木曜日, 5月 17, 2007

樽いっぱいのジャムはいらない、スプーンひとさじのはちみつが欲しい、と誰かが言う

週に10程度の打ち合わせがあって、
デスクにゆっくり座って仕事をするためには
仕事時間を早く始めるか遅く終わるかの
どちらか、あるいは両方を選ぶ必要に迫られます。

加速器施設の建設フェーズに立ち会えることは
ハードウェアのスキルアップという意味では本来とても幸せなことで、
一方で加速器は技術的に枯れるまで時間がかかるため
動いている加速器で実験することが
ビーム工学のスキルアップに必要です。

欲することの意味について考えます。

この世界のさまざまなことは
決して個別の問題として存在しない、
だから関心を持ち続ける、と意識は話し、
一方でわたしが置かれた状況の多くで、
これがなければ生きていけないという切迫感と
ともに生きることの喜びの両方に突き動かされて
行動原理が生じてきた事を思います。

袖摺り合うも他生の縁、という言葉は
時に人が前世と呼ぶ、知覚不能な領域に対しての概念です。

しかし人は一方で、精神に強烈な影響を持つ
薬剤が存在することを知っていて、
そしてある人にとって「他の人」の挙動というのは
その人の履歴とさまざまな物質的入出力、物理的相互作用によって
成り立っているきわめて精巧な機械、と捉えることは、
それが都合のよい支配の理由として使われない限り
当を得た表現のように思います。

わたしにとって別の人がそう見えるのであれば、
別の人にとってわたしはまたそう見えるはずです、とここまで書いて、
相手の人が思う認識については言及ができないことに気がつきます。
別の人はその人なりの履歴を持っているはずで、
この世界を「わたしと全く同じように」認識していることはないのです。

この世界はハドロンとレプトンの素粒子でできていて、
構成要素としてなんら違いはなく、
そして現在までの理解では
宇宙はある一点から生じたことになっていて
この世界はきわめて均質にできています。

「わたし」の難しさというのは、
「わたし」だけがこの体の「内側」にあることが分かっていて、
「わたし」に付随した入力と出力が存在し、
そのほかの全てがこの体の「外側」にあるという認識があり、
それがなぜだろうと疑問に思うことにあります。

わたしは「わたしの五感」というものを通してできていて、
わたしの五感に入力されないものは、存在していても
わたしには知覚されません。
しかしそれらの存在全ては列車のようになっていて、
ある場所で生じた影響が連結されて末端への作用となるように、
知覚できる情報はこの世界全体の演繹の結果であるので、
わたしには関係がない、と呼べるものは言葉の上にしかなく、
全てのものに関係があります。

わたしを構成するものについて時に関心を持つことがあります。
細胞はそれぞれが生きていることになっていて、
それぞれの環境に応じて生成と消滅をし、
それら全体としてより大きなシステムとしての人のからだがあります。
風邪を引きにくい体質の人は
大きな体調の変化や体の炎症が少なくて
結果的に長く生きられるように、
人もまたそれぞれの衝突がより小さくなっていけば
結果的により大きな秩序を持った存在として成り立つようになります。

「人」全体がこの「より大きな秩序を持った存在」になれるのかどうかは
実は人間は誰も教えることができません。
この世界は「現在のわたしの知覚」においては
時間だけが遡れもせずまた先に進むこともできず、
時間のある一点に乗っていることだけが確かなことです。

わたしの中に生じてきたさまざまな衝突や葛藤は、
それまでの人の歴史の中で生じてきたことを
わたしという存在に認識させるために必要だったのだろう、と
ふと思います。
たとえそれらが分かったとしても
わたしたちの体という存在は生成消滅をするものであり、
確かに「いまのわたし」が体を失えば
その記憶と認識は体とともに失われます。
それは多分眠っているのと同じようなもので、
この世に存在はしているけれども
ただ認識だけが存在しない世界です。

眠りについて思いを馳せるとき、
わたしという体は存在していて、
しかし意識だけが存在せず、
眠りは「意識」にとって「死」と等価です。

人にはさまざまな欲求があり、
その中で「安らかに眠る」ことが一番の欲求であるわたしにとって、
安らかに眠ることを妨げられることの辛さは
よく理解できます。

どうかわたしとあなた、特にあなたの「意識」が、
その体の中で安らかに眠れますようにと
今日も願います。

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