土曜日, 1月 08, 2005

日本人は、いつまでも日本人

ネットで調べたところパスタ生地を作るのは難しくなさそうなので
今夜は手打ちのスパゲティを作ってみようと思います。

いまだにスパゲティをパスタと呼ぶのには慣れていません。
なんとなく格好つけたような感じがして照れくさいのです。
正確にはパスタは「小麦粉と卵の練り生地でできた食べ物」の総称なので、
マカロニもペンネもフィットチーネもみんなパスタです。

古い本のほうが新しい本より役に立つことがあります。

電気や機械の技術書などはその良い例で、
良く時間をかけて丁寧に書かれていて、わかりやすいものがかなりあります。
きっとこの国に技術を早く広めなければ、という気持ちで
書いてくださったのでしょう。
現場に立てば、「現実の宇宙」と「自分の中の宇宙」を照らし合わせて、
予想と言う判断を下さなければならない、そんな経験をした筆者だからこそ
その戸惑いや迷いを含めて文字に記してあるのです。

また「人生の指南書」は、少し枯れたものを読んだほうがいいと思います。
現代でお金を多く持った人を「成功した人」という表現をしますが、
それは成功という言葉を誤用しています。

成功とは何かを始めて、終わったときに得た結果を
自分や周囲の人が満足できるかどうかにあるので、
人生の成功という言葉を使うのなら、
それがわかるのは人生が終わるときの結果なのであって、
若くして成功したかどうかなんて誰も判断できません。

お金を持った人が今までの体験をもとに本を書いていて、
その目的のほとんどが「良い人材を育てる」ではなく
「本が売れた印税」だったりするので、読んでいい気分になったらそれで終わりです。
新しい本、新しいものは、現実に近いがゆえにたいてい欲が多くて、
それがノイズになって冷静な理解を妨げます。

「書かれて50年以上経った本しか読まない」と書いてあったのは
村上春樹の「ノルウェイの森」に出てくる登場人物の一人です。
たしか「時間によって淘汰されるから」という理由だったと記憶しています。

美術館に行くとゴッホの絵が見られます。
絵を描いた線の跡から、その筆を振るったときの力を込めた姿が想像できるので、
それはまるで体操選手の跳躍を目の前で見ているのに近い感情になって、
動いていない絵は躍動感がある絵だ、なんて表現されるのでしょう。

でもゴッホは生きているうちにほとんど絵が売れませんでした。
もう生きていないゴッホには想いを込めて祈る以外、
洋服を買うことも温かい食事をプレゼントしてやることもできず、
絵だけが億単位の値段なんてつけられて取引されています。

ジャズの世界も、本当に一部の奏者だけが
「生きているうちに」認められている世界だと感じています。
バンドネオンのアストル・ピアソラはアルゼンチン生まれで、
たしか戦争に巻き込まれて移住を余儀なくされたといいます。
バンドネオンという存在自体を彼は愛し、しかし憎んでいたそうですが、
その結果として生まれた音楽は人の心を動かす力が宿っています。
楽器も弾けないわたしが彼にしてあげられることは何かないでしょうか。

水木しげるの幸福論の中に、
努力は人を裏切る、だから好きという気持ちそのものを原動力にして
行動をしなさい、というくだりがあります。
努力は報われる、が自分の中の当たり前になっていた自分には
最初は受け入れにくい中身でしたが、
社会という世の中の流れは一部をどうにかできたとしても、
全体は誰も操作できないのだから、報われるかどうかは
人に委ねられた話ではないことに気がついて、なんとなく納得しました。

「日本人は視野が狭い」、と
もういつの時代からか
いろんな指南書や有識者と呼ばれる人に言われています。

視野を広げる方法はおそらくふたつあって、
日本人が日本以外の国を見てくるか、
あるいは日本をどこかの大陸と陸続きにするかが必要です。

わたしの感想では、世界のどの国に行っても、
その国の人々がみな「視野が広い」なんてことはありませんでした。
視野の広さは国民性ではなく、
その人の、地理的、社会的な行動範囲によって得られるものだからです。
その土地に住んでいれば、
明日の天気で洗濯物を干すかどうか気になるものです。

それに、いくら視野が広くなったところで、
人は自分の家族や友達からなる「ローカルな」世界を
現実の接点として必ず持つのだから、
その点で人はみな同じです。

さて、物理屋は極限状態を考えるのが得意です。
極限状態はとても単純であることを知っているからです。
大量のサンプルがある統計物理は正確に計算できても、
たった3個の要素からなる3体問題が解けなかったりするのです。

もし日本のすべての人が
「世界を見渡せる」視野の広さを持っていたとしたら、
もう日本人であることさえ意識しなくなるでしょう。
それゆえ「日本人は」視野が狭い、という表現もしなくなるでしょう。

土地に住み、生活することは
人がひとつの「現場」を持つことだと思います。
現場だけが自然からの恵みを現実的に得られる場所だからです。
こう書くと農業ぐらいしか連想できませんが、
人が集まる駅ビルも、地下水が豊富な工業地帯も「自然」です。
だから、みんながそれぞれ小さな「現場」を持っているのが意識できたら
それでいいと思います。

それでいて「視野を広く持つ」ことの必要性は、
「現場に執着する」ことから解放されなければならないからだと考えます。

人は困ったときに判断を迫られます。
判断するときに用意する道具は、これまでの経験から得た知識と
自分の感情です。

日本人は家業や土地を引き継ぐことを自分の命と同じくらい
大事にすることがあります。
家業や土地は確かに大きな現場であり、
手に入れるのが大変で、大方よい恵みをもたらすものですが、
命より大事であることはありません。

家業が傾いた、土地の収益が悪くなった、というときに
最初から「全額賭けて現状を維持する」ことを目的にしていたのでは
時に判断を誤ります。

未来にどんな社会制度が導入されても、
小さな人間関係で閉じた世界は、
「ムラ社会」になってしまい、
現状と人の顔色ばかりが気になってしまいます。

広い視野とは、自分が今いる場所は大事だが、
別の場所には別の流れがあり、今の場所を離れてもなんとかなるだろうと
自分を安心させるためのバックアップのようなものだと考えています。

日本人は、いつまでも日本人なのであり、
わたしは良いとか悪いとかではなくて、
それでも構わないと思いたいのです。

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