色鉛筆
次期空洞のラフ・スケッチをしました。
ボールペンで輪郭をとって色鉛筆で塗ると、
にじまなくて綺麗に仕上がることがわかりました。
心配事という名の現実にとらわれて眠れなくなることがあります。
眠れなくなったときに心を休める方法として、
「花畑を思い浮かべる」と眠れるというのを小さい頃に思いつきました。
最近気がついたのは、
空想に耽っても眠ることができるらしい、ということです。
わたしの行動のひとつの基準として、
老若男女問わず、頑張っているものは応援する、というのがあります。
仏教の世界では全てが空、つまり現代風に言うと
人間が知覚できるものは人間の脳が捉えた像なので、
期待したからといって結果がついてくるとは決まっていません。
因果律が好きなのは主に西洋の思想です。
でも、何かを頑張っている人には、
その結果が良いものであって欲しい、と思うのです。
大地は時々地震や大雨をもたらすけれど、
きちんと耕せばきちんと実がなります。
日曜午後、車に乗ったアイスクリームやさんが来ます。
アイスは1つ210円です。
内装には娘さんが描いてくれた絵が貼ってあります。
ふと、応援したいなという気持ちになり、
日曜午後に家にいるときには買いに出かけます。
いつも車が止まるのが1ブロック向こう側なので、
走って追いかけることもあります。
もし味の絶対値を言えば、それは普通のアイスクリームなのですが、
自分が気持ちを込めて買った満足感があって、
わたしにとってとてもおいしいアイスクリームなのです。
全てが空であるがゆえに、
わたしにとっておいしいということこそが意味をなすのです。
日本は世界一の海老消費国なんだと
以前何かの本で読んだことがあります。
バブルの頃なんかはとにかく金に物を言わせて
漁場を育てずに海老を買い集めたので、
現地の人は海老カレーが食べられないとデモを起こしたりしていたようです。
もっとも今は消費が冷え込んだのと、
中国や台湾での需要が増えたおかげで海老の流通はほどほどのようです。
バブルの頃の回転寿司で海老といえば1皿500円くらいだったと思います。
不思議なもので、今は一皿100円で海老が食べられるようになりました。
そんなわけで、「海老の乗った皿しか食べない」という条件の元に
回転寿司へ行きました。
食べられる寿司は6種類:
生えび、甘エビ、エビ、大エビ、大生エビ、エビマヨです。
3人で46皿でした。
一時的にベルトコンベアーから海老が消えました。
その曲がった姿が年を重ねた人を連想させるので
海老は長寿の縁起物とされています。
同じ縁起物で鯛がもてはやされた時代があったのですが、
最近は養殖でおいしい鯛が1匹1000円とかで手に入るようになったからなのか、
あまり名前を聞かなくなりました。
鯛はわさびとほうじ茶のお茶漬けにすると
雰囲気が出ておいしいです。
今日は献血カーが所内に回ってきたので、
行ってきます。
自分の性格的にはA型だと思っているとりさんです。
たまにまつげが枝毛になっているやつを見つけます。
元の髪は枝毛にならないのに、不思議です。
今日はアフィリエイトの話です。
アフィリエイトでお小遣い、とかいう文句をあちこちで見つけます。
意味を調べてみると
アフィリエイト:affiliate
【他動】仲間にする、加入する、加盟する、関係づける、提携させる、入会する
(From 英辞郎)
とありました。
例えば自分のWEB上の日記である品物の紹介をし、
日記を読みながらその宣伝文句を気に入ってくれたひとが
そのWEB日記を通じてオンラインで商品を購入すると、
売り上げの一部がWEB日記の製作者に入る、というのが
アフィリエイトの仕掛けです。
似たような仕掛けはアマゾンのブックレビューにも見られます。
最初に本のレビューを書いた人には
3000円のショッピング券がついてくる、というやつです。
レビューをする、宣伝をする、というのは
会社の仕組みで言えば営業の仕事です。
固定給も出さず、保険にも加入せず、
売れたら一部をキャッシュバックするだけでいい、
会社にしてみれば都合のいい営業マンを増やすだけです。
うさんくさいしかけです。
レビューがうまく行く人は、
大抵別の場所で文書の素養を身につけているひとかもしれないし、
物が良く売れる人は、
WEBでの知名度が高い人かもしれません。
なにかを成立させるためには、そのベースが必要だということだけは
まず間違いない話で、
普通の人が普通に売っても、時給に直せば50円にもならないと思います。
レビューは本当に何かを感じた時に書けばいいのであって、
物を売るためにレビューを書くのは本末転倒です。
第一、アフィリエイトをしている人が他のアフィリエイトから物を
買おうとはあまり思わないはずなので、
消費がただ増えるだけか、あるいはアフィリエイトという仕掛けが
飽きられるかのどちらかです。
アフィリエイトが飽きられたら、
事業者はただサーバーのプログラムを変えてキャッチーな商売を始めるだけで、
何の契約関係も結ばれていないWEB日記の上には
後で読んでも何の役にも立たないチラシが残るだけです。
似たような仕掛けのものに、
大金持ちになる方法について本を書く人がいて、
それは前の日記で取り上げました。
これと同様に、コンサルティングを仕事とする人も
責任を負わないという意味で大した仕事ではありません。
たとえば、こう思います。
5億の年収があったとしても、それを元手に
100億ぐらい借金を作って人生を終わった人は
けっこうたくさんいます。
虚業はこういうリスクを簡単に作り出します。
ネットで買い物をしても、結局はものという実体が動くのだから、
完全自動運送ロボットが配備されるか、
エアシューターが完備された社会にならない限り
運送会社は仕事が最後まで残るはずです。
同じ宣伝でも、アフィリエイトするぐらいなら、
ちらし配りをしたほうがどんなにまともか知れません。
実業的に本当に永く広まるものというのは、
・長い時間を経ても再利用ができる
・広く社会に適用することができる
・誰がやっても時間がかかることを、
その技術を使うことで人々が喜ぶことができる
という特徴があります。
老舗の和菓子屋さん、発明や特許、心に響く歌、
美しい動きの体操選手、細かく調べられた歴史文献、大きな橋や船など、
全てこの性質を持っています。
一方で虚業は、その存在の危うさゆえに
これら実業から生まれたものをイメージキャラクターとして身にまとったり、
倒産寸前の企業や事業を救って顔を売ることで、
実体経済とのつながりを必至に得ようとします。
虚業はあくまで実業を伸ばすためのものであって、
それがメインになると国が傾きます。
今は虚業で成り上がろうと必至の形相で争っているのを
ただ見つめるより他にないのかもしれません。
つくばに来たときに、
ほしいもが好きだという話を地元の人にしたら、
あらそんなもの、と笑われた記憶があります。
でもとてもおいしいと思うとりさんです。
福岡にいた時に、アラーキーの写真展に行きました。
奥さんをとても愛していたアラーキーが、
病気で亡くなってしまった奥さんとの思い出を写真にした
作品でした。
自分もこんな風に人を想えるようになりたいな、と
思いながら見た展覧会でした。
土曜日に新宿まで出かける用事があったので、
「森山・新宿・荒木」の写真展に行ってきました。
表通りは超高層ビル、裏通りは猥雑なネオンの町を
情感豊かに撮影してあります。
誰がどう考えたのか、
バイク雑誌なんかにある「機械と女性」の組み合わせのように、
機械で引いた線でできたような町並みと女性、
逆に筆なんかで手描きにした立て看板や安いチラシのように、
人間という「生き物」の匂いを感じるような町並みと女性が
新宿という町の中には混在してるんだ、と言われているような気がしました。
写真は2次元で、対象物を表現する視野角は人間より狭いのですが、
たくさん並べることで、人には観察できない「多数の場所の同時比較」
というものが可能になっているんだな、などと
小難しく考えてみました。
人は、
生き物になりたかったり、
生き物じゃないものになりたかったりするのかもしれません。
研究室には、日曜市で買った油絵が置いてあります。
Passionという言葉は意味が深くて気に入ってます。
論文という文章書きで参考になるのは、
ほかの人の論文、などとよく言います。
「論文を読め」というのは
物理屋の常套文句で、さまざまな文脈で使われます。
自分の権威を見せたいとき、
会話による説明が面倒であるとき、
研究が必要だというお説教をしたいとき、
すぐには答えられない質問を受けたときなど、
すべて「論文を読め」のひとことで片付いてしまいます。
わたしは工学屋なので、
ぞんざいで具体性を欠いた説明を聞くと腹が立ちます。
西原理恵子のマンガの中に、
「こどものころは、質問をしたくても
何が分からないのかが分からない」という
表現を知らなくて、辛い思いをした、というくだりがあって、
ずいぶん腑に落ちたような思いになったことを覚えています。
「論文を読め」という言葉は
本当は「読むとどんなことが分かるのか」という連想が必要なので、
直接的なアクションをイメージできない言葉です。
最近、自分が疑問に思うことを纏めています。
自分がつまずくことは人もつまずくことがあるだろうと思い、
そのときの具体的な助けにしたいと考えたからです。
地上の知識を神の領域へ連れて行きたがるのが物理屋の仕事なら、
神の知識を地上へ引きずり下ろすのが工学屋の仕事です。
日記にコメントをいただくと、
Macから入力されたコメントが読めません。
風杜さんに[Hong Kong]って書いてあったよ、と
聞いたので、同朋がなんとなく想像できているのですが、
「あえて」誰か特定できなかったことにしておきましょう。
不機嫌なジーンを見て、
はて、どんな恋愛ドラマか、と思ったら、
生物学を専攻する学者と大学院生が主題になっていて、
大学院生がドラマになる時代になったんだ、と
妙な感心をしていました。
再放送で見た、以前の山口百恵「赤い~」シリーズのように、
お父さんが研究員というのは良くある話なのですが、
主人公が、という話は珍しいと思います。
「利己的な遺伝子」という本は有名で、
翻訳本を読んだことがあります。
全ての生物学的行動は遺伝子を将来へ引き継ぐための競争なのだ、
というのが本の結論です。
数年前の日経サイエンスに、おそらく遺伝情報学の延長だと思われる
「ミーム」という存在についてのレポートが掲載されていました。
この場合、「ミーム」は遺伝子に限らず、
全ての情報が将来への引継ぎを狙っている、というところまで解釈が拡大しています。
ドラマの中でわたしを不機嫌にさせたものは、
ほかでもない、学術的知識を自分の行動の正当化に使う教授であり、
そういう教授が世の中にたくさんいるという事実です。
真摯に先端研究を進めれば、
「確定的な事実」なんて存在せず、
いつの時代にも改良と改変が行われていることに
思いを馳せてもいいと思うのですが、
いかがでしょうか。
2度目のスパゲティの模様です。
生地はまた細く切っていません。
簡単な言葉を難しくして欲しい、と思うことがあります。
話し言葉を書き言葉にするときに、
簡単な単語から難しい言い回しを考えるのです。
難しい言葉を簡単にするのは辞書ですが、
難しい言葉に出会わないと辞書を引くきっかけができません。
逆引き辞典はもっと難解で、
元の言葉をなんとなく覚えている必要があります。
ちなみに、難しい単語になればなるほど、
明治だか大正だかに作られた「技術用語」によって、
日本語と英語は1対1で対応するようになります。
類義語辞典がそれに当たるのかとちょっと思っているのですが、
いかがでしょうか。
霜柱が好きです。
冬の寒い日に、霜柱が地面に規則的にできているのを見ると、
しゃくしゃくと踏んで感触を確かめます。
家というのは壁に囲まれた「閉じた空間」なのに、
わたしはどういうわけか部屋の中でリモコンをなくします。
近頃はテレビのリモコンをなくしました。
ビデオのリモコンをなくしたのはもう5年前で、
それ以来テレビの録画は本体についているボタンを
自分で押して録るしかありませんでした。
録画予約を番組表を元に入力するのは
結構面倒なので、
今まであまりやりませんでした。
いつしか「テレビを今見ないといけない」的な感覚に
なってしまうのは不便なので、
あまりテレビを気にしなくなってしまいました。
そこで最近、DVD/HDDレコーダーを買いました。
SONYが好きなので、PSXにしました。
まず便利だと思ったのは、
番組表は電波でレコーダーに登録され、
あとは見たい番組を画面で選ぶだけであるところです。
以前CS放送で取り入れられていた番組選択方法が、
地上波に降りてきた感じです。
もっと便利だと思ったのは、
一度好きな番組を選ぶと、その後は
好きな番組を「予想して」録っておいてくれるところです。
タイトルもちゃんと登録されます。
これで深夜だろうが昼間だろうがお構いなしに
美術番組とお笑い番組と韓国ドラマをチェックできます。
ビデオテープではないので、
どこからでもすぐに見ることができるし、
HDDにデータが入っているので
60時間分ぐらいの番組をぱらぱらと眺めることもできます。
ニュースなんかは10倍速で見ても、
重要な言葉は文字が出てくるので「読むようにして」見られます。
各局のニュースを録画してぱらぱらと眺めると、
あんなに放送時間は長くいらないんじゃないか、と思ったり、
個性的なニュース作りに努力しているかが気になったりと
新しい発見があります。
録画中もDVDは使えるし、
録った番組も別の番組を録画しながら再生できるので、
リアルタイムで見ることに意味があるサッカー番組とか以外は、
録画してから見ると画面を見る時間は少なくて済み、
しかもたくさんの番組が見られます。
これらの機能によって、
テレビが本のようになった、と思いました。
本が好きな人で、テレビが嫌いな人でも
PSXは気に入ってくれると確信しています。
ご当地ポッキー@中国版をいただきました。
中国で99元(1400円)もするんだそうです。
なんだかお肉が食べたくなる味でした。
香港に行くとショーロンポー味とかあるのでしょうか。
離散技術を普段使わない人にとって
デジタルについて言い古された表現に
「最終的には0か1かの世界なんでしょ、」
というのがあります。
この表現、確かにそうであると思うのですが、
いつも何かを説明し忘れている気持ちになるのです。
そこで、もう少しこの「1010」の世界について
踏み込んだ説明をしてみようと思います。
デジタルとは糸のようなものです。
糸は素材なので、
織れば布になるし、
束ねれば紐になります。
パッチワークや刺繍で模様や絵を作ることもできます。
布はまた素材として、加工されて洋服になり、風呂敷になります。
紐は荷物を縛ったり、縄跳びの道具になったりします。
さて、1010はどうすれば何になるのでしょうか。
1010も素材なので、
まとまった情報として扱えば2進数という数になるし、
電気装置の信号に対応させればスイッチになります。
数字になれば足し算や掛け算ができます。
スイッチになればイラストロジックのように絵や文字として使うことができます。
赤、青、緑のスイッチがあれば色を変えられるようになります。
キーボードはたくさんのスイッチでできています。
液晶の画面もたくさんのスイッチでできています。
数字としての1010や絵や文字としての1010を
1対1に対応させて覚えさせ、その結果を組み合わせると、
ワープロができます。
1010は組み合わせることによって
多様な使い方を提供するのです。
よく、杓子定規で頭の固い人に向かって
「人間は0か1かでは割り切れない部分の生き物」とか
よく言います。
ちゃんと説明すると、数字の上での無限には2種類あって、
ある数字とある数字の間を分けていく無限小の無限と、
どんどん数字をたしていく無限大の無限があります。
この場合、
上の表現は無限小の無限を使っていて、
1010は無限大の無限を使っています。
やっぱり1010も多様なのです。
人間がもし本当に0か1か、2つの決定条件でうろうろしているとしたら、
ちょっと単純な装置です。
3つの決定条件があれば、少なくとも8つのパターンが出てくるからです。
ここまで書いて、
「頭が固い」の表現には
「調節がきかない」という意味と
「選択肢が少ない」という意味が込められていることに
気がつきました。
ちなみに、「人間のような判断をする演算装置」も
近く実用段階に入ることをニュースで見ました。
熟練工のような勘や判断なども再現できるそうです。
手塚治虫のマンガが具現化されているような気がして、
人の生きる意味を求めるのがさらに難しくなるようで
少し怖くもあります。
今日は迷惑メールの話です。
迷惑メールの定義は、
・そのメールを受け取ることに同意しておらず
・営利目的で
・送信者・事業者の名前と連絡先が明記されていないもの
なんだそうです。
いつも迷惑なものは適当に消しているのですが、
「このままでは差し押さえします」なんて出まかせなタイトルの
メールが来たので、
迷惑メール相談センター
http://www.dekyo.or.jp/soudan/top.htm
に情報を提供しました。
みなさんも暇があったら情報提供してあげてください。
この類の機関は、自分たちでは迷惑メールが来る対象とはならないので、
一般市民からの要請があって動き出す必然性をもつことができます。
スーパーなんかに行くと、
「お客様の声」の類のコーナーがあり、
要望や意見を受け付けています。
スーパーが良かれと思って何かを為しても、
一般市民は「営利目的だから」と少し割り引いて考えようとしますが、
同じ行動を「お客様の声を元に」という動機付けで説明すると、
なんだかちゃんとやっているな、と同意してくれる雰囲気が高まります。
静かにでいいから、きちんと一声あげる、
それは同じ組織に属していない
「他人」という立場がうまく活用されるひとこまです。
人が揃い、新年で初顔合わせをする挨拶が終わり、
ようやく仕事もリズムに乗ってきました。
ボスは出張中だったので明日ご挨拶です。
現在、電気屋さんに行くと
ほんとにいろんなパソコンソフトを売っています。
きっとたくさんの人がプログラマとして活躍しているのでしょう。
ネットで個人商店を出すキットとか、
表を含んだ印刷物をEXCELデータにしてくれるソフトとかもあります。
新しいソフトを使いながら、ソフトに使われないようにするのは
ちょっと大変です。
たいていのソフトは覚えるのが難しいのです。
うっかりすると覚えるだけで疲れてしまって、
それ以上の「実のある段階」までいけなかったソフトもたくさんあります。
例えば、PhotoShopはなんとか覚えられましたが、
PageMakerはさっぱり使わないままでした。
ホームページ作成ソフトも、
ContributeとDreamWeaver、Homepage Builderがあって、
結局DreamWeaverしか使わなくなりました。
重複した機能が多すぎると感じることがあります。
WEBページを作るだけなら、
今はWordからもEXCELからも元ファイルは作れます。
出てくる結果は同じなのに作り方をたくさん覚えると言うのは
ちょっと消耗な話です。
高級なことをしない限り、
作業は「メモ帳」と「ペイント」で事足りると思っています。
それはちょうど紙が発明されて2000年たっても、
紙が一番使えると感じるようなもので、
すくなくともあと1世紀は
メモ帳とペイントは役に立つ道具で居続けるでしょう。
先週は年始のご挨拶で会社の人からタオルを頂きました。
よく洗ったタオルが好きなとりさんです。
今日はなんだか書きたいことが山のようにあるようです。
歌の世界では一発屋、と呼ばれる人がいます。
一曲だけものすごく売れて、あとは売れなかった人を
そう呼んでいます。
一発屋はなぜ一発屋になるのだろう、と
不思議に思っていました。
曲が売れるぐらいなのだから、
きっと良い曲を書くポテンシャルはあるはずなのに、
どうして続かないのかがわからなかったのです。
いろいろ考えてみて、
自分が作った曲そのものに
自分のイメージが固定されてしまうからじゃないかという
考えに行き着きました。
もともとたくさんの人が芸能界に応募しているのだから、
売れるようになるために良い曲を書くというのは必ず必要です。
ただ「絶対的に良い曲」なんてないので、
中島みゆきの恋歌をパチンコ屋さんに使ってもらうことはできません。
共感してもらえる歌が世に出ると、多くの人がその曲を好きになります。
ところがその好きになった曲が
歌った本人から外れて一人歩きしてしまうことがあり、
「あの人はあの歌を歌っている」という印象から
「あの歌を歌っているのはあの人」というふうに
主節と従節が逆転してしまいます。
この状態はあまり幸せな状態とは言えません。
将来もよい歌を作る可能性がある人の活動が妨げられるからです。
確かに、さらに売れる曲を世に出せなかった歌うたいにも
その理由がありますが、
その歌自体ばかりに注目してしまったお客さんにも
理由の一端は残されていて、
しかしお客さんの側は数が多いのであまり問題が問われません。
確かに誰も罪には問いませんが、
めぐりめぐって自分の国の文化が痩せ肩身の狭い思いをします。
これは女性がこぞって外国ブランドのバッグばかりを求める姿にも
似ています。
なぜか誰も悪いことだと言いませんが、
ほかのバッグメーカーが育つ土壌ができないので、
めぐりめぐって自分の国の生産力が下がります。
わたしは、それはどんなに控えめに言葉を選んだとしても
決して褒められた行動ではないと思うのです。
おぼれている人を見つけて、自分が川に飛び込んで助けるとか、
最近の映画のように命がけで焼き物を焼くとか、
そういう極端な「人助け」ではなくても、
売れているとか売れていないとかに関係なく、
たとえば気に入った安い絵をひとつ買って飾ってみる、
小さなコロッケやさんでおやつを買ってみる、
それは人という共同体の中で生きていくりっぱな「人助け」だと思います。
ネットで調べたところパスタ生地を作るのは難しくなさそうなので
今夜は手打ちのスパゲティを作ってみようと思います。
いまだにスパゲティをパスタと呼ぶのには慣れていません。
なんとなく格好つけたような感じがして照れくさいのです。
正確にはパスタは「小麦粉と卵の練り生地でできた食べ物」の総称なので、
マカロニもペンネもフィットチーネもみんなパスタです。
古い本のほうが新しい本より役に立つことがあります。
電気や機械の技術書などはその良い例で、
良く時間をかけて丁寧に書かれていて、わかりやすいものがかなりあります。
きっとこの国に技術を早く広めなければ、という気持ちで
書いてくださったのでしょう。
現場に立てば、「現実の宇宙」と「自分の中の宇宙」を照らし合わせて、
予想と言う判断を下さなければならない、そんな経験をした筆者だからこそ
その戸惑いや迷いを含めて文字に記してあるのです。
また「人生の指南書」は、少し枯れたものを読んだほうがいいと思います。
現代でお金を多く持った人を「成功した人」という表現をしますが、
それは成功という言葉を誤用しています。
成功とは何かを始めて、終わったときに得た結果を
自分や周囲の人が満足できるかどうかにあるので、
人生の成功という言葉を使うのなら、
それがわかるのは人生が終わるときの結果なのであって、
若くして成功したかどうかなんて誰も判断できません。
お金を持った人が今までの体験をもとに本を書いていて、
その目的のほとんどが「良い人材を育てる」ではなく
「本が売れた印税」だったりするので、読んでいい気分になったらそれで終わりです。
新しい本、新しいものは、現実に近いがゆえにたいてい欲が多くて、
それがノイズになって冷静な理解を妨げます。
「書かれて50年以上経った本しか読まない」と書いてあったのは
村上春樹の「ノルウェイの森」に出てくる登場人物の一人です。
たしか「時間によって淘汰されるから」という理由だったと記憶しています。
美術館に行くとゴッホの絵が見られます。
絵を描いた線の跡から、その筆を振るったときの力を込めた姿が想像できるので、
それはまるで体操選手の跳躍を目の前で見ているのに近い感情になって、
動いていない絵は躍動感がある絵だ、なんて表現されるのでしょう。
でもゴッホは生きているうちにほとんど絵が売れませんでした。
もう生きていないゴッホには想いを込めて祈る以外、
洋服を買うことも温かい食事をプレゼントしてやることもできず、
絵だけが億単位の値段なんてつけられて取引されています。
ジャズの世界も、本当に一部の奏者だけが
「生きているうちに」認められている世界だと感じています。
バンドネオンのアストル・ピアソラはアルゼンチン生まれで、
たしか戦争に巻き込まれて移住を余儀なくされたといいます。
バンドネオンという存在自体を彼は愛し、しかし憎んでいたそうですが、
その結果として生まれた音楽は人の心を動かす力が宿っています。
楽器も弾けないわたしが彼にしてあげられることは何かないでしょうか。
水木しげるの幸福論の中に、
努力は人を裏切る、だから好きという気持ちそのものを原動力にして
行動をしなさい、というくだりがあります。
努力は報われる、が自分の中の当たり前になっていた自分には
最初は受け入れにくい中身でしたが、
社会という世の中の流れは一部をどうにかできたとしても、
全体は誰も操作できないのだから、報われるかどうかは
人に委ねられた話ではないことに気がついて、なんとなく納得しました。
「日本人は視野が狭い」、と
もういつの時代からか
いろんな指南書や有識者と呼ばれる人に言われています。
視野を広げる方法はおそらくふたつあって、
日本人が日本以外の国を見てくるか、
あるいは日本をどこかの大陸と陸続きにするかが必要です。
わたしの感想では、世界のどの国に行っても、
その国の人々がみな「視野が広い」なんてことはありませんでした。
視野の広さは国民性ではなく、
その人の、地理的、社会的な行動範囲によって得られるものだからです。
その土地に住んでいれば、
明日の天気で洗濯物を干すかどうか気になるものです。
それに、いくら視野が広くなったところで、
人は自分の家族や友達からなる「ローカルな」世界を
現実の接点として必ず持つのだから、
その点で人はみな同じです。
さて、物理屋は極限状態を考えるのが得意です。
極限状態はとても単純であることを知っているからです。
大量のサンプルがある統計物理は正確に計算できても、
たった3個の要素からなる3体問題が解けなかったりするのです。
もし日本のすべての人が
「世界を見渡せる」視野の広さを持っていたとしたら、
もう日本人であることさえ意識しなくなるでしょう。
それゆえ「日本人は」視野が狭い、という表現もしなくなるでしょう。
土地に住み、生活することは
人がひとつの「現場」を持つことだと思います。
現場だけが自然からの恵みを現実的に得られる場所だからです。
こう書くと農業ぐらいしか連想できませんが、
人が集まる駅ビルも、地下水が豊富な工業地帯も「自然」です。
だから、みんながそれぞれ小さな「現場」を持っているのが意識できたら
それでいいと思います。
それでいて「視野を広く持つ」ことの必要性は、
「現場に執着する」ことから解放されなければならないからだと考えます。
人は困ったときに判断を迫られます。
判断するときに用意する道具は、これまでの経験から得た知識と
自分の感情です。
日本人は家業や土地を引き継ぐことを自分の命と同じくらい
大事にすることがあります。
家業や土地は確かに大きな現場であり、
手に入れるのが大変で、大方よい恵みをもたらすものですが、
命より大事であることはありません。
家業が傾いた、土地の収益が悪くなった、というときに
最初から「全額賭けて現状を維持する」ことを目的にしていたのでは
時に判断を誤ります。
未来にどんな社会制度が導入されても、
小さな人間関係で閉じた世界は、
「ムラ社会」になってしまい、
現状と人の顔色ばかりが気になってしまいます。
広い視野とは、自分が今いる場所は大事だが、
別の場所には別の流れがあり、今の場所を離れてもなんとかなるだろうと
自分を安心させるためのバックアップのようなものだと考えています。
日本人は、いつまでも日本人なのであり、
わたしは良いとか悪いとかではなくて、
それでも構わないと思いたいのです。
プールから戻ってきて、なんとなく日記を
書きたくなりました。
例えば、ネットビジネスで儲かったと自称する人が
この世にはたくさんいます。
楽して左うちわで暮らせていて、
いろいろな「やりたいこと」を目標として並べています。
銀座のフロアを貸しきってみたいとか、
月に行きたいとか、
中身はどれも確かに「お金がかかること」ではあります。
確かに「お金がないとできないこと」だと思いますが、
それを聞いてもその人を尊敬するようになったりはしないと思います。
1年分の食事を1日で食べたら、
誰だって絶命します。
山ほどのお金を手に入れたい、というのは
世界中の料理を一度に食べたいと言っているのと同じです。
目の前に並べて満足はしますが、結局食べる体力の分しか
食べられないのです。
こどもがよく「いーっぱいたべたい」と言うと、
大人は笑います。
お金を手に入れる目標は思いつきやすいもので、
それを手に入れた自分が平常心を保持できるか、
あるいはどうやって平常心を保つのかは誰も考えません。
こどもの言うことと同じ意味なのに、
大人が「いーっぱいお金が欲しい」と言っても、
大人は笑いません。
プロ野球球団を例えば一介の市民が突然手に入れたとしても、
手に入れるのは名前と周りからのうやうやしいVIP待遇で、
選手はチームの中で勝手にプレーしているのだし、
観客もオーナーが誰かなんて半ばどうだっていいと思っているのだし、
それを「持っている」と実感を持って言えるようになるためには
その球団に積極的に関わりあって貢献しなければなりません。
球場には閑古鳥が鳴く日もあるし、
ほかの会社からのアタックもあるだろうし、
たとえ誰かがやってくれるようになっていたとしても、
その誰かがオーナーを信じていなければ動きません。
それに、そんなものが手に入ったとしても、
ひとつの恋する気持ちを持ったときの喜びには
遠く及ばないということはよく分かっているつもりです。
こんなことを考えるようになってから、
自分の欲というものを見つめるようになりました。
それを手に入れた後で、
手に入れた自分は正常に保持されるのかを
時々考えるようにしています。
もし、自分がもっと大きな存在になるのであれば、
自分に埋め込む経験がまだまだたくさん必要です。
年末年始にかけて、
CDの付録、雑誌の付録、業者さんの年末の挨拶などで
みんなカレンダーが手元に残ります。
気持ちはわからなくもないし、結構値段がする商品なのですが、
一人10幅ものカレンダーは使い道を思いつきません。
販促を作る人は、どうかカレンダーと手帳以外のものを作ってください。
Windows95になって変わった事は、
ファイル名の8文字、拡張子の3文字の制約から外れたことです。
ところが、拡張子に関して、現実的には制約が抜けていません。
このあたりまで来ると、
人が"8.3"のファイル名に慣れてしまったという感じになります。
いまだに計測器なんかのファイル保存は"8.3"です。
かといって現場の全ての機器にキーボードが繋げるわけでもありません。
無線LANがひとつの回答になるのかもしれません。
手先の細かい作業をしている人をみると、
よく根気が続くものだなあ、
あれは根気がもともとある人にしかできないな、と
思っていたら、
実は手先の細かい作業はストレス解消になるのだそうです。
日常生活に手先を使う作業を組み込みたいとりさんです。
研究の上で、昨年は確かに実りある1年だったと思います。
しかし「実り」に至るには作物は一度枯れなければなりません。
はっきりと結果が出せることを昨年の5月に確信してから、
ある意味でわたしは目標を見失ったのだと思います。
その目標は時限爆弾のように、
自分の時間を追い詰めて苦しい思いをさせるものでしたが、
確かな求心力がありました。
そして、目標であった人たちを「まねる」ことから始めたわたしは、
自分とその人たちとが「違う」部分がはっきりしてきたので、
新しく目標を立て直す必要が出てきました。
良いめがねは映す対象を選びません。
人は近くに寄るほど、
よい面も見えますが、よくない面も見えるものです。
経済の言葉に、
「全ての卵を同じ籠に入れてはいけない」というのがあります。
一点買いはリスクが大きい、ということなのですが、
これは目標設定と現実との間にも言える関係かもしれません。
目標が現実の中にあるというのは、
それは森の中のリスの巣を目印にするようなもので、
目標が動くと迷ってしまいます。
人が北極星を目指して航海できるのは、
北極星が「動かない」からです。
以前「遠い目標」であったものが今足元にあるのなら、
また「遠い目標」を立ててみましょう。
もちろん目標に到達することが一番の願いですが、
目標に至るまでに迷わず進める心地よさや、
努力して得るたくさんの副産物がまた気持ちを高めてくれるでしょう。
今年は、その第一歩です。
一筆箋って便利な道具です。
ひとことしか書くことがなくても体裁が取れます。
携帯電話の「メール」は
「封筒」ではなく一筆箋のようだったから
流行ったのかもしれません。
あまり観たいジャンルのドラマではないのですが、
「ナニワ金融道」をテレビで観ました。
ドラマを見ながら、
仕事とは2種類あって、
人を幸せにする仕事と、人を食い物にする仕事がある気がしてきました。
そのふたつはどちらも「経済活動」という同じ顔をしていて、
世の中に必要とされる時期があります。
飽和した世界においてただ利子を求めるだけの金融業は
「生産的ではない」という意味で必要ではないのです。
金融関係に勤める友達と話をしながら、
彼は「お客さんの生活の役に立ちたい」金融がしたいと話していました。
土地売買と同じように、
転がすだけで儲けるような仕組みが存在すると、
人は苦労して働くことを忘れてしまうので
健全な産業を圧迫します。
その結果自分たちの街が住みにくくなるのです。
人はふとしたきっかけで人生の流れが変わってしまいます。
満たされない思いの為にギャンブルに走ったり、
逆に一本の電話やメールで活路を見出せたりします。
わたしは人の全てを守ってやることなんて到底できませんが、
頑張っている人には自分ができるだけの「よいきっかけ」を作ってあげたい、と
いつも思っています。
今日はお台場に出てきました。
街行く人を見ていると正月であることを少し忘れます。
いくら日本の伝統文化だといっても、
3が日が休み、だというのは江戸町人文化ぐらいからの話で、
しかも正月は太陰暦の時代です。
人は気持ちの上で年を改めるという「気持ちの整理」が必要になって、
そして時間という連続体の上で日々起こり行く、
悲喜こもごもの出来事に区切りをつけたくなるのでしょう。
一度栄えた都が廃墟になることがあります。
大飢饉が起こった年、疫病が流行った年、
人々はそれを「世界の終わり」や「この世の終わり」だと感じてしまい、
刹那的に生きたり都を捨てたりしました。
人間は確かに、その全体としてみれば疫病に対して強くなり、飢えを忘れ、
暖かい寝床を確保できるようになってきましたが、
地震に対する完全に有効な対策というものはそもそも存在しません。
わたしが人と話しているとき、よく聞かれるのが、
人はあるときから、「今年は異常気象だ」と毎年のように口にすることです。
それを環境問題のせいや世界の終わりのしるしとして認識しようとしているのですが、
それで世界が終わるのであれば、もうとっくに世界は終わっています。
人はどんな世界でも生きていかなければならない、
それは最小限の人の願いであり、
その上に築かれる数多くの欲の基点であるがゆえに、
みなそれを「原点に返る」と表現するのでしょう。
木が大地から離れればその生命を失うように、
人がその最小限の願いから逸脱すればその命を失うのであれば、
時に人はその一部を失うことによって原点へ戻らなければならないのだと
感じることがあります。
手塚治虫風に言えば、
一縷の望みは次の人類に期待しよう、といったところでしょうか。