木曜日, 5月 31, 2007
高圧鉄塔の端
なんとなく乾いた空気の中に
雨が降っているような気がして、
今年は不思議な気分です。
とろろおにぎりを良く食べています。
電力を伝達する電線を支える高圧鉄塔は
なんとなくその端は全て発電所につながっている気がします。
たどっていくともちろん電線は
全て発電所に繋がっているのですが、
高圧線から地上の電信柱への接続部は
あまり気にしたことがありません。
車を走らせていて、
ふと並んでいる高圧鉄塔の一つが
ほんの少し形が違うことに気付き、
よく眺めてみると高圧線は地上に降りて
そのまま地面にもぐり地下線になっていました。
自分の見ている光景のほんの少しの視野角に映った
ありふれている景色とほんの少し違う出来事に気付くとき、
その出来事自体に面白さを感じると同時に、
気付いたこと自体にもなにか喜びがあります。
月曜日, 5月 28, 2007
あなた方は侵略的な民だ、となぜ言わない
洗濯機にかけただけでは落ちない何かがあって
次第に色がくすむので、手洗いしてみました。
手洗いの時は生地にもよるのですが
合成洗剤はすすぎに時間がかかり、
石鹸は比較的すぐにすすぎが終わります。
わたしがいた頃の高専のカリキュラムは
受験という目標から一歩離れているせいかずいぶんと自由度が大きく、
歴史の授業にしても暗記をさせられた記憶がありません。
わたしの歴史の先生だった人は仏教の僧侶で、
半期に一度大胆にテーマを設定して好きな授業をしていました。
アステカ文明はなぜ滅んだのか、とか、
日本人の「恐れ入ってかしこまる」はどこから来たのかとか、
戦後50年の歴史認識はどうであったとか、
一事が万事こんな調子でした。
試験もB4の紙を渡されて論述せよ、だったので
今思えば良くも悪くも大学的な感じがします。
わたしが面白いと思って聞いていた講義は
その人にしかできないテーマで話してくれるときでした。
それはどうしてもとりとめがない、
ある人に言わせれば脱線した話になります。
金属の先生は金属材料の英知の結集として
日本刀に惚れているといい、
延々と日本刀を作る行程での塑性変化の見事さ、
顕微鏡で覗かなければ理解できないような金属組成として
刀体の粘り強さと刃先の硬さを熟知し、
一つの流れ作業にパッケージしているのだと話してくれました。
英語の先生はひたすらラテン語やギリシャ語の語源の編纂が研究テーマで、
英語は語源に分解できる、とよく話してくれて
それで分かりもしないのに
Merriam-Webster's Vocabulary Builderを買って読むきっかけになりました。
一事が万事こんな調子で、
プログラム講義では延々と研究テーマの画像処理と人工知能にまつわる話だったり、
熱力学だったらやたらと熱サイクル側ではなく冷凍サイクル側だったり、
高校の終わりに量子論を展開されたり、
微積分の基礎さえ知らない頃に電磁気のテストをしたり、
聞き纏める範囲が限界を超えていたのをよく覚えています。
試験に通るためには限定してまとめてくれたほうが良い、と
受験的で暗記が好きな学生にはめっぽう評判が悪く、
一方で徹底的に纏めて来る先生は
相当高度な数学的処理を要求したりしてきて、
しかしわたしにとってはそれが面白くて
脱線したところばかりが頭に残っていました。
先生の一致した意見は、
その時はやっていた「ゆとり教育」には全く反対の姿勢を取っていて、
旧課程の問題集や自作のテキストに目一杯情報を詰めて渡されました。
教科書も基礎に甘んじたようなものはほとんど使わず、
20年は使えそうな難解な物ばかり揃えさせられました。
なるほどその当時の多くの学生には不評でしたが、
先生の意味とは
どれだけ遠くにどれだけ密接な具体的目標があることを
示せることなのかも知れず、
今になって、そしてこれから彼らは
あの時聞いていた事はこれだったのかと
未知に向かうというもっとも困難な最初のバリアを
知らない間にクリアさせられていることに
気づいていくのだろうと考えています。
脱線ついでに、
歴史認識が常に自国の意識として行われるなら、
ペリーが圧力外交をしたために日本は不安定になった、
だから世界大戦のきっかけはヨーロッパやアメリカが作ったのだと
宣言することに何の問題もないだろうと思うのです。
ヨーロッパやアメリカの動向を見る限り、
我々は知識について遅れているかもしれないと不安になるらしく、
いまだに実際の欧米モデルを取りいれようとばかりしているのですが、
もし実際を知ろうというのなら、
圧倒的多数の経済難民や尽きぬ貧困を抱え、
労働者階級、なんて言葉が厳然とまかり通っているような国であることまで
見てくる必要があると思います。
そして[invasive]であるあなた方に
何を言われても動じる必要はない、と優しい国の民は思っていて、
日本が欧米のようにならないのは
「なれない」と「なりたくない」が混在していることに気がつくのです。
金曜日, 5月 25, 2007
outrage
野の草がロケットのように花をつけていました。
この世に良いと悪いは仮にあるに過ぎない、としても、
人は何かに怒りを持ちます。
それは強烈な感覚で、
その瞬間はたとえこの世界の全てが消え去っても
今ならなんとも思わないだろうとさえ感じるほどで、
ひとは一体何のために怒るのかとふと思います。
この世界はこれで完全であるとして、
それならわたしがこの世界を不条理だと感じることが
不完全だというのか、と
自分に問いかけます。
小さい頃に読んだ聖書物語の絵本には、
都市が栄え人の暮らしが他の人の労働によって賄われる余裕ができ、
自然は静かなときに人はこの世界にある神を忘れ、
そしてその度に神は街を焼き討ち、大地を洪水にして滅ぼした、という絵が
いたるところに描かれていました。
それなら、と思うのです:
焼き討ちにするくらいなら、
人が共同生活することで余裕を作ることができないようにして、
必死に自然から食べ物を得て神を敬う民にしておいたほうが
人は充足するのではないだろうか、と。
火曜日, 5月 22, 2007
identity of music
小グループですったもんだして仮に纏めた案があって、
最適化の基準が異なっても数字で判断できない条件では
大グループで相談すると
すったもんだの過程を一度丸ごとやり直すことがしばしばあって、
大グループでは小グループにある程度の権利委譲を
認めておいてもらう必要があることが最近感じることです。
「同じ曲」の定義について思います。
曲にどこまでの条件を付加するかで
「同じ」と「違う」の表現は異なります。
歌い手が変われば違う曲だとする人もいるし、
メロディーラインが同じなら同じ曲だという人もいます。
「同じ曲」が流せる可能性を手にした後で、
わたしたちがそれを「同じ曲」として再生するかどうかは
別の問題です。
曲の違いの中に、
曲調の違いは大きいと思っています。
たとえ音の上下とリズムが同じでも、
調が違えば印象が違います。
CDをかけると流れる音は同じようですが、
最後に一つ「音の大きさ」というのが
曲を同じにしたり違うものにしたりするのではないかと
確信的に思っています。
人と話をするときになぜ通じないのだろうと考えたとき、
大抵のアドバイス本はその「中身」について問題にすることが多く、
表現方法は別の本で詳しく取り上げられています。
通じない話はもしかしたら声が「大きい」のかもしれない、
それは複雑な議論をするときに大声で話していたら
十分耳を澄ませて考えられないからという理由は成り立ちそうです。
写真に流れは写らない
とろろで巻いたおにぎりが好きです。
小さい頃から好きな食べ物は
わかめ、玉ねぎ、ねぎ、しょうが、わさび、しそです。
薬味を野菜の量で食べるとおいしく感じます。
川の写真を撮ると、
そこに写るのは水で、川ではありません。
川の動画を撮ると、
そこに写るのは水の写真の集まりで、川ではありません。
コンサート会場を撮ると、
そこに写るのは人だけで、音楽はありません。
言葉は「動き」を捉えるために作ったもので、
しかし「歌」は楽譜でも写真でもなく、
そして形がありません。
この世界の全ては歌なのかもしれず、
できれば綺麗な歌を聴きたいなと思うのです。
月曜日, 5月 21, 2007
そして、より近づくことへ
人口甘味料は血糖値を上げないのだそうで、
甘いものを口にしたいけれど甘いものを食べた後の
あの妙な気分が気になるときに便利です。
今日の昼ごはんでは
徴兵令と戦争意識についての話が持ち上がりました。
徴兵を経験することで他人事ではない戦争の辛さの実感が湧き、
国全体として戦争を望まなくなっていくのだと一方で思う人がいて、
徴兵の経験がより「軍隊の必要性」についてまざまざと知り、
人は力によって治められる部分があるのだと他方で思う人がいて、
それらはどちらも現実に意味を持った意見になります。
しかし大方「そんなきれいごとでは国家は成り立たない」と言われるのが
平和を望む声のほうで、
仕方がなくて戦争をするというのなら
どんな理由でも「未来は分からない」と「仕方がない」で済んでしまいます。
医療行為と生死の意識もおなじ論理の流れで、
医療に従事するからこそ生きると死ぬをまじめに考えるようになり、
医療から離れるから生死の苦しみを普段忘れて暮らせるのです。
医療の境は知りたくないといい、
一方で軍隊は必要なのだという人がいて、
同じロジックを通すなら
どちらも「必要で知らなければならない」と言うはずだという気がするのですが、
いかがでしょうか。
気に入ったアルバムは延々と聴くくせがあって、
Chemistryの最初のアルバム"The Way We Are"が
とても気に入っています。
Chemistryのアルバムは他にも聴いたことがありますが、
最初のアルバムが飽きずに聴いていられます。
ある日好きなものはなぜか別れの歌であることが多くて、
その理由ははっきりしません。
あえて理由を与えるとしたら、
別れの瞬間に「何か」がはっきりする、
それはその人が自分にとってどれだけ大事なものかであり、
自分の中にどれだけその人が埋め込まれたかの証左を感じるから、
と書いたら少しは当たるでしょうか。
幸せな曲も好きなのですが、
このアルバムは別れの歌が綺麗です。
8曲目"You Go Your Way"を聴いて、
最後の最後に心とは異なる言葉を発し、
その言葉を本心と受け取ってもらったことを思います。
パンドラの箱の最後が「希望」であるように、
わたしの心の最後にある言葉は表には出さず、
しかし錠をかけて鍵を月に返しました。
わたしが願うことはいつも同じで、
ただあなたがあなたでいられる日が増えますように、です。
日曜日, 5月 20, 2007
長湯をする
ひたちなか海浜公園で
ネモフィラという青い花を見ました。
雨上がりの空、太平洋側の海、カリフォルニアの花が
まるで互いに申し合わせたように
空の青、海の蒼、花の藍をぴったり一致させていて、
丘のふもとから見上げた景色は
丸い青のなかに包まれているようでした。
長湯について思います。
小さい頃は風呂の中にいるのが好きでした。
喧嘩の多かった両親の間で
なんとなく「安全地帯」だったのが
風呂とその時間だったからなのかもしれません。
平穏な日でも、何かと機会を見つけては
湯船の中に長くいる習慣ができました。
しばしば風呂の中で寝ることがあって、
そうなると風呂の時間は2時間を超えます。
湯船に湯を張るとガス代が高くつくので、
極力シャワーを使う生活が続き、
次第に湯船で寝る時間が減っていきました。
今日気が向いて、久しぶりに長湯をしました。
金曜日, 5月 18, 2007
仕事をしながら思うことは、
人はある場面で秘密を保持しなければならないことで、
それは全体のために本当に必要なときと、
相手の都合よりもただわが社の利益を守るためだけだったり、
ときにない袖で勝負する ある種のブラフや虚勢の類として使われることがあります。
全体のためにならない秘密以外の「表現された秘密」は、
疑いなくある種の恐れから発生していて、
格下に見られると買い叩かれるとか
大抵はそんなところで、
これが本来なら必要のない意見の相違や無理解を招きます。
わたしが戦うものは
必要のない秘密の表現の代わりに、
どれだけ一人間として誠実な表現で応えることができるかであり、
恐れの感情で満ちた現場に
協力した建設的な議論をどこまで展開できるかです。
会社は時にお金を払って仕事を頼み、
一方で時に仕事を受けてお金をもらいます。
そしてお金を払うときには殿様のように
札束で頬を張るように買い叩き、
仕事を受けるときは下僕のように忍従する、
そんなことばかり繰り返しているように感じます。
仕事を受けているときに辛い思いをした、
だから仕事はそういうもので、
買う時には同じプロトコールを繰り返す、
そう思ってしまえば連鎖は解けません。
役所と市民、 官庁と民間、
言葉の上での違いはあっても、
それら全てに「自分の友達」がいるのなら、
わたしは区別をつけたくありません。
研究所が入札をすると言い、
いろんな会社が伺いに来ます。
非常にしばしば彼らは「殿様と下僕」を演じ、
まるでそれが当然であるように振舞います。
それで仕事が進めばいいのですが、
議論は上滑りして仕事は前に進みません。
お互いに「あいつは分かっていない」と言っています。
そして失敗を恐れて自ら話すことはためらい、
人が話すことのあら探しばかりに徹しようとします。
そんな議論の仕方では確かに失敗はしないかもしれませんが、
前に進まず、結局時間が詰まってみんなで大失敗をします。
いくら大きなお金が流れ、
その使い方を決められるといったところで
それは「預かり物の資金」であって、
目の前にいる人は一人の人間です。
メーカーの会社の人と向き合うとき、
わたしはふと友達の顔が浮かびます。
同じ仕事を成し遂げるときに、
その人がどこの人かなんて関係ない、
と わたしは思っています。
だから分からなければ聞こうと思うし、
分かっていれば教えてあげようと努力しています。
それはわたしにとってはひどく効率が悪く、
フォローを増やせば仕事は増えるし
内部の人と避けられぬ衝突になることもあるのですが、
曲芸のような世渡り上手になるよりも
負側面を可能な限り受け止めて正に転化できるような
そんな人でいたいのです。
それは詰まるところ、試験前の勉強の延長なのかもしれず、
順位を上げたいからといって一人裏で勉強し、
人当たりはいいけれど肝心なところははぐらかす人と
みんなで進級しようと勉強会に参加する人が
そのまま仕事にスタイルを持ち込んだようにも思います。
これは多分終わりなき戦いで、
わたしはできるだけ最前線に立っています。
時に負けることもありますが、
勝って建設的な議論が始まるその瞬間のスイッチを入れる、
大きな音を立てて人のシステムが生き脈動し始める、
その一体感がわたしにとっての何よりの成功報酬です。
木曜日, 5月 17, 2007
笑いの総量
とても性能のよいソフトがやってきて、
それが勝手にいろんなデータを出力してくれて、
見た目にはやたら情報量が多くても、
なぜか人がそれに関わった時間というのは感じることができて、
時折それを不思議に思います。
偶像ではなく書物を持つ、
ということにおいて宗教のある種類は一致しています。
聖書を傍らに置く人の気持ちは
なぜか理解できるような気がするのです。
本は物として成り立っているのではなく、
「言葉」によって成り立っているところが偶像とは違います。
どんな本を選ぶかは人によって異なりますが、
おそらく人には「この1冊」とか「この1曲」のようなものがあるように思います。
もしそれがない、という人は、
たとえば指輪だったりお守りだったりするのかもしれません。
話は少し違うのですが、
会話の中の笑いには総量があって、
面白いことを言われると笑いたくなるのですが、
面白いことが真顔で言われるから面白いのかも知れず、
面白いことを笑いながら話したらこれほど笑うだろうか、と
ふと感じたことがあります。
ある日わたしはメールで笑顔の顔文字をたくさん送り、
しかしそれが本当にほんの少しだけ
「笑っていなければならない」という気持ちを含んでいたことに気付き、
それで笑い顔の絵文字を送る回数がずいぶん減りました。
一日に歩ける量が決まっているように、
わたしはどうも一日に笑える量も決まっているような気がします。
それはおそらく、自然を理解したから
雨が降っています。
それでも建物の中はこの数ヶ月雨が少なかったせいで乾いていて、
タオルがよく乾きます。
人間は文明を作った、だから偉大なのだ、と現代は言い、
情報とテクノロジーが優先しているように見えます。
テクノロジーを「使う」という事の意味は、
ひとつは「食べることを楽にする」ために導入されてきました。
簡単な例は石器の斧や農耕具、土器などで、
そのままでは食べられず処理が必要な食材を
食べ物として導入するために必要とされました。
食べるため、住むためのテクノロジーというベースが充足するにつれて、
「長く生きる」ためのテクノロジーが注目されます。
薬草や発酵食などから始まり、
傷や疾病の治療へと話が進みます。
それでも文明のほとんどの期間は食べるために精一杯で、
旱魃や異常気象などに対応する術をもちませんでした。
食べ物、正確には意識を正常に保てる食生活と
居住区の確保という基盤があって、
初めて人は戦争に関する出来事を忘れていくのだと
最近感じます。
文明というものが現れては消え、
しかし今や人間は地球全土に広まっていて、
それらが奇しくも体と同じ電気信号で情報をやり取りする、
その様子は地球の外から見ればおそらく、
人の集まりが作った「新しい生き物」の姿です。
樽いっぱいのジャムはいらない、スプーンひとさじのはちみつが欲しい、と誰かが言う
週に10程度の打ち合わせがあって、
デスクにゆっくり座って仕事をするためには
仕事時間を早く始めるか遅く終わるかの
どちらか、あるいは両方を選ぶ必要に迫られます。
加速器施設の建設フェーズに立ち会えることは
ハードウェアのスキルアップという意味では本来とても幸せなことで、
一方で加速器は技術的に枯れるまで時間がかかるため
動いている加速器で実験することが
ビーム工学のスキルアップに必要です。
欲することの意味について考えます。
この世界のさまざまなことは
決して個別の問題として存在しない、
だから関心を持ち続ける、と意識は話し、
一方でわたしが置かれた状況の多くで、
これがなければ生きていけないという切迫感と
ともに生きることの喜びの両方に突き動かされて
行動原理が生じてきた事を思います。
袖摺り合うも他生の縁、という言葉は
時に人が前世と呼ぶ、知覚不能な領域に対しての概念です。
しかし人は一方で、精神に強烈な影響を持つ
薬剤が存在することを知っていて、
そしてある人にとって「他の人」の挙動というのは
その人の履歴とさまざまな物質的入出力、物理的相互作用によって
成り立っているきわめて精巧な機械、と捉えることは、
それが都合のよい支配の理由として使われない限り
当を得た表現のように思います。
わたしにとって別の人がそう見えるのであれば、
別の人にとってわたしはまたそう見えるはずです、とここまで書いて、
相手の人が思う認識については言及ができないことに気がつきます。
別の人はその人なりの履歴を持っているはずで、
この世界を「わたしと全く同じように」認識していることはないのです。
この世界はハドロンとレプトンの素粒子でできていて、
構成要素としてなんら違いはなく、
そして現在までの理解では
宇宙はある一点から生じたことになっていて
この世界はきわめて均質にできています。
「わたし」の難しさというのは、
「わたし」だけがこの体の「内側」にあることが分かっていて、
「わたし」に付随した入力と出力が存在し、
そのほかの全てがこの体の「外側」にあるという認識があり、
それがなぜだろうと疑問に思うことにあります。
わたしは「わたしの五感」というものを通してできていて、
わたしの五感に入力されないものは、存在していても
わたしには知覚されません。
しかしそれらの存在全ては列車のようになっていて、
ある場所で生じた影響が連結されて末端への作用となるように、
知覚できる情報はこの世界全体の演繹の結果であるので、
わたしには関係がない、と呼べるものは言葉の上にしかなく、
全てのものに関係があります。
わたしを構成するものについて時に関心を持つことがあります。
細胞はそれぞれが生きていることになっていて、
それぞれの環境に応じて生成と消滅をし、
それら全体としてより大きなシステムとしての人のからだがあります。
風邪を引きにくい体質の人は
大きな体調の変化や体の炎症が少なくて
結果的に長く生きられるように、
人もまたそれぞれの衝突がより小さくなっていけば
結果的により大きな秩序を持った存在として成り立つようになります。
「人」全体がこの「より大きな秩序を持った存在」になれるのかどうかは
実は人間は誰も教えることができません。
この世界は「現在のわたしの知覚」においては
時間だけが遡れもせずまた先に進むこともできず、
時間のある一点に乗っていることだけが確かなことです。
わたしの中に生じてきたさまざまな衝突や葛藤は、
それまでの人の歴史の中で生じてきたことを
わたしという存在に認識させるために必要だったのだろう、と
ふと思います。
たとえそれらが分かったとしても
わたしたちの体という存在は生成消滅をするものであり、
確かに「いまのわたし」が体を失えば
その記憶と認識は体とともに失われます。
それは多分眠っているのと同じようなもので、
この世に存在はしているけれども
ただ認識だけが存在しない世界です。
眠りについて思いを馳せるとき、
わたしという体は存在していて、
しかし意識だけが存在せず、
眠りは「意識」にとって「死」と等価です。
人にはさまざまな欲求があり、
その中で「安らかに眠る」ことが一番の欲求であるわたしにとって、
安らかに眠ることを妨げられることの辛さは
よく理解できます。
どうかわたしとあなた、特にあなたの「意識」が、
その体の中で安らかに眠れますようにと
今日も願います。
月曜日, 5月 14, 2007
納得行くまで立ち止まって本が読みたい
かんじんという言葉は大事な物事を指すときに使い、
肝心と肝腎の書き方があります。
大きさとしてはそれほどでもない腎臓の機能の重要性に
ちゃんと注目していた事に感心したりします。
この世界には覚えなければならないことがたくさんあるようで、
読み物に目を通す時間は増えていくのですが、
いつも駆け足で目的とする項目を探すことが多く、
気に入った速度で本を読む事が難しくなっています。
たくさん食べれば大きくなるからと言われて、
しかし消化不良が続いたままの体では
大きくはなれないように、
たくさん読んだからといって消化不良で進んでしまっては
大事な中身を覚えておくことも難しくなります。
小学校の教科書は確かどれも100pぐらいで、
それを1年かけて読み砕いて行ったはずなのですが、
今は500p以上ある書籍を
年に数十冊「目を通す」使い方をし、
それで記憶が定着しないまま次の情報がやってきます。
時々、そういった本を
自分が納得行く速さで読んでいきたい、と思い、
しかし1冊マスターするのに何年もかかりそうな本が
目の前にはいとも簡単に積み上げられていきます。
それら全ての知識にこの世界を構成する価値を見出しながら、
わたしには時折猛烈な焦りが生じます。
日曜日, 5月 13, 2007
アメリカに見る、いわゆるカースト制と呼ぶもの
三菱製の加湿器が警報を鳴らすときは
湿度が30%以下のときで、
4月と5月は空気が乾いています。
仕事の割り振りについて思います。
ある装置が故障したとき、誰かが修理します。
故障という現象に対して修理という仕事が発生します。
修理する人を割り当てるときの原則は
明示的に、あるいは暗黙的に決まっていて、
誰でもいいから修理できる人が修理するか、
修理を担当することになっている人が修理するかで
状況が変わります。
誰でもいいからできる人が割り当てになる、というのが
どちらかというと日本的なやり方で、
この場合構成員は「対応可能である限り積極的である」ことが
この原則を維持するベースの性質として必要です。
誰でも良くて誰かがやるだろうと思っていると
修理はいつまでも直らないからです。
修理の担当になっている人が修理する、が
どちらかといえばアメリカ的なやり方です。
この場合構成員は「割り当てられた職域に責任を持つ」ことが
この原則を維持するベースの性質として必要です。
これらの原則が暗黙的に混在している場合、
混乱が起こります。
暗黙的な原則側では全ての人が積極的である必要があり、
もし職域を設定する必要がある場合、
それは明示的でなければならないことが分かります。
つまり、暗黙的な原則に頼る場合は
正確な職域を設定することができません。
そのため、一人一人の責任範囲は
あいまいであると同時に無限責任となります。
たとえば西洋の国に広められている憲法は
基本的に人間を互いに等価な存在として認めると
定められています。
しかし仕事の上では、それぞれの職域が決まっているため
修理は誰でもして良いわけではなく、
修理を担当する人のみが修理を行えます。
この制度は一方で人の仕事を失わない、つまり
仕事を保護する意味合いもあり、使い方によっては
それに階級的意味合いを持たせるならば
職域の逸脱と個人の進歩の可能性を封じてしまう意味合いにもなります。
これはカーストの制度と同じです。
それぞれの職域が明示的に決められていない日本では、
職域の逸脱も進歩の可能性も確かに持っていて、
しかし無限責任であるがゆえに
ある人が仕事を失ってしまう状況も
ある人にばかり仕事が積み重なる状況も発生します。
暗黙的、つまり非明示的な情報で構成される社会は、
情報を蓄積することもできません。
日本は流して行く文化なのだと言い、
それは暗黙の了解を是とする限り変わらないことであることが分かります。
非明示で形のないもののほうが重要とされる社会では、
明示的なものに重要性を付加できません。
おそらく数世紀たっても、日本のこの性質は変わらないでしょう。
金曜日, 5月 11, 2007
絵巻物
文書を書いている際にはそれほど気にならないのですが、
式を解いている時と図面で寸法を比較しているときには
裏と表があり、分離できないノート型の紙は
とても使いにくいと思っています。
加速器は装置が1周130mほどあるので、
図面は地図のようです。
それでノートを後ろからカッターナイフで切り、
セロハンでつなぎ合わせてジャバラ状にした
見開き図面を作っています。
図面と磁場データをめくりながら確認せず、
広げてひと目で確認できることが大事です。
確かにコンピュータは情報を「纏める」ことに威力を発揮しますが、
画面がいくらでも広がる、という意味で紙はとても使いやすく、
紙と同じコストのコンピュータができない限り
需要はなくならないだろうなと思いました。
プログラミング「言語」
気温の高い日が続いています。
カスピ海ヨーグルトの種は無事増えて
冷蔵庫に納まっています。
パソコンを計算機と呼ぶ種類の人がいて、
その人たちにとってパソコンはワープロでもブラウザでもなく
物理計算をさせるために使われるものです。
0と1の組み合わせ、という概念が分からなくなるほど
パソコンは表現の伝達に使える「言葉」を持っています。
言葉に日本語と英語とドイツ語とロシア語などがあるように、
パソコンにもBASICやCやPascalなどと呼ばれる言葉があります。
小数点を切り上げて整数にしなさい、とか
2乗して3を引いた値を配列に代入しなさい、とか、
微分方程式の解が負の場合には分岐命令を実行しなさい、とか
こういうことを単語を並べて伝えます。
「言葉」があれば「辞書」があって、
「赤くて花びらが幾重にも折り重なって枝にとげがあって」というものを
「バラ」という単語を導入して短く置き換えるように、
複雑な計算機操作に対して
たとえば「xx(int y)」という単語を導入して短く置き換えます。
言葉文化の発達とともに単語の意味は複雑さを増して行き、
他言語との翻訳が難しくなるのも全く同じで、
日本語で一単語で言える表現が英語では回りくどくなるように、
プログラム言語もそれぞれの操作を翻訳すると
妙にスマートではなくなったりします。
これだけ同じだとプログラムを学ぶ方法まで同じで、
たとえば外国語は挨拶から覚え、
いくつかの単語で短い文を作り、
少しの文法を覚え、
言いたい言葉を辞書を引いて組み合わせ、
時には有名な作家の文章を引用してアレンジし、
次第にうまくなっていくように、
プログラムなら画面に"Hello, World!"の文字を出力させ、
短いプログラムを書き、
少しの文法を覚え、
処理したい内容をリファレンスを引いて組み合わせ、
時には有名なプログラマのアルゴリズムを引用してアレンジして
次第にうまくなっていきます。
計算機の処理は理系のもの、と思われがちですが、
外国語を学ぶ方法に長けた文系の人は
計算機プログラムを学ぶのがとても上手だろうな、と思っています。
水曜日, 5月 09, 2007
砂糖と快楽
それぞれの地域で人の性質が違うのは
主に文化のせいではない、と最近感じています。
酒に強い遺伝子を持つ人種というのがいて、
不安になりやすい遺伝子を持つ人種というのがいます。
この場合、いくら文化を取り入れようと言ったところで
ある文化刺激に対する生理的反応が異なるのであれば
その結果生じる社会が同じになることはありません。
この世界を均質にする方法としては、世界中の人を一度集めて
ランダムに再分配することが考えられます。
しかしたとえそうできたとしても、
地理学的条件に対応して遺伝子が発動し、
また違う人種が地域によって発生します。
そして日本人は酒に弱い人が多くいて、
不安になりやすい遺伝子を持つ人が多くいることが分かっています。
快楽は長く続かず苦痛は長く続くように思うのは、
人は甘いものの摂取に対してリミットを持たないのと同じで、
許容量が大きい刺激は長続きしないルールがあります。
それは言い換えると、
人はいくらでも快楽を受け入れる用意がある、ということになります。
日曜日, 5月 06, 2007
キレる子とナトリウム不足の関係
特別なものは見当たらず、しかしいつも目の前にあって
この何日か考え事をしています。
「わたし」は何らかの方法で「特別」であることを望むように思います。
歴史に自分だけの名を残すのだ、と言い、
限られたヒトしか体験できなかったことをしたのだ、と言い、
わたしでなければできなかったのだ、と言い、
今この瞬間がかけがえのないことなのだ、と言います。
特別でなければならない理由はおそらくどこかにあって、
特別の思想は生き物として残っていこうとする潜在的な欲求かもしれず、
時々以上にそれに振り回されていることがあります。
そういう気持ちが生じると同時に、
自分の中で「それは特別ではない」と感じる認識も同時に生じます。
わたしの脳は急速に「一般化」作業を完了します。
どこかで聞いたことのある曲のアレンジ、
たくさんのヒトが共有していて、自分よりもそれを詳しく報告された情報、
いつかの誰かも同じように考えたと記述された筆跡、
原料も、作り方も、性質も、設計図も、歩留まりも分かってしまっている
ありふれた産業の機械製品などは
「自分が分かっている」わけではなくても、
「誰かがより分かっている」という時点で特別ではなかったりします。
そして自分が「ひと」であって、それを超えたいとどこかで思うこと、
それ自体が「誰かもまたそう思うこと」だと思ったりするのです。
わたしは「わたし」を誰かに認識して欲しいという欲求をもっています。
それがどういう意味を持つのか、と聞かれるとよく分からず、
ただそう思うから、と答えることになります。
そしてただ「認識して欲しい」というだけではなくて、
「好ましいもの」として捉えて欲しいと思っています。
「好ましい」として提示した「ある日の自分」は、
しかし好ましくない日に直面することで、
「あの時は良かったのに」と顧みるきっかけをつくってしまいます。
しばらくして、わたしが求めようとする「特別」は、
ずいぶんと都合のいい「特別」であることに気がつきます。
少しでも多くでも、「努力すれば確実に手に入る」という期待があること、
「自分は選ばれている」という心地よさがあること、
五感に対して快楽があることに対して
「特別」という言葉と結びつけていることになります。
そしてそんなものをいくら積み重ねたところで、
それが「特別の借り物」であり、自分の特別ではない、ということに
否応なく気付いてしまう日があります。
本当に特別なものが、「得られるかどうか全く分からない」か、
「ひどく難しい」ものであり、
危険を冒してでも自分の人生を賭けなければ成し遂げられないもの、
であることに認識を持つとき、
「特別」の傍観者となるのか、「特別」の創造者となるのかが
分かれています。
少しずつ考えを進めます。
人は「危険」をなぜ感じるのか、とふと考えます。
「危険」とは「自分を失うかもしれない」という認識のことで、
そうすると「自分を成り立たせるもの」が多くなるほど
危険の認識は増えることになります。
「自分」というものは「認識」でできているので、
「先が分からないもの」は認識の外にあり、
それが「危険」として知覚されます。
たとえ知らないことでも「自分を失わないもの」に対しては
「危険」だとは思っていません。
そしてある日の自分は「都合の良い快楽のような特別」を求め、
しかしそれが「魂の充実へと導く特別」ではないことは良く分かっていて、
それでまた理屈では説明のつかない
割の合わない旅へと出ることになります。
道の分からない旅なので仲間は連れず、
行き先も告げません。
たとえ連れて行きたくても、どこに行くか分からない旅では
案内のしようがないのです。
でも誰かが一人で「道の分からない旅」に出かけたなら、
その人とは必ず旅の途中で出会うことになります。
道の分からない旅はたくさんあるわけではなく、
実はひとつしかない、それは「わからないこと」という
たった一つの行き先です。
旅には何の準備も要らず、出発点も目的地もありません。
行き先はひとつなので、
旅に出た人が見てくる風景は同じです。
その風景を共有できる人と出会うことを
わたしは楽しみにしています。
特別なものが見当たらない世界へ
助さんの本名は佐々宗淳なのだそうです。
せっかくなので
史跡をデジタル化します。
水戸黄門漫遊記で親しまれている「助さん」は
本名は佐佐宗淳(さっさむねきよ)といい、字を子朴(しぼく)、
通称を介三郎、十竹と号した。本姓は良峰(よしみね)氏で
あったが、その祖が佐佐成政の妹を妻とした縁で
佐佐氏を名乗った。十五歳で京都妙心寺の僧となり、
祖淳と号した。僧として約二〇年つとめたが、感ずるところあって
還俗、江戸に出て延宝二年(一六七四)徳川光圀に仕え、
進物番兼史館勤務となり、義公修史のことに従事した。
彼の業績は史料の採訪収集でその史跡は畿内は勿論
北陸・中国・九州などまでも及び貴重な文書記録を集めたことである。
また義公の命で下野の那須国造碑の修復、同所の
上下侍塚の発掘調査とその復元等に当ったことは
特筆されよう。元禄九年(一六九六)彰考館総裁をやめ、
小姓頭として西山荘の光圀に仕えたが、元禄十一年六月三日
五十九歳で没しこの地に葬られた。墓碑は養子の藤蔵宗立が建て、
選文は格さんこと安積覚澹泊である。
常陸太田市教育委員会
土曜日, 5月 05, 2007
推測の種明かし
素敵な宇宙船地球号といえば
トヨタがスポンサーの番組で、
Hybrid Synergy Driveは
ハイブリッド車につけたトレードマークです。
これはおそらく、アメリカの建築家である
Richard Buckminster Fuller
(リチャード・バックミンスター・フラー)の1968年著書
「宇宙船地球号」にちなんだ名前で、
シナジーという言葉は彼の著作に使われる
重要なキーワードです。
そしてこの推測に至った出典元は、
安藤忠雄「建築を語る」第3講「抽象化と場所性の間で」141pです。
スコットランドに行った際には、
アラン・ド・ボトン「旅する哲学」を持って行き、
ホテルの一室でその雰囲気を感じながら読みました。
次にアメリカかヨーロッパのどこかの国に行くときには、
ぜひ安藤忠雄の本をガイドに連れて行き、
ひとつぐらいは建築を見るために足を伸ばしてみたいと思います。
木曜日, 5月 03, 2007
時々必要な、完全な闇と静寂
鶏は時間をかけてゆっくり熱をかけるとおいしくなる食材で、
棒々鶏は湯を沸騰させずに火を入れます。
湯には生姜とにんにくを入れると
鶏に香りがついて後味がよくなります。
ゆでた後の湯は塩とセロリを入れると
スープとして使えます。
人間の五感には一般に感度の違いがあって、
嗅覚が一番で、次が聴覚、視覚はずいぶん感度が低いといわれています。
五感の鋭さは生まれつきの違いもあるはずですが、
感覚は主観を含むので比較は難しそうです。
わたしが時々とても必要とするものに、
完全な暗闇と静けさがあります。
蛍光灯の下にいるのはなぜか落ち着かない気分になり、
それは紫外線が出ているせいかもしれないと思います。
人によっては紫外線を感じられるのかも知れず、
紫外線で昼だと認識しているのかもしれません。
ブラウン管のテレビは構造上14kHz付近の音が出ていて、
わたしには耳障りなほどよくこの音が聞こえます。
白熱灯を使い、LEDの画面を見るようになって
パソコンを打つのも負担になりにくくなってきました。
ただ冷却ファンの音はやはりとても気になって、
次は水冷式にしようかとまじめに考えたりします。
火曜日, 5月 01, 2007
We are "Cells"
庭園いっぱいの牡丹の花を見に行きました。
牡丹の花は小学校の頃薄紙を折って真ん中を輪ゴムで止め、
ふっくらと広げた花飾りほどもある大きさで、
こんなに大きな花があるのかと少し驚きました。
桃源郷は言うなれば地上の楽園で、
そこに咲いているのはどうも桃の花より牡丹の花のような気がしました。
牡丹の花は女性の美しさを形容するものですが、
ある日女性よりも花のほうをより美しく感じるようになるかもしれない、と
なぜかまじめに思いました。
人間が細胞でできている、
これはみんなが良く知っている話です。
細胞単体でもそれなりに生きていくことができます。
細胞はそれぞれ自分の役割をある程度知っていて、
しかし全ては知りません。
そして環境に応じて役割を果たし、
時にフィードバックの間違いを起こします。
そして人もやっぱり細胞なのだ、と思います。
構成している「社会」はおそらく上の次元の「生き物」です。
電気の神経、原子力の心臓、船や飛行機の筋肉、
巨大な分散計算機でできた脳に相当するものがあって、
社会という「それ」は、おそらく意思を持って生きているのです。