木曜日, 6月 21, 2007

首相、今日の体調はいかがですか

日本で言うところの味噌汁は
韓国で言うとわかめスープなのだそうで、
ではイギリスならコンソメスープなのかなと
勝手な連想をしています。

勝手な連想、という動作が難しくなってきました。
ひとつは自分が「適切な連想」ができるようになっているせいで、
もう一つは「ネットで調べれば何かの情報が得られる」という
確信があることです。

ネットの情報は決して「全てが正しい」わけではなく、
大勢を占める情報であっても正確であるわけではないのですが、
「たくさん見ている」ことで次第に判断できるようになる面があり、
「なにもせずにいる」よりも多くの情報を扱うことになり、
「人に聞く」よりも手数が少ない場合があります。

情報というのは現代でも「財産」のように扱われることがあり、
技術の継承でおそらく問題になっているのは
伝える側が情報を「既得権益」的に取り扱うことだろうと思っています。

テレビの画面で見る「首相」は
姿を知ってはいるけれど断片的な声しか聞けず、
しかも自分が質問した答えを聞いたわけでもなく、
そういう意味でコミュニケーションが取れていない存在です。

良く知らない「ある人」の「何らかの行動」に対して
言えることを見つけるのは時間がかかります。
それは「歴史上生きた人の足跡」で、
たくさんの人が意見を摺り合わせてできるものならともかく、
現在形で生きている人の状態を確定するのは
どんなに近くにいても不可能なことだと思っています。

それで「年金問題をどうするつもりですか」と問いかける前に、
「今日の体の具合はいかがですか」と聞いてみるほうが
よほど的を得た質問になるような気がするのです。

銭湯にて


月曜日, 6月 18, 2007

20段分の階段差で変わる世界

梅雨らしい曇り空になっています。

五木寛之の本に出てきた「アウトバーン」の話では、
気圧が低いときではなくて気圧が変わりつつあるときに
事故が起こりやすくなるのだというくだりがありました。
人間はやはりどこかで機械なのだと思います。

たとえば外国に飛行機で行く、というときには
違う国であることを強く意識するのですが、
たとえば一度も行った事のない隣のマンションを見て
そこが外国であるような意識はあまり持ちません。

わたしの仕事場のフロアは3階で、
階段を上った4階は宇宙線や細胞実験の研究者がいます。
昼に話をする機会が増え、
同じ日本語のはずなのに言葉がまるで分かりません。
今日はプラスミドがどうだとかmRNAがどうだとかいう話で、
たんぱく質は機能を持った「生き物のようなもの」であることが分かりました。

よくよく話を聞いてみると常識の範囲までまるで違っていて、
毎日質問しています。

土曜日, 6月 16, 2007

原子力による太陽に対する認識の変化

食べ物の「味」と呼んでいるものは
直接的には主に「香り」のことで、
イチゴ味というときには
主に砂糖とイチゴ香料があれば
最初の良い近似になります。

原子核反応から化学反応とは比べ物にならないほどの
エネルギーが取り出せるという認識は、
どうもその認識自体が
この世界のありようを変えているのではないか、と
ふと考えました。

信仰の形として「太陽信仰」と言うものがあって、
ピラミッドやインカ文明にみられるように
太陽を神として祭る風習は今なお存在します。
しかし日食のメカニズムが理解されていなかった時代と
それが月の軌道のせいだと理解されている時代では
太陽の「感覚的な重み」もまた異なっているように思います。

太陽は物理の観測によって常にある場所にあって、
多少運動に変化が起こるけれど安定な存在だと思われていて、
それで「いつも安定だと思われている」太陽は
当たり前の存在になってしまっています。

わたしたちは「太陽の影響をある程度コントロールする」
と思っていて、
紫外線が有害であるとか夜には電灯がつくとか
太陽の機能を人工的に取捨選択しているつもりになっています。

しかし太陽の光がなければ
もともと地球に生命が発生する可能性はなく、
いくら原子力が発達したところで
この地球の主たる駆動力が太陽であることにも変わりがなく、
人の心に影響を与え続ける「光」の存在もまた
太陽から生まれているものです。

ギリシャ神話では太陽を恐れずにロウの羽で
天へ飛び立とうとした若者の話が出てきて、
わたしたちは無意識に「太陽に近づいている」ような気がします。

金曜日, 6月 15, 2007

1回性の生き物

電車や自動車に乗るようになってから
天気予報が当たるとか当たらないとか
最近はすこし気にならなくなっています。

天気予報というのはいつでも同じ確率で
当たると当たらないがやってくるのではなく、
気象条件の難易によって命中精度が変わります。

特に気圧の山と谷が入り乱れる頃、
たとえば春先の細雨とか梅雨の入り口などでは
晴と雨の境界線が頻繁に列島を横断するので
「降る」か「降らない」かという問いに
うまく答えることができません。

時間を計る、という作業は
「周期的に発生するイベント」の存在を前提とします。
これは古いところでは太陽の周回や振り子、
燃えている線香や水の入ったたらいで、
それが現代では
セシウム原子核の振動数を計っています。

ラジオを聴き始めました。

CDを聞いていると、CDを買った当初は
ちゃんとCDの音が聞こえるのですが、
しばらくするとCDを歌詞ごと覚えてしまって
自分の記憶とCDの音が混在します。
そうするとCDはうまく聞こえなくなってしまいます。

流れる歌から歌詞がわかる人と、
歌詞は見ないと覚えないという人がいます。

覚えてしまった音は「過去の音」で、
それで「いつも違う音がする」ラジオがいいと
思うようになりました。
その点に到って、
流行りとすたりは人が必ず持っている現象だと
認めなければならなくなります。
そして流行りとすたりは
この世界の全てについて起こるのです。

しかし流行りとすたりはやってくるだけで、
ほとんど同じところを行き来しています。
だから西洋文化と東洋文化の注目度は
大きな時間単位で行き来するし、
服の流行りも数十年で行き来するし、
恋の高まりと落ち着きもまた往復するのです。

生き物だけがエントロピーという名の
乱雑さへの進行を食い止めているのだと
何かの本には書いてありましたが、
そのためには太陽に与えられたエネルギーを使っています。
地球に最も大きな影響を与えているものは太陽である、
これはおそらく検証可能で間違いがない話です。

太陽と地球の距離と軌道はほとんど奇跡的なのだといい、
もし0.1%でも軌道がゆがめば
今のような生命は発生しなかったといわれます。

だからわたしたちは
「見えない神」の子という表現が
見えも触れもしない一向にまとまらぬ要素であるなら、
極めて現実的に「太陽の子」と言うことができます。

太陽についての研究はかなり進んでいて、
数十億年先には太陽が巨大化して
地球はその中に飲み込まれてしまうとも言われています。
地球の資源をいくらつぎ込んだとしても
太陽をゆがめることはできないことはよく分かっていて、
そして「永遠の繁栄」は
「太陽がある限り」と言っておくのが妥当なところです。

表現のなかでは主に天が父で大地が母です。
エネルギーを与えるものと受け取るものがいて
その照り返しのはざまに生き物は成り立っています。

神のようになるという目標は想像ができませんが、
太陽のようになるというなら想像ができます。
それは本来大きくて強烈で、いつもある距離で遠くにいて、
あたたかいものです。

木曜日, 6月 14, 2007

既に答えは与えられている

写真を貼るのは好きなのですが、
レイアウトがゆがむのが気になります。

新しさや古さといった表現について
しばらくの間考えを続けてきました。

新しいものに人は飛びつき、
古いものに寄りかかります。

時間の表現は物質に「新しい」と「古い」を別途与えているように
感じますが、
物質、つまり空間と時間は連成した存在なので、
物質のないところに時間はありません。

人は新しいを探してこの世界を飛び回っています。
そして何らかの問いに対する答えを
この世界の外側に求めようとしています。

この世界を作ったのが自分の脳であること、
脳はネットワークでできていることを考えると、
たとえそれが10の1000乗のバリエーションがあっても
有限であることに変わりはなく、
ネットワークの組み合わせ以上の答えは存在しません。

ネットワークの組み合わせは常に存在するので、
この世界の理解というのは「新しい要素を加える」ことにはなく、
ただ「わたしの要素を減らしていく」ことのみが
世界の理解の正確な表現になります。

どんなに複雑な宇宙論も、
どんなに素敵な物語も、
本当は全ての人の頭に最初から入っていて、
わたしたちはただそれに「気付いていく」だけです。

「捨てる」権利を「求める」


カロリーのないコーラ分野でペプシとコカコーラが頑張っているのだそうで、
黒いラベルのコーラを見つけた自販機のそばに
花が咲いていました。
情報の保存についての研究があって、
それは情報を保存したり圧縮したりする場合に
「可逆」と「非可逆」の特徴を取り扱うことでもあります。
情報圧縮は何も遠い世界の話ではなく、
jpegのような画像の取り扱い、mp3のような音楽の取り扱いで
頻繁に現れます。
jpegやmp3について言えば、
原画や原音を「完全には」再現しない、
つまり情報を一部切り捨ててしまうことと引き換えに、
可逆圧縮では得られない「高い圧縮率」を実現します。
その効果は再現させる画像の特徴にもよりますが、
感覚としては概ね10%程の情報切捨てで10倍の圧縮ができます。
人が何らかの数学的理論を思いつくということは
脳自体にその機能が実現できるからでもあります。
人は何かを「選んでいる」といい、
それは自分が一つ一つ積み増ししているような感触を持ちますが、
おそらく脳が行っていることは砂金とりの様なもので、
大量に砂を集めてきてふるいにかけるようなものであります。
この世界の現象を取り扱う際でも同じことが言えて、
解けない微分方程式を無理に解こうとする際に
解が有効な範囲を限定して線形近似を施し、
解ける形の方程式に変形します。
変形することで初めて、少しだけ未来予測が可能になります。
これは明日の天気がほぼ当たること、
1週間後の天気があてずっぽうの期待値以上にほとんど当たらないことを
表す際の話です。
人の脳はそのネットワーク・マトリクスで
問題を解こうとしていて、
しかし要素が多すぎては解けないので
見方を変えて扱う数字を少なくしたり、
不要な要素を切り捨てて解けるようにしたりします。
だから人が望んでいることは全て、
全体を満足するような「不要なものの切捨て」を行っているのです。
だからわたしとわたしたちが望むものは常に「取得権利」ではなく、
「棄却権利」です。

水曜日, 6月 13, 2007

日本語で神は定義できるか



知り合いから生のふきをもらいました。
前の日に作った角煮の煮汁をベースにして
醤油、ミリンで味を調えて仕上げました。
ふきはほろ苦い程度にあく抜きを調節したので
主観的には大人の味になりました。

「見た」文字を「読む」回路に接続するとき、
日本語は「前後の文節との関係性で読みの音を決める」
というプロセスがあります。
つまり見ると読むの間にネットワーク回路が必要で、
しかもこの「読む」は「ルビを振る」ことによって
「見る」からほとんど完全に独立した操作になります。
一つのものに多義的な定義が存在するというのは
よく言えば幅の広がりという表現になり、
しかし絶対感の欠如というのは
極めることに対して大きな障害になります。

月曜日, 6月 11, 2007

コンピュータには「わたし」が残らない

週末、ふきをもらいました。
皮を取っていたら指先があくで茶色く染まって、
野生に近い感じがしてうれしく思いました。

パソコンの画面を見続けるのが苦手です。
なんとなく自分がなくなって
吸い込まれたような感じがするからです。

読み書きするものなら本とノートがあります。
本は持ち歩くたびに少しずつ記事がやわらかくなったり
折れ目がついたりするので、
読んだ、持ち歩いたということが記録されていて
実感として理解できます。

pdfはこの数年頻繁に使うようになった道具で、
21世紀以前にはほとんど存在を知らなかった道具です。
pdfは紙を減らすために作られていて、
なるほど印刷物一つの割合に対しては印刷回数が
減ったかもしれませんが、
印刷物の総量としてはむしろ増えているような気がします。

pdfの困ったところは、何度読んでも折り目がつかないところで、
それで以前読んだpdfはまた真っ白な状態で現れ、
それが逆にわたしを混乱させるのです。

記憶に残っていないものはたどりようがなく、
それで題名とかメモとかを作ってみるのですが、
紙ならすぐにわかる「古くなった程度」さえも
pdfには残っておらず、
それで「わたし」は時々分からなくなります。

金曜日, 6月 08, 2007

2027年を考える

国道16号線はいつも混んでいるのですが、
今日はいつもなら30分で着く20kmの道に
90分以上という予測電光掲示板が着いていて、
暑くて参りました。
雨が少なくて湿気が少ないのが救いです。

人はある日つけた「西暦」というものに振り回されています。
それはこの世界の始まりとは直接つながりを持たない始まりのはずで、
西洋人が「最初に名づける」ことを望むのは
おそらく宗教的な思想と無関係ではないだろうと思っています。

子供の頃に読んだ21世紀の本では、
人の乗り物はみな空を飛んでいて、
無線と動画で対話をしていて、
超高層ビルが立ち並んでいて、という世界のはずでした。

21世紀というものをそんな風に思いながら、
しかしときに思い出すのは
「結婚しないかもしれない症候群」だとか
「ジュリアナ東京」だとか
「キッチンドリンカー」だとか
人は21世紀なんてどうでもよいような素振りをしていたことで、
そしてそれらの出来事でさえも
ある小さなエリアでの関心事を
マスコミという拡声器で拡大していたものだろうというのは
メディアの街とそうでない街の両方に住んでみれば
割と想像がつく話です。

21世紀には科学がより進んでいて、
それらは良い事ばかりしかもたらさないはずであったのに、
科学は核兵器の処理だとか耐性菌の拡大だとかの
到底解決し得ない問題を引き出す結果にもなっていて、
そして20世紀にとって21世紀というもの自体が
ある種の偶像であったことにふと気がつくのです。

2027年というものを考えられるだろうか、と
ふと思いました。

1980年代には2000年が考えられたので、
原理的には20年後を考えることは可能なはずです。
一方で、2027年に何を望めばいいかと考えるときに
多くの人はとても迷います。

一つの理由は、
2027年は5年先ではないので
ほとんど予測がつかないような気がすることです。
もう一つの理由は、いろんなことが「分かった」ことになっていて、
2027年でも飛ぶ車はないだろうと思ってしまうことです。

2027年が想像できない理由はおそらく他にもあって、
2027年の自分の周りに登場させる人物に
誰を選び出すかがはっきりしないことです。
それはなぜか無邪気に選び出すことができず、
選択が誰かの運命に影響することを理解するからです。

しばらく、未来が描けない日がありました。
それは描く力がないのではなく、
わたしが思いのままに描く未来ではいけないのだ、と
言葉にならない言葉を受け取っていたからでもあります。

21世紀を通り越すことと、大人になることは
どうも極めて似通った概念であることに気がつきました。

子供の頃にはどんな誰でも、
まだ来ない未来には自分がいることと、
きっと今よりも良くなるはずだという確信のようなものがあって、
それがある日の自分を支えていたように思います。

いざ大人になると、
夢の中に含まれた「理想郷」は
額面通りには誰一人として叶っていないことが分かり、
時に未来を思い描くのをやめようかと思う人が現れます。

叶うものを夢と呼んではいけないのだ、と
誰かは言います。
わたしには目標しかないのだ、と
ある日思ったことがあります。

わたしが今いる場所は、
10年前の夏に思い描いた場所で、
それでわたしは次の20年を描き出す作業を始めています。

今を見なさい、といろんな人が言います。
でも今には大きさも形もなく、
人は知覚にアナログ的な遅れがあるのだから
正確には今を見ることはできません。
人はコンマ数秒だけ過去を見ていることになっています。

今を見なければ生きていけない、と
いろんな人が言います。
でもそれは未来を描く力を失っていることの裏返しかも知れず、
わたしの考えは続きます。

20年たてば、おそらく多くの「近しい人」を
距離的に、そして時間的に見送っているのだろうと思います。
今までもいろんな人をいろんな形で見送り、
そしてそのたびに悲しい気持ちでいました。

でも本当は時間は全てのものを一緒に運んでいるので、
全てのものは形を変えていつもわたしのそばにあるはずです。
そして2027年には、それらの流転した材料が再構成されて
わたしの前に現れていることになります。

今住む土地、口にできる水は
「ある日」の「誰か」のかけらで、
そのメッセージは地球という枠の中に保存されています。

むこう20年で何百兆キロワットのエネルギーを
原子力で生み出したとしても、
地球の質量は数キロ変わるわけでもなく、
ロケットで地球外に物を運んだとしても
琵琶湖よりも少ない量の飲み水しか運べず、
全てはこの地球にちゃんと閉じ込められているのです。

そして、絵空事ではなく、物理のあらゆる正確さをもって、
わたしはこう言うことができるはずです:
2027年にも、
わたしとあなたは互いのかけらを感じながら
この世界の中に居続けています。

人は非線形物理の演算結果から
未来予測ができない生き物だと言い、
それはこの世界全ての物理についてそうなのですが、
意識がどこから来るのか、それは
客観を伴う物理では説明がつかず、
その説明がつかない意識ならば
人の意識だけは「未来」を見ることができるのではないかと
なぜか今は思っています。

この世界は「わたし」という入れ物の外にある、
それはとても理屈に合わない出来事であって、
そんな出来事が既に起こっているのなら、
未来を描くという作業が、そして見えない何かに祈ることが
それを果たす一歩になる、そんな気がするのです。

わたしはひつじ年のうお座で、
本のお話に拠れば
それらはともに清らかなる物の象徴なのだそうです。



水曜日, 6月 06, 2007

神様のDJ

ビールパーティーなるものをやるのだそうで、
今日は第1回打ち合わせでした。
昨年は所内の敷地も分からなかったので、
イメージがつくあたりが少しうれしく思えます。

ヒトではない生物を研究するグループの人に聞くと、
同じ哺乳類でも、体内の化学物質のフィードバック機構は
驚くほど違っているのだそうで、
薬の効きかたもまた異なるのだといいます。

「心の問題」と呼ばれているものは
そのほとんどすべてが体の中の化学物質によって引き起こされる
ある状態か現象である、ということが
比較的はっきりするようになって、
それでもまだ心を論じるべきなのだろうかと
しばしば考えることがあります。

脳科学で言うところの「クオリア」は
「認識」か「主観」の発生起源に対する疑問を提起していて、
ひとはそれを「魂」とも呼んでいるようです。

人の心はまだかなり分裂しているようで、
歴史の認識がどうであるとかという問題を
あたかも永久不変の問題のように取り扱おうとします。
そして人は「意思」がなんであるかの理解が得られないまま
ある日自分がある人の形の「内側」にいることに気付き、
そして気付きのうちに終わりがあることを知ります。

鏡に映した自分は確かに他人と同じように
人間の形をしているのですが、
この世界で自分だけが宇宙人なのかもしれない、と
思った人はなぜかたくさんいるようで、
それで「わたしは神の子だ」と言い出す者が
歴史上にはたくさん現れます。

人は皆未来が読めないことを嫌います。
明日も太陽は東から昇って欲しいし、
電車は規則正しく動いて欲しいし、
蛇口をひねれば清潔な飲み水が出て欲しいと思っています。

一方で人は「意外性を求めている」のだと時に言い、
しかしそれは常に「連想でカバーできる範囲内の」意外性であることに
時に気づかないようでもあります。

人は昔鏡を見て恐れたといいます。
水に映る自分の顔は自分という認識をもたらすもので、
写真や鏡がなければ人は自分の顔かたちを
写し取って確かめることはできません。

今日は久しぶりに携帯電話を家に置き忘れてしまい、
その空白感は旅先に出たときの自分に似ていて、
確かにここは日本なのですがそれ以上のことが分からず、
ニュースのサイトを開かなければ今日の出来事を
知ったような気になることもできず、
人はこんな気持ちで過ごし、
文や便りや人の帰りを待ちわびてきたのだろうと
妙に納得したような気になりました。

分かることを前提にして考える分からないことよりも、
分からないことを前提にして考える分かることの方が
よりありがたみがあるような気がします。
そして人は時に何をすればいいのか分からず、
緩やかに定められたルールの中に浮いています。

月曜日, 6月 04, 2007

行と列:100回やっても覚えないこと

RowとColumn、
行と列、
いつもどちらが縦でどちらが横か
わからなくなります。
同じように思っている人は結構たくさんいるはずなのですが
いかがでしょうか。

ちなみにEXCEL風に言うと、
ColumnはA、B、C・・・の方で横(列)、
Rowは1、2、3・・・の方で縦(行)
です。

脳にはいくつもの口があって

夜明け前に24時間開いているマクドナルドに行ったら、
3分ほど待って熱々のハンバーガーとナゲットが出てきました。
混んでいないマクドナルドはおいしいのかもしれません。

話すことの効用について考えます。

人はどうやら表現したい生き物なのだと
すがのたいぞうさんの本には書いてあって、
表現と脳のつながりについて考えます。

表現の最たるものは「話すこと」で、
話をして思っていることを言いたいのだけれど
利害を多く含む昼間の世界の誰にもそれを打ち明けられない、と言っては
夜の盛り場で滔々と自説を展開する、
それで成り立つ世界があるというのだから
話すことは人の根源的な欲求のようです。

人は自由に話すという表現をし、
それを「自由」だと呼んでいるのですが、
今朝がたふと、それは「自由にする=制約条件を外す」ことではなくて、
「自分を確定していく=不自由にする」ことではないかと
気がつきました。

人は話していないとき、
その心の中ではさまざまな言葉が乱れ飛んでいるように思います。
心の声は物事を知るにつれて大きくなり、
この世界自体がそうであるように心の声自身も
また百家争鳴です。
エネルギーの場の中から粒子に対して反粒子が存在し、
二つは生成と消滅を繰り返すように、
言葉はそれと対を成す言葉と生成消滅を繰り返します。

脳にはすでにたくさんの人が住んでいて、
それは物語の登場人物だったり、実在の人の記憶だったりして、
その印象がそれぞれ好き勝手なことを話し始めます。

しかし自分が何かの言葉を実際の口に出しているとき、
それらの声は聞こえなくなります。

いかなる形でもかまわないのですが、
声に出すと落ち着くということは確実にあって、
それは「自由の多すぎる」脳を「体で制約する」ことであり、
膨大な経典の知恵の中から即効性のある「落ち着き」を得る方法として
ただ一つの念仏の言葉を唱えればいいのではないかと
たとえば法然は思ったように考えます。

それは巨大な連立方程式を解く場合に似ていて、
仮に何らかの初期値をたくさん与えておくと
階数が減って非常に解きやすくなることに似ています。

人の体は空も飛べない不自由さに行き詰って
空を飛ぶ機械を発明したがり、
しかし人の脳はあまりに多すぎる自由度に参ってしまって
その言葉を纏めてしまいたいと思っています。

進化論では進化の系譜という図があって、
哺乳類の先に人間があるのですが、
同じ進化度を達したとされているのが鳥類で、
体の自由度と脳の不自由さのバランスを考えると
人間ではなく鳥が
最も成功した進化の形なのかもしれません。

金曜日, 6月 01, 2007

その窓は開きますか

建物の中は妙に息苦しく思うことがあって、
窓を開けると気持ちがすっとすることがあります。

建物の設計の打ち合わせに参加しています。

建物というのは外気を建屋内に何度循環させるかが
設計のときに決められるのだそうで、
1回というところもあり10回というところもあります。

循環する空気は人が増えれば酸素が減るはずで、
それで花粉の飛ばない今は積極的に窓を開けています。

何かになろうとすること、それを意思やこころと呼ぶならば、
全ての生き物に心はあります。
環境に応じてその姿を変えていく、
そこには何らかの「意思」があるはずです。

冬に食べていたアイスです。
物珍しさがあって、味よりも楽しみと思って買ったら、
アイスはなめらかでとてもおいしかったです。
自分が前もって思うよりもよい、ということがあると
人は喜びます。

わたしにはアイデアがあるのだ、
だから忙しくて、誰かの手を借りたいのだ、
だからわたしに手を貸さないかと
いろんな人が言いに来ます。

それはおそらく今に限ったことではなくて、
ひとは「脳の出す欲求」が体でできる限界をいつも超えていて、
殻に閉じ込められた脳は出口を探しているのでしょう。

わたしは何かやりたいことがあると
ほとんど自分で解決しようとしてしまうため、
人には「もっと人に頼めばいいのに」と言われます。
人に頼まないのは人を信頼していないからだ、とか
時に言う人がいて、
そうかもしれないと思うときもあり、
そうではないと思うときもあります。

面倒だからとすぐ人に頼む人がいて、
その人は別に信頼しているということとは相関がなくて、
ただ自分に便利であればいいと考えているだけだと思っています。

すぐにしたい、を応援します、というOn Demandに応えることが
果たして「適切なサービス」なのかと
時折考えます。

脳の要求に応えること、が人にとって適切であるといい、
事業者にしてみればそれで散財してくれれば後は知らない、という感じに
受け取れる場面も多くあり、
一時生きていければそれでいい人もいて、
一度その人の感覚になって世界を見てみたいと思うこともあります。

遺伝子には機能発現に必要がないといわれている情報の部分があり、
その部分には「伝えられる心」が書かれているのではないかと
ふと思うことがあります。

長く祖先が語り、思ってきたことは
みな遺伝子の中に書かれてしまっていて、
たとえばある年齢になると発動する「心」があり、
そしてそれを自らの意思として動いては
また記録を書き足していく、そんなことを繰り返している気がします。

気の持ちようで病気が治る、ということは確かにあって、
プラセボは日本語訳で「偽薬」と書いて
それは偽物のようなのですが、
実在する現象であるならそれは意味のある行為です。

気持ちが自分の何を変えるのか、ということを思うとき、
わたしは遺伝子にアクセスしているような印象を持ちます。

全ては跡形もなく消え去ってしまうのではなく、
記憶にないことは忘れてしまうのではなく、
わたしというものは遺伝子を読んだり書いたりをずっと繰り返していて、
その方法として「わたしの言葉」があるのではないかと思ったのです。

遺伝子はその並び、つまり「言葉」に意味があるもので、
もちろんその並びは量子論的に決められた機能を持っていて、
だからわたしの言葉は、わたしに定められた機能を発現します。

隣のデスクの人と話すことは、
その人は「神はルールなのだ」と言い、
わたしは「神はシステムの中にいる」と言い、
それは異口同音であることに気がつくのです。

木曜日, 5月 31, 2007

なぜか皆、猫の手を借りたいという


高圧鉄塔の端

なんとなく乾いた空気の中に
雨が降っているような気がして、
今年は不思議な気分です。
とろろおにぎりを良く食べています。

電力を伝達する電線を支える高圧鉄塔は
なんとなくその端は全て発電所につながっている気がします。
たどっていくともちろん電線は
全て発電所に繋がっているのですが、
高圧線から地上の電信柱への接続部は
あまり気にしたことがありません。

車を走らせていて、
ふと並んでいる高圧鉄塔の一つが
ほんの少し形が違うことに気付き、
よく眺めてみると高圧線は地上に降りて
そのまま地面にもぐり地下線になっていました。

自分の見ている光景のほんの少しの視野角に映った
ありふれている景色とほんの少し違う出来事に気付くとき、
その出来事自体に面白さを感じると同時に、
気付いたこと自体にもなにか喜びがあります。

月曜日, 5月 28, 2007

あなた方は侵略的な民だ、となぜ言わない

洗濯機にかけただけでは落ちない何かがあって
次第に色がくすむので、手洗いしてみました。
手洗いの時は生地にもよるのですが
合成洗剤はすすぎに時間がかかり、
石鹸は比較的すぐにすすぎが終わります。

わたしがいた頃の高専のカリキュラムは
受験という目標から一歩離れているせいかずいぶんと自由度が大きく、
歴史の授業にしても暗記をさせられた記憶がありません。

わたしの歴史の先生だった人は仏教の僧侶で、
半期に一度大胆にテーマを設定して好きな授業をしていました。

アステカ文明はなぜ滅んだのか、とか、
日本人の「恐れ入ってかしこまる」はどこから来たのかとか、
戦後50年の歴史認識はどうであったとか、
一事が万事こんな調子でした。

試験もB4の紙を渡されて論述せよ、だったので
今思えば良くも悪くも大学的な感じがします。

わたしが面白いと思って聞いていた講義は
その人にしかできないテーマで話してくれるときでした。
それはどうしてもとりとめがない、
ある人に言わせれば脱線した話になります。

金属の先生は金属材料の英知の結集として
日本刀に惚れているといい、
延々と日本刀を作る行程での塑性変化の見事さ、
顕微鏡で覗かなければ理解できないような金属組成として
刀体の粘り強さと刃先の硬さを熟知し、
一つの流れ作業にパッケージしているのだと話してくれました。

英語の先生はひたすらラテン語やギリシャ語の語源の編纂が研究テーマで、
英語は語源に分解できる、とよく話してくれて
それで分かりもしないのに
Merriam-Webster's Vocabulary Builderを買って読むきっかけになりました。

一事が万事こんな調子で、
プログラム講義では延々と研究テーマの画像処理と人工知能にまつわる話だったり、
熱力学だったらやたらと熱サイクル側ではなく冷凍サイクル側だったり、
高校の終わりに量子論を展開されたり、
微積分の基礎さえ知らない頃に電磁気のテストをしたり、
聞き纏める範囲が限界を超えていたのをよく覚えています。

試験に通るためには限定してまとめてくれたほうが良い、と
受験的で暗記が好きな学生にはめっぽう評判が悪く、
一方で徹底的に纏めて来る先生は
相当高度な数学的処理を要求したりしてきて、
しかしわたしにとってはそれが面白くて
脱線したところばかりが頭に残っていました。

先生の一致した意見は、
その時はやっていた「ゆとり教育」には全く反対の姿勢を取っていて、
旧課程の問題集や自作のテキストに目一杯情報を詰めて渡されました。
教科書も基礎に甘んじたようなものはほとんど使わず、
20年は使えそうな難解な物ばかり揃えさせられました。

なるほどその当時の多くの学生には不評でしたが、
先生の意味とは
どれだけ遠くにどれだけ密接な具体的目標があることを
示せることなのかも知れず、
今になって、そしてこれから彼らは
あの時聞いていた事はこれだったのかと
未知に向かうというもっとも困難な最初のバリアを
知らない間にクリアさせられていることに
気づいていくのだろうと考えています。

脱線ついでに、
歴史認識が常に自国の意識として行われるなら、
ペリーが圧力外交をしたために日本は不安定になった、
だから世界大戦のきっかけはヨーロッパやアメリカが作ったのだと
宣言することに何の問題もないだろうと思うのです。

ヨーロッパやアメリカの動向を見る限り、
我々は知識について遅れているかもしれないと不安になるらしく、
いまだに実際の欧米モデルを取りいれようとばかりしているのですが、
もし実際を知ろうというのなら、
圧倒的多数の経済難民や尽きぬ貧困を抱え、
労働者階級、なんて言葉が厳然とまかり通っているような国であることまで
見てくる必要があると思います。

そして[invasive]であるあなた方に
何を言われても動じる必要はない、と優しい国の民は思っていて、
日本が欧米のようにならないのは
「なれない」と「なりたくない」が混在していることに気がつくのです。

金曜日, 5月 25, 2007

outrage


野の草がロケットのように花をつけていました。

この世に良いと悪いは仮にあるに過ぎない、としても、
人は何かに怒りを持ちます。
それは強烈な感覚で、
その瞬間はたとえこの世界の全てが消え去っても
今ならなんとも思わないだろうとさえ感じるほどで、
ひとは一体何のために怒るのかとふと思います。

この世界はこれで完全であるとして、
それならわたしがこの世界を不条理だと感じることが
不完全だというのか、と
自分に問いかけます。

小さい頃に読んだ聖書物語の絵本には、
都市が栄え人の暮らしが他の人の労働によって賄われる余裕ができ、
自然は静かなときに人はこの世界にある神を忘れ、
そしてその度に神は街を焼き討ち、大地を洪水にして滅ぼした、という絵が
いたるところに描かれていました。

それなら、と思うのです:
焼き討ちにするくらいなら、
人が共同生活することで余裕を作ることができないようにして、
必死に自然から食べ物を得て神を敬う民にしておいたほうが
人は充足するのではないだろうか、と。






火曜日, 5月 22, 2007

identity of music

小グループですったもんだして仮に纏めた案があって、
最適化の基準が異なっても数字で判断できない条件では
大グループで相談すると
すったもんだの過程を一度丸ごとやり直すことがしばしばあって、
大グループでは小グループにある程度の権利委譲を
認めておいてもらう必要があることが最近感じることです。

「同じ曲」の定義について思います。

曲にどこまでの条件を付加するかで
「同じ」と「違う」の表現は異なります。
歌い手が変われば違う曲だとする人もいるし、
メロディーラインが同じなら同じ曲だという人もいます。

「同じ曲」が流せる可能性を手にした後で、
わたしたちがそれを「同じ曲」として再生するかどうかは
別の問題です。

曲の違いの中に、
曲調の違いは大きいと思っています。
たとえ音の上下とリズムが同じでも、
調が違えば印象が違います。

CDをかけると流れる音は同じようですが、
最後に一つ「音の大きさ」というのが
曲を同じにしたり違うものにしたりするのではないかと
確信的に思っています。

人と話をするときになぜ通じないのだろうと考えたとき、
大抵のアドバイス本はその「中身」について問題にすることが多く、
表現方法は別の本で詳しく取り上げられています。

通じない話はもしかしたら声が「大きい」のかもしれない、
それは複雑な議論をするときに大声で話していたら
十分耳を澄ませて考えられないからという理由は成り立ちそうです。

写真に流れは写らない

とろろで巻いたおにぎりが好きです。
小さい頃から好きな食べ物は
わかめ、玉ねぎ、ねぎ、しょうが、わさび、しそです。
薬味を野菜の量で食べるとおいしく感じます。

川の写真を撮ると、
そこに写るのは水で、川ではありません。
川の動画を撮ると、
そこに写るのは水の写真の集まりで、川ではありません。
コンサート会場を撮ると、
そこに写るのは人だけで、音楽はありません。

言葉は「動き」を捉えるために作ったもので、
しかし「歌」は楽譜でも写真でもなく、
そして形がありません。

この世界の全ては歌なのかもしれず、
できれば綺麗な歌を聴きたいなと思うのです。

月曜日, 5月 21, 2007

そして、より近づくことへ

人口甘味料は血糖値を上げないのだそうで、
甘いものを口にしたいけれど甘いものを食べた後の
あの妙な気分が気になるときに便利です。

今日の昼ごはんでは
徴兵令と戦争意識についての話が持ち上がりました。
徴兵を経験することで他人事ではない戦争の辛さの実感が湧き、
国全体として戦争を望まなくなっていくのだと一方で思う人がいて、
徴兵の経験がより「軍隊の必要性」についてまざまざと知り、
人は力によって治められる部分があるのだと他方で思う人がいて、
それらはどちらも現実に意味を持った意見になります。

しかし大方「そんなきれいごとでは国家は成り立たない」と言われるのが
平和を望む声のほうで、
仕方がなくて戦争をするというのなら
どんな理由でも「未来は分からない」と「仕方がない」で済んでしまいます。
医療行為と生死の意識もおなじ論理の流れで、
医療に従事するからこそ生きると死ぬをまじめに考えるようになり、
医療から離れるから生死の苦しみを普段忘れて暮らせるのです。

医療の境は知りたくないといい、
一方で軍隊は必要なのだという人がいて、
同じロジックを通すなら
どちらも「必要で知らなければならない」と言うはずだという気がするのですが、
いかがでしょうか。

気に入ったアルバムは延々と聴くくせがあって、
Chemistryの最初のアルバム"The Way We Are"が
とても気に入っています。
Chemistryのアルバムは他にも聴いたことがありますが、
最初のアルバムが飽きずに聴いていられます。

ある日好きなものはなぜか別れの歌であることが多くて、
その理由ははっきりしません。
あえて理由を与えるとしたら、
別れの瞬間に「何か」がはっきりする、
それはその人が自分にとってどれだけ大事なものかであり、
自分の中にどれだけその人が埋め込まれたかの証左を感じるから、
と書いたら少しは当たるでしょうか。

幸せな曲も好きなのですが、
このアルバムは別れの歌が綺麗です。
8曲目"You Go Your Way"を聴いて、
最後の最後に心とは異なる言葉を発し、
その言葉を本心と受け取ってもらったことを思います。

パンドラの箱の最後が「希望」であるように、
わたしの心の最後にある言葉は表には出さず、
しかし錠をかけて鍵を月に返しました。

わたしが願うことはいつも同じで、
ただあなたがあなたでいられる日が増えますように、です。

日曜日, 5月 20, 2007

長湯をする

ひたちなか海浜公園で
ネモフィラという青い花を見ました。

雨上がりの空、太平洋側の海、カリフォルニアの花が
まるで互いに申し合わせたように
空の青、海の蒼、花の藍をぴったり一致させていて、
丘のふもとから見上げた景色は
丸い青のなかに包まれているようでした。

長湯について思います。

小さい頃は風呂の中にいるのが好きでした。
喧嘩の多かった両親の間で
なんとなく「安全地帯」だったのが
風呂とその時間だったからなのかもしれません。

平穏な日でも、何かと機会を見つけては
湯船の中に長くいる習慣ができました。
しばしば風呂の中で寝ることがあって、
そうなると風呂の時間は2時間を超えます。

湯船に湯を張るとガス代が高くつくので、
極力シャワーを使う生活が続き、
次第に湯船で寝る時間が減っていきました。

今日気が向いて、久しぶりに長湯をしました。

金曜日, 5月 18, 2007

仕事をしながら思うことは、
人はある場面で秘密を保持しなければならないことで、
それは全体のために本当に必要なときと、
相手の都合よりもただわが社の利益を守るためだけだったり、
ときにない袖で勝負する ある種のブラフや虚勢の類として使われることがあります。

全体のためにならない秘密以外の「表現された秘密」は、
疑いなくある種の恐れから発生していて、
格下に見られると買い叩かれるとか
大抵はそんなところで、
これが本来なら必要のない意見の相違や無理解を招きます。

わたしが戦うものは
必要のない秘密の表現の代わりに、
どれだけ一人間として誠実な表現で応えることができるかであり、
恐れの感情で満ちた現場に
協力した建設的な議論をどこまで展開できるかです。

会社は時にお金を払って仕事を頼み、
一方で時に仕事を受けてお金をもらいます。
そしてお金を払うときには殿様のように
札束で頬を張るように買い叩き、
仕事を受けるときは下僕のように忍従する、
そんなことばかり繰り返しているように感じます。

仕事を受けているときに辛い思いをした、
だから仕事はそういうもので、
買う時には同じプロトコールを繰り返す、
そう思ってしまえば連鎖は解けません。

役所と市民、 官庁と民間、
言葉の上での違いはあっても、
それら全てに「自分の友達」がいるのなら、
わたしは区別をつけたくありません。

研究所が入札をすると言い、
いろんな会社が伺いに来ます。
非常にしばしば彼らは「殿様と下僕」を演じ、
まるでそれが当然であるように振舞います。
それで仕事が進めばいいのですが、
議論は上滑りして仕事は前に進みません。
お互いに「あいつは分かっていない」と言っています。

そして失敗を恐れて自ら話すことはためらい、
人が話すことのあら探しばかりに徹しようとします。
そんな議論の仕方では確かに失敗はしないかもしれませんが、
前に進まず、結局時間が詰まってみんなで大失敗をします。

いくら大きなお金が流れ、
その使い方を決められるといったところで
それは「預かり物の資金」であって、
目の前にいる人は一人の人間です。

メーカーの会社の人と向き合うとき、
わたしはふと友達の顔が浮かびます。
同じ仕事を成し遂げるときに、
その人がどこの人かなんて関係ない、
と わたしは思っています。
だから分からなければ聞こうと思うし、
分かっていれば教えてあげようと努力しています。

それはわたしにとってはひどく効率が悪く、
フォローを増やせば仕事は増えるし
内部の人と避けられぬ衝突になることもあるのですが、
曲芸のような世渡り上手になるよりも
負側面を可能な限り受け止めて正に転化できるような
そんな人でいたいのです。

それは詰まるところ、試験前の勉強の延長なのかもしれず、
順位を上げたいからといって一人裏で勉強し、
人当たりはいいけれど肝心なところははぐらかす人と
みんなで進級しようと勉強会に参加する人が
そのまま仕事にスタイルを持ち込んだようにも思います。

これは多分終わりなき戦いで、
わたしはできるだけ最前線に立っています。
時に負けることもありますが、
勝って建設的な議論が始まるその瞬間のスイッチを入れる、
大きな音を立てて人のシステムが生き脈動し始める、
その一体感がわたしにとっての何よりの成功報酬です。

木曜日, 5月 17, 2007

笑いの総量

とても性能のよいソフトがやってきて、
それが勝手にいろんなデータを出力してくれて、
見た目にはやたら情報量が多くても、
なぜか人がそれに関わった時間というのは感じることができて、
時折それを不思議に思います。

偶像ではなく書物を持つ、
ということにおいて宗教のある種類は一致しています。
聖書を傍らに置く人の気持ちは
なぜか理解できるような気がするのです。

本は物として成り立っているのではなく、
「言葉」によって成り立っているところが偶像とは違います。

どんな本を選ぶかは人によって異なりますが、
おそらく人には「この1冊」とか「この1曲」のようなものがあるように思います。
もしそれがない、という人は、
たとえば指輪だったりお守りだったりするのかもしれません。

話は少し違うのですが、
会話の中の笑いには総量があって、
面白いことを言われると笑いたくなるのですが、
面白いことが真顔で言われるから面白いのかも知れず、
面白いことを笑いながら話したらこれほど笑うだろうか、と
ふと感じたことがあります。

ある日わたしはメールで笑顔の顔文字をたくさん送り、
しかしそれが本当にほんの少しだけ
「笑っていなければならない」という気持ちを含んでいたことに気付き、
それで笑い顔の絵文字を送る回数がずいぶん減りました。

一日に歩ける量が決まっているように、
わたしはどうも一日に笑える量も決まっているような気がします。

それはおそらく、自然を理解したから

雨が降っています。
それでも建物の中はこの数ヶ月雨が少なかったせいで乾いていて、
タオルがよく乾きます。

人間は文明を作った、だから偉大なのだ、と現代は言い、
情報とテクノロジーが優先しているように見えます。

テクノロジーを「使う」という事の意味は、
ひとつは「食べることを楽にする」ために導入されてきました。
簡単な例は石器の斧や農耕具、土器などで、
そのままでは食べられず処理が必要な食材を
食べ物として導入するために必要とされました。

食べるため、住むためのテクノロジーというベースが充足するにつれて、
「長く生きる」ためのテクノロジーが注目されます。
薬草や発酵食などから始まり、
傷や疾病の治療へと話が進みます。
それでも文明のほとんどの期間は食べるために精一杯で、
旱魃や異常気象などに対応する術をもちませんでした。

食べ物、正確には意識を正常に保てる食生活と
居住区の確保という基盤があって、
初めて人は戦争に関する出来事を忘れていくのだと
最近感じます。

文明というものが現れては消え、
しかし今や人間は地球全土に広まっていて、
それらが奇しくも体と同じ電気信号で情報をやり取りする、
その様子は地球の外から見ればおそらく、
人の集まりが作った「新しい生き物」の姿です。

樽いっぱいのジャムはいらない、スプーンひとさじのはちみつが欲しい、と誰かが言う

週に10程度の打ち合わせがあって、
デスクにゆっくり座って仕事をするためには
仕事時間を早く始めるか遅く終わるかの
どちらか、あるいは両方を選ぶ必要に迫られます。

加速器施設の建設フェーズに立ち会えることは
ハードウェアのスキルアップという意味では本来とても幸せなことで、
一方で加速器は技術的に枯れるまで時間がかかるため
動いている加速器で実験することが
ビーム工学のスキルアップに必要です。

欲することの意味について考えます。

この世界のさまざまなことは
決して個別の問題として存在しない、
だから関心を持ち続ける、と意識は話し、
一方でわたしが置かれた状況の多くで、
これがなければ生きていけないという切迫感と
ともに生きることの喜びの両方に突き動かされて
行動原理が生じてきた事を思います。

袖摺り合うも他生の縁、という言葉は
時に人が前世と呼ぶ、知覚不能な領域に対しての概念です。

しかし人は一方で、精神に強烈な影響を持つ
薬剤が存在することを知っていて、
そしてある人にとって「他の人」の挙動というのは
その人の履歴とさまざまな物質的入出力、物理的相互作用によって
成り立っているきわめて精巧な機械、と捉えることは、
それが都合のよい支配の理由として使われない限り
当を得た表現のように思います。

わたしにとって別の人がそう見えるのであれば、
別の人にとってわたしはまたそう見えるはずです、とここまで書いて、
相手の人が思う認識については言及ができないことに気がつきます。
別の人はその人なりの履歴を持っているはずで、
この世界を「わたしと全く同じように」認識していることはないのです。

この世界はハドロンとレプトンの素粒子でできていて、
構成要素としてなんら違いはなく、
そして現在までの理解では
宇宙はある一点から生じたことになっていて
この世界はきわめて均質にできています。

「わたし」の難しさというのは、
「わたし」だけがこの体の「内側」にあることが分かっていて、
「わたし」に付随した入力と出力が存在し、
そのほかの全てがこの体の「外側」にあるという認識があり、
それがなぜだろうと疑問に思うことにあります。

わたしは「わたしの五感」というものを通してできていて、
わたしの五感に入力されないものは、存在していても
わたしには知覚されません。
しかしそれらの存在全ては列車のようになっていて、
ある場所で生じた影響が連結されて末端への作用となるように、
知覚できる情報はこの世界全体の演繹の結果であるので、
わたしには関係がない、と呼べるものは言葉の上にしかなく、
全てのものに関係があります。

わたしを構成するものについて時に関心を持つことがあります。
細胞はそれぞれが生きていることになっていて、
それぞれの環境に応じて生成と消滅をし、
それら全体としてより大きなシステムとしての人のからだがあります。
風邪を引きにくい体質の人は
大きな体調の変化や体の炎症が少なくて
結果的に長く生きられるように、
人もまたそれぞれの衝突がより小さくなっていけば
結果的により大きな秩序を持った存在として成り立つようになります。

「人」全体がこの「より大きな秩序を持った存在」になれるのかどうかは
実は人間は誰も教えることができません。
この世界は「現在のわたしの知覚」においては
時間だけが遡れもせずまた先に進むこともできず、
時間のある一点に乗っていることだけが確かなことです。

わたしの中に生じてきたさまざまな衝突や葛藤は、
それまでの人の歴史の中で生じてきたことを
わたしという存在に認識させるために必要だったのだろう、と
ふと思います。
たとえそれらが分かったとしても
わたしたちの体という存在は生成消滅をするものであり、
確かに「いまのわたし」が体を失えば
その記憶と認識は体とともに失われます。
それは多分眠っているのと同じようなもので、
この世に存在はしているけれども
ただ認識だけが存在しない世界です。

眠りについて思いを馳せるとき、
わたしという体は存在していて、
しかし意識だけが存在せず、
眠りは「意識」にとって「死」と等価です。

人にはさまざまな欲求があり、
その中で「安らかに眠る」ことが一番の欲求であるわたしにとって、
安らかに眠ることを妨げられることの辛さは
よく理解できます。

どうかわたしとあなた、特にあなたの「意識」が、
その体の中で安らかに眠れますようにと
今日も願います。

月曜日, 5月 14, 2007

納得行くまで立ち止まって本が読みたい

かんじんという言葉は大事な物事を指すときに使い、
肝心と肝腎の書き方があります。
大きさとしてはそれほどでもない腎臓の機能の重要性に
ちゃんと注目していた事に感心したりします。

この世界には覚えなければならないことがたくさんあるようで、
読み物に目を通す時間は増えていくのですが、
いつも駆け足で目的とする項目を探すことが多く、
気に入った速度で本を読む事が難しくなっています。

たくさん食べれば大きくなるからと言われて、
しかし消化不良が続いたままの体では
大きくはなれないように、
たくさん読んだからといって消化不良で進んでしまっては
大事な中身を覚えておくことも難しくなります。

小学校の教科書は確かどれも100pぐらいで、
それを1年かけて読み砕いて行ったはずなのですが、
今は500p以上ある書籍を
年に数十冊「目を通す」使い方をし、
それで記憶が定着しないまま次の情報がやってきます。

時々、そういった本を
自分が納得行く速さで読んでいきたい、と思い、
しかし1冊マスターするのに何年もかかりそうな本が
目の前にはいとも簡単に積み上げられていきます。
それら全ての知識にこの世界を構成する価値を見出しながら、
わたしには時折猛烈な焦りが生じます。

日曜日, 5月 13, 2007

アメリカに見る、いわゆるカースト制と呼ぶもの

三菱製の加湿器が警報を鳴らすときは
湿度が30%以下のときで、
4月と5月は空気が乾いています。

仕事の割り振りについて思います。

ある装置が故障したとき、誰かが修理します。
故障という現象に対して修理という仕事が発生します。

修理する人を割り当てるときの原則は
明示的に、あるいは暗黙的に決まっていて、
誰でもいいから修理できる人が修理するか、
修理を担当することになっている人が修理するかで
状況が変わります。

誰でもいいからできる人が割り当てになる、というのが
どちらかというと日本的なやり方で、
この場合構成員は「対応可能である限り積極的である」ことが
この原則を維持するベースの性質として必要です。
誰でも良くて誰かがやるだろうと思っていると
修理はいつまでも直らないからです。

修理の担当になっている人が修理する、が
どちらかといえばアメリカ的なやり方です。
この場合構成員は「割り当てられた職域に責任を持つ」ことが
この原則を維持するベースの性質として必要です。

これらの原則が暗黙的に混在している場合、
混乱が起こります。

暗黙的な原則側では全ての人が積極的である必要があり、
もし職域を設定する必要がある場合、
それは明示的でなければならないことが分かります。
つまり、暗黙的な原則に頼る場合は
正確な職域を設定することができません。
そのため、一人一人の責任範囲は
あいまいであると同時に無限責任となります。

たとえば西洋の国に広められている憲法は
基本的に人間を互いに等価な存在として認めると
定められています。
しかし仕事の上では、それぞれの職域が決まっているため
修理は誰でもして良いわけではなく、
修理を担当する人のみが修理を行えます。
この制度は一方で人の仕事を失わない、つまり
仕事を保護する意味合いもあり、使い方によっては
それに階級的意味合いを持たせるならば
職域の逸脱と個人の進歩の可能性を封じてしまう意味合いにもなります。
これはカーストの制度と同じです。

それぞれの職域が明示的に決められていない日本では、
職域の逸脱も進歩の可能性も確かに持っていて、
しかし無限責任であるがゆえに
ある人が仕事を失ってしまう状況も
ある人にばかり仕事が積み重なる状況も発生します。

暗黙的、つまり非明示的な情報で構成される社会は、
情報を蓄積することもできません。
日本は流して行く文化なのだと言い、
それは暗黙の了解を是とする限り変わらないことであることが分かります。

非明示で形のないもののほうが重要とされる社会では、
明示的なものに重要性を付加できません。
おそらく数世紀たっても、日本のこの性質は変わらないでしょう。

金曜日, 5月 11, 2007

絵巻物

文書を書いている際にはそれほど気にならないのですが、
式を解いている時と図面で寸法を比較しているときには
裏と表があり、分離できないノート型の紙は
とても使いにくいと思っています。

加速器は装置が1周130mほどあるので、
図面は地図のようです。

それでノートを後ろからカッターナイフで切り、
セロハンでつなぎ合わせてジャバラ状にした
見開き図面を作っています。
図面と磁場データをめくりながら確認せず、
広げてひと目で確認できることが大事です。

確かにコンピュータは情報を「纏める」ことに威力を発揮しますが、
画面がいくらでも広がる、という意味で紙はとても使いやすく、
紙と同じコストのコンピュータができない限り
需要はなくならないだろうなと思いました。

プログラミング「言語」

気温の高い日が続いています。
カスピ海ヨーグルトの種は無事増えて
冷蔵庫に納まっています。

パソコンを計算機と呼ぶ種類の人がいて、
その人たちにとってパソコンはワープロでもブラウザでもなく
物理計算をさせるために使われるものです。

0と1の組み合わせ、という概念が分からなくなるほど
パソコンは表現の伝達に使える「言葉」を持っています。

言葉に日本語と英語とドイツ語とロシア語などがあるように、
パソコンにもBASICやCやPascalなどと呼ばれる言葉があります。

小数点を切り上げて整数にしなさい、とか
2乗して3を引いた値を配列に代入しなさい、とか、
微分方程式の解が負の場合には分岐命令を実行しなさい、とか
こういうことを単語を並べて伝えます。

「言葉」があれば「辞書」があって、
「赤くて花びらが幾重にも折り重なって枝にとげがあって」というものを
「バラ」という単語を導入して短く置き換えるように、
複雑な計算機操作に対して
たとえば「xx(int y)」という単語を導入して短く置き換えます。

言葉文化の発達とともに単語の意味は複雑さを増して行き、
他言語との翻訳が難しくなるのも全く同じで、
日本語で一単語で言える表現が英語では回りくどくなるように、
プログラム言語もそれぞれの操作を翻訳すると
妙にスマートではなくなったりします。

これだけ同じだとプログラムを学ぶ方法まで同じで、
たとえば外国語は挨拶から覚え、
いくつかの単語で短い文を作り、
少しの文法を覚え、
言いたい言葉を辞書を引いて組み合わせ、
時には有名な作家の文章を引用してアレンジし、
次第にうまくなっていくように、
プログラムなら画面に"Hello, World!"の文字を出力させ、
短いプログラムを書き、
少しの文法を覚え、
処理したい内容をリファレンスを引いて組み合わせ、
時には有名なプログラマのアルゴリズムを引用してアレンジして
次第にうまくなっていきます。

計算機の処理は理系のもの、と思われがちですが、
外国語を学ぶ方法に長けた文系の人は
計算機プログラムを学ぶのがとても上手だろうな、と思っています。

水曜日, 5月 09, 2007

砂糖と快楽

それぞれの地域で人の性質が違うのは
主に文化のせいではない、と最近感じています。
酒に強い遺伝子を持つ人種というのがいて、
不安になりやすい遺伝子を持つ人種というのがいます。

この場合、いくら文化を取り入れようと言ったところで
ある文化刺激に対する生理的反応が異なるのであれば
その結果生じる社会が同じになることはありません。
この世界を均質にする方法としては、世界中の人を一度集めて
ランダムに再分配することが考えられます。
しかしたとえそうできたとしても、
地理学的条件に対応して遺伝子が発動し、
また違う人種が地域によって発生します。

そして日本人は酒に弱い人が多くいて、
不安になりやすい遺伝子を持つ人が多くいることが分かっています。

快楽は長く続かず苦痛は長く続くように思うのは、
人は甘いものの摂取に対してリミットを持たないのと同じで、
許容量が大きい刺激は長続きしないルールがあります。
それは言い換えると、
人はいくらでも快楽を受け入れる用意がある、ということになります。


日曜日, 5月 06, 2007

キレる子とナトリウム不足の関係


出先で持ち運びしやすいように
小さな光学式マウスを買いました。
ボタンが押しやすくて気に入っています。
「キレる子」が増えたといい、
しかしわたしはあまり見たことがありません。
昔の子と今の子を直接並べることはできないので、
その違いから推測することになります。
精神や筋肉の「緊張をとる」物質として、
カルシウムと答える人が多いのではないかと思います。
カルシウムは筋肉の興奮に使われるもので、
緊張を取るのはナトリウムです。
放射線医学では体内に含まれる元素量を特定する技術があって、
それは体内から出る放射線のエネルギースペクトルを測定し、
自然界元素の放射性同位体の質量比を別に求めておくことで決まります。
カリウムは0.012%が放射性なので体内のカリウム総量を比較的容易に測定できますが、
ナトリウムは100%非放射性なのでナトリウム総量は測定できません。
測定が困難であるということは、
その分野に関連した研究が進みにくいことを意味します。
ナトリウム総量はおそらく人体にとって重要な量のはずですが、
血中ナトリウム濃度から総量を割り出すこともできません。
運動に慣れていない体、成長期の体は
ナトリウム再吸収がうまくいかない場合があり、
汗をかくために必要な電解質量が多くなります。
ポテトチップは食塩が多いと思われている食べ物の代表ですが、
一袋で0.8gの食塩です。
すき屋の牛丼が1食2.2gで、
ビッグマックでも1.9gしか入っておらず、
ポテトもLサイズで0.6gで、
デザートやジュースには殆どナトリウムは含まれておらず、
カロリーは簡単にオーバーし、食塩は6g以下になってしまいます。
欧米化の食事の特徴は、
カロリーとナトリウムのバランスが異なるところにありそうです。
コンビニに行ってナトリウムの多い食品を探しても、
今は殆ど見つかりません。
脱酸素剤、窒素封入、低温輸送などで
塩分を効かせた保存法が必要なくなっているのです。
日本人は塩分を取りすぎている、は
おそらくかなり多くの人にとっては全く当てはまりません。
心配すべきは、ナトリウムの取りすぎではなく、
不足による体への影響です。

特別なものは見当たらず、しかしいつも目の前にあって


血圧計を買って、
頭が張ったような気分になったときには
血圧が上がっている、という相関が分かりました。
朝は若干血圧が高めです。

「特別」という言葉がどこかに引っかかって、
この何日か考え事をしています。

「わたし」は何らかの方法で「特別」であることを望むように思います。
歴史に自分だけの名を残すのだ、と言い、
限られたヒトしか体験できなかったことをしたのだ、と言い、
わたしでなければできなかったのだ、と言い、
今この瞬間がかけがえのないことなのだ、と言います。

特別でなければならない理由はおそらくどこかにあって、
特別の思想は生き物として残っていこうとする潜在的な欲求かもしれず、
時々以上にそれに振り回されていることがあります。

そういう気持ちが生じると同時に、
自分の中で「それは特別ではない」と感じる認識も同時に生じます。

わたしの脳は急速に「一般化」作業を完了します。
どこかで聞いたことのある曲のアレンジ、
たくさんのヒトが共有していて、自分よりもそれを詳しく報告された情報、
いつかの誰かも同じように考えたと記述された筆跡、
原料も、作り方も、性質も、設計図も、歩留まりも分かってしまっている
ありふれた産業の機械製品などは
「自分が分かっている」わけではなくても、
「誰かがより分かっている」という時点で特別ではなかったりします。
そして自分が「ひと」であって、それを超えたいとどこかで思うこと、
それ自体が「誰かもまたそう思うこと」だと思ったりするのです。

わたしは「わたし」を誰かに認識して欲しいという欲求をもっています。
それがどういう意味を持つのか、と聞かれるとよく分からず、
ただそう思うから、と答えることになります。
そしてただ「認識して欲しい」というだけではなくて、
「好ましいもの」として捉えて欲しいと思っています。

「好ましい」として提示した「ある日の自分」は、
しかし好ましくない日に直面することで、
「あの時は良かったのに」と顧みるきっかけをつくってしまいます。

しばらくして、わたしが求めようとする「特別」は、
ずいぶんと都合のいい「特別」であることに気がつきます。
少しでも多くでも、「努力すれば確実に手に入る」という期待があること、
「自分は選ばれている」という心地よさがあること、
五感に対して快楽があることに対して
「特別」という言葉と結びつけていることになります。

そしてそんなものをいくら積み重ねたところで、
それが「特別の借り物」であり、自分の特別ではない、ということに
否応なく気付いてしまう日があります。

本当に特別なものが、「得られるかどうか全く分からない」か、
「ひどく難しい」ものであり、
危険を冒してでも自分の人生を賭けなければ成し遂げられないもの、
であることに認識を持つとき、
「特別」の傍観者となるのか、「特別」の創造者となるのかが
分かれています。

少しずつ考えを進めます。

人は「危険」をなぜ感じるのか、とふと考えます。
「危険」とは「自分を失うかもしれない」という認識のことで、
そうすると「自分を成り立たせるもの」が多くなるほど
危険の認識は増えることになります。

「自分」というものは「認識」でできているので、
「先が分からないもの」は認識の外にあり、
それが「危険」として知覚されます。
たとえ知らないことでも「自分を失わないもの」に対しては
「危険」だとは思っていません。

そしてある日の自分は「都合の良い快楽のような特別」を求め、
しかしそれが「魂の充実へと導く特別」ではないことは良く分かっていて、
それでまた理屈では説明のつかない
割の合わない旅へと出ることになります。

道の分からない旅なので仲間は連れず、
行き先も告げません。
たとえ連れて行きたくても、どこに行くか分からない旅では
案内のしようがないのです。
でも誰かが一人で「道の分からない旅」に出かけたなら、
その人とは必ず旅の途中で出会うことになります。
道の分からない旅はたくさんあるわけではなく、
実はひとつしかない、それは「わからないこと」という
たった一つの行き先です。

旅には何の準備も要らず、出発点も目的地もありません。
行き先はひとつなので、
旅に出た人が見てくる風景は同じです。
その風景を共有できる人と出会うことを
わたしは楽しみにしています。







特別なものが見当たらない世界へ

助さんの本名は佐々宗淳なのだそうです。
せっかくなので
史跡をデジタル化します。

水戸黄門漫遊記で親しまれている「助さん」は
本名は佐佐宗淳(さっさむねきよ)といい、字を子朴(しぼく)、
通称を介三郎、十竹と号した。本姓は良峰(よしみね)氏で
あったが、その祖が佐佐成政の妹を妻とした縁で
佐佐氏を名乗った。十五歳で京都妙心寺の僧となり、
祖淳と号した。僧として約二〇年つとめたが、感ずるところあって
還俗、江戸に出て延宝二年(一六七四)徳川光圀に仕え、
進物番兼史館勤務となり、義公修史のことに従事した。
彼の業績は史料の採訪収集でその史跡は畿内は勿論
北陸・中国・九州などまでも及び貴重な文書記録を集めたことである。
また義公の命で下野の那須国造碑の修復、同所の
上下侍塚の発掘調査とその復元等に当ったことは
特筆されよう。元禄九年(一六九六)彰考館総裁をやめ、
小姓頭として西山荘の光圀に仕えたが、元禄十一年六月三日
五十九歳で没しこの地に葬られた。墓碑は養子の藤蔵宗立が建て、
選文は格さんこと安積覚澹泊である。
常陸太田市教育委員会

土曜日, 5月 05, 2007

推測の種明かし

素敵な宇宙船地球号といえば
トヨタがスポンサーの番組で、
Hybrid Synergy Driveは
ハイブリッド車につけたトレードマークです。

これはおそらく、アメリカの建築家である
Richard Buckminster Fuller
(リチャード・バックミンスター・フラー)の1968年著書
「宇宙船地球号」にちなんだ名前で、
シナジーという言葉は彼の著作に使われる
重要なキーワードです。

そしてこの推測に至った出典元は、
安藤忠雄「建築を語る」第3講「抽象化と場所性の間で」141pです。

スコットランドに行った際には、
アラン・ド・ボトン「旅する哲学」を持って行き、
ホテルの一室でその雰囲気を感じながら読みました。
次にアメリカかヨーロッパのどこかの国に行くときには、
ぜひ安藤忠雄の本をガイドに連れて行き、
ひとつぐらいは建築を見るために足を伸ばしてみたいと思います。

木曜日, 5月 03, 2007

超高層大仏をつくる

牛久大仏を見に行きました。
全体を撮ってしまうと大きさの感覚が麻痺するので
普通のアングルで台座だけ撮っています。
大仏の中にはエレベーターがあって、
超高層大仏をつくるという本が売っていました。
内容は建築専門誌で、
とても読み応えがあります。
トラス構造設計や強風応力シミュレーションなど
建築の参考になる資料です。
世界に「世界一」と呼ばれるものはたくさんありますが、
その資料を自分の国の言葉で読めるというのは
情報の流布にとても必要なことです。
そしてこの建築の本はおそらく日本語しかなく、
その意味でも貴重だと思っています。

写真の日

線形加速器の加速管です。


夕方の空に飛行機雲を見ました。
久しぶりにプールに行きました。

時々必要な、完全な闇と静寂

鶏は時間をかけてゆっくり熱をかけるとおいしくなる食材で、
棒々鶏は湯を沸騰させずに火を入れます。
湯には生姜とにんにくを入れると
鶏に香りがついて後味がよくなります。
ゆでた後の湯は塩とセロリを入れると
スープとして使えます。

人間の五感には一般に感度の違いがあって、
嗅覚が一番で、次が聴覚、視覚はずいぶん感度が低いといわれています。
五感の鋭さは生まれつきの違いもあるはずですが、
感覚は主観を含むので比較は難しそうです。

わたしが時々とても必要とするものに、
完全な暗闇と静けさがあります。
蛍光灯の下にいるのはなぜか落ち着かない気分になり、
それは紫外線が出ているせいかもしれないと思います。
人によっては紫外線を感じられるのかも知れず、
紫外線で昼だと認識しているのかもしれません。

ブラウン管のテレビは構造上14kHz付近の音が出ていて、
わたしには耳障りなほどよくこの音が聞こえます。

白熱灯を使い、LEDの画面を見るようになって
パソコンを打つのも負担になりにくくなってきました。
ただ冷却ファンの音はやはりとても気になって、
次は水冷式にしようかとまじめに考えたりします。

火曜日, 5月 01, 2007

We are "Cells"

庭園いっぱいの牡丹の花を見に行きました。
牡丹の花は小学校の頃薄紙を折って真ん中を輪ゴムで止め、
ふっくらと広げた花飾りほどもある大きさで、
こんなに大きな花があるのかと少し驚きました。
桃源郷は言うなれば地上の楽園で、
そこに咲いているのはどうも桃の花より牡丹の花のような気がしました。

牡丹の花は女性の美しさを形容するものですが、
ある日女性よりも花のほうをより美しく感じるようになるかもしれない、と
なぜかまじめに思いました。

人間が細胞でできている、
これはみんなが良く知っている話です。
細胞単体でもそれなりに生きていくことができます。
細胞はそれぞれ自分の役割をある程度知っていて、
しかし全ては知りません。
そして環境に応じて役割を果たし、
時にフィードバックの間違いを起こします。

そして人もやっぱり細胞なのだ、と思います。
構成している「社会」はおそらく上の次元の「生き物」です。
電気の神経、原子力の心臓、船や飛行機の筋肉、
巨大な分散計算機でできた脳に相当するものがあって、
社会という「それ」は、おそらく意思を持って生きているのです。


日曜日, 4月 29, 2007

VTOL


土曜日15:00ごろ、雹が降りました。

雹の大きさは直径10mm以上あって、

魔法の世界さながらでした。


普通不可能なものが可能になるものが好きです。


大抵の飛行機は飛ぶ前に滑走距離が必要で、

助走なしでは飛べないのですが、

垂直に離着陸できるのがVTOL機です。

小さな頃図鑑で見て、それ以来気に入っています。


不可能を可能に変えるためには、

二つの独立な枠が必要です。




木曜日, 4月 26, 2007

ラジオのような、くぐもった音のCD

夜3時に表に出ると、濃密な霧が出ていました。
街灯のナトリウムランプのオレンジと
水銀灯の緑色が強い白の光の玉が
柔らかな空気の中に輪郭のないシャボン玉のように浮いていて、
珍しくマウンテン・デューのソーダを手に取りました。

水曜日, 4月 25, 2007

大地と海に恵まれぬ民

日本語のメールにはどことなく緊張感があって、
たまに英語で”Please do not hesitate”と書かれたメールを見て、
なぜかいつもほっとした気分になります。

数十年前の事は良く分かりませんが、
一部の年上の会社の人とは尊敬語ではなくて
丁寧語ぐらいで話す方が相手も心地よいという感触があって、
少しずつ日本語は使われ方が変わっているのかなとも思います。

しかし「特上で扱って欲しい人」というのはいつの世もいて、
過剰なマナーを社会に要求する人は
いつまでもこの世にいるんだろうなと感じるのです。

自分が美しいものを感じる感度を上げられたら、とよく思います。
この世界の中でもっとも無秩序なものは、
人の脳自体ではなく、
人の脳の配線具合かもしれないのです。

野菜に含まれるマグネシウムの量が劇的に減っている、と
最近の調査結果は伝えます。
塩は邪気を払うと言いますが、
恐らくの意味は撒くのではなくて摂取することで
脳圧を下げ意識を沈静化することにあるのだと思っています。
ナトリウムは体内の電解質の中で最も重要で、
確かに多すぎてはいけませんが絶対に少なすぎてはいけません。

西洋の土壌はミネラル分が多くて硬水がよく湧いています。
日本の土地はミネラルが少なく、
それでいて海から離れてしまうなら
日本人は大地の恵みから遠く離れたところに
住んでいることになります。
そして日本人の独特な性格や生き方もまた
海と大地との関係にほとんど影響されているのではないかと
思ってしまうのです。
精神論は日本人の得意な議論ですが、
食べ物、特にミネラルを徹底的に見直してはどうかと考えます。
人は大地から離れて立つことはできず、
また海に抱かれずに眠ることはできないのです。


火曜日, 4月 24, 2007

言葉の報酬系

発生系統の異なり、対抗した二つの研究所に両方所属すると、
それぞれの言い分が分かり、
それぞれの言い分に少しの表現の違いと過不足があることが分かり、
それでわたしは厳密な表現を求められない限りは
まあそんな感じですね、と聞いている時間が増えていきます。

位禄の分離によって江戸の政治は成り立った、なんて一文が
堺屋太一「三脱三創」にあって、
興味深く読んでいます。
商人が金銭は多く持ち、
武士は権力を持ち、農民はそれに続き、ということで
それぞれがそれぞれの方法で満足する、という方法です。

比べられないものとして位置させるのは
奪い合いにならない仕組みを作るうえで必要なことだと思います。

位禄の分離をもう少し詳しく見ていくと、
禄自体は実体で、位は禄を使う潜在のポテンシャルです。
言うなればスピードのついたボールは実体としてのエネルギーで、
地上500mに置かれたボールは地上に対する潜在的エネルギーです。
商人は禄が手元にあることに喜び、
武士は禄をいつでも使える状態にあることに喜びます。

遠い親戚と話す機会があって、
「国から表彰されました」「団体から表彰されました」ということが
非常に誇らしげに語られる場面があって、
実はわたしにとってはすこし新鮮な驚きでした。

表彰というのは何らかの結果を周囲が確認したという意味で、
結果そのものが出たことと表彰というのは別のものです。
実験の真の意味が認められるのは
その「結果が現実化した瞬間」に対してであると思っていて、
それは結果が出てから数年たって周りが確認した、
という経験に基づいています。

言葉の報酬系から離れるようにすると、
何かの行動に対するモチベーションを持つ要素は限定されます。

言葉の報酬から離れるということは行動に対してはちょっと厄介で、
たとえば、ポジティブ・シンキングをしなさいとか、
成功シナリオを描きなさいとか、誇りを持ちなさいとか、
そういうものが行動原理に通用しない思考回路になってしまいます。
それで自分の行動原理を、
たとえば美しいものとか、人に優しいものとかに求めていくことになります。

わたしの中での課題はそこまでで一段するのですが、
まだ問題になるのは言葉の報酬によって動く世界が
現実には依然として存在して、
それは人が言葉という交信手段を持ったときから
ずっと変わらず続く現象です。

そして言葉の報酬系が成り立つからこそ
これだけたくさんの人が現在の組織を築いているのかも知れず、
表彰という行為が脳にとって本物なのか偽物なのかといわれると
わたしは大概が偽物ではないかと思っていて、
結果の後に表彰があるのは構わないのですが、
表彰を求めて結果を作るのは本末転倒だと思っています。

人が特別でありたいと願う気持ちはおそらく、
脳はその能力に対して非常に限られたサイズと性能の体しか与えられないせいで、
人がもし進化したければ、順序としては
脳の発達ではなく体を改造することが先になると思います。