人が生み出したものを、人は制御できるとは限らない
先週は年始のご挨拶で会社の人からタオルを頂きました。
よく洗ったタオルが好きなとりさんです。
今日はなんだか書きたいことが山のようにあるようです。
歌の世界では一発屋、と呼ばれる人がいます。
一曲だけものすごく売れて、あとは売れなかった人を
そう呼んでいます。
一発屋はなぜ一発屋になるのだろう、と
不思議に思っていました。
曲が売れるぐらいなのだから、
きっと良い曲を書くポテンシャルはあるはずなのに、
どうして続かないのかがわからなかったのです。
いろいろ考えてみて、
自分が作った曲そのものに
自分のイメージが固定されてしまうからじゃないかという
考えに行き着きました。
もともとたくさんの人が芸能界に応募しているのだから、
売れるようになるために良い曲を書くというのは必ず必要です。
ただ「絶対的に良い曲」なんてないので、
中島みゆきの恋歌をパチンコ屋さんに使ってもらうことはできません。
共感してもらえる歌が世に出ると、多くの人がその曲を好きになります。
ところがその好きになった曲が
歌った本人から外れて一人歩きしてしまうことがあり、
「あの人はあの歌を歌っている」という印象から
「あの歌を歌っているのはあの人」というふうに
主節と従節が逆転してしまいます。
この状態はあまり幸せな状態とは言えません。
将来もよい歌を作る可能性がある人の活動が妨げられるからです。
確かに、さらに売れる曲を世に出せなかった歌うたいにも
その理由がありますが、
その歌自体ばかりに注目してしまったお客さんにも
理由の一端は残されていて、
しかしお客さんの側は数が多いのであまり問題が問われません。
確かに誰も罪には問いませんが、
めぐりめぐって自分の国の文化が痩せ肩身の狭い思いをします。
これは女性がこぞって外国ブランドのバッグばかりを求める姿にも
似ています。
なぜか誰も悪いことだと言いませんが、
ほかのバッグメーカーが育つ土壌ができないので、
めぐりめぐって自分の国の生産力が下がります。
わたしは、それはどんなに控えめに言葉を選んだとしても
決して褒められた行動ではないと思うのです。
おぼれている人を見つけて、自分が川に飛び込んで助けるとか、
最近の映画のように命がけで焼き物を焼くとか、
そういう極端な「人助け」ではなくても、
売れているとか売れていないとかに関係なく、
たとえば気に入った安い絵をひとつ買って飾ってみる、
小さなコロッケやさんでおやつを買ってみる、
それは人という共同体の中で生きていくりっぱな「人助け」だと思います。
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