火曜日, 4月 24, 2007

3体問題と三権分立の関係

4月の終わりは梅雨より暖かくて、
半そでのポロシャツを着ています。
襟元の裏地に花柄のデザインがついています。

抑止力がその人の内側にある場合は
独立して存在しても振舞いが変わらないのですが、
その人の外側に抑止力が必要な場合は
独立させると軌道が外れます。

日本で言うと三すくみで、
政治的に言うと三権分立です。
権力が1箇所にあってろくな結果になった試しがない、
とさんざん反省した結果なのだと考えます。

単に抑止力というだけなら三権ではなくて二権でも
よさそうな気がしますが、
二権だと一方が強くなりすぎたときに
独裁と同じ振舞いに必ずなります。
三権あれば、どこか一箇所が暴走すると
残り2箇所が常に協力すれば止められるようにできています。

物理的な話をすると、
2であることと3であることは全く違う意味になって、
2体の物理問題は解けますが3体の物理問題は常に解けません。
解けるという意味での完全さは2なのですが、
個人の人智の及ばないという意味での完全さは3です。

月曜日, 4月 23, 2007

シングルクリック

一日話し通しだと大抵のどが痛くなっていたのですが、
昨日は平気でした。

「より理解を深める!体液電解質異常と輸液 3版 」を買って読みました。
医学書なのですが、フィードバック作用は機械制御と同じセンスで
理解できるので、用語に慣れればそれほど難しくは感じません。

人間には体液のフィードバック装置があって、
ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウムが
それぞれの方法で入出力されることが分かりました。
水分=純粋なH2O量を維持する、という発想から、
体液=電解質を含めた液体の量と濃度を維持する、という発想に
移りつつあります。

パソコンの「ファイルを開く」動作をシングルクリックに替えました。
Webでの「リンクに飛ぶ」が身についてきたらしいのと、
ダブルクリックってなんだか忙しいなあと思ったからです。

同じ事を繰り返すのが苦手なのかも知れず、
同じボタンを何度も押すのは好きではないのかも知れず、
携帯電話のメールを作成するときはポケベル打ちです。

土曜日, 4月 21, 2007

ポーカーゲームをせずに生きていけるか

天気は良くて風の強い日でした。
桜茶に使われる桜の塩漬けの花は
ソメイヨシノではなく八重桜です。

あるゲームがあると
得意な人と苦手な人というのが勝手にできて、
そしてわたしは多分ポーカーゲームが苦手です。

人生はゲームだという人がいて、
本当だろうかといぶかる日があります。
評価を上げたり評価を下げたり、
コントロールに忙しい人がいます。

綿谷りさ「インストール」の最初の1章は、
全然勉強なんてしていないことを一生懸命装う台詞を話し合い、
それでいてそれをお互いに信じていない友達の場面です。
距離が近い者同士は同じ場所を取り合うことになりがちで、
友達という言葉に込める意味は
たぶん人によって異なります。

わたしとあなたは友達です、
ほらこんなに仲良く昼ごはんを食べに行っています、
くだらない話題でも盛り上がって笑い合っています、
でもいざという場面ではわたしがあなたを置いて行くこともあります、
それでもわたしはあなたに普段から友好的に接してあげているのですから
あなたはいざというときには私によくしてくれるはずですよね、と
お互いに言い合っているような関係を時に見ます。
見抜かれているのにまだ演技できるのはある意味すごいな、と思ったり、
なんだか滑稽だな、と思ったりします。

そんな台詞が交換され、継続する関係はきっと、
互いに相手を見下しているからできることなのだろうと感じます。

話の本筋はそこからで、
そういう性質を持った人にどう接したらいいのかと
時折考えることがあります。

わたしは見抜かれてもなお装うような台詞がなぜか出せません。
だからといってそんな台詞を話す人に
あなたは本心はそんなこと思っていませんよね、と
話してみたところでまともな関係になるわけでもありません。
そんなわけでできることを探していくと、
そうかもしれませんしそうでないかもしれませんね、と
お茶を濁したような答えにするぐらいのことで、
相槌を打つでもなく反対するでもないような表情になります。

もう少し難しい問題は
そういう人は頻繁にさぐりを入れてくることがあって、
返事の仕方に困ります。
聞かれたことをありのままに話したところで
その人がいいように使うだけで全体のためになるわけでもなく、
だからといって知っているのに知らないふりをすれば
その人と同じ事をしているような自分が好きになれなくなります。

結局のところ出来ることといえば、
目に付かないように事を進めるぐらいのことなのかもしれず、
物言わず考え事をする日が増えていきます。
そして、わたしはその瞬間に思ったことを話す場所を
どこに設ければいいのかと考えることになります。

金曜日, 4月 20, 2007

多分、ほとんどのことは言われなくても分かっています

パソコンの画面をつなぐ線にデジタル線DVIが使えるのに
アナログ変換をして使ってしまっていたので
変換部を外しました。
画面がはっきりして綺麗です。

最近頭の中に消しゴムが導入されたようで、
言葉を離れた時間が増えています。
ニュースとワイドショーを見る時間が0になって、
それで不便になったかといわれると全く不便にならず、
動画の情報はよほど編集が効いていないと
不要な情報の洪水になることが分かってきました。

あいつが会議でいいことを言った、その実績を求めて言葉を紡ぐ、
それはどこかでわたしが律則的に持っていたもので、
そして変わらず誰かにあるものです。

「言ったもん勝ち」を地で行くのが特許の世界で、
他の人に一秒でも早く知らせればオリジナリティが取れる、という面があります。
研究も50歩100歩の面を持ちます。

一秒でも早く、といって焦って取ることが
長い目で見て有効であるかどうかは不明です。
先駆的な研究には長い時間がかかり、
そしてもしそれが「真にオリジナル」なものである場合、
競争にはならず代わりに「無理解」が来るはずです。

確か30年以上の間存在を否定された「プリオン」の話や、
ガリレオの天動説の話、
250年本の中に埋もれていたメンデルの法則など、
真に新しいものが理解されなかった例はたくさんあります。

美術館になるとよく不思議な感覚になります。
ゴッホの絵は生前少しも評価されなかったのに、
本人がいなくなると「現代フランスの遺産だ」なんて言い出す人がいて、
そこには「生きている間に高い評価をするのは癪にさわる」という
周りの人の感情が確実にあって、
それらが論理的や物理的な障壁でなかったことを
簡単に理解してしまうからです。

それは苦労して建物を立てた人を追い出して
居抜きの部屋をレンタルに貸し出しているようなもので、
それらは厳然として存在するのに、
明示的には決して認められない現象です。

相変わらず競争が嫌いです。
勝っても面白くないし、負けても面白くないからです。
競争をするので高給で雇われる、
それでよいと思う人はそうすればよいのかも知れず、
時折考え事は続きます。

「コンクリート・ジャングル」なんて言葉を作った人がいて、
きっとビルの森の中に人という獣が棲んでいるイメージですが、
最近そのたとえを再定義してしまおうと思っていて、
ビルの岩の中に人という木が生えているようなイメージで、
動く生き物はいないことにしてしまおうと考えています。

人を木と見ようが獣と見ようが、
大半が炭素と酸素と水素でできていて、
遺伝子がメッセージで動かしている点では何の違いもありません。

それで打ち合わせの席で、
「恐らく先様はご存知だと思いますが」と一節を
枕詞のように使って、
「わたしも分かっているのだ」という感情を満足させることになります。

色のにじんだ昔のテレビで現代放送を見る


電子冷却装置です。
先週末が学会で今週末は所内公開なので
来週まで休みがありません。

テレビの信号は赤と青と緑でできていて、
電子線を飛ばして画面の蛍光体に当てることで
色のついた絵を作ります。

にじんだテレビで見ていると、
なぜかどんな内容の番組であっても
昔なつかしの放送だと感じるようなところがあって、
それは決して目の錯覚だけではなく、
人の営みそのものはそれほど変化していないことの
表れなのかもしれません。











月曜日, 4月 16, 2007

むなしく往きて満ちて帰る、は稀で

共通点を探すのが好きで、
倉木麻衣のFairy Taleと
YUIのCan't Buy My LoveのThank you My teens、
aikoの"キラキラ"とYUIの"Umbrella"が
よく似ているなと思ったりしています。

弘法大師=空海が唐で出会った師の恵果を
「むなしく往きて満ちて帰る」と表現しています。

人を探すというのは宝探しのようなもので、
金の王冠のない洞窟に迷い込むこともあります。

花を咲かせるための冬

デスク周りに散らかっていた書類を引っ張り出し、
連絡に使われた内容が期限切れのA4用紙を大半捨て、
なんとなく気分もさっぱりしました。

最近とある学会に出席し、
それは確かにいろいろな活躍をした人がいたのですが、
わたしにとっては亡くなったボスを超える人が見つからず、
それはこの2年ずっとそうであったことを改めて思い出し、
ボスの代わりを探すのはやめようと思いました。

少し考えれば、
なくなったペンは探せても人は探せないもので、
ある日出会うしかなく、
一生に一度の恋のようなものなのだろう、と思っています。
そして一生に一度の本物ならば、
手に入ることがうれしいのではなく、
出会えたこと自体がうれしいのであって、
それは一生片思いで過ごしていけるものです。

木曜日, 4月 12, 2007

HyperLexia & DisLexia

雨上がりの明け方の空はいつも心を奪われるように綺麗で、
自分が夜出かけない日の夜に時々雨が降っていると
それは空からのプレゼントのような気がします。

何かを知るということの結果には二つの側面があって、
小さな違いに気がつくという面と、
大きな違うものの間に共通点を見出す面があります。

何かを分けるときに、
二つの軸の組み合わせで考えることがよくあります。

人について知るうちに、
人は自分が話すことが得意な人と苦手な人がいて、
人が話すのを聞くのが得意な人と苦手な人がいて、
これらの組み合わせで振舞いが4象限に変わります。

全ては努力と修練だ、としたがるのが
「日本人」とわたしたちがよぶあるカテゴリの人たちで、
それは自分が他人と接したときに他人から受ける印象であり、
おそらくは他人が自分に接したときに他人が受け取る印象です。

それは「紋切り型」の受け答えとして存在していて、
紋切りから外れたことをすると周りから浮いてしまうので
話す側は「建前で」”努力と修練”を謳っている場面があり、
しかし自分の今に役立つアドバイスを求めて訊く側は
「本気で」”努力と修練”なのかといぶかってしまいます。

このパターンでは
聞き手になったときには「日本人」は他人であり、
話し手になったときには「日本人」は自分です。


紋切り型の受け答えからどれだけ離れて
その場その場にあった言葉を用意できるかが
聞き手が話し手に求めていることで、
話し手は聞き手に「聞く力を身につけよう」と「話しかける」ことは
適切な場面とそうでない場面があることが分かります。

そして概して、
話をしたい人は多くて聞いてくれる人は少ない、
それは人の仕組みがもともとそうなっているからで、
人が好んでそうなろうとしているわけではないように思います。




水曜日, 4月 11, 2007

エスパー

最近少し寝不足です。
頭脳労働に寝不足は影響が大きくて、
数日以上寝不足が続くとリセットに時間がかかります。

話をしていると、
わたしが思っていることを表現する、と
感想をもらうことがあります。
心を読んでいるわけではないので、
心象が似ているということなのかもしれませんが、
人の心はどこかに共通点があるものなので、
その表現がうまく伝わっているのかもしれません。

世界には昼があって夜があるように、
夏と冬があるように、
穏やかな地殻変動と地震があるように、
人には平和なときと不穏なときがあるのだと思います。

日曜日, 4月 08, 2007

二つの心


水仙の花が広がる東京ドイツ村に行ってきました。
施設名に東京とつけたがるのは千葉の特徴らしくて、
東京ドイツ村は千葉にあります。
アンパンマンの劇中おそらくもっとも複雑で哀しい役を与えられているのが
ロールパンナで、
生まれながらに善と悪のふたつの心を併せ持つことになっています。
それゆえロールパンナはみんなと一緒に住むことにためらい、
一人山奥に住んで修行しています。
善玉も悪玉も己の意思に忠実に動いているだけで役が果たせるのに、
ロールパンナは自分を振り返って悔いてしまいます。

月曜日, 4月 02, 2007

満開の桜に雨が降る

柏インターを降りたところは桜が植えてあって、
花曇りの天気で桜を見ました。

日曜日, 3月 25, 2007

ナショナリズムが意識されるとき

気分が昂ぶっていることがあって、
塩を2グラムぐらいとDHCのカルシウム/マグを10錠ぐらい、
加えてプロテインミルクを飲むと体が落ち着きます。
でたらめな処方のようですが、
半年くらい調べた結果です。

体が落ち着いたからといって
それで万事解決と言うことはまるでなくて、
問題として持っている意識は少しも変化していません。

テレビでスケートやスポーツ競技を見ると
国民の代表という視点が少なからずあって、
ナショナリズムについて無視できなくなることがあります。

各選手はそれぞれのベストを持って競技に臨んでいて、
しかし解説や観客は国同士の戦いのように表現することがあって、
そのたびに違和感を覚えます。

ニッポンが勝ったら嬉しい、ニッポンが負けたら悲しい、とは
言いたくない、と人に話すと、
それは変だ、この国の誇りと自覚はないのか、と
暗に聞かれているような雰囲気になることがあります。

ニッポンが勝てば奉り上げられ、
ニッポンが負ければ文句を言われるか無視される事態に当惑するのは、
評論するその人自身が努力した訳ではないのに、と
感じるからです。
自分の身の上について評価するのは妥当ですが、
自分と国を一体化した視点で話をするのは変だと思っています。

それでは何か、あなたはこの国がどうなってもいいと言うのか、と
聞かれるような事もあって、
しかしその視点は「仲間意識がないと不安が増える」という
半分無意識に根ざした感覚から問われていると感じます。
不安の解消のために仲間が必要だとは思わず、
純粋な喜びの共有のために仲間が必要だと思っていて、
不安から仲間を作るのであれば
それは束縛であって自由はありません。

個人はあくまで個人です。
国というものが個人の意識のベースに大きな影響を与えることはあっても、
個人と国が同一の視点になることはありません。

久しぶりに新聞を読むと、
中国では昨年暴動が11万件あったという記事が出ていて、
それで考えることになりました。

行動に訴えるなんて、と新聞の論調は言いたげなのですが、
暴動の中身はたとえば貧しい家の子が病院で手当をしてもらえなかったことに
地元住民が腹を立てたとか、
求めることに対して市民が立ち上がれる土壌があって、
また政府や法に対して国民は信じることを基本としないベースの思想があって、
その流れで見ると訴えを起こせることはある意味で必要なことです。
ただ意識の一番奥底に「不信」があるというのは
個人的には哀しい気がします。

中国の思想書にその影響はあるのかもしれなくて、
「この世界で信じられるのはわたしだけだ」と説いた本の一節を
よく目にします。
一生のうちで何度も国がひっくり返るような歴史では
どうしてもそうなってしまうのかもしれません。
ただそういう世界であっても、
ひと括りに国で人を判断するようなことはせず、
自分が出会う一人の人として向き合っていこうと思っています。

隣の国であり、漢字も文化も大量に輸入しているのに、
思想のベースがこれほど違っているのはなぜだろうと不思議に思います。

「個人」という区分を取り去ってしまおうと思ってから、
こういった思想について自我を持って誰かと話し合おうとする姿勢はなくなってしまい、
人が語る「主張」によく耳を傾け、
そういうこともありますよね、とよく理解しながら聞くようになって、
人の関係はなんだか円滑になったりするのかもしれませんが、
わたしが持っている思想はやはりどこか違っていて、
ずっと以前に一人でいなければならなかった頃のように
わたしは「目に見えない誰か」に自分の気持ちを話しかけています。
それで大抵の日は事足りるようになりましたが、
こういうことを存分に実在の誰かと語り合えたらどんなにかいいだろう、と
やはり思う日があるのです。

土曜日, 3月 24, 2007

右巻きと左巻きの正しさの主張

彼岸までの寒さ、彼岸までの暑さです。
ハッピーマンデー法案で天皇の行事に由来した
祝日は月曜日に移行しても、
春分の日と秋分の日は地球の動きで決まっている日で、
休みを勝手に動かせません。

日本人は「権利」を輸入しました。
それは主に明治から戦後にかけて行われ、
選挙権から始まり、自由権へと移行します。

権利を主張する、という行為は法で認められているのですが、
これを主張すると大抵「わがまま」だと言われます。

権利という言葉は人が「人の誰かから」与えられたものではなく、
人が「神から作られた」事を前提に、
一人の人に自動的に与えられている概念です。
個人という意識がなければ権利という意識はなく、
その意味で日本では「個人」であることを認めていない向きがあります。

日本人の意思決定の由来は
「集団で決めたこと」であって、
これは集団が「正しい判断をする」という前提に立っています。

集団での決定と法での決定は
いうなれば右巻きと左巻きの違いであって、
巻き方はどちらでもかまわないのですが、
巻く方向が一貫して同じであることが必要です。
集団での決定にせよ、法での決定にせよ、
人は間違うもので、
その認識があればよいと思っています。

水曜日, 3月 21, 2007

見送るもの

タンデム加速器の内部です。
役立つことより美しいことについて考えることがあって、
役立たなくても美しいものがあって、
でも役立ってなお美しいものがあります。

言葉遊びのように考えると、
役立たなくて美しいほうが純粋だと思う向きと、
美しいということ自体が何らかの役に立っていると思う向きがあって、
人は時に必死に無秩序の美を表現したがるのですが、
どうやっても美しいの中には何らかの「ルール」が内包されているようで、
それをおもしろく感じます。

新しい靴を買い、古い靴を捨てました。
靴はよく底がはがれてしまいます。

鴨志田穣さんが腎臓ガンで亡くなったとニュースで見ました。
漫画でよく見ていた人です。
四国出身の漫画家はなぜか独特な雰囲気がある気がして、
それは巡礼の風土のせいだと思っています。

ボスを亡くしてからもうすぐ2年になります。
老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみは
人が代わってやることのできない苦しみだから、と
仏教の本は慰めを出してくれます。
確かにそれでいいのだろうと思いながら、
今生きる者に生き続けることを望むのはいけないことなのだろうかと
立ち止まって考えたくなります。

日曜日, 3月 18, 2007

塩分制限は治世のためか

フルーツというのはそのまま食べるものだと思っていて、
加工したものはそれほど食べないのですが、
マンゴーのドライフルーツは好きです。

夏になると調子が悪くなる、
この理由が分からず原因を探していました。
http://www.gssijapan.com/reflib/refs/604/SSE_88_Content.cfm?pid=38&CFID=5634596&CFTOKEN=74317812
塩分を控えめにして水分補給ばかりすると、
低ナトリウム血症になる人がいるというのです。
この症状は正常な人でも起こるもので、
副腎ホルモンに関連した症状としても現れます。

考えてみると塩分控えめな食事を続けていて
積極的に塩分を取ることを考えていませんでした。
低ナトリウム血症になると脳関門のブロックが崩れて
脳圧が上昇し、意識障害が出るというのです。

それで塩を相当多めにした食事を1週間続けてみたところ、
頭痛や意識の分離が嘘のようになくなり
ゆっくり眠れるようになりました。
http://homepage2.nifty.com/motoyama/salt.htm

なぜWHOも厚生省も「減塩」をやたらと推進するのだろう、と
不思議に思っていたところ、
古来中国の兵法では戦のときに兵に塩を増した食事を与えると
戦意高揚し、
戦が終わって塩抜きの食事にすると
荒れることもなく従順に指示に従う、という一節があって、
「健康のために」塩を抜くのではなく、
「治世のために」塩抜きを奨励しているような気がするのです。

塩が厄介者であるならば、
戦前に塩を国家の専売品になどしないはずです。

コンビニに寄って食べ物を調べてみたところ、
どれもこれもナトリウムが少なく、
その上で水を飲んでしまうとすぐにナトリウム不足になってしまいます。

塩が高血圧の原因であるという論拠は
塩分に高い感受性を持った人が腎機能低下を起こした際に
高血圧になるというだけで、
本態的高血圧と塩分の間には相関がありません。

これからは旅先に塩のタブレットを持って出かけ、
たくさんカレーを食べて過ごします。

A Perfect Gift

1979年の今日は日曜日で、
1979年に生まれた人は
同じ曜日の誕生日になります。
ちなみに同じ曜日になるのは
1979年、1984年、1990年、2001年、2007年で、
今年は5回目です。

金曜日, 3月 16, 2007

夜中の一こま

CHAGE&ASKA「男と女」が好きで、
最近youtubeで探して聴いています。

木曜日, 3月 15, 2007

最近聞く食育ということば

Bloggerのフォントサイズ設定画面が以前と変わっていて、
なんだ聞いてないじゃないか、とふと思ったのですが、
私に聞かなくても変わるものは変わるわけで、
脳はイレギュラーを処理しづらい装置のようです。

教育に対して食育という言葉があって、
大人は子供にあれこれするのが好きなようですが、
当の大人は新幹線に乗って
朝から浴びるように酒を飲んでいたりして、
それで食育という言葉について考えることになりました。

昔から医食同源という言葉があって、
この「医」は「医者」ではなくて「医療」か「治療」、「医薬」です。
空気、水と並んで体に「入力する」ものです。

何を積極的に取り入れるか、という問いに対して、
あれかこれかと探してみるのですが、
どの食品もそれなりに健康効果があって、
そのままでは「まんべんなく食べなさい」という
回答にしかなりません。

個人が感覚として身につけるのは
味覚として好みである食べ物と、
そのときの体の調子がよくなる方へ
向かわせる食べ物が一致するようにしておくことではないかと
思っています。

甘いものが味覚として好きで食べることと、
体の血糖値が下がって甘いものを食べることは
現象として同じですが意味合いが異なります。
前者は嗜好品としての食べ物で、
後者は治療的な意味合いにも取れる食べ物になります。

話題の健康食品についても、
人によって効くか効かないかが異なります。
これは医薬品でも同じで、
効く薬と効かない薬があります。

自分では気付かない変化を見るために
病院の検査がありますが、
検査結果が変化を反映しないことがしばしばあり、
この場合「病院では治せないが調子が悪い」になってしまいます。
こういうものを「本態性なんとか」と命名していて、
一見分かったような名前であり、
治療法は分かっていません。

担当医の専門によっても得意な症状は異なるので
見つけてもらうまでに時間がかかります。

郷土料理についても時折考えます。

材料は主に土地のものでできていて、
どう調理するか、どんな味にしているかが
その土地に住むために必要な構成になっています。
野菜を漬物にするのは、
野菜を保存して長期間食べるだけではなく、
発酵によってアミノ酸を増し、
労働で不足しがちな塩分を補えるようになっています。
それが生きるために重要だったので、
ヨーロッパではスパイスを金と交換してでも手に入れようとしました。

カレーは暑いけれど果物などの少ない国で
新鮮な果実が手に入らない場合に
殺菌や消毒のためにもスパイスを使い、
体調に応じて体を温めたり冷やしたりする成分を使って
調合して作られる食べ物です。
食べ物が体をその土地に慣れる手助けをしてくれます。


日本人の食はうまさという面が強調されますが、
体調に応じて食材を食べ分けるという発想はあまりなく、
バランスが取れていて毎日違うものをという感覚のほうが
重視されているように思います。

好き嫌いなく食べられるようにする目的は、
どんな土地の食べ物でも食べて生きていけるようにするためと
そのときの体に効く食べ物を
感覚のみで嫌って避けないようにするためだと思っていて、
「好き嫌いがないから立派」ではないと思っています。

協和発酵の宣伝を見ていると
動物は体調に関する本能的な習性を持っていて、
習いもしないのに泥を食べて消化をよくしたり、
体調が悪いときだけ薬草を選んで食べたりします。
アラン・ド・ボトン「哲学のなぐさめ」のなかに、
ヤギは千種の草の中から薬草のディタニを本能的に探し、
しかし人間はモグラの肝とか鳩の血なんてもの、
当てになるかどうか分からないものを治療に使う、という
モンテーニュの引用があります。

人は「自ら環境を変え、その世界に順応する」ための部分が大きく、
だから飛行機に乗れる世界になったら
誰もがあっさりと空を飛ぶことに慣れてしまうのですが、
「環境に順応する」ことは「習性をなくす」ことと等価であって、
それで人間は「生きるための方法」を体の中にほとんど持っておらず、
長い時間をかけて世界の中から探し出さなければなりません。

動物がある程度本能という別種の知識で満たされているとしたら、
人間はほとんど知恵を持たずに生まれていることになります。
めぐりめぐってこの話は、
食べ物を食べるときには
自分の体調と食べ物を食べた結果の体調について
よく実験して知っておくことが大切だという提案になります。

月曜日, 3月 12, 2007

写真について考える

音にあわせるゲームが好きで、

ゲーセンにある「太鼓の達人」がしたいです。
写真はAVFサイクロトロンの銅電極です。
記憶が問題なのではなくて、
記憶への執着が問題なのだ、ということがあって、
それで写真について時折考えます。
写真に人が写っていると、
その写真は人を思い出すきっかけになります。
椎名林檎の歌の中に、
写真になったらあたしが古くなるから、というくだりがあって、
なるほどなと思うことがあります。
友達にも写真は撮らない、
自分の目で見るんだ、という話があって、
それは必要なことだなと思います。
ただ写真は「文字」では表現できない情報を上手に残すことができて、
それ自体は情報の共有をするために便利です。
カメラの充電器が見つからなくなったのもきっかけになって、
この半年ほど写真を撮らずにいました。
別の機械の充電器が使えることがわかって、
久しぶりにシャッターを切りました。
写真は「あるものの記憶」でしょうか、
それとも「写真そのもの」でしょうか。

木曜日, 3月 08, 2007

脳は入力端子が足りない

今年の東京の開花予想日はわたしの誕生日です。
この日はたいてい卒業式の日でもあります。
4月1日まで別れと出会いの2週間です。

マリオネットは「あやつり人形」で、
なぜかこの言葉には好ましい印象が当てはまりません。
日本風に言うなら人形浄瑠璃でしょうか。

マリオネットの動きを出す仕掛けは
十字に組んだ木片に糸をつけて
人形の各部に結び付けたものです。

人形の各部が動くかどうかは
糸がそこに結びついているかどうかで決まります。
間接的には二つの糸の動きの差を利用して
結びついていない部分の動きを定めることができます。
この場合糸のない場所の動きと
糸のある場所の動きは連動し、
二つの場所を独立に定めることはできません。

制御理論のシステムへの適用の際に
その系が可観測、可制御であるか議論されることがあります。
可観測はその系の状態を完全に決めるための情報が
系に繋がれたモニタの出力値から決定できるかどうかの判別で、
可制御は観測量から求められた出力によって
系の運動を決定できるかどうかの判別です。

脳はもちろん入力と出力をもつ器官ですが、
一般に制御系を「出力」とみなすように、
脳は出力器官として見られます。
表情の発生、意思の発生、記憶の再生、行動の発生など、
外界、つまり物理的世界にとって
脳の出力は入力より重要視されます。

脳が専ら出力であるのはあくまで物理的現象に対してであり、
個人の「意識」にとって脳の一切の働きは入力となります。
そして脳は光を入力され、温度を入力され、
触覚を入力され、音を入力され、
その他さまざまなものを入力されます。

思い浮かぶこと、思考することは
脳の出力端子の一部を脳の入力端子につないだ状態です。

脳の出力能力側を試されることは頻繁にあって、
運動にせよ会話にせよ
それは脳の出力側の話です。

入力と出力を読み替えると
外界の反応を出力とすることを学習と呼んでいます。

脳は一般に体の自由度に対してサイズオーバーであり、
もし人に手が10本ついていたとしたら
脳のサイズ的にはそれを完璧に動かすことなど朝飯前です。
そして脳は体を動かすだけでは飽き足らず
物を作り、社会を構成して、
脳の限界まで大きなシステムを要求します。

脳が体に対してサイズオーバーであるということは
重要な意味を持っていて、
それは視点を反転させて
「脳」をマリオネットの人形側、
「体」をあやつり人形の糸と組み木側とした場合、
マリオネットには関節の可動部がやたらとついているのに
それに対応する糸が足りないことになります。
糸を使うだけではマリオネットはチェーンのように
形を定めることができず、
「何をやっても満たされない」という、
つまりいかなる外界の刺激によっても
脳は満足する状態へ制御できない場合があるという
誰もが経験する現象を発生します。

つまり、脳は体=外界をほぼ制御できますが
体=外界の刺激のみでは絶対に脳を制御できません。
もし制御できる可能性があるとしたら、
その方法は脳自身の一部を出力として
脳自身の入力と結びつけることだけです。

脳の働きにほぼ直接接触できるものは「シンボル」で、
これは顕在側の思考がシンボルを必要とすることと
深い関係があります。
本を読むことは知覚のようでいて、
実は脳自身がシンボル=文字を翻訳し脳に再入力することです。
曲を聴くことも全く同じで、
知覚を脳によってシンボル=音の流れ化します。
そして脳はあちこちが繋がっているので、
記憶はあらゆる連想と連動します。

だから物としては紙とインクでできた破れかけの小説が
人に涙させることができるし、
ノイズの乗った古いラジオの曲が
人に過ぎた昔の記憶を呼び起こすことができます。

そしてこのシンボル化は知覚よりも圧倒的に強力で、
人の動き自体に影響を与えます。
ペンは文字というシンボル、剣は体による直接的な入力であるなら、
体が感じる死の存在さえ思想は乗り越えてしまう、
「ペンは剣より強い」という言葉はそれを端的に示しています。
この原理を応用しているから
法は「言葉」という形のないものであるにもかかわらず
社会を構成する要件となります。
自爆テロを起こす人が「死ぬと天界に花嫁が待つ」という思想を
信じている、これは脳と知覚のバランスを考えると
自然な話のように聞こえてしまいます。

この感覚をもうすこし延長すると、
たとえばおいしい食事でいつも満足できるのであれば
これは体の入力で脳を制御できる好ましいことかもしれません。

しかし人はその生きた時間に応じて
脳の能力が幾何級数的に増していき、
シンボルは時間に応じて重要さを増してしまい、
だから「何をやっても満たされない」は
強力になりすぎた脳の制御不能状態なのかもしれません。

いままでの話がおよそ合っているならば
その満たされない最中で思い出さなければならないことは、
「満たす何かを外界に求めて探しまわり、
満足する強度の強烈な入力を求める」ことではなく、
「わたし」という脳が「わたし」を制御することです。
そして「自分の最大の敵は自分」というありふれた台詞は
「わたし」という脳と「わたし」という脳の対立状態となります。

しかし「わたし」が「わたし」の敵なら、
わたしはわたしと争う必要は本当はないのです。
なぜなら、脳と体の力関係から連想するなら
脳がシンボルを振りかざして自身と争うことは、必ず体の反応になって、
この外界に争いをもたらすことになるからです。

水曜日, 3月 07, 2007

物理が問う悩み

電車の中で自分の記憶を思い出していると
ふと眠たくなり、目覚めたら降りる予定の品川駅でした。
4時半は雨が降っていて、
500円のビニールジャンプ傘をコンビニで買いました。

科学、といった場合、その実行力の源は
おもに物理と数学と実験の三重接点に存在しています。
実験に対して仮説を立て、
物理は数学の一部を使って「閉じた話」を作ります。

物理の困ったことは、何も実体として力を持つだけではなく、
正しく証明されると翻すことができない点にあります。

非線形微分方程式の議論から発展したカオス理論と
地球の大気のシミュレーションが結びつくと、
日本で蝶の羽ばたきがあるかないかで
アメリカの竜巻が発生するかどうかが変わる、という
「無限小の誤差は巨大なシステムに無視できない影響を与える」
というたとえに結びつきます。

この話、たとえが「蝶」にしてあるのにはおそらく理由があって、
ある連想をしないように誘導しているではないかと感じるのです。

「蝶」を「わたし」に置き換えると、
わたしがこの瞬間に東に向かうか西に向かうか、
ただその選択を変えるだけで
この世界には無視できない影響が発生し、
それはある場所で竜巻を発生させて誰かの生を失わせ、
ある場所では津波を食い止めて誰かの生を保存する、
ということになってしまいます。
わたしは「かたち」である限り、そして存在する限り
知らないある人の生を保ち、別のある人の生を奪う、
そういうことを繰り返していることになります。

生と死が人の通念でいう善と悪のままで固定されるなら、
わたしたちは一切の例外なく
自動的にみな賢者で、そしてみな罪びとです。
自らの選択によって、ただ存在するだけで人の生と死が決まり、
それを罪だと責められるのだとしたら、
もうわたしは「かたち」ではいたくないな、と考えることがあります。
しかし「かたち」であるわたしを手放したとしても、
わたしを構成するものはこの世界に拡散して、
ある日のある部分は誰かの飲み水になり、
またある日のある部分は銃弾の鉛になる、
それはまた誰かを喜ばせ、誰かを苦しめる、
だから「わたし」の「かたち」はいつまでたっても
善と悪の混在状態を離れることができません。

この思考の膠着状態から離れるには
宇宙の始まりに目を向ける必要があって、
超高温のビックバンの瞬間にはどんな生き物も存在せず、
また宇宙の時空はたった1つの不可分な点から発生していて、
従って本来善と悪に分離できるものは「この宇宙の中には存在しない」
という点で善と悪の分離を消すことができます。

それでも善と悪、ひいては生と死を想うのは、
自分の中に確かな生きる喜びを知る時間が与えられ、
それがとてもすばらしいものであると確信していて、
生の中に喜びがあることと
すべての人が感じられたらどんなに素敵なことだろう、と
そんな思いを持つからです。

だからわたしはものである部分がわたしなのではなくて、
すべての人に生きた確信を見出せるよう願うこと、
この世界では表出も証明も不能な意思、それだけが
わたしの持ち物であってほしいと思っています。

月曜日, 3月 05, 2007

問うこと自体の問い

縁あって田沢湖に行きました。
スノーボードをウェアまで借りると
1日3500円です。
スノーボードは2回目です。

自分が目覚めている間に思うことはたくさんあって、
それは決して口にされることはなく、
それらは聞けばきれいなだけの言葉でできているわけでもなく、
朝6時過ぎに苦しい気持ちになり、
7時過ぎに心が静かになり、
眠たさに誘われ、今すぐわからない場所の事情を思い、
流れる景色の美しさにほっとしたり、
気持ちは昂ぶってひどく不埒な気分になったり、
私自身に何かを問うことがあったり、
言えなかったたくさんのことに謝り、
納得のいかないたくさんのことに怒り、
思いを形にできぬたくさんのことに悲しみ、
そういうことを繰り返しています。
思考の一部を他人が覗くことができたら
どう思うだろうか、と不思議に思います。

この中で、問いかけの時間はずいぶん長くて、
なぜだろう、と思うきっかけを探すのに
少しも苦労しません。

しかし、どうしていろんなものを問い続けようとするのか、
その現象自体を問うことは発想しなかったように思います。
それは掛け算の九九のように体の一部になっていて、
自動的に問いが始まるような感覚です。

「問い」と「答え」のセットのようなものがあって、
学校で習い始めるのはこの反復です。
小学校には「自分で考え」から始まる標語が掲げられていました。

「問い」は主に言葉でできているので、
問いを作る段階は慎重に行う必要があります。
たとえば、言葉で「人はなぜ空が飛べるのか」と問いを発した場合、
人は羽根がないので空は飛べず、
「なぜ」に対する答えがありません。

「問い」が多く使われる場面は、
「私を揺るがすもの」に直面したときです。
その揺るがすものに近づきたい場合それは「興味」となり、
それから遠ざかりたい場合それは「恐怖」となります。




金曜日, 3月 02, 2007

アンパンマン考

昼間あまりにも暖かかった上に寝不足が重なって、
午後は睡魔とともにありました。

アンパンマンとバイキンマンは懲りることなく
15分一本勝負をしています。

バイキンマンの「欲」は大きかったり小さかったりするのですが、
干し柿が欲しいとかお菓子が食べたいとか
わりと即物的な欲求が多いです。

ふきのとうくんというキャラクターがいて、
そのストーリーがやなせたかしらしい雰囲気だと思いながら
見ていました。

ふきのとうくんは心の世界がこの世界に影響を及ぼすキャラクターで、
心に暖かいものを思い浮かべると
魔法の力で世界を春に変えることができ、
心が冷たく寂しくなると
魔法の力は世界を冬に変えてしまいます。

バイキンマンは「冬で遊べるなら何でもかまわない」と
ふきのとうくんを追い詰めてつらい気持ちにさせ、
そして世界は春へと向かう時に逆らって雪だらけになります。

そしてアンパンマンは「みんなの春を取り戻す」ために
立ち上がるのですが、顔を凍らされてしまいます。

最近のサブキャラクターはこむすびまんだったりして、
バイキンマンと戦ったりするのですが、
ふきのとうくんは戦わずに逃げて、
魔法の力で空にアンパンマンSOSの絵を描き、
パン工場はそれに気付いて出動します。

「お菓子を欲しがる」とかいうのもりっぱな欲なのですが、
時の理に逆らってたくさんの人を困らせてしまう程の欲がある、
そしてそれをあるべき姿に戻す、
アンパンマンのいる意味はこういうものに求めたいなと
ふと思っています。

そしてふと思うのです-
不老不死や不老長寿や永遠の命への憧れは、
春を冬にするような試みとなんら違わないではないだろうか、と。

木曜日, 3月 01, 2007

日本は狭いですか、世界は狭いですか

隣町に咲く梅の花のつぼみの形さえろくに分からないのに、
この世界を狭いと言うのは錯覚だと思いませんか?

火曜日, 2月 27, 2007

コモン・センスのずれ

年度末になると必要になる物品を
購入することがあります。
その時、6桁の値段のパソコンは比較的買いやすいのですが、
5桁前半まで値段が下がってきたディスプレイは
「雰囲気的に」あまり買えません。
画面が多いと「エラソウ」なのです。

計算機を使っていて、
作業が複雑になるほどウィンドウを切り替える時間が多くなって、
それが思考の妨げになっていると思います。
エディタ2つとコンソール二つ、C++開発環境とエクスプローラ2つ、
これらを順番に使って
ROOT、VC++、ImageMagickの3つの言語に
互いに通訳をさせながらデータを通していきます。

原研の先輩が
「データを視覚で見ることの大切さ」をしっかりした言葉で話し、
本当にそうだなと思っています。

このコモン・センス、
会社の頃にデスクの広さや椅子のグレードで
見た目に分かりやすい序列を作っていたこととおそらく無関係ではなく、
仕事の効率と序列の雰囲気の維持、
どちらを重視するかが問われる場面だと思います。
そして「雰囲気」や「序列」はある種の人たちにとって
大事なんだろうな、と感じるのです。

月曜日, 2月 26, 2007

それに名前をつけてはいけない

千葉へ向かう朝の道路は海へ向かう、
つまり行き止まりに向かって車が集まるような場所で、
よく混みます。
でも大きな朝日を浴びながら運転できるので、
今の時期は気持ちがいいものです。

Avenue Qというミュージカルに出てくる
There's a fine, fine lineという歌があって、
謎解きのように歌詞の意味を考えています。

「おとぎ話」と「嘘」の間にはほんのわずかな違いしかない、
「愛」と「時間の無駄」の間にはほんのわずかな違いしかない、と
歌詞は進んでいきます。

この歌詞、確かに真実性があると思い、
しかしどこか違う感じがしていて、それがうまく説明できず
何かがひっかかったままでいました。
わたしの心の中にあるものはそんなにあやふやでは

ないのが分かっているからです。
ただそれを「言葉」で説明しようとしてもどうしてもうまくいきません。

わたしがあなたを想う気持ちは、
あれこれと勝手な「名前」をつけられるものではないし、
封印して冷凍庫に入れて鍵をかけておけるものでもない、
だからそれに「愛」だと名前をつけても
「時間の無駄」だと名前をつけても、
言葉にした瞬間にそのものの「確からしさ」は失われるのではないか、
そんな感覚を持っています。

わたしは今までの全てで作られているのだから、
わたしにとって一切は大切なはずで無駄でなどないのです。

だからこの歌詞の意味は確かに正しくて、
あるものが「愛」だったり「時間の無駄」だったりできる、
それは「あるもの」に勝手に名前をつけて固定しようとするからです。

私に関して想像されることがどんなに具体的であっても、
それが笑い顔であっても悲しみの顔であっても、
怒っている顔であっても苦しんでいる顔であっても、
わたしを言い当てることはできていません。
そしてわたしに誰が何を言おうと勝手なのですが、
わたしが誰よりもあなたに笑って生きて欲しいと想う気持ちが
変わることはありません。

どうかわたしの言葉にも、わたしの姿にも、
わたし自身にも言葉で名前をつけないでください。
もし一切の言葉を忘れて見つめることができるなら、
そのときあなたはわたしを見るかもしれません。
でも、忘れた後でもし時がわたしを見ずに済むようにさせるなら、
それはそれで構わないと思っています。


火曜日, 2月 20, 2007

板ばさみ

カップスープは甘くて好きで、
インスタントの味噌汁は塩っぽくて好きです。

もう20年以上も前の両親の夫婦喧嘩の光景や感情を
わたしはいまだにはっきり思い出すことがあります。

わたしが小さい頃に思っていたことは
世界は絶対にみんなが幸せになれない定義がある、その証明は
「あるものがひとつあって、命がけで欲しいと言う二人の人」
の存在がなくならない限りにおいて、ということでした。

思想だろうが宗教だろうが恋愛だろうが、
どんなに真剣で命がけだから、といわれても、
それがどんなに正しいことだと言われても、
生きていくこと以上のイデオロギーや主義の主張が含まれる限り、
もしかしたら生きていくこと自体への主張であっても、
それはエゴであって愛ではないと思っています。

主義の板ばさみになったときに必ず思い出すのが
わたしの子だと主張する二人の女性を見極めるソロモン王の話で、
それでは公平にこの子を二つに切り裂いて与えようと告げます。

一人の女性がそれならわたしは親でなくてもいいので
どうか子を剣で裂かないでくださいと願い出て、
ソロモン王はその女性の愛をもって親を見極めました。

イデオロギーの嵐の中にいると、
わたしは勢力争いをしたくているわけではないのに、と
どちらにも与しない姿勢でいるのですが、
いっそのことわたしを二つに切ってしまえば
事はそれで済んでしまうのではないかと思うことがあります。

わたしが科学にもっとも願いをかけるものは、
「必要に応じて何でも完全な複製ができる」装置の開発です。
ただこの装置があれば必ず幸せになれるとは限らず、
ひとつのものを独り占めしたいとか複製は気に入らないとかいうことになれば
ある種の人々にとってはむしろ災いなのかもしれないなとも
ふと感じます。

そして文字は必要に応じて完全な複製ができ
神の表現だってそれならどう表現したって
文字のレベルでは完全な複製であるはずなのに、
それは二つあってはいけないなどという人たちがいて、
世界情勢でどんなに複雑な事件が起こっていたとしても
それは常に「幸せになれない定義」のうちにあるものだから、と
地球の裏側の「戦う出来事」に対しても思っています。

日曜日, 2月 18, 2007

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない

電気風呂というのがあります。
初めてその存在を知ったのは18切符で京都へ行った時で、
レンタル自転車で町を巡った夜に町をさまよって見つけた銭湯でした。
何の気なしに電極内にはいるとものすごい刺激で、
脚がつって動けなくなってさらに困りました。

「あしがつる」はこむら返りと言うのだそうで、
原因は判然としないそうです。
カルシウムとマグネシウムのタブレットを最近良く飲んでいます。

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない、
日本では憲法第19条に相当します。
2006年12月15日に「日の丸・君が代の義務化」が
教育基本法に明記された、ということを
どのように位置づけたらいいのかとわたしなりに考えています。

日の丸はこれを国旗とし君が代はこれを国歌とする、と
明記されています。
日の丸掲揚、君が代斉唱の義務化は、
なぜ「義務=強制」されなければならないのでしょうか。

長く続く歴史は、
自由を表現した思想とそれを抑圧する思想の繰り返しだ、と
わたしには読み取れます。

いくつかの生き物と同じように、
人は群れて生きる生き物の仲間です。
群れる理由は簡単に言えば食べ物を得やすくするためで、
狩りをしたり畑仕事をしたりします。
食べ物への安心感を巡って争いを起こすか、
性的欲求の充足を求めて争いを起こす、
すべての略奪や戦争は簡単に言えばそれだけの話であって、
それ以上でもそれ以下でもありません。

人が集まって役割を分担して暮らす、ということを
共同体と呼んでいます。
この成立は、「共同体を作るとこんな良いことがある」と説く面と、
「共同体を作らないとこんな悪いことがある」と説く面でできています。

共同体を作る利点は食べ物が得やすくなる、と言うのが
良い事を説く面です。
産業革命などは典型的な「分業による生産性の向上」の例です。
しかし食べ物が得られなくなった場合共同体は人が多くて困ります。

共同体を作らないと食べ物が得られなくて死んでしまう、というのが
悪いことを説く面です。
共同体を作ると言うことは一人で全てをまかなわないということであり、
報酬は共同体への貢献に応じて得られることにしています。

ここで「共同体への貢献」をどうやって測るかが問題になります。
全ての人がどのような貢献でもできるとは限らないからです。
ある作業に向いている者もいれば、向いていない者もいて、
その組み合わせで目に見える貢献の多少は変わるからです。

共同体は「人間が生きやすくする」ために作るものです。
だから共同体はその性質として、共同体を構成する全ての人が
生きやすくなるような仕掛けを持っている必要があります。

落穂を拾ってはいけない、は聖書が作られた時代の慣習で、
畑を持たない者も生きられるようボランティアを定めたものです。
税は本来このボランティアを拡張した概念であれば適切ですが、
その成り立ちとして「利権=不労所得」という裏面が必ず発生します。

世の中をもし分けるとしたらまず分けられるのは「ふたつ」です。
だから黙っていても働く人もいれば言われないと働かない人が必ずいます。

共同体の成立でいつもあれこれ言われるのはまずは後者の方で、
働かずに食べている人を見て不満に思う人とそうでない人がいます。
そうかといえば働いて貯め込むばかりの人もいて、
それを見て不満に思う人とそうでない人がいます。

わたしがあるということを認識した時点でこの世界は「ふたつ」に分けられていて、
わたしの外側の物質世界とわたしの内側の心的世界です。
物質世界には形があり、心的世界には形がありません。

共同体が制限するものはあくまで「物質世界」の取り扱いについてであり、
心的世界についてのありかたについてはこれを規定しないというのが
「法」がいう「自由」です。
しかし「自由」を恐れる人たちがいて、
それは共同体を維持できなくなると考えるからです。

司馬遼太郎「空海の風景」では、
空海の時代、税を逃れるために勝手に出家を名乗る人が増えて、
許可なく僧侶になる事を禁じたことがあるのだそうです。

自由を恐れる思想は主に、
恐れを持つ側から恐れを持たない側へと影響が及びます。
中国での仏教弾圧、江戸時代の踏み絵、ドイツのユダヤ人迫害などは
全て「共同体の崩壊」を恐れての行動です。

全ての現象に対照的な側面が生じるのだとすれば、
「国歌・日の丸」斉唱によって、
たくさんの人が助け合っている共同体を大事にしようというメッセージだと
捉える人と、
国歌という権威に服さなければならないというメッセージだと
捉える人が出てくるはずです。
たとえば「教育基本法の改悪」と呼ぶ人はこの後者の側面を危惧し、
石原都知事などは建前でもこの前者の側面を重視した、だから
肯定と否定がでてくるのだと考えます。

結局のところ、教育の現場で「日の丸と君が代」をやるというのであれば、
このような両側面を持つことを余さず説明し、
教育を施す人自身が「日の丸と君が代」に対して
「共に生きることの大切さ」という意味を与えて見せることが大事であって、
「組織というものの強制に従いなさい」という意味を与えてはならない、だと
思っています。

一方で、儀式的なことへの慣れというものは
シンボル=偶像に対する忠誠になる危険を常に内包することになるので
危険なものでもあります。
鉄人28号は強力な機械であり、
操縦者の心によって正義の使者にも悪魔の使者にもなるところを
正確に描いた点がとても気に入っています。
そしてその上で、憲法第19条の本質は
絶対に守られなければならないと思うのです。

金曜日, 2月 16, 2007

2007年2月18日

新しく世界暦を作る試みで祝い事を世界中から集めてきたら
年中日曜日が延々と続くような真っ赤なカレンダーができて、
快晴のそらも土砂降りの空も同じ休みの日で、
楽あればなんとかで仕事をしたがるようになるのかもしれません。

木曜日, 2月 15, 2007

不確定性と言葉について

http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/123.htmによると、
ビールの酒税は1kLあたり22万円で、
40度ウイスキーの酒税は1kLあたり40万円だそうです。
酒税はウイスキーがビールの2倍のように思いますが、
アルコール量としてはウイスキーがビールの8倍あるので、
同じ酔い方をするのであればウイスキーは1/4の税金でよいことになります。

もう少し考えて書いてみると、
たとえば750mL、度数40%のウィスキーが3000円だとすると、
定価3000円で買える度数5%ビールは4Lぐらいで、
アルコール量で言うとウイスキーが5割ぐらい多くなります。

人は物を移動させる代わりに言葉を持ち歩きます。
景色や状態の表現にも言葉を当てはめます。
そして最初に言葉を物と対応させた人は、
ただそれがそのものを指すだけの意味しか持たなかったのですが、
それが長く使われていくと言葉自体が一人歩きして
言葉が持つ意味の広がりを生じます。

その作用自体は言葉に対応する脳の特定部位はなく、
ある広がりの網の中に捉えられているせいで、
それゆえ意味がはみ出したり適切な場面で用いられなかったりします。

ある新しい現象を表現するために外国語の表現を借りてくるのは
日本人はとても得意で、
どんな呼び名もカタカナに変えて使ってしまいます。
文科省の白書作成指針ではこれを改めようという目標が定められ、
誰でも読めるよう日本語の表現に改めるよう促されているのだそうです。

この世界を構成している「ルール」が複雑になればなるほど、
本来はその区別をするために別の単語が必要であって、
たとえそれが日本語で書かれたとしても
内容の難しさは変わらないようにも思います。

ふと、カタカナを用いることの便利さを思います。
新しくつけた言葉には特定の古さがついていないもので、
そしてもとの言葉の意味を知らない限り単純なものです。
流行り言葉があり、しかしそれは流行ることによって多用され、
多用されることで聞き慣れ、聞きなれることで古くなります。

そして人はその言葉を当分の間使わなくなり、
すっかり世の中が忘れてしまった頃にまた引っ張り出してきては
その時代にあった意味を持たせます。
ファッションにも同じようなことが言えて、
流行というものの質はそれほど変化していないのに
数十年かけて循環します。
その循環は製作者によって意図的に起こされているようでもあり、
消費者が意図的に望んでいるようでもあります。

わたしたちは紙というガラスコップの中に言葉を注いでいるような
イメージを持っているような気がしていて、
しかしわたしたちは言葉というガラスコップの中に意思を注いでいます。

物理には不確定性というものがあって、
それは運動量と位置、あるいは時間とエネルギーの対になる物理量を
同時に任意の精度で測定できないことを言います。
わたしは言葉と意思の間にもある種の不確定性があるような気がして、
たとえばあるひとつの「意思」を正確に表現しようとするほど
途方もなく多くの言葉が必要になり、
ひとつの言葉の広がりをある状態に当てはめようとすると
途方もなく多くの意思が必要になります。

この原理があるから、
少ない言葉で綴られた詩は逆に多くの感情を呼び、
山のように積まれた法律書や物理の教科書や宗教書によってしか
人の「ある感情」の輪郭は捕らえられないのだと思っています。

そして理趣の経のようにさまざまな意味の表現を
ひとつの言葉=呪文に置き換える、という作業を繰り返すと、
全ての表現をひとつの言葉に置き換えようというところまで
人の思考は進みます。
そのときにその「ひとつの言葉」に何を当てはめるかが
人によって異なります。
だから仕事に邁進した人は、その仕事自身に自分を投影していて、
「あなたにとって仕事とは何ですか?」という質問に
「全て」とか「人生」とかいう言葉でその全てを含めようとします。

わたしたちは固有のある視点から世界を眺めていて、
恐らく自分の中でのみ対応できる言葉のどれかで
その「なにか」を当てはめています。
そして人というものが固有に異なっているとしたら、
全ての人が一生のうちに竜巻に出会うわけではないのと同じように
その「なにか」に全ての人が出会うわけではないのだと思います。
世界がある程度対称にできているのなら、
その「なにか」に会うことで幸せを得る人もいるし、
その「なにか」に会うことで苦しみを得る人もいるし、
またその逆もあって、
その「なにか」に会わないことで安らかな人もいるし、
その「なにか」に会わないことで苦しむ人もいます。

不確定性の話によると、一方の広がりが0に近づくほど
もう一方の広がりは無限に近づくため、
わたしたちが意思を無限に広げたいと思う場合、
そのとき言葉は必要ではなくなることになります。

土曜日, 2月 10, 2007

大杉君枝さん、そして鈴木君枝さんへ

雷が引き金となり、
思い出したように大雨が降っています。

「かがく=科学」のきっかけとして思い出すのは
所さんの目がテンという番組で、
日曜日の朝7時から放送されています。
スポンサーは電気事業連合会です。

見始めたのは中学生になるかならないかぐらいの頃で、
日常の科学を分かりやすく紹介してくれます。
取材もしっかりしていて面白いです。

その頃馬場憲治さんと共にナレーターをしていたのが
鈴木君枝さんでした。
明るくお茶目なナレーションが気に入っていて、
番組は毎週ビデオにとって観ていました。

一番よく覚えているのが水を入れたコップを真空容器にいれると
常温で沸騰した後凍ってしまう場面で、
フリーズドライは主にこの技術の応用です。

その後も鈴木君枝さんの名前は時々見かけて、
ジャーナリストとして世界に脚を運び、
写真を撮っていたのを覚えています。

自分にストイックであること、自分に厳しいことが
成果を出せたり褒められたりするのですが、
人間は「役に立たないと存在する場所を与えられない」のであれば
それはとても悲しいことだと思っています。

人は皆、
ただいるだけで十全にその価値が与えられている、と
いつもいつでも思っています。

自分に自信を持つと言うことは
何かができるようになって、共同体の中で生きて行けること、と
考えてしまいそうになることがあまりにたくさんあって、
その中で苦しんでいる人をわたしはたくさん知っています。
そして心の奥底で、自分は役に立たない人間ではないかと
潜在的に問いかけてしまうことがよくあります。

亡くなられて、さらにああして欲しかった、こうして欲しかったと
願うのはきっと重荷になることだと思います。
どうか苦しみのない世界で本当の自由でいてください。

水曜日, 2月 07, 2007

写像空間

真空容器の窓とフランジです。
ミッキーマウスのようでもあります。
美しいと思うものにはいくつかの分け方があって、
たとえばシンプルだという美しさと、
対極にある「なまなましさ=リアルさ」という美しさに
およそ分けられるだろうか、と考えたりします。

実数に対して虚数という概念があり、
もともとは大工さんが考えた量だそうで、
そのころの直角は90度でなく100度でした。
数学の先生はこの複素数写像が4次元的であるので
「あの世の世界のこと」とよく話していたのを思い出します。

虚数の世界へ写像すると、
とても複雑な空間が一本の直線で表現されたりします。
複素数の世界は2軸の平面ですが、
「無限大」の定義が実数の場合と違っていて、
どの方向の無限大もある1点に集まることが分かっています。
「両極相通ず」という言葉はここにあるのだと
なんだか納得したのを覚えています。

月曜日, 2月 05, 2007

Maxwellの方程式


真壁のひなまつりに行きました。
飾ってあるのは元禄時代に作られたおひなさまだそうで、
顔が大きく切れ長な目をしています。

宗教の歴史の中に科学の歴史が含まれ、
科学の道の中に宗教観が含まれていることが分かって、
わたしは科学へ戻ります。

方程式が書けて、それは常に正しいのですが
それそのものでは全く役に立たないものとして
Maxwellの方程式があります。
2つの発散と2つの回転の偏微分方程式で表される式は
静的だろうが動的だろうが
ミクロだろうがマクロだろうが
全く関係なく成り立っています。

ところがその方程式自体は
境界条件を入れてやらないと式にならず、
また条件によっては明示的に解くことさえできず
数値解として時々刻々の現象を得るだけです。

どうやら人間を構成しているものは
これに近い状態のものらしくて、
方程式自体が全体として入っているのですが、
それを見ることもできずまた知ることもできません。
外からの影響は方程式の変形として現れますが、
それぞれの変形になった途端もとの完全さは失われます。

制御理論でも同じような現象が出てきて、
微分方程式のゲインを決めてやると
安定した制御になるのですが、
その系は外界の状態に応じた答えを出します。

わたしはあるルールで構成されているのに、
それを自覚することはできないというのは
奇妙な話で、
それなら自分の思うように動いている気がする
わたしの体は一体何なのだろうと
不思議に思います。

火曜日, 1月 30, 2007

自転車に乗れれば

最初に自転車に乗ったときのことをおぼろげに覚えています。
大は小を兼ねると思ったのか小学生にしてはとても大きな自転車で、
走り出すまでにずいぶん転びました。

自転車に乗っている間、考え事ができるようになり、

自転車に乗ることは体の一部になりました。

どうも仕事も同じようなものらしくて、

仕事はいつも意識を持ってやろうと今まで心がけていたのですが、

あるところまで行くと複雑な作業でも体が勝手に動きます。



月曜日, 1月 29, 2007

人を機械としてみれば

甜茶を飲んでいます。
小学生のころ友達の家の近くにあったお寺で
花まつりに
甘いお茶を飲んだ記憶が忘れられずにいます。
あれは甜茶でしょうか、
あるいはアマチャヅルでしょうか。

加速器ではビームが光の数十%の速度で回ります。
光より速い情報伝達手段はないので
いくら高速の信号線を使っても
リアルタイム制御に間に合わないことがあります。

踊るロボットを作るとき、
音楽とシンクロして見える動きを出す場合、
腕や足の慣性があるため
動きの信号は音楽が聞こえるよりも
先に発生していなければなりません。

わたしたちが「リアルタイム」で見た、触ったと知覚しているものは
情報的に言うと0.何秒か前のものであって、
実時間での現象ではありません。

バットで飛んできたボールを打つ、
ただこれだけのことなのですが
意識の上では遅れてしまうので処理できません。

空間と時間は本当は区別がないので、
今の3次元空間で人間は右に行ったり左に行ったりできるのと同じように
時間も前と後にいける時空があります。

時間が一方にしか流れないというのは
いまだに不思議のひとつで、
普段「明日」と思っているものは
今までの連想で作られたものであって、
時間の始まりがあるかどうかは分からず、
かつ現在というものを捕まえることができないので
3次元の空間では実際には明日がありません。

理論は「宇宙の始まりが分からない」といいますが、
本当の現在というものも
人にはまた分からないものです。

木曜日, 1月 25, 2007

長高エネルギー宇宙線の閃き

世界には一体何の役に立つのだろう、と
首を傾げたくなる技術が発明され、
しかし時間が進んで少しずつ世界が変容すると
その技術なしでは成り立たない世界に
なっていたりします。

核の話は日本人なら
原子爆弾が最初に来るのですが、
原子核の応用は身近にあって、
普段食べているジャガイモの発芽を抑えるために
放射線が使われています。
その量は微量なので
改質することも遺伝子変異することも特にありません。

宇宙のはるかかなたでは
星が生まれたり消えたりしていて、
人間が地上では作り出せない
超高エネルギーの放射線が
たまに地球まで到達します。

宇宙船に積まれた電子計算機では
この高エネルギー放射線でメモリの値が書き換わり
故障の原因になるそうで、
耐放射線性に優れた=放射化しにくい物質を使った
半導体へと作り変えているのだそうです。

星の放射線がメモリを書き換えるほどの力なら
人間の脳だってこの放射線で神経に信号が発生するわけで、
わたしたちが何かをひらめくときには
本当に「星のお告げ」が届いているのかもしれません。

土曜日, 1月 20, 2007

似ていると思う曲

お酒はちっとも強くありませんが、
ウィスキーをストレートで少しずつ飲むのが気に入ってから
焼酎をストレートで少しずつ飲むのも
なかなかおいしいなと思うようになりました。
毎日飲むわけでもなく量はたかが知れていて、
750mlのボトルで2ヶ月以上かかります。

カーペンターズの"I need to be in love"という曲があって、
邦題は「青春の輝き」なのですが
訳した歌詞を見ても今ひとつ的を得た気になりません。

恋の歌として訳したのが意図的かどうかは分からないのですが、
"I need to be in love"のloveは
男女間の恋と神を象徴する愛の意味を重ねていて、
どちらかと言うと"神との愛に生きよ"という表現のように思うのです。
そうみるとその後の歌詞、
「この不完全な世界に完璧を求めようとして
それが馬鹿げたことだとしてもまだそう信じている」
という表現は、
欲を捨て神との喜びに生きよと人は言い、
それが正しいことだと頭では分かっているのに、
やっぱり私は愛する誰かを必要としている、
という風に聞こえるのです。

サザン・オールスターズの"Dirty Old Man"は
このカーペンターズの歌にどことなく近いと思っていて、
「明日を・・・信じるならば」
「神が決めた小粋なルールには
早幾年過ちと無礼見舞い中」という歌詞があります。

木曜日, 1月 18, 2007

この世界が「わたし」であるならば

確かジョン・グレイ著
「ベストフレンズ・ベストカップル」か
「本物の愛を手に入れる365日」かの
どちらかだったと思いますが、
章の始めのほうに、
「大切なことは、頭で理解し、実践し、身につけた後、
それらを一度すべて忘れ、再度思い起こした後に身につく」
というくだりがあって、
「忘れる」というところに妙な引っ掛かりを
覚えたことがあります。

アインシュタイン150の言葉の中に、
完全な羊の群れを作るには、とにもかくにも
自分が羊になることである、というくだりがあって、
この意味もまた考えの対象になっていたものでした。

クリシュナムルティ「恐怖なしに生きる」を読んで、
恐怖とは自分の記憶と思考そのものである、と書いてあり、
意識の上の記憶が積み重なるほど
恐怖は増えていく、という点にふと納得がいきました。

聖書の一説には
アダムとイブは「知恵の木の実」を食べたために
罪と死の苦しみを負うことになった、とあって、
なぜ知恵を手に入れることが罪と死なのか
いまひとつよく分かりませんでしたが、
意識と恐怖の関係からいうと
確かに知恵と記憶そのものに罪と死の概念が含まれています。

パンドラの箱に閉じ込めて封じられたものは
「未来を全て分かってしまう災い」であって、
それゆえ災厄の中でも希望を持って生きていけるというくだりで、
知ること、区別をつけることが苦しみのもとになるという
点につながります。

矢井田瞳の歌"BuzzStyle"に
もしかしたらあたし自体いないのかもしれない、という
一節があって、
やはりひっかかりの元でした。

中島義道「生きにくい・・・」の本の中には
「時間に関しては過去と未来はなく、
その認識のもとにはわたしは全てと一体化し、
そして「わたし」がなくなってしまう」という意味の
くだりがあります。

時間は記憶と思考が作るものである、という点には
クリシュナムルティもアインシュタインも同じように述べていて、
アインシュタイン150の言葉では
「過去、現在、未来の区別は、どう言い張っても単なる幻想である」
と綴られています。

無意識に人に暖かい気持ちを向けられる、
という表現なら
わたしにはこの気持ちはよく分かるのです。
長く調べていくと、
世界にある宗教の「本質」はどれも同じに見えてくる、
そしてそれらを拡張していくと
この世界の「あらゆるもの」がどれも同じに見えてくる
ことになります。

だからキリスト教の神への誓いは
「全てを信じ」という一見妙な台詞になるのだと
なんとなく納得しました。

小さいころに思った疑問のひとつに、
自分が意識で捉えたことを書いて残そうとすると
書いている最中にまた意識が発見する、
延々とそれを繰り返すので
いつまでたっても書き終わらず、
書くこと以外何もできなくなってしまうな、と
思ったことがあります。

九九を覚えたとき、
わたしは何も見ていないし、書いてもいないのに
どこを参照して覚えたことを復唱できるのだろうと
不思議に思っていました。

意識の上に知識を並べて執着しなくても
どこかで覚えているのだから
人は無意識という文字をあてたものは
もはや自分にさえ
見ることも知ることもできない「本来のわたし」
があります。

人にとても優しい気持ちを持ったときに
わたしには「降ってくる」イメージがあって、
それに従っている時はとても幸せで、
降ってくるイメージに選ばれた人も幸せになります。

そして「いろんな人が考えた」結論は、
私自身が「この世界」なのであって、
わたしが心を優しく暖かく保てていれば
この世界は喜びに満ちることになります。
表現することで誤解は生じるかもしれませんが、
わたしの心、今を常に暖かい気持ちで救うことが、
とりもなおさずこの世界全てを救うことになるのだ、
というところに行き着いた気がします。

そして「約束の地」と「さとりの境地」は
今ここにあるのです。

可能性という記憶の海に溺れるとき

黒豆をあげたらあんパンになって戻ってきました。
パン生地が柔らかくてとてもおいしかったです。

昨日ネットで行き当たった話題は、
イラクの劣化ウラン弾の話でした。
その話を文字として読むと、
今すぐにイラクに行って何かすることが
わたしの目的なのではないかという気持ちが生じ、
しかし物体として動けていない自分がいて、
自分に「その行動は実現できる」という可能性が
わたしに葛藤をもたらします。

仕事をしながら、
こういう類の葛藤が1日中続くことがあります。

それが可能である、という現象は
飛行機という機械を運転する人がいて、
外国へ出国できるビザや税関が用意され、
現地での生活に必要な物資と食料の調達ができ
現地でのネットワークに参加できて
初めて発生するものです。
あらゆる技術が可能になっていて、
たくさんの人がその手段を可能にしているから
わたしにはその可能性が「ある」と考えることになります。

この気持ちは、献身の気持ちか、
あるいは義務の気持ちなのか、
それとも死の恐れからなのかと
気持ちが生じたときにふと思います。
それに準じることとして
募金をしたり人のためになることを
日常の中で探したりするのですが、
満たされない心は続きます。

たとえイラクの問題に手を貸せたとしても
世界のどこかではやはり人を必要とする出来事が
起こり続けていて、
やっぱり包括的な解決にはなりません。

たとえば、この場所にとどまり、
この場所での仕事から人のためになるものを発信し
人や物の流れをあるべきように心がけ、
隣人を大事にするということも
またわたしには同じように必要であって、
そしてそれらすべてもまた叶わない願いです。

「なにか」に対する声にならない祈りが必要なのは、
すべての人に幸せになってほしいと願う可能性の大きさと、
その可能性の海に溺れてしまいそうなわたしの小ささの
隔たりを埋めるものとしてだと思っています。

水曜日, 1月 17, 2007

現代版「芋とかぼちゃ」考

仕事場の近くに中華やさんがあって、
香りが良くて気に入ってます。
回鍋肉が好きで、
大学の近くにある中華やさんの回鍋肉は
肉が皮付きなのが気に入ってます。

多くの人の前で話をするとあがってしまう、という人に
「大衆を芋とかぼちゃの集まりだと思ってごらん」と
話をするたとえを聞きます。

このたとえ、額面通り受け取ってしまうと
わたしにとってはとても奇妙に聞こえる台詞で、
ちゃんと見れば人の顔は人の顔の像をしていて、
顔もなくごつごつした芋とかぼちゃに
置き換えられるわけはないのです。

大量の芋やかぼちゃの中にいてもあがらないのに、
人の中にいるとあがる、というのは
それが「人」というなにやら別種のもので
芋やかぼちゃとは違う、と思うからです。

もし芋と人に共通の性質を見出すとするなら、
人だって芋だって原子からできてるじゃないか、と
考えてみることになりますが、
次は「人には意思がある」という点に
つまずきます。
つまり人はわたしを「解釈する」という作業をするのが
とても厄介だ、と思うのです。

わたしたちが危険だと「認識」したものを避けるために、
人はあらかじめ未来の予想を立てて
思考実験の中でその危険を取り除こうとします。
人前で何かをして笑われる、という可能性を
「危険」だと判断してしまうと、
これでは人前に出ることが困難になってしまいます。

ここで笑われる、ということの多義的な意味を見ます。

ある人は滑稽さやひょうきんな面に喜んで笑い、
ある人は人の失敗する姿で自尊を満たそうとして笑い、
ある人は周りが笑っているという雰囲気に連動して笑い、
ある人は周りが笑っているから
自分も笑わないとと妙な義務感を出して笑い、
ある人は昔何かで笑った記憶が再現して笑い、
ある人は目の前に展開されていることなど全く気にならず
自分の頭の中の面白いことに対して笑います。

その中には笑わない人がいて、
何かの記憶からけしからんと怒る人も、
また何かの記憶から嘆き悲しむ人もいて、
そして「たくさんの人」は一斉に異なった反応を
ひとつの行動を起こした一人の人に示します。

大衆、というものの難しさは、
何をどう努力してもその人たちすべてが
100%同じように感じるわけではない点にあります。
その中で心配になるのは、
誰かの心に引き起こした感情が
めぐり巡って自分の身を脅かすのではないかという点です。
特にすべての人に負の感情を与えたくないと思った場合
人前に出ることができなくなってしまいます。

そこまでたどり着くと、
自分の行動を現象の反応から
「良い」と「悪い」に分離し続けた場合
自分が極端に両方向に分離されてしまいます。

それでも人前に立って話すことを可能にするには
いくつかのアプローチがあるように思います。

人が話すわたしの行動についての「良い」と「悪い」よりも
わたしが人に優しくありたいと思っている、
すべての人を生かしたいと思っている、その状態が
わたしの行動を可能にする基準である、
その上でならば外的なあらゆる結果と感情の束縛から
自由である権利を得る、ということを
確認することが必要になります。

その権利は「わたしの意識」からは与えられず、
いかなる人間からも与えられず、
ただこの世界にあまねくある「何か」から
与えられることになります。

この問題を考え始めたのは、
遺伝子型が一致するのに
腎臓自体が病気であって摘出しなければならない腎臓を、
腎臓の機能不全で腎臓を必要とする患者に
移植することを是とした医師のニュースがあって、
人が文書で作った「決まりごと」の慣習や法に触れるとしても
人が生きられるようにすることを優先した、
この瀬戸際に立ってしまった医師は
一体どうすればよかったのだろうと思ったのがきっかけです。

法に従う側ではなく、法に携わる人間は
法が「人の作り物」であることを知っています。
そして法がこの世すべての「問題=苦しみ」を解決しない、
ということも分かっています。
人を大切に思う医師はその良心に基づいて
「人が生きる」ことを選択するために
敢えて法の制限を乗り越えたのだと思っています。

これを外野から
生きる死ぬはその人が解決すべき問題であって
あなたにはその責任がないとか、
法の解釈はたくさんの人で決めたのだから
守らなければならないものなのだ、とか
あれこれ言うのは勝手なのですが、
「ぜひとも生きたいのです」とすがりつくように
患者から頼まれ、
そして医師がその行動を起こすか起こさないかで
人の生きると死ぬが決まる、という現場では
人が作った法律やあらゆる決まりごとは
やはり人の作った法程度の力しかないのも知っていて、
法に従っても法そのものに
人の命が消えるという結果の因果を負わせることはできず、
絶え間のない葛藤となります。

この「問題」にはある種の解決があって、
もし「ぜひとも生きたい」という執着を患者がもたず、
この世界で生きていけたことを感謝できる、
そういう心の状態を持てるならば
医師に負担になるような苦しみも、
またこの世界から自分の生を解き放つ苦しみも
共になくなってしまうのです。
しかしその決心を起こすこと、は医師にはできず
それぞれの人が自発的に決心するしかありません。

この医師に慰めを出せるのはもはや人ではなく、
この世界を作ったなにかしかないようにも思います。

火曜日, 1月 16, 2007

人間がどう生きるべきか、の判断に宇宙論まで必要か

掌の中の無限、という本を手に取りました。
チベット仏教と天体物理学の知的交流で、
書こうとしていたことがよく書かれていて、
面白く読んでいます。

宗教は宇宙観を必要とし、物理学もまた宇宙観を必要とするなら
至る場所はおそらく同じで、
知的領域のすべてにわたって陣取り合戦をしているような感じがします。
ただ特に西洋物理が出した成果には特徴があって、
そこには誰でも再現可能な物理法則が適用されると
事物をコントロールできるようになることで、
人はそのせいで空まで飛べるようになりました。

宗教はやはり多義的な面を持ちたがるのか
そのあたりはよくわからないのですが、
「慈悲」とか「仏性」とか「愛」と呼ぶ感覚について
どうもうまく説明しているようには思えません。

自己犠牲や利他、というものなら動物も持っていて、
たとえば親鳥が巣を狙う鳥の注意を逸らすため
わざと目立つ場所で傷ついたような振る舞いをするとか
いくつも例はあります。

集団生活の秩序、というものも動物は持っています。
蟻などは立派に共同体を作り上げているし、
猿だってコミュニティを持っています。

人間はどうしても「この世界の特別」でありたがるようですが、
仏教的感覚で言うと
一切が空であるのなら
人も動物も意識の存在として変わりありません。
そして意識そのものの問題に関して
物理学と宗教はどちらも確証を持っていないのです。

生き物は和を持って生き続けることが目的であるのなら、
地球のサイズと生産力を考えて
人の数が地球全体として増加に向かうような
システムを考えることで十分で、
それを目指すものが「仏性」や「利他」に当たると考えます。
宇宙の始まりはどちらかというと
「この世を作ったなにか」を語っているようなもので、
仏性を語ることとはおよそ質が異なります。

ちなみに高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」の中には
協調と拒絶に対してそれぞれに報酬があるシステムを仮定し、
協調同士は相互に得点し、拒絶と協調の場合は
拒絶側に得点があり、拒絶同士では得点がない、
というような過程で、コンピュータプログラムコンテストを行い、
二つのプログラムが対決するとどうなるか、
どのようなアルゴリズムがもっとも生き残るか、という
実験を行った様子が掲載されています。

最後まで高い点数を維持したプログラムの原理は
驚くほど簡単で、
「最初に協調を出す」
「相手が協調した次の手は協調にする」
「相手が拒絶した次の手は拒絶にする」
「履歴を持たない」
というだけの特徴しか持っていないのだとありました。

人がたくさん生きられるようにすること、という方法は
すでにある程度結論が出ているようにも思うのですが、
環境に適応した生物が選択的に淘汰で残ることや
特徴の異なる生物が混在して住む場合には
ひとつの種類の生き物だけが残ることがまれである、
というシミュレーション結果もあります。

たとえば消費エネルギーが多く必要で分裂が早い細胞と、
消費エネルギーは少なくて済むけれど分裂が遅い細胞が
同じセルの中にいると、
そのセルの中の食物の取り合いになって、
最初は分裂が早い細胞が優勢になるのですが、
セルの中の食物は枯渇するので
その段階で分裂の早い細胞は先に消滅が早まり、
結果として両方がある割合でセルに残るのです。

人は多様であることをその条件として持っているならば、
この世界は戦争を終わらせることはできないけれど
人が死に絶えることもない、という結論になるのだろうかと
ふと思います。
この結論に対して、すべての人に一致した知識の流布を望む宗教は
どんな意見を示すのでしょうか。

月曜日, 1月 15, 2007

風が吹けば桶屋が儲かる、の思想から

およそ学問と名づけられたもの、
それに対してわたしたちは「違うもの」と区別するのですが、
学問はすべて「言葉」によって成り立っているものであって、
それは事象を映したシンボルではあるけれど
それは物ではありません。

池谷祐二「進化しすぎた脳」の中に、
思考は言葉でできている、というくだりがあって、
「言葉」を使わずにこの世界を説明できるか、という
点に疑問を持ちました。
この世界の何かを「言葉」というシンボルに置き換え、
その「抽象化した概念」を操作することで
わたしたちは物理的な出力をしているのですが、
一方で「言葉」によって各人の意識世界が作られていて、
その意識世界がどんな状態であるかで
この「物理的な世界」での「個人の認識」が変わります。

言葉が厄介なのは、
「神」とここに書いた文字に対して
「わたしが定義した意味」と「わたしではない人が定義した意味」
は異なっていて、
どうしても単一のものにはならないという点です。
そしてさまざまな人が「感じた」という「神」が「感覚」なら
それは言葉で表現できるものではなく
個人がその全感覚で取得するものだとするなら
わたしたちは「神」の「何」を伝達しようとしているのか
不思議に思います。

わたしが苦しむとき、
わたしはわたしの意識が自動的に発する
「言葉の演繹」と「思考」の流れ、
そして感覚によって自動的に変換される言葉を
「言葉として扱うこと」を止めてしまえば
「未来」も「過去」も「時間」もなくなってしまい、
苦しいという「状態」は過ぎていくものだということに
ふと気がつきました。
それはできる人には簡単にできて、
できない人にはとても難しいことなのだとも思います。

感情を表そうとシンボル化した言葉、というものがあって、
言葉は継続して状態を保持するものであり、
言葉の組み立てや演算が思考であるため、
感情を離れるには自分の思考が延々と生成し続ける
「言葉」から離れ、
目に飛び込んでくる「文字」や耳に飛び込んでくる
「音声」を自分の思考=言葉として認識させないように
する必要があります。

時々言葉を忘れようと思います。

線形性と呼ばれている現象があります。
簡単に言うと、
初期値のわずかな変化は結果に対してもわずかに変化し、
そしてここの現象を分離した上で解析的に表現できる、という
性質を表したものです。

わたしたちが厳密に「解いている」気になっている数学は
解けるものだけを扱っていて、
方程式はその条件をわずかに変化させただけで
あっという間に解けない=人間はその解析式を知らない状態に
入ってしまうことがあります。

数学的にカオスと呼ばれる現象があって、
それは非線形方程式を主に数値的に調べたときに現れるもので、
初期値のほんのわずかな違いが時間発展すると
それが結果をまったく異なった予測不能の状態にしてしまいます。

カオスの例は蝶と竜巻で、
ある条件下では日本で蝶が羽ばたくか羽ばたかないかが
アメリカに竜巻が起きるか起きないかを決める
引き金になる場合がある、というものです。
どんな小さな出来事のどんな小さな変化も、
大きな体系の中では無視することができない要素であり、
この世界のすべての「パラメータ」を一瞬にして取得することは
今の人間には不可能であるため、
物理的現象に関してはどんな予測を立てても
それが本当なのか確かめることができず、
しかも計算精度の問題から
どうやら現実世界のコピーをとったとは言えないのではないかという
心配が生じます。

カオスの「混沌」はしかしもう少し説明する余地があって、
ただ乱れるだけではなく、
あまり遠くまで演繹しなければ擬似的な線形性を保つものや
循環した状態に入るものなどがあって、
その場合比較的良い予測ができることもあります。

現実世界にこのことを当てはめるならば、
わたしの行動は「何かの現象」を生み続けていて、
当座は予想がつくのですが、
「思考」による未来の予想はまったく役に立っておらず、
そしてわたしの行動はおそらく、
知らない誰かを生に留め、知らない誰かを生から開放している、
ということになります。

それは「この世界には善と悪という二つのものがあるのではなく、
それらは同時に起こり、かつ不可分なものである」
というところが当を得ている気がします。

日曜日, 1月 14, 2007

似ているようで違う二つの目標

杉樽醤油というのを使っています。
今日買いに行くと売り切れだったので
紫峰という醤油を試してみました。
割と気に入ってます。

クリシュナ・ムルティの本を
2冊取り寄せました。
一つは「恐怖なしに生きる」で、
もう一つは「自我の終焉-絶対自由への道-」です。

既存の宗教団体への所属や組織や手段に拠らず、
「神と呼ぶ、本当は名前をつけられない何か」と
私との結びつきによる、
全ては神から与えられ、預けられ、
通り過ぎる感謝というものと、
日本語訳で「愛」と訳されたものが必要であると
彼は説明します。

この彼、既存の宗教団体は全て「世界の問題」を解決しない、と
看破しているのですが、
他の宗教の本や心理学の本を読んだことがない、という彼に
果たして「解決しない」という台詞が出せるのかと
疑問に思います。

仏教では「法と己のみを灯火にせよ」と説いていて、
仏教聖典の中でかなり早い段階で目に止まった言葉でした。
ここで「呼び表せない何か」には
「法」あるいは「仏」の文字が当てられています。
キリスト教系の本で「愛」と訳された漢字は
仏教なら「仏性」に当たります。

そして色々な宗教を調べていくにつれて、
中心的に謳っているエッセンスはどれも大した差がなくて、
理解ある人が読めば同じ状態に近づけるような気がします。

たとえば聖書と教典、おなじように日本語で書いてあっても
用語の違い、意味範囲の違いがあるので
同じ漢字を同じに訳すことができません。
言葉の並びと比較に捉われる限り
相互変換はできないのです。

クリシュナは「愛」を広めることで
この現実世界に変革が生じる、と説明しますが、
そう心から思う人とそれを誤解した人の混成集団によって
教団は構成されています。
そして平和への道のりが
「精神への不断の注目」を必要とする、つまり
何らかの条件が必要なのであれば、
それは条件がつくなら誰でもできるものではなくなるので、
この世界には苦しむ人と苦しまない人の二つが必ず現れます。

宗教が目指しているものは、
「争いのやまないこの現実世界を平和にすること」なのか、
「争いのやまないこの現実世界で平和に生きること」なのか、
どうもこの二つが混在しているようで分からなくなります。

たとえば比喩的にいわれるのは
小乗仏教とか原始仏教と呼ばれるものは後者の思想で、
大乗仏教と呼ばれるものは前者を含む思想です。
そして後者は人間として可能なのですが、
前者が人間という生き物に実現可能なのかと考えると
なぜか無理だと思ってしまうのです。
全ての人が逆立ちすることはできないように、
おそらく神や愛の思想を感覚として理解し維持することが
全ての人にできるほど人は均質ではないからです。

地球の始まりにおいて、DNAの鎖という単位から細胞へと変わり、
細胞群は種となるのですが、
種が変化しても細胞は細胞のままで、
生き物なのですが進化が取り残されたような感じがします。
人を構成する細胞はその一つ一つが目的を知りません。
細胞群を手として使っているのは人という意識です。

これと同じように、
「」を構成する人間はその一人一人が目的を知りません。
人の群れを何かとして使っているのは「」という意識なのかと
ふと思います。

その上に拡張するならば、
『』を構成する「」はそのひとつひとつが目的を知らないことになります。
「」の群れを何かとして使っているのは『』という意識なのかと
ふと思います。

その「」や『』に人のような意識があるのかどうかはよく分かりません。
しかし人がその構成要素になっているのは確かなようです。
ということは、もし「」に上位概念の神という名前をつけるならば、
神が我々を作っているのではなく、
我々が神を構成していることになります。

体の各所が適切な信号、喜びや痛みを『私』に伝えることで
私は体全体を適切に保とうと努力します。
ということは、人というシステムが適切な信号、喜びや悲しみを
「」に伝えることで
「」は人間全体を適切に保とうと努力するはずです。

この上位にある意識、への移転というものが
来世とか菩薩の曼荼羅といった、無限に上位概念へと拡張する
思想を呼んだのだろうかとも思います。

木曜日, 1月 11, 2007

釈尊のメッセージは科学的な方針だったのではないか

小さな頃から海老が好きで、
100円回転寿司にいくと生海老、甘エビ、海老を
3皿ずつぐらい取ります。
ねぎも好きで、ねぎ焼きを喜び、
味噌汁にはねぎが山ほど入っているのが好きです。

この2年ほど、意識や実在に関する本を意識的に読んで
そこに意義が見出せるかどうかを探していました。
以前から科学のいくらかを知ってきて、
科学と宗教の整合というテーマに
何度か特別な興味を持ったことがあります。

宗教史の中ではそれは大問題だったようで、
ガリレオが受けた宗教裁判は天動説の否定であって、
天動説は当時のカソリックの支持教義であって、
それは天動説が崩れると無矛盾であって完成された教義に
欠陥があることになるから、という理由でした。

高校のときに聞いた話では、
仏教が須弥山(しゅみせん)という山の周りに海があり、
海の果てがあって鉄柵と断崖のようになっている、
という説を説き続けていて、
西洋から丸い「地球儀」がやってきたときに、
それが本当なら仏教の正当性が失われると
大騒ぎしたというのを聞きました。

今でこそある意味で「宗教」は「心」の問題であるという
認識がそれなりに発生し
物質に対しては「物理」を適用する習慣がつきましたが、
もともと「宗教」の守備範囲は全能を目指していて、
それはこの世界を完全に作った「何か」を説くための
基礎材料として必要な情報だったからです。
そして原理主義と呼ばれる人たちの思考の中では
今でもおそらく物理より宗教の本が説いた世界観が優先します。
そして物理の限界点にいる人たちが考える思考には
「神ならこの世界をどう創っただろう」と想像するのです。

そういう観点で行くと、
「宗教」という名前は「世界観」と同義であって、
今の科学者の役割も果たしていたことになります。
そして「あいまいだ」と揶揄されやすい仏教の本質は、
現代人でも混乱しそうな現代物理の思想:
物質の粒子・波動の2重性や
「物」の状態としてのエネルギー・質量の2重性、
量子論の不確定性原理、
物質の局在と存在確率、
「完全に無の空間=真空」に発生するエネルギーの存在などを考えると
現代物理とは今のところ矛盾しないように思います。

その理解の上で、「意識」の問題に触れます。

宇宙の始まりはビッグ・バンにあって、という台詞は
概ね誰でも聞いたことのありそうな言葉ですが、
その世界は超高エネルギーの世界であって
生物はもちろん原子さえ存在しない世界です。
生き物がいないのだから、生と死はなく、
生と死がなければ欲も意識もなく、善と悪もありません。

宗教はその「混沌」である宇宙の始まりと「人間の発生」との関係を
どう説明するかに長い間苦労してきました。
キリスト教の中心では「神のヒト創造」という問題を持ち出し、
「死」と「罪=悪」とを結びつけました。
そのうえで改めて「霊的に神と結ぶ」ことによる「人の救い」を説きます。

ダーウィンの進化論はこの「創造」に抵触するため
長らく解釈が待たれていましたが、
「突然変異」が不連続な生命の変容をもたらすことから
「ヒト」が長い生命の系譜を引き継いだ存在であることは
次第に理解されつつあります。

そして現れたのが生物と非生物の違いについての問題で、
神が生き物を「非生物的世界」とは別に作り出した、という解釈に対し、
原始地球の高温の海から生命が発生するか、という問いに
どうやら物理的現象として生命が発生する可能性がある、ということが
実験によって追跡されつつあります。

もし生命が物理的現象として発生したものであれば、
生命はすべて「物理的現象」で説明できてしまいます。
事実、たとえそのシステムすべてが理解されないほど複雑であったとしても、
人間の構成要素は原子であり、電磁気的信号が流れ、
化学反応が起こり、量子効果が働く世界であることは
疑う余地がありません。
宇宙の始まりに善と悪がなかったのだから、
生命の現象についても
何が「善」で何が「悪」であるかを説くことができなくなる恐れがあり、
それはやはり「生」と「死」であるならば
人が何をやっても罪にはならないことになります。
法の秩序を維持できなくなることを恐れ、
アメリカでは物理や生物学の歴史系譜に
「神の意思」をうまく説明できなくなりかかっていることが大問題で、
「サムシング・グレート」という「人を超えた何か」という表現を載せるかどうかで
議論が始まっています。

そしてこれらを理解したうえで、
なお物ではない「意識」がなぜ発生しているかだけが
問題として別個に残るのである、というのが
釈尊の解釈であり、
現在では脳科学者が「クオリア」と呼ぶものを追って
意識学会という活動が議論されています。

「欲」の根拠については
「自分という個体が生きること」を求めることと等価であって、
それは生き物の目的が生き増えることにあるから、となります。
ところが欲の追求だけでは
社会システムが動物と同じ状態になってしまいます。
「欲」の発動は遺伝子の働きによるもので、
それさえも物理であり何かを「分かる」という
「意識」とは別だというところまで話が進みます。

そして、「意識」は「何」を目標にすればいいのかと
おそらく釈尊は考えます。

ここからは想像ですが、
釈尊のいた2500年前でどのくらいのことが分かっていたか、というのが
ひとつの世界観を創る元であるので、
分かっている範囲を想像すると、
生物学的な発想には行き着けると思います。

盲導犬訓練に向いた犬の血統というものがあって、
それは何世代もかけておとなしい血統が続いて
遺伝が安定したものを呼びます。

日経サイエンスの本では、
手漕ぎカヌーに乗って漁をする民族は
何世代もその生活をするうちに
生まれつき上腕が発達するようになったといいます。

釈尊は遺伝学的な変容について知り、
そのわずかずつの可逆的あるいは不可逆的な世代変容に
気がついていたのではないかと思います。

これまでの進化の過程からすると、
人間もまた進化の過程の一つであり、
「意識」の使い方が何千世代にもわたって続いていけば、
人は既存の「生き物」の常識からかけ離れた
「新しい生き物」へと進化を遂げるだろう、と
考えたのではないかというのが今一つの仮説です。

恣意的に「新しい生き物の発生」を目標とすると書きましたが、
その根本で「欲」から離れた思想をするならば
実はその目標にさえも「とらわれない」ことが必要になります。

つまみ読みで勝手な読み方をすると
経典の中では華厳と理趣は異なった思想というよりは似通った思想であって、
「大いなる意思のメッセージの元に自由になる」という意味で共通しています。
わずかな違いを見つけようと思うと、
華厳が仏性を育てる意思によって未来を「意識」によって選択していくけれども、
理趣はそれらの意識によらずとも、「意識」の認識さえあれば
あらゆるものが自動的に進化のプロセスになっているはずだ、というところに
あるという感触を持ちます。
それが「抑制」と「開放」の表現の差として表れるのではないでしょうか。
ただ、どちらの方針にしても「意識」というものの存在を
この物体と物理とは独立したものとして明らかにし、
「メッセージ」を受信できる状態で「欲」というものに結びつけることを必要としています。

ここでは「意識」の拠りどころとして
「仏性」という言葉をあてます。
それはふとした折に「発動」するもので、
やはり遺伝子の中に書かれている「メッセージ」だと思うのですが、
欲があるうちは発動が抑制される類のものです。

たとえば自ら望んで他の生き物のために
自己犠牲を払える、それが喜びとなるという状態を
ひとつの仏性として解説してあります。
それは生物学的には「すでにある現象」ではあります。

通常遺伝子の故障というのは修復して直してしまうのですが、
人間の細胞レベルでは「アポトーシス」という現象があって、
遺伝子内の増殖抑制の機能が失われた細胞などが
体全体の機能やサイズを正常に維持するために
細胞自身が自殺します。
増殖抑制が失われ、
かつアポトーシス発動ができなかった細胞ががんと呼ばれるもので、
がんは病気ではなく遺伝子の故障です。

細胞は好き好んで勝手にアポトーシスするのではなく、
そして他の細胞からアポトーシスを引き起こされるのではなく、
システム内での役割を理解して自発的にその役目を終えます。

ヒトというのは「生き物として」死を恐れるようにできているし、
ひとという「意識」が「生き物」に結び付けられている限り、
死は避けられないものです。
そこに「苦しみ」と呼ばれる感情が発生し、
その状態を「生き物」は望まないことから、
知覚できる「意識」の定義を「生き物とすべての物理現象」から
切り離すことが必要であり、
現在の意識が生まれ変わりを確認できないけれども
「意識」の時間的な不消滅、つまり
「生き物という物質」に意識が発生する生まれ変わりの現象を
否定せずに説明することが生き物としての人の「意識」を
物体が発生した「欲」の束縛から解放することになります。
その自由を持って「救う」という表現にしたということと
解釈しています。
最終的には「生まれ変わり」さえ放棄する、
つまりこのただ一度の意識の発生を喜び、
その意識が「大きなシステムの維持」と
「生き物の進化の過程に参加する」こと、
そして「仏性という遺伝子に書かれた発動を維持・伝達する」ことを
目標とするよう求めているのではないかと解釈しています。

「意識」が「物理学的な何かを離れたもの」である以上、
「意識」が何であるかは現在でもつかむことができていません。
しかしあらゆる物理とまったく結びついていないからこそ、
「意識」は何の方法を使っても原理的に誰にも奪うことができないのです。
「わたし」は「わたしの意思」なのであって、物ではありません。

この意味で個人のたったひとつの「持ち物」とは「意識」だと言えます。
それは哲学でいう意識の不思議へとつながります。

「意識」が人の上に乗り継いでいく以上、
何千世代かかってもいいから
「欲」の存在に苦しまない、仏性に従った
「新しい生き物」を作っていくことを意識の目標に定め、
遺伝子を長い時間をかけて書き換えていくと、
仏性の発動確率が十分に高まってゆき
未来の時の中で発生した、しかし過去の生命の記憶を持たない「意識」は
「新しい生き物」のシステムの中で、生死の苦しみを意識せずに
「この世界を意識する」作業をより円満に続けられるだろう、
そして「新しい生き物」として完全ではなくても
これらのことを知ることができたのならば
現在の生き物であっても「意識」を徐々に自由にできるだろう、
というのが釈尊の考えた
「すべての「人=意識」を救うための妙なる慈悲」という
プログラムであるように思います。

もしそれが完全に行われるならば、
人のなかに細胞があり、細胞一つ一つが生命を持ち、
それらはすべての細胞が持つ「遺伝子のメッセージ」に従っていて、
発生のときと消滅のときを知っており、
その事実に何の矛盾もなく協調した動きとして「人」という物質があり、
発生のときと消滅のときが「何かのメッセージによって」与えられており、
そのメッセージに従うならば、人という意識と物体の集まりは
「巨大なシステムである何かを維持する」ことになります。

仏教に不思議な興味を持って眺めているのは、
たとえ世界に人の言葉や行動による法も秩序もなくなってしまったとしても、
人には埋め込まれた「仏性のメッセージ」があるので
どんな世界になっても人はその仏性の自動的な発動によってシステムを維持し続けるはずだ、
だから生と死に関しての心配はなくしてしまいなさい、と言っている点で、
人が「意識」に目覚めていることこそが大切だ、というアドバイスは
不思議とわたしを安心させるのです。

日曜日, 12月 31, 2006

神はカオスに、仏性は遺伝子に

どんなものも福袋になるようで、
ハム詰め合わせの福袋を見つけました。
ハムはいつ食べても好きで外れがないので
一つ買いました。

仏教聖典を読む以外特に何の入力も意識せず、
空いた時間は散歩をしてひたすら寝ていました。
思考というのは醸成するものらしく、
断片的だった記憶にまとまりが生まれます。

この本、左側に英訳が載っていて、
日本語の漢字ニュアンスがぴんと来ないときに
訳を読むと雰囲気がつかめることがあります。

さて、いくら「一切は空」だからと言っても
見えるもの全てが「あるようでないような」には
やはりなりません。
量子論的に言うと物とは「存在確率」の広がりの中にいるので
厳密には確かに「あるようでないような」ではあるのですが、
1kgの鉄が突然消えたりはしません。
ただ全てが線形方程式で記述されるわけではないので、
基礎方程式の形は明確であっても
それを現象として観察する際に非線形性による未来予測不能の状態や
統計的現象を一つの結果に置き直した場合の
「運」とでも呼びたくなるような確率過程があります。
この意味で確率は上げられますが絶対ではありません。

ひとの苦しみとは無明と貪愛、と書かれていて、
無明を解決する方法は物の理、因果を知ることとあります。
確かに物理が分からないままでは
教典も呪文のように曖昧な感触しかつかめないと感じるからです。
西洋の現代物理はそう言う意味で
再現性に「明るい」学問です。

物理、それらが全て明らかになったとしても残るのは
貪愛、もし言い換えるならば「死の恐れ」です。
生き物はその基本として死を遠ざけるようプログラムされているので
ひとも生き物である以上死の恐れを持ちます。
そしていくら物理が分かっても「死の恐れ」だけは
今のところ別途扱わなければなりません。

本の中では「仏性」が生じる、というくだりがあって、
この言葉は読み進んでいくと
現代では違う言葉に近くなっているような気がします。
仏はひとではなく、形がなく、普遍的に人の世にあり、
しかし普段は隠されていて、
ふとした折に人の心から発動するもの、というくだりで
最初は「物理」かと思ったのですが、
「仏がなくても物の理はある」というくだりからして、
「仏性」と訳されたものは「良心」と呼ぶものではないかと考えています。
貪愛を治めるものは仏性=良心の発露によるものだろうと
考えるのはどうでしょうか。

犬に生まれながら性格の硬軟があり、
それが遺伝子によって書かれた性質であるように、
良心の作用する理由は遺伝子に常に書かれていて、
捨てることはできず、その発動を待っているとすれば
だいぶ理解ができます。

ジャンヌ・ダルクが「神の名を勝手に語った」として
改革を為し始めた後に陥れられますが、
何に根拠を持って神を告げたのか、と問われたときのジャンヌは
「ただ神と良心に拠って」と答えた、というくだりを
伝記で読みました。
死の恐れに打ち勝てるものがあるとするならば
何らかのよりどころが必要であり、
仏性とはそういう「発動」を求めるものであるように思います。

遺伝子の読み解きが始まって、
「仏性」に相当するコードの仕組みを見つけ出せるのか、
私にはまだ分かりませんが、
それを見つけ出した時「良心の発動」が
この人の世に救いをもたらすことを願っています。

瀬戸内晴美と瀬戸内寂聴

じっくりことことがよい煮物の鉄則、
という不文律のようなイメージを振り払って、
「実験的に」思い切って圧力鍋で
黒豆を炊いてみました。

煮方は黒豆を買った袋の裏に書いてあって、
水6カップ、砂糖150g、塩としょうゆが小さじ1/2をはかり、
水を沸かして砂糖と塩としょうゆをいれ、
沸いた中に黒豆を放り込み、
そのまま一晩おく、とありました。

袋の記述ではそのあと水を足しながら4時間煮込み、
さらに一晩おくようにとあったのですが、
そこまで待っていられないなと思い立ち
圧力鍋で沸騰後12分加圧して火を止めました。

豆がしわになるとか、ふっくら煮えないとかが
成功と失敗の基準点で、
豆はしわにならず、皮も破れず
つやよくふっくら仕上がりました。
来年から圧力鍋で黒豆を作ろうと自信がつきました。

瀬戸内晴美、とは瀬戸内寂聴さんが
仏門にはいられる前の作家名で、
「愛の倫理」という本を
18切符で神戸へ向かった時、
駅のガード下の本屋で手に入れました。

女性が働くことの難しさとともに、
結婚と離婚を経験し、道ならぬ恋をし、
様々な人の像を経験した中身が綴られています。

仏教の本の中に、
「迷いや過ちから仏の種が生まれる」というくだりがあって、
仏教では成功や失敗や善や悪と「決めてしまう」ことがなく、
縁起の不思議を説くその様は
強い迷いの中から自分の行いを元に身をもって一つ一つ確かめ、
道を求め続けた「晴美さん」だから
人の心に訴える優しさを持つ「寂聴さん」になれたのだろう、と
ふと得心したような気がしています。

安らかさ、という言葉を元に、
迎える年をよく過ごせますよう
いつも願っています。

木曜日, 12月 28, 2006

過ちと誤り続けることと

友達の話では、武蔵野線は地理的特性からも線路状態からも
止まりやすいそうです。
ダイヤが遅れるたびに社内放送で
「お客様にはお急ぎのところ
大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
という台詞が流れます。

日本人は急いでいることが前提で、
それは何かに一生懸命であるポーズになっていて、
しかし本音では誰も忙しいことなど望んではおらず、
ところが世の中に対して文句を言うときは
「私達は一生懸命やっているのに」と言い、
そして件の車内放送が文句に対する返答になっている、
という不思議な構図です。

忙しいのは臨まないのに
忙しさの呪縛から逃れられない、という理由は、
精一杯を続けなければ生きていけないという
潜在意識があるからで、
その気持ちが自分の喜びも人の喜びも
受け入れられなくしてしまうようです。

何かがうまくなるためには
人が好んで失敗と呼ぶ、
試みたけれど思う結果に至らなかった、
という体験をしておかなければならない、という
ある種の絶対的な定理によく戸惑います。

うまく行く結果は
それ以前の失敗経験を種としてのみ導かれるものなのですが、
失敗と呼ばれるその体験の最中は、
こんなに辛いなら試みなければよかったと
心の底から思ってしまうからです。

だからといって真剣にならず
最初から成るようになるという気持ちで望んだのでは
何もつかめないままです。

人が失敗と呼ぶ「それ」は一体何なのだろう、と
今日も思いを巡らせます。

「過つは人、赦すは神」という英語の諺があって、
それはその通りだとふと思います。
ここで神と呼ぶものは人のようなものではなく、
この世全てと訳し直したほうが適当なものです。

「神」が「難しい」のは、
それがあまりにも強力で複雑な概念であるために、
正しいバランスの元で用いるためには
受け入れる人の側に相当の容量が必要になることです。

火曜日, 12月 26, 2006

昔は良かった、にまつわるあれこれ

わたしたちは昔に向かっても夢を見るようにできているのかもしれません。
中島義道の本の中で、「昔は良かった」と語る人を
「その印象は正確ではない」と言い放つ一節があって、
しかし「昔は良かった」と多くの人が
共感して言いたくなる理由はどこかにあるのです。

未来に対して夢を描く場合、
現在の物事と今まで得た情報から連想する想像で世界を作るので、
比較的構成要素が少ないのですが、
未来には過去にはない
「現実化する可能性」という特性があるため、
楽しみが大きいのです。

一方で過去は現実化する可能性は
既に失われているのですが、
たくさんの情報があるために
その過程を自分にとってなじみのよい形に
変えてしまうことはさほど難しくありません。

近いもの同士が一番うまくいかない、というのが
世の習いのようで、
過去と未来は遠く、
しかし触れられずにいるから自由な想像ができ、
現在は近く、
触れられるほどの距離にいるから状況が縛られています。

過去の記憶、未来の希望、
どれも癒しや安らぎになれるとよいなと願います。