業用語=ジャーゴン」が適切に機能します。

書き手にはどこまで行っても
その人の言葉はその人にしか真に理解できないことを
十分伝えるだろうと思います。
それから「共通理解を得る手段」について話を進めます。
共通了解が得られるものと得られないものの判別は本来難しく、
分野が違えば本来ほとんど共通了解がありません。
それで説明には「物理的な量」と「物理的事象」をどれだけ多く書き表すかが
大切になってきます。

日本語という言語セット自体に曖昧さがあるのではありません。
曖昧なのはそれを使っていて、かつそれが共通だと思ってしまっている
わたしたち自身です。
そして「厳密には異なる」ことの完全な認識というのは
人間の集団のなかにいながら
「孤立」と「独立」と「自立」の組み合わせを要請する種類の行動であるために、
「誰にも拠らず自らの意思を支える」という必要とその手段があって
初めて可能になるものです。

この世界に対する「あるもの」への認識は、
わたしの言葉を支えるために必要なものです。

金曜日, 9月 07, 2007

宵っ張りのジェラート

今日は少し気を緩めています。
フィレンツェは福岡に似ていて、
夜遅くまで人が歩く姿ややわらかい雰囲気があります。
夜の通りでひときわ目を引くのがジェラート屋さんで、
12時を過ぎてもショーケースから
甘い香りが街ゆく人を無邪気に誘っています。

男も女もジェラートをよく食べます。

街には恋する人もたくさんいて、
それはあるべきようにあるような気がして、
なんとなくあたたかくて微笑ましい感じがします。

多分それは、「生きていく」ことと「恋すること」を
分けている認識から生じているようにも思います。
「生きるとき」と「生きるのを終えるとき」は
神さまが決めてしまうことで、
「恋すること」は自らがそう思ったことだ、
そんな風に言いたげな感じなのです。

「恋」に文字通りの「両想い」は決してありません―
それは「片思い」と「片思い」の寄り添いです。
どんなに相手を好きであったとしても、
どんなに相手が自分を好きだと思ったとしても、
相手は自分の思う仕方で好きになってはいないし、
自分もまた相手の望む仕方で好きになってはいないのです。

どんなに「私はあなたの望むとおりに」と思っていても、
それは自らが望む通りのことであって
相手が望む通りにはなっていないし、
「私がそう思うのだからあなたもそう思うはず」は
全く成り立ちようがありません。

それらすべてに十分すぎるくらい認識を持った上で、
なお相手を好きにならずにいられない
自らの思いに気づくのなら―
それは真の恋を突き止めているのだと私は思うのです。

そんなことはあり得ない、と人は言うかも知れません。

助け合って生きていかないと言っているのではないのです。
大切にしないと言っているのでもないのです。
そして私が思う「真の恋」でなくても構わないと思うのです。

でもどんなに自己犠牲を払うのだと言っても、
それはあなたがあなた自身を好きであるだけで
相手を好きであるわけではないのだから、
そんな状態のままで
私はあなたが好きだとは言って欲しくないのです。

「恋する」ことの本質は「恋を認識していること」にあって、
「恋するから何かをする」ということではありません。
これはただ言葉遊びをしているのではなくて、
恋というものはいかなる他の方法によっても
表現できないのです。

それは風に似ていて、
空気を捕まえることができても
吹く風を閉じ込めておけないのと同じです。

誰かに好きになって欲しいのではないのです。
誰かを好きにさせたいのでもないのです。
ただわたしはあなたをを好きであることに、
ただ本当にそう思うことに気付いていたいのです。

木曜日, 8月 30, 2007

うたうたいの気持ち

「シンガー」でも「歌手」でもなく 歌を歌う人は「うたうたい」だと
自分の中では呼んでいます。

素敵な恋の歌を聴くことと
そのうたうたいが失恋したのだという ニュースを耳にすることは、
こんなに完全な恋が表現できるのに
なぜうたうたいが失恋なんかするのだろう、と
ずっと不思議に思わせてしまいます。

「うたうたいも人だから」はその通りの答えで、
しかしそれを認めてしまうには
耳にした歌はあまりに美しいのです。

すべての機械にはそれを作る「マザーマシン」があり、
その「マザーマシン」だけは人が手で作ります。
しかし機械の世界は常に、
マザーマシンの精度以上の性能を
作られたマシンは持つことが出来ないと決まっています。

人はまったく不完全で、
でも人は自分自身より完全な歌が歌える、としたら、
それが人の不思議のひとつだろう、と思うのです。

?の!

現場を知らなければどんなに平和に「思える」世界であっても
現場を見ると予想とは違った様相になっていたり、
そして難しいと「感じる」世界であっても
飛び込んでみると意外にうまくつかめたりして、
「わたし」の今までの予想が役立たない場面によく出会います。
これを話すと
そんなの当たり前だ、と多分言われ、
しかしこれが常に誰しも持つ普遍的な事実であって
それにいつも手を焼いていることに向き合ってくれる人は
どのくらいいるのだろうか、とふと思います。

「宗教観」を出来るだけ持たないようにしようという発想から、
これまで宗教に関する記事や本には
出来るだけ近づかないでいようという意識がありました。
人が宗教と呼ぶとき何らかの方法で対立を生むことは分かっていて、
宗教を語らずにこの世界を表現する努力をしていました。

しかしこの世界には確かに「宗教観」というものがあるのだから
偏見を持たずに調べてみよう、という試みは
去年の春に始まりました。

買っては読み、しばらく時間を置き、
別の本を探し、という作業を繰り返して
「シュウキョウ」という言葉に
一体どんな人がどんなイメージを持とうとしたのかを
整理することも出来ずただ読み進んでいました。

「問う」という言葉の特殊性、について
人はずいぶん長いこと「問い続けてきた」ように思います。
「問う」という言葉は「無限」という言葉に意味が近く、
無限の定義が「留まることなく増え続けていること」と同じように、
「問う」という言葉は留まることなく歩き続けることのように思います。

たとえば禅は答えのない問答を続けるのだといい、
ヨブ記はただひたすら神の存在を問う人間を描き、
仏教は終わりのない彼岸へと向かう道なのだといい、
そこに共通するのは「留まる何か」を与えることではなく
「常に問いかけること」だけが
人が自らを支えられる方法だと述べているようにも思います。

あるのは物理でも法学でも名前のついた学問でもなく、
「問う」ということであって、
これはどちらかというと敬虔という意味合いが近く、
外に問うaskと内に問うquestionの両面で成り立っていて、
調べていくとreligiousという「状態」が敬虔であるのに対して
religionという「名づけれられたもの」を宗教という別の漢字で充てています。

ある日が昼ごはんを食べながら宗教観の話になったとき、
わたしの話に興味を持ってくれた彼に
「日本人は皆そんなにreligiousなのか」と聞かれ、
[日本人はreligionを持っているのか]という問いではなかったことを
思い出します。

わたしが求めるものは問う状態であって、
しかし宗教は滑走路のようなものであって、
ある点までは地面の助けを借りますが
ある点からは地面を離れて飛び立つように
設計された言葉の集まりであると考えます。

それを意識しているからか、
哲学の最後は問いかけで終わるものが多くて、
そして哲学の最後は自らの存在を否定して終わります。

自らの存在を否定する力を持つもの、
それを人は宗教のいう名のセットとして持っています。

月曜日, 8月 27, 2007

ミームが世界をつつむとき


つくばまつりでねぶたを見てきました。

木曜日, 8月 23, 2007

空想日記

月の話をしながらふと空想しました。

物理を構成する4つの力の起源である
大統一理論を調べるためには、
今人間が手にしているエネルギーの
およそ100万倍の100万倍が必要です。

これを手にするにはコライダー実験と呼ぶ
2物体の衝突実験が必要です。

ここである科学者が
月を光の速度まで加速する原理を
発明したとします。

人はこの世界の起源をはっきりさせなければ
人が存在する理由を説明できないことを知り、
緊張が高まっていきます。

地球上ではもはや大統一理論の実験ができない事を知り、
ある日人間は地球会議を開き
月を太陽系外にあるほぼ同じ質量の惑星に衝突させて
コライダー実験を行うかどうかを決める
すべての国の人が参加する投票をおこないます。

月が消えれば潮の満ち干がなくなり、
あらゆる生態系のリズムを狂わせ、
夜道を照らす明かりもなくなる代わりに、
人はこの世界の起源を明らかにできる
唯一の可能性をもつことになります。

こんな状況になったとき、なんとなくわたしは
人間が「月を失う」ことに賛成してしまう気がするのです。

金曜日, 7月 27, 2007

いくつかの思想からなる5行詩

思想の前提
・非常にしばしば転置を起こしてしまう感覚として、
行動が悪であるというものがあるが、
行い自体に善悪があるのではない:
善の定義は
それが「あり方」の問題であることを指し示しており、
善の定義は具体的行動を規定しえない。

・善の思想は世俗的道徳とは独立した概念であり、
世俗的道徳を完全に満たす善は存在しない。
この意味において、
いかなる人間にも恒常的かつ永続的な善は宿っていない。

・外的な社会の保持には我々は情報と模倣が必要である。
重要なことは外的模倣をしないことではなく、
外的模倣と内的(心的)模倣を混同しないことである。

・真の未知=現在は真の未知であるがゆえに
本来知覚できず、
恐怖は常に既知のものからのみ生じる。


・思想の正しさは
外的世界のいかなる既知の現象にも
その基礎を求めていないときにのみ生じる。

木曜日, 7月 26, 2007

アニマと世間話をする

あくまで比喩として人の命は地球より重いといい、
しかし地球にはたくさんの人が住んでいるのだから
この比喩はどこまで受け止めるべきだろうかと
ふと思うことがあります。

似たような例で、
人間はこの宇宙で取るに足らない存在だといい、
しかしこれを言っているのはあくまで人であるので、
宇宙と人間存在の大小は価値観に拠ったもので、
わたしとあなたは等質であるというのが
適切かな、と感じることがあります。

たくさんの海を見て自分の心の中に海が描かれるように、
たくさんの人間を見て心の中に人間が描かれます。
心理学の言葉でアニマと呼ぶ自分の女性面があって、
時折それを意識することがあります。

そのような心は誰にでもあるのだ、と本にはあり、
しかし心理は主観に基づく個人固有の持ち物であるので
「誰にでも」の客観的観察を前提とした言葉に
なかなか確証をもたせることができません。

女性面があるからといって、
服が着たいわけでも化粧がしたいわけでもありません。
現実の女性の方がよほど綺麗だと感じるからです。

だからといって女性のように遇されたいわけでもありません。
それ自体は良いや悪いではない中性的な現象なのですが、
たくさんの女性がそう思うらしいと書いてある本によるところの
「女性が喜ぶ」ような事柄に興味があるわけでもないのです。

それで日記を書きながら自分のアニマは何がしたいのかと見つめていくと、
どうやらさまざまな感情の交叉を意識する必要なしに
ただ世間話がしたいのではないかとふと思いつきました。

性差を意識することなく話す友達はいますが、
それでもその立場はやはり男性と女性の担当を分けていて、
男性同士、女性同士で話するような
心理状態の基盤の共有を伴う会話にはなりません。
そしてそれは実現できない願いであることに気がつきます。

男性と友達であってもそのアニマが満たされるわけではなく、
女性と友達であってもそのアニマは見出されることはなく、
ただ時折わたしが私以外に友達のいないアニマを訪ねては
月の浮かぶ湖のほとりで
とりとめのない会話をするように思うのです。

火曜日, 7月 24, 2007

読むなら古い本を薦めます

夏なら毎日食べてもいいと思っているものは
そうめんと厚揚げです。
どちらもしょうが、ねぎ、みょうがと
薬味を効かせて楽しみます。

タイムマシンに乗る方法があります。

一本の木について注目すれば
それは時間の経過がわかるのですが、
たくさんの「木というもの」について注目すると
それはある時間幅の中では普遍的として取り扱える
対象になっていきます。

時代を表現するには言語、非言語を含めた
何らかの「情報」が必要です。
そしてその表現の一つが言葉であり、
本はその言葉を残すために作られます。

科学の世界ではその分野の創世記とともに
それに関わりを持ったいくつかの人物の名前と
世に発表した研究論文という「ことば」が紹介されます。

その分野を作った論文なのだから
さぞかし難しいだろう、というのがわたしの予想だったのですが、
なぜか一番初めに書かれた論文が
一番読みやすく平易に記述されているように感じます。

それを引用したものはどれもひどく展開が省略されていたり
理論が発展して見た目が難しくなってしまったりして、
読んでいて面白いものは多くありません。

たとえば物語の感想について詳しく書かれた書物があって、
しかしいくら詳しく書いてあっても原典が持つ意味には届かない、
というものをよく見かけます。
「わたし」に関して記事にするほどの「変わったことがない」と
人はかなり思うようで、
それは確かに同じ「名前」のついた電車に乗って
同じ「名前」のついた場所の席に座り、
自らが考えることではないという仕事をしている、という認識では
それらは「決まっていること」だとみなされる傾向にあります。

あらゆるものが本来「同じ」にはなりえないのですが、
「人と同じことをしている」と感じることもまた
「わたしは特に面白いことをしていない」という連想に向かう
ひとつの理由付けとして使われることになります。

わたしたちは「同じ」であることにもう少しなじむ努力をする一方で、
「同じでない」ことを認めていかなければならないのかもしれません。
日本語が使えるからといって分かり合っているとは限らないし、
それなのにあなたとわたしには同じ重力の仕掛けが働いています。

昔から何度も読まれた本がある、といい、
しかしそれをわたしやあなた自身が読み始めるまで
それはどんなに名著だとよばれていても
本としての役割を果たさないものです。

月曜日, 7月 23, 2007

夏の料理にはよく火を通す

蒸し暑い日が続いています。

食べ物の日持ちをよくするために
「食べられる火の通し加減」よりももっと長く
煮るや焼くの時間を取ることで、
食べ物の日持ちをよくすることができます。
なんとなく中華料理のように
火を入れる時間が短い方が酵素やビタミンを失わずに
済むような気もするのですが、
長く火を入れた料理を食べると
不思議と体が落ち着くような気がします。

煮物というのは本来おいしさを保つために
火を止める時間加減のある料理なのですが、
作って食べるときには頻繁に火入れをし、
しかも煮過ぎてもあまり気に留めずに口にでき、
それが体に優しい食べ物になる理由なのかもしれません。

金曜日, 7月 20, 2007

短報

わたしは普段眼鏡をしていません。
しかし「日常生活する距離の視点」、
50cmぐらいのところの物を見るのがとても苦手です。

エスカレータの降りる場所を
足元を見ずに知ることができます。
視野角が広くなっているようなのですが、
そのせいで一日過ごすと眼がとても疲れます。

中島義道「悪について」を取り寄せています。

世間が決めた道徳が善だとは思っていません。
道徳の是非は時代によって変わるからです。
そして変わるものにしがみつくことはできないからです。

法が善だとも思っていません。
法は人が作り出したもので、利害の調整はできますが
それで社会に絶え間なく生じる「新たな問題」をカバーできてはいません。

わたしが感覚的に信じている善は
自分の都合よりも「それ」が優先できるかであって、
大事な人の定義であればわたしの都合よりも
その人を生かすことを優先することとなります。
それは「自己愛」を脇において考えることでもあります。

だからといってわたしは「善」という言葉が
ポジティブな意味ではまったく好んでいません。
「善」とは肯定的に存在するものではなく、
あらゆる付帯物を否定してなお打ち消せない、という方法でしか
確かめることができないものだと思うからです。

この感覚はおそらく道徳的な法に縛られて安心する人には
まったく厄介なものになります。
可能な限り法の枠の中にいようと努力はするのですが、
絶対に法の中にいるとは約束しないからです。

すべての人がそうである、とは決して言わないつもりですが、
多くの女性の「正しさ」は潜在的に「自己愛=わたしのため」を含んでいて、
わたしが求めるものとは少しだけ違う気がするのです。

わたしは自分のことを正しいとは言わないつもりです。
それが喜ばれることでもなければ好ましいものでもないことも、
まして正直やありのままでなかったことも認識しています。
過ごしている時間のほとんど全てが
自己愛に根ざしたものだとも思っています。
でもわたしは大切に向き合っているときに
「自己愛」から離れた選択をしたつもりです。


火曜日, 7月 17, 2007

祈りという高級言語

東京駅から博多駅まで新幹線のぞみで5時間ほどです。

行きはあなごめしか深川めし、

帰りはかしわめしをお薦めします。

わたしなりに科学の予想をすると、
意識の問題が解かれるその少し手前で
祈りの問題と意味が解かれるだろう、と
最近考えています。

祈りには言葉が必要です。
そして正確な意味での祈りでは
眼に見える物体の対象はありません。

言葉は伝達のための手段だといわれています。
心理学療法などでは意識の間に言葉を介在させて
意識への働きかけを求めます。

言葉は自己認識の手段だともいわれています。
話す対象へと言葉を投げかけることで
それが強化されていくのだといいます。

プラグマティズムの世界においては
「意思」を言葉で作ることになっていて、
自己暗示をかけるであるとか言われています。

計算機に指示を送るプログラム言語は
最初は0と1の数字をいくつか並べたものを
ひとつの「命令」に対応させたもので、
アセンブリ言語と呼ぶこともあります。
アセンブリ言語は非常に高速ですが、
膨大な命令群をアセンブリ言語だけで記述するのは
時間的制約から無理があります。

たとえば漢字を使いたい場合、すべての漢字を
メモリ上のアドレスを指定して表示させるのはほぼ不可能です。

そこで「アセンブリ言語のまとまり」をさらに抽象化したものを
新たに言語とし、これを高級言語と呼ぶことにしました。
こうすることによって、"Aを画面に表示する"というような命令文で
実際に画面にAを表示させることができます。
そこでは計算機的にどのようなデータの流れが存在するかは
見ることができません。

高級言語にはいくつかの欠点もあります。
逐次翻訳型とよばれる高級言語は
すぐに動きますが翻訳プログラムを常に通すために
できたプログラムはあまり速度が上がりません。
一方で先に翻訳してしまう高級言語は
速度は速いのですが翻訳にかなりの時間がかかります。

面白いのは、翻訳機の性能が変わると
同じ高級言語の同じ命令であっても
実行プログラムの速度と機能がまるで変わることです。

時折、祈るだけでは何も変わらない、という人がいます。
祈りは精神の純粋な活動に近いものであるため、
実存主義的な「眼に見える変化」になじまないのだと思います。
しかし祈りは「高級言語」に近い働きがあるのではないかと
最近考えています。

それは誰もが実行できることではないにせよ、
ヨガで代謝や心拍数を変化させたり、
強い意識が病気を治す力を高めることなどの実例から
現象論的に説明できます。
誰でもできないから証明できない、と言ってしまうのは
誰でもスノーボードで宙返りができないから
わたしは信じないというのに近い感じがしています。

人は祈りによってその具体的な方法を意識することなく、
その方法を実行する手段を身につけられるのかもしれません。
そして人が経験によってより適した翻訳機を持つことができれば
同じ願いであってもより叶いやすくなるように思います。
そしてそれ以上に、
祈りはわたしという枠を超えたところへ作用するような気がするのです。

祈りという行為がどのように実体に作用を及ぼすのか、
わたしは試してみようと思います。
現実には叶わないと考えられている願いを、
すべての人に幸せが訪れるよう願うことを、
祈りがどう叶えるのか調べてみたいのです。

木曜日, 7月 12, 2007

慰めと共にあることの意味

雨が降っています。
福岡に比べて関東の梅雨はあまり蒸し暑くないので
それほど気になりません。

わたしが思いめぐらす「ある種の悩み」は
かなりの部分が「ヨブ記」に語られているような気がします。
ヨブは敬虔に生きようとし、自らの罪を認めていて、
それなのになぜ世界はわたしを苦しめるのか、と
神に問いを投げかけます。

周りの人がこぞって悩む彼に性急な結論を与えようとして
理由付けをし幾多の言葉を投げかけますが、
彼は「人の語る言葉で説明などできない」から
「どうか神に問わせてくれ」と願います。

キリスト教を広めるものにとってはヨブ記の章は
「よい事を信じればかならず報われる」と解釈しますが、
これを現実に当てはめれば
そうではないことはよくわかっています。

わたしがヨブ記を読んで慰めを得るのは、
それが最後には救われるという打算的な約束があるからではなく、
同じ悩みと苦しみを感じた人が
以前からこの世界にはいる、ということを認識できるからで、
物語の中のヨブは一人荒野の嵐で立ちすくみますが、
これを読む私の心は彼と共にいて、
わたしが問いかけることと同じことを言葉にし、
ただ同じ苦しみを持つものだけが与えてくれる慰めを
得られるような気がするのです。


「無駄口はやめよ」とか「何にいらだってそんな答えをするのか」という。
わたしがあなたたちの立場にあったなら
そのようなことを言っただろうか。
あなたたちに対して多くの言葉を連ね
あなたたちに向かって頭を振り
口先で励まし唇を動かすことをやめなかっただろうか。

ヨブ記16章3-4

月曜日, 7月 09, 2007

increment, incruded

わたしとわたしたちの動機付けが
すべて何らかの「仮説」に基づいている、という言葉を作ったとして、
それを証明する方法は存在するだろうか、と
ふと思います。
なぜならば、「仮説に基づいている」という言葉自体が
「仮説」である域を超えないからです。
トートロジーのように聞こえるこれが
どうやらある種の普遍性を帯びていることに
ふと戸惑うことがあります。

ここで「仮説」に対する「実証」を考えるとき、
わたしたちは現在のところ「宇宙の始まり」に
実証の由来を求めるほかにありません。
宇宙が始まったことと、時間が進むことだけが
この世界の普遍的な出来事で、
この証明の前にはあらゆる寓話的仮説が排除されてしまいます。
そして宇宙の始まりは
わたしたちすべてがどう生きるかという問いに対して
まだ何らの「言語的」回答が示されていません。

「証明されていないもの」を「仮説」と呼ぶのであれば、
私たちは「仮説」の中で生きていることが「証明」されています。

ここで宇宙は「始まった」としましたが、
宇宙にある「起点」が存在するのか、それとも循環しているのか、
その点について論争が続いています。

わたしたちが何かを決めると行った時に必要なものは、
「絶対的真理」ではなく「仮説」です。
「絶対的真理ではない」理由は、
おそらくわたしたちが「人」に生まれているせいで、
宇宙の果てを観察することもできず
空も飛べないほどの限定された存在だからです。

わたしたちはさまざまな仮説を立てることができます-
神はいるとか、神はいないとか、
争いは続くとか、争いは終わるとか、
幸せはあるとか、幸せはないとか、
そしてすべては「仮説」であるとか、あらゆるものが「真理」であるとか。

しかしわたしが思うことは、
これらすべては「仮説」だろうな、ということです。

日曜日, 7月 08, 2007

Miscellaneous

食材選びに一段落して
新しい器を買いました。
器は大きさやデザインのほんの少しの差が効いてくるもので、
それは宝石をあしらったアクセサリーにも
共通したことが言えます。

日本人はよく「神を持たないこと」を誇っているようなところがあって、
神なんか持つから戦争なんて始めるのだ、と
時に言いたげな場面に時々出会います。
religionという言葉に当てはめた意味について
わたしは時に詰めなければならない考えがあるように思います。

平等院鳳凰堂ができたのは浄土に早く行きたいという
末法思想の影響があったといい、
歴史上人は時々神を見失っています。

神の指針が揺らぐことと
教義が揺らぐことはある意味で等価で、
須弥山を中心とした仏教の世界観が
「地球が丸い」ことを示したキリスト教と衝突したりして、
教義は言葉でできているためにこのような事が起こります。

いくらこのような書き方をしても、
「世に広まった」というときでさえ
必ずそうは思っていなかった人たちの生活があり、
「教義が議論になった」といっても排他的に生活をしなかった
人たちの営みがあったはずなのです。