日曜日, 1月 02, 2005

新年会

今日はお台場に出てきました。
街行く人を見ていると正月であることを少し忘れます。
いくら日本の伝統文化だといっても、
3が日が休み、だというのは江戸町人文化ぐらいからの話で、
しかも正月は太陰暦の時代です。

人は気持ちの上で年を改めるという「気持ちの整理」が必要になって、
そして時間という連続体の上で日々起こり行く、
悲喜こもごもの出来事に区切りをつけたくなるのでしょう。

一度栄えた都が廃墟になることがあります。
大飢饉が起こった年、疫病が流行った年、
人々はそれを「世界の終わり」や「この世の終わり」だと感じてしまい、
刹那的に生きたり都を捨てたりしました。

人間は確かに、その全体としてみれば疫病に対して強くなり、飢えを忘れ、
暖かい寝床を確保できるようになってきましたが、
地震に対する完全に有効な対策というものはそもそも存在しません。

わたしが人と話しているとき、よく聞かれるのが、
人はあるときから、「今年は異常気象だ」と毎年のように口にすることです。
それを環境問題のせいや世界の終わりのしるしとして認識しようとしているのですが、
それで世界が終わるのであれば、もうとっくに世界は終わっています。

人はどんな世界でも生きていかなければならない、
それは最小限の人の願いであり、
その上に築かれる数多くの欲の基点であるがゆえに、
みなそれを「原点に返る」と表現するのでしょう。

木が大地から離れればその生命を失うように、
人がその最小限の願いから逸脱すればその命を失うのであれば、
時に人はその一部を失うことによって原点へ戻らなければならないのだと
感じることがあります。

手塚治虫風に言えば、
一縷の望みは次の人類に期待しよう、といったところでしょうか。

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