日曜日, 3月 05, 2006

アナロジー

時折ガラスが気になることがあります。
透明で錆びなくて適度な重さがあって、
石と同じ物質というのも魅力的です。

ガラスには結晶構造がありません。
固体で透明ですが非晶質で、液体と同じです。
ガラスは非常に長い時間が経つとその重みで
勝手に変形するのだということを聞いた時には
不思議な驚きがありました。

非晶質であるがゆえに等方的でもあります。
塑性の自由さはコンクリートと同様に
建築に重要な役割を果たしています。
それは「自由に曲がる石」と「透明な石」の存在であり、
石造りかレンガで建築を続けてきた西洋人にとっては
新しい石造りなのだと思います。

日本人は石を使い慣れていないし、
あまりなじみもありません。
長屋は木製だから江戸時代はたびたび火事になるのです。
見るものがいとも簡単に変わってしまったせいか
永遠性への理解もあまり深くありません。

永遠性とは本来の定義では永遠に届かない場所であるが、
同様に永遠へ向かうものであっても、
そのスピードには差がある、という数学の先生の一言が
ずいぶん心に残っています。

仏教の説く涅槃は永遠に届かない場所である、
この表現に疑問を持ったことがあります。
永遠に届かないものをなぜ追い求めるかという点で、
結果が出ず自分で確認できないものへと向かうことが
とても奇妙に思えたからです。

これと同じ感触をもった事例は
イタリアの完成までに数百年かかるという塔の建築で、
関わっている人たちが大勢いると言う驚きと、
なぜ完成しないものを作ろうとしているのかが
やはりうまくつかめなかったのです。

この問題は今でも時折立ち表れます。
ふと気が抜けると演繹の方法を忘れてしまうのです。

数百年かかったとしてもそれは有限の時間です。
一人の人間にとっては永遠よりも長い時間のように思いますが、
この場合人間は永遠を
自分の一生と同じ長さだと捉えていることになります。

人間が永遠性の概念を獲得することは
人間の文明の発達度合いとは関係がありません。
永遠性はインドで為されたゼロの発見よりも先にあるのです。

一つの人間の中には
個人と社会というものが存在していて、
そのどちらも本能です。
最近思うことは、人間の脳には
相反するものが多分に含まれているだろうという想像です。
たとえば男脳、女脳と言われたところで
それが実体としての性別とは関係がありません。

社会的に生きるのであれば、
どちらの性別も良く理解できなければならず、
「中性的な脳」が必要なはずです。
男らしく、女らしくという議論は
あくまで外見に結びついた話なのかも知れません。

端的に、蟻には知性がないといいます。
崖に続く場所でも砂糖の道を作っておいたら
どんな状況でも勝手に蟻の列ができてしまいます。
これは人間が砂糖の道を人工的に作っていて
こちらはそれが何かを理解しているが、
当の蟻はその全体を理解できずに動いているために
そう呼ばれるのです。

同じ演繹をするならば
いくら社会システムや宗教、習慣、道徳と呼ばれるものがあっても、
その全体が理解できずに動いてしまえば、
どんなにそのシステムを遵守したとしても
それは知性がないと呼ばれて仕方がないと思います。

人間は全てを知ることができない、
けれども知識とアナロジーによって
共通した現象をカバーできます。
その適用範囲がどこまで広がれるかで
それぞれの世界の広さが決まって行くように思います。

地球の広さが理解できたとしても、
地球の裏まで飛行機で行けたとしても、
それは地球をぱらぱらと
流し読みしているようなものかも知れません、
だからと言って一つのことに執着しているのでは
少しも世界が広がりません。

何かを深く知るということは
アナロジーの端緒として不可欠であり
知ったことを展開して新しい世界を広げていくことも
また勇気が必要なことです。

脳が計算機のように何でも覚えないのは、
すぐに書き換わって現状を把握できなくならないように
するためであるように思います。
脳を書き換えるには
おそらく相当なエネルギーが必要なのです。

限りなく小さいが、しかし0ではない

最終段階のデータを取り終えました。
目標を達成した瞬間というのは
現在形であって実は本人も何が起こったかよく分かりません。

事実というのは本来起こった瞬間に発生しているものですが、
人間の認識はある時間を伴って完成するために
事実は常に過去形でのみ語られます。
このことは話題になることをした自分と、
その影響が遅れて伝わる側との時間差に気がつけば
簡単に認識されます。

COURIER JAPONを初めて読みました。
メジャー・レビュー誌をさらにレビューしたような
おいしいところだけつまみ食いするような本かなと
思って読んでいますが、なかなか分かりやすく面白みがあります。

アメリカ大統領が盗聴をしていた話と
CIAが核兵器開発の偽情報を中東へ流そうとしていた記事があって、
以前ならわたしが驚きとともに迎えるところなのですが、
記事になって大衆が知る頃には
現場では未知の現象が次々に起こっているだろう、と
今はそんなことを思ってしまいます。

この世界はいつでも人間の限界に突き当たっています。
いくら文明が発達したところで、
人間が違う生き物に進化しない限りは
さらに多くの事象を把握できるようにはなりません。

一人の人間は多数の人間のある組織の前では
対抗するのが難しいものです。
個人として生き方の筋があることは必要ですが、
だからと言って孤立無援で戦っても動くものは少ないです。

組織は同程度に大きい組織でなら対抗できます。
何かを動かしたいときに、組織という存在が意味を持ちます。
中国の歴史物語はこの辺を良く踏まえていて、
三国志でも西遊記でも、
まず同じ志を持ったものを仲間にして旅を始めます。

日本にとって組織と言う言葉はなぜか後ろ向きな意味を持ちます。
それを表す象徴的な一節は、
元寇との戦いでは日本の侍が勇ましく名乗りを上げてから一人ずつ戦うのに、
敵はただ無鉄砲に集団で襲ってくるというくだりに示されています。

個人というものが非常に成り立たなかったからこそ
美化されて個人での行動が半ば伝説化された日本と、
個人という小さな単位でしか評価されないからこそ
集団での行動に必要性を感じたいくつかの外国、
どちらが理想ということは余りありませんが、
あるものをあるように捉えるならば
集団と戦えるのは集団であり、
社会性が本能であるならばこの問題は常に立ち上るものです。

文化や主義のバリエーションというのはあって当然のもので、
しかしそれが人間の性質をひどく歪めたもので
あってはならないと強く感じます。
そして集団の中で個人は無力と言う表現をされますが、
非常に小さい力ではあるにせよ、それは0ではありません。
忘れてはいけないことのように思います。

土曜日, 3月 04, 2006

特殊なスイッチ

日本語の原稿を書いている最中には
日本語の曲が聞けません。
頭の回路で干渉が起こるみたいなのです。
ところが英語の曲はすんなりと聞けてしまいます。
同様に英語の原稿を書いている最中には
英語の曲は聞けません。
自分の頭は時々メカのようで、
自分の説明書を書いてるような気分になります。

時々、不意ににあるスイッチが入ることがあります。
そんな時は自分が自動装置のようになってしまいます。
自分のことでありながら
自分を大まかにしか制御できないのです。

あげるので欲しい、という連鎖や
自分のためという欲という感情から遠く離れ、
純粋に楽しみのみを伝えようという気分だけで
人と向かい合うスイッチが入ることがあります。
そういう時は不思議と自分の輪郭を失います。

自分らしいこと、というのは
イメージとして形があるように思ってしまいます。
意識と言葉による定義ができそうな気がするのです。
自分が何であるかを手放した瞬間は
逆にイメージがありません。
しかし自分の輪郭がなくなった自分でいる間が
なぜか一番自分らしいと感じる矛盾があります。

意識が位置や速度であるなら、
無意識は加速度に相当する量のようにも思います。

自立についてちょっとした考察を思います。
雇用と被雇用の関係と
自立と依存の概念は本来別なもののはずなのですが、
非常に近い概念なので混乱が起こります。

想像力や発想はとかくすばらしいもののように呼ばれますが、
違いを正確に弁別できないアナロジーというのは
形がないだけに外から書き換えることができず
極めてやっかいな道具でもありそうです。

「自立の概念」を求めて起業する人がいます。
会社に勤める方に多いのではないかとふと考えます。
会社の違いというのはさながら同じ言葉が通じる外国のようなもので、
そのシステムによってずいぶん印象が違います。
民主的な会社もあれば、社会主義的な会社もあります。
分権が成り立っている場所も、一党独裁な場所も、
象徴で動いている場所も、絶対王政の場所もあります。

日本にとって「外国」の定義には
「言葉が通じない国」を暗に含みますが、
世界を見るとアメリカとイギリスは
言葉が通じても外国です。
ということは、外国の本態的定義は「制度が違う場所」であって、
日本の中の会社は十分外国的に違っているのです。

人の大きさと行動範囲、影響範囲、寿命などを
軽く頭に入れてみると、
この地球全てを網羅できる存在にはなれないだろうと
想像がつきます。

例え「これが単一の国で王は私だ」と宣言したとしても、
野球チームのオーナーが選手と観客と球場のドラマを
一人ではどうにも制御できないのと同じで、
宣言すること自体にあまり現実感がないのです。

会社の社長になったといっても
それは社会という大きな入れ物の中で
役割を果たすために預けられた場所である、というのが
会社のもともとの定義であって、
それが自分の所有物であるという実感に結びつくとしたら
錯覚であるような気さえします。

5000万のロールスロイスを100台持っていても、
エンジンのシリンダから自分の手で作ったわけではないので
「自分のもの」という実感は
本当は湧いていないのではないかと思います。

所有するという感覚がもし実感として成り立つとしたら、
それは人間以外のものから
得たものであり、
自分の体を使う必要がありそうです。
野菜を作るといっても種は買ってくるし、
畑を耕すのだってガソリン動力の機械がやってくれます。

じゃあ人間性を回復するためには
分業をやめて個人の単位へ戻せばいいかというと、
これは論点として違います。
分業によって生産性が累乗に増加する恩恵によって
人は余暇を得ることができていて、
そこから人間性を生み出す素地が発生するからです。

文化はさらに加速され続けなければ
ならないのかもしれません。
もし進歩というものがなかったとしたら、
システムは改変の機会を得ることができず、
会社に必要とされるのは「人の言葉が分かり、
忠実に任務を遂行する機械」のような
存在であって、人間性ではなくなってしまいます。
生き物として生きてはいるけれども、
人間としては生きていないのです。

経済成長が長く続く世界は、
おしなべてこの危機に直面します。
「良い時代」といわれた経済成長期が、
人間性にとって危機であった理由、
富によって不幸せになると宗教が説明する事象は
このようにすれば具体的に説明できるかもしれません。

文化が加速すれば、システムは改変の機会を得ます。
つまり、人間は機械のような忠実なマシンではなく、
それぞれの発想とその総和によって現状を開いていかなければ
ならなくなるのです。
このときには「殿様と家来」のような、
社会制度的な上下関係を破ることができます。
全くの個人が個人の発想によって位置を変えられる、
そういう時代が訪れるのです。

安定というものが「不変」であることならば、
人が生まれて死んでしまう不変を破った存在である限り
原義に忠実な安定はありません。
これが富の差を呼ぶのだと危惧されています。

すべての人が生活できるようにすることは
社会の意義として必ず必要だと思います。
しかしどのようなことをしても生活できるようにするなら
それは社会主義であって、
人間は怠惰することが歴史的に証明されています。

やはり頑張るものが認められるように
制度が整うのが理想として良いとは思うのですが、
問題は「何を判断基準にして頑張ったとするか」が
多くの人にとって可観測な状態にないことが多いのです。
人間は他人の心が読めるわけではなく、
24時間追跡調査をしてるわけでもないので、
判断の誤りが生じます。

今の自分ではこの付近ぐらいまで思考すると
問題の問いが最初へ戻ってきてしまいます。
自然が作ってきた生命のシステムによれば
それは自然淘汰という大きな流れの中にいるもので、
それを改変することはできないと思いますが、
もう少しましな方法はないのだろうかと
いつも考え続けています。

この考察、小休止しながら当分続くテーマになります。

火曜日, 2月 28, 2006

イルカに芸を

イルカには人と同じかそれ以上の知性がある、
だから芸を教える方法は知的なやり取りで行うのだろう、と
思っていました。

イルカには知性があってもそれに相当する感覚入力がありません。
皮膚は硬いし高周波しか聞き取れないのです。
表現は体が大きくて細かな作業ができません。

芸を教える、知的やり取りのみによらない方法としての
良い感覚入力はえさをあげることです。
本能に直結している分だけ分かりやすいのです。

もしかしたら人も同じなのかも知れず、
自分を把握でき、状況を細やかに観察できる感覚入力がない場合、
本能の統御によって導かなければならない状況もありえます。

人間という生き物が「人間」という社会的に認められることは
もしかしたらかなり難しく、
生物の成り立ちには何らかの理由があるという連想によれば
人間になれない人間がたくさんいる、とまことしやかに言われるのには
恐らく何らかの理由があるのです。

金曜日, 2月 24, 2006

甘くない酒、甘くない曲

我を忘れるという心地よさと、
自分と向かい合い手ごたえを感じる満足感があって、
それは甘い酒を飲んだときの陶酔感と
甘くない酒を飲んだときの覚醒感に似ています。

人生にはこの両面があって、
どちらにもこの世界に求められるだけの価値があります。

さわやかに飲めるウイスキーの水割りを除けば
最初から最後まで甘い酒ばかりを好んで飲んでいました。
口に入れたときの馴染みがやわらかくて心地良いのです。
しかしいつまでも飲んでいると何かがもやもやとして、
次第に割り切れない気分になってしまうことがあります。

それは一時の落ち着きが得られる場所が欲しくて
他愛のない話題で盛り上がってしまった場に顔を出して
最初は居心地のよさを感じながら、
十分さと退屈さがない交ぜになった感情になって
自分の形がなくなるほど埋もれてしまう前に離れてしまいたいのに
なかなか席を立てないでいる自分の割り切れなさに
とてもよく似ている気がするのです。

永遠や、恋や、あなたがいないと生きていけないとか、
それは言葉なのになぜ味と同じ「甘い」という表現をするのかと
ふと思います。
それは甘い酒と同じニュアンスを多分に含むからかと
考えていたりして、
でもきっとそれは今までたくさんの人が至った
ある感触でもあるのだろうなとも思います。

じゃあ最初から甘くない、
ドライなものばかりで良かったのかというと
それには一抹の疑問が残ります。
手ごたえや厳しさは生きる刺激ではありますが
豊かさや感情的な共感からはずいぶんと距離があります。

後ろ向きな側面を取り出せば
甘さの只中から抜け出せない怠惰、
苦さの只中で感じる消耗感があって、
どちらも万能ではありません。

年月が経つとなぜ甘くない酒が良くなるのだろうと
ずいぶん不思議に思っていました。
自分と向かい合うもう一人の自分ができていくからなのか、
それとも小さな刺激に慣れてしまったからなのか、
いくつかの理由が混在しているようです。

前向きな側面を取り出せば、
甘さの中に浸る優しさと陶酔感、
苦さの中で感じる瞬間の手ごたえや輝き、
それら全てはこだわりや偏りを多分に含んだ
アンビバレントを矛盾なく内包し、
全人間的で豊かな性質を獲得するために
十分すぎるほど経験したいものです。

社会という大きな入れ物を俯瞰するならば
甘さや苦さという要素はひとの個性差から生じる
マーブリングを施した絵のようになっていて、
それぞれの人が深く関わっていくことで
必要なときに甘さや苦さを得られるように
できているような印象を受けます。

全能の神のような完全性など持たない、
だから物事は豊かで複雑という
不可分な両面を背負います。

月曜日, 2月 20, 2006

運命について

メールは見たくない、
メールを見ると仕事が始まるから、と言ったのは
亡くなったボスで、
時に電話を非常に煩わしく思うわたしには
その気持ちが良く分かります。

本来メールは読むことと返信に時間の余裕があることが
一番の利点だったのですが、
10分以内に返事をしないといけないようなメールは
電話と同じです。

一人の時間が好きで、
一人を楽しめる人といるのを心地よく感じます。

数回しか経験がありませんが、
仕事で外国に一人で行くとほっとして心が落ち着くのは
誰にも手が届かない自分が
比較的簡単に手に入るからです。

運命という言葉を
自分の表現として使ったことがありません。
「それは運命だ」と人間という存在が話し
認めてしまうことはあまりに心許ないのです。

人間は自分の五感以上の感覚がありません。
世界の動きが手に取るようにも分かりません。
だからもし運命があったとしても、
本来それを知覚することができないのです。

運命という言葉を使わないのは、
それがしばしば自分に都合のいい解釈の理由付けとして
使われているからです。
自分に降りかかった苦難や悲しみを
これがわたしの運命なのかと問いはしても、
それをわたしの運命だと受け入れる人はごく稀だからです。

運命は思い込みとは違います。
世界はこのまま変わらないと感じることも、
世界は変えられるはずだと感じることも、
どちらも思いの中にあるもので
変わらないこと、変わることのどちらも運命ではありません。

だから人が今まで信じていなかったことが
ある事実の表出と一緒にがらりと認識を変えると、
今まで起こらなかったような現象になりますが、
人の意志の総和は社会の流れであって、
社会と自分との関係性は運命ではないのです。

しかしそれなら、と思います。
全てが世界のある一点から時間発展的に成り立ったのなら、
全ての現象を含めて運命と呼ぶ限りにおいては
納得ができるように思います。

わたしという存在が自由に表現することも、
また時に制約を感じることも、
運命を信じないことも、またその認識に変更を加えることも、
それら全てがある必然の元にある、
それがわたしなりの運命の解釈なのだと思います。

金曜日, 2月 17, 2006

たった一つだけ、アドバイスを残すなら

デジタル・デバイスが好きで、
デジタルカメラやPDAやタブレットを買ってみたのですが、
使いこなせるようになるまでに何年もかかっています。
呆れるほど物覚えが良くないです。

手引きというものがあって、
横断歩道の渡り方から税金の納め方、
パソコンソフトの使い方から大気圏突破に必要なエネルギーの求め方まで
実にたくさんあります。

人生の手引きをしようとするものもたくさんあって、
幸せになる方法から悩みの解決法、
果ては自分探しに至るまで
実に細かく示されています。

ところがいくら読んでも役に立つ気がしません。
パソコンソフトの使い方が分かったからといって
それを何に役立てればいいかはそれぞれが考えることです。

ほとんどのものは行動の前に動機を必要としますが、
動機よりも行動を求められることが次第に増えています。

動機という未知なものが人間の本性につながるものであれば、
たった一つ役に立つアドバイスは、
あなたがあなた自身の動機に忠実に従い、
自分の人生を生きなさい、
という一言で十分な気がします。
しかしこのアドバイスさえ必要ないのかもしれず、
アドバイスなんて何もないのかもしれません。

動機は欲望でも独りよがりでもありません。
人の意見に従いたければ従えばいいし、
違うと思えば違うと思っていいのです。
自らが自らの観察をして制御するなら、
自分に必要な人付き合いの量を選ぶでしょうし、
意識になくても助け合って生きることが行動に出るでしょう。

社会のシステムに従うかどうかより、
自らの動機が分からず、それに従えないということこそ
個人の生きる手ごたえにとって重大な問題なのです。

自らの動機には人を助けることで幸せを得るもの、
人と競争して切磋琢磨するもの、
自らの洞察によって思想を深めるもの、
人を幸せに率いることが自らの使命と定めるものなどが
動機という個人の特性として含まれています。

どんな強烈な外乱の中にあって、
どんなに人の意見を考慮して動いたとしても、
どうしても持ってしまっている特性だけは変わりようがない、
これがこの数年で一番強く意識されたことでした。

言葉にすればわずか数言で済んでしまうようなことですが、
それがわたしの本性だという実感があります。

この世はある一点から時間発展によって生じたとすれば、
その全てが必然の元にあるのであって、
わたしがどう生きたとしてもそれはわたしの「特別な自我」ではなく、
人間という容器と能力の範囲に収まるものであり、
大きく見れば世の必然にしかならないのです。

信じる宗教がなくても林檎は木から落ちるのであり、
どんなに頑張っても
この世の仕掛けというものを逸脱することはないのです。

制御が好きで

自分の好きなものとは、
それを続けても苦にならないものを言うようです。

制御の難解な点は
自分だけのルールを押し通すのではなく、
あるいくつかの定められたルールをまず理解することが
必要です。
しかし理解するだけに終わってはならず、
それを役に立つよう導く所までが仕事になります。

人から見ると不連続で独創的なものというのは、
作る本人にとっては何らかの系譜に沿っているものじゃないかと
最近考えています。
何らかのきっかけがあって事態は生じるもので、
時に誇張して「神のひらめき」などと表現されるのですが、
本人にとってはある流れがあって、
独創とは思えない場合も多いのです。

謙虚であることは大切ですが、
だからといって自信まで失うことはないのです。

水曜日, 2月 15, 2006

変換装置を通過して

2日間、48時間試験が終わりました。
ほとんど朝夜の習慣ごとを抜いてしまったので
月曜が終わったばかりとさえ思う
浦島太郎の気分です。

気持ちの良い人は多分たくさんいます。
ただしその人が快く紹介されるとは限らない、ということを
ネットの記事を読んでいて思いました。

有名人はいろいろなものに紹介されます。
紹介というのは他人がその人について述べたことであって、
信憑性を上げるために取材を載せますが、
その内容は肯定的にも否定的にも「解釈」できます。

古いということに対する安定と退廃の2重定義、
新しいということに対するエネルギーと不安定の2重定義などは
いつの世でも飽きもせず繰り返される議題です。

ネット記事というのは紙面広告と若干違って、
同じ画面でそのまま自分のサイトや商品紹介、注文へと
誘導することができます。
類似のサービスは送料無料の葉書広告ですが、
これはポストに行く手間がかかります。

ネットで買い物をするかしないかより、
買い物の結果何ができたかが概ね重要なのは買う側で、
相手の都合が何であるかよりも
買い物をしてもらえたかが概ね重要なのは売る側です。

売ると買う、ただそれだけのことに
感情という大きなノイズが乗っています。

仕事のある側面が嫌いです。
何でもお金で判断してしまわれることがあるからです。
主に広告によって欲望を煽られています。
広く思想を伝えることも物を買って欲しいと訴えるのも
ともに広告の漢字的な意味です。

宗教観がない、ということは自由なようでいて、
固定概念を変えるための外力も失った状態になります。
包丁がないと料理ができないわけではありませんが、
手づかみばかりでは進歩もしないのです。

それぞれの時代にあった先鋭的で常識を逸脱した思想は、
固定概念を変える可能性があるために危険視されるか、
行き詰まりを変えるために歓迎されるかします。
少し時間がかかっても、次第に世に受け入れられ、
長く効果が出るような仕事をしたいと思います。

宣伝が嫌いなのは、
自分の欲求を操作しようと彼らが試みるからです。
煽られ、挑発されて手に入れたものは
自分の満足と共に心静かに持つことができず、
誰かにそれを見せたくなってしまいます。
長い文化を持った国は
そういう情けないことをしてはいけないと
自省しなければなりません。

ネット広告やバナーには転職関連の記事、
特に年収がどうだといかいうものが
常に目に飛び込んできて
なんだか目障りに感じます。

確かに年収というのは人が共通に持つ
出来事の側面なのですが、
それの大小を測るというのは
小学生が珍しい牛乳のふたの多少を測るのと同じです。

お金にも流行り廃りがある、と考えれば
「価値観の転換」という言葉には意味があります。
およそ共通と思われている物欲、金銭欲とは別に、
個人があり方を考えて意味を見出すことが
価値観を変えるという表現で表されているように思います。

お金というのは現場で使う際に便利ではありますが、
その概念のプロパーな取り扱いが非常に煩雑です。
簡単な面ばかりが強調され、
実体にある二つの側面が自体をややこしくしています。

めぐり巡ってこの話は、
あるものそのものが良いか悪いかに関わらず、
それを誰が伝えたかの方が受け手に重く意味をもつ、という
結論に至ります。

木曜日, 2月 09, 2006

メールは実体か否か

スケジュールが再び詰まり始めて
妙な緊張感が高まっています。

ほとんど信用していなかった装置の中に
FAXがあります。
紙が詰まったら読み取れないし、
いつ読まれるかも不明だからです。

FAXよりは電子メールは信用しやすいものでした。
当初は配信遅延が相当多かったのですが
現在は特に困ったことが起きません。

電子メールより携帯メールは信用できました。
相手の手元に届くし、
vodafone同士なら送られたことはちゃんと通知されるからです。

FAXを日常的に使い始めて、
送ったり受け取ったりするうちに
不思議と信用するようになりました。
エラーが出ることもあるのですが、
それでも「まあこんなものか」と気楽に感じるのです。

状態として何も変わっていないのに、
ないと思っているものは存在せず、
あると思うものが存在します。
幽霊は私にとってない存在ですが、
どこかの誰かにとっては実在です。

人のつながりはこのFAXに不思議と似ています。
あると思えばあり、
ないと思えばないのです。

水曜日, 2月 08, 2006

じゃあ、お金で買える物は何なのか

シュガーパウダーを振り掛けるように
粉雪が降りました。
コメントくれた方がいるのに
サーバーエラーで読めません。
良かったらもう一度コメント下さい。

マスターカードの
pricelessをキーワードにした宣伝があります。
具体的に買ったものの値段を挙げていって、
その結果何かpricelessなものへ至るという流れです。

自分の中の理解が未分離なので演繹してみます。

買うという行為はお金を自分が出し、
物かサービスか権利を自分が受け取ることです。

物に値段が付いている内訳は
開発費回収のため、宣伝に使った分のため、会社を大きくする分のためなど
複数の理由によっています。

値段に納得すれば買う、
この言葉は何に納得するかで異なります。
服であれば、自分に似合うという納得と、
値段が高いものを身につけているという納得、
作りの丁寧さや流行に合っているという納得などが混在していて、
人によってその重み付けが違います。

納得して欲しくても買えないことがあります。
お金が十分にあるというのは、この買えない壁を
取り除く意味を持っています。

買ったものには何らかの使い道があります。
服なら着るし、デザートなら3時に食べます。
何もしない「置物」も置いて見ています。
人に見せなくても、自分が持っているという意識があります。

買って持つ、という行為が
人によって意味合いを変えます。

物と対話するように何かを買ったり所有する人は
持っているだけで喜びを感じます。
そこに他人は必要とされません。
しかし人に見せるために何かを買ったり所有する人は、
持っているだけでは喜びを感じません。
そこに他人が必要になるのです。

自立と孤立、
この言葉を最近2冊の本で相次いで見つけました。
自立のためには対話する「もう一人の自分」が必要である、というくだりで、
物を擬人化することでも間接的にそれは得られます。
しかし物に依存してしまうと
一種の偶像崇拝になります。

じゃあ物があれば人間には迷惑がないかというと
それは別の問題です。
人を必要とする人が人を失うと嘆き悲しむように、
物を必要とする人が物を失うと同じように嘆きます。
物に傷が付いたり失われたりしてひどく怒り出す人は、
それを自分の分身か愛する誰かのように捉えているからです。

仏教の解説に「無権利の確認」というくだりがでてきます。
自分が持つもの、意のままにできるものは何一つないことを
改めて知りなさい、という意味なのだと考えています。

ここまで考えてみて、
個人として生きるということは可能であっても
人の中で生きるということは可能になるとは限りません。
社会性は人が獲得した本能で、
自分が社会的に意味があることを確認していたいものなのです。

社会的な意味を作り出すために、
人はいろいろなアプローチを考え出します。
見た目が美しいほうが受け入れられやすいという判断をすれば
着飾ったりすることに集中し、
人のために尽くすことが受け入れられやすいという判断をすれば
ボランティア活動や仕事に力を注ぎます。

ここでお金と仕事の接点が現れます。
社会的に受け入れられる仕事の評価や対価としてお金をもらう、
ということだけが単一概念として受け入れられていると、
仕事の評価の代わりにお金の多少を参照します。

参考程度にしているうちはいいのですが、
そのうち仕事の評価のほうがなおざりにされて
お金の多少だけが一人歩きし始めることが多くあります。

仕事の評価がお金の多少へ反映することも、
お金の多少が仕事の評価の反映であることも、
その双方向の流れがもともと絶対的ではないのです。

水木しげる「水木さんの幸福論」では、
「努力は報われず裏切られることがある」という一言で、
この双方向の流れが絶対的であるという概念を
固定しないよう説かれています。

お金を多く持つ人の中には、
たくさんの人のためになったと認められた結果の人と、
そうではない理由による人とが混在しています。
それでもお金を欲しい、お金があることを示したいと思う人は、
お金の多少によって「ためになった重要な人」と思われたいのだと
ふと思います。
これが「お金で買えると思っているもの」のある人たちの結論です。

VIP待遇って何のことだろうと思っていると
Very Important Peopleなのだそうで、
お金持ちな人と重要な人はイコールではないのに
呼び名がそうなっているのでは
認識が混在するのも無理はありません。

問題は、真に人に認められる満足というものが
実際にはお金では買えないということにあります。
建設的な提案には、自らが他人となって自らを認めるという
方法があります。

この省略形が「自己満足」であるようなのですが、
なぜか自己満足という響きは肯定的に用いられることが
少ないようです。
これは「自己中心」とか「利己的」と
混同されがちだからなのでしょうか。

他人からの承認が絶対的な価値を決めるものではない、
この意識が自らに自信を持たせるために必要なはずですが、
これを広めようとすると抵抗が起こります。
ブランド屋さんはその「普遍的に認められる存在」という意識で
命脈が繋がっている面があるためです。

小さく、あまり認知されてないものは信用を得るのが大変です。
特に日本人は誰も知らないものに
自らの判断で興味を示しにくい傾向があります。
おのずと結果ばかりが重視されるようになります。
一生懸命結果を出すと認められるようになるのですが、
今度は認められることを足がかりに事業を展開しようとします。

asahi.comのネット広告で
「松下だから安心です」というくだりがあったのですが、
実績は長いとしても
工場をあちこちで閉鎖し、賃金カットをして
ファンヒーターの修理に奔走している、
こういう現実はどんな会社にも起こりうるのですが、
しかし「松下だから」とはちょっと言い切りすぎてないかと不安になります。

人にも良い影響を与えるような自己満足とは
どうやって作ったらいいのでしょうか。

まず「人に良い影響」が何であるか考える必要があります。
一義的には言えないが抽象的解ですが、
生き物は生き続ける事がその目的であるとすると
長い目で見てその人の生活や行き方に満足が得られる、というのが
一般的に良いかと思います。

しかし生きているだけでは人間的に満たされないと考えた場合、
短い目で見て、結果が出ない時点であっても
その方向へ向かうこと自体に満足が得られる必要があります。

競争原理が人の限界能力を伸ばすと言いますが、
それは分かりやすく過ちやすい目標だと思っています。
競争は他人を使って満足する方法であって
自己満足ではないからです。

先生という職業を難しいと思うのは、
生徒を教えた結果、有名大学にいけたという数が
評価の対象になってしまう点にあります。

入学の時点で概ね進学欲のある人を選別するのですが、
本人たちが進学を望まないと途中で気が付いても
自らの評価が必要なために生徒に
大学を受けさせようとしてしまう先生が出てきてしまうことになります。

もっとも、それは畑作りが上手な人と同じようなもので、
できる人はできるし、
できない人はできないものだとも思います。

ここまで考えると、競争原理を発動したがる側というのは
人の行動を管理する側だということにも気がつきます。
なるほど競争原理というのは簡単な麻薬のようなもので、
数字で判断ができるため見た目に分かりやすく、
早く結果が必要な場合に誰でも使える思考です。

競争ではなくて人を動かすことは
管理側の人間にとってかなり負担になります。
やる気とかモチベーションと呼ばれるものを引き出すには
試行錯誤が必要になるし、
人徳とか信用というものを人の心に発生させるには
かなり時間がかかるからです。

見た目に分かりやすい、
これを絶対善としてはいけないという結論になります。
まるで偶像崇拝のアナロジーのようです。

管理側の人間が挑まなければならないことは、
競争原理を使わずに組織をつくり、
かつ非常に強力な競争原理の組織よりも
実りある結果を出して存続することです。

相手の組織に勝つのではなく、
競争原理という概念に勝たなければならないのです。

最近、社会に挑むという言葉は
人そのものに挑むのではなく、
既存概念やシステムに挑むという言葉であるように感じます。

研究を続けて思うのは、
分からないことが自然の何かである場合、
その仕掛けを理解するという戦いを挑みます。
たとえば鉄が溶ける温度が分かれば
温度域の設計によって強度を保つ目的が達成され、
建物の共振周波数が分かれば
地の神様にお祈りするよりは
地震によって建物が倒れるのを防ぐ確率が上げられます。

このアナロジーを先ほどの話と重ねると、
自分が始めることは
社会は善だとか悪だとか単純すぎる切り分けに逃げることを
ひとまず保留し、
社会という組織に何が含まれるかを
まず実験的に理解するところから始め、
理解が得られた範囲で対策を考えれば良いと考えます。

社会契約論では、
人は生まれながらに社会に属するというのですが、
属していることとそれが理解できていることは
全く違う話です。
これは野球のルールと面白さが分からなくても
球場に行けば野球観戦ができる様に似ています。
周りが騒げば良い結果が起こったのだろうと感じ、
同調すると分からなくても騒げます。

自らの判断をすること、
それはルールが分かっているものに対してのみ行えることで、
そのルールを理解することは直接お金では買えません。
しかしお金を持っている人は
お金の影響で自分が理解したようなルールに
社会を変えられないかと試みることがあるでしょう。
意識は形ではないのでどちらにも変わり得ます。
それを「買えるもの」にするか、それとも「買えないもの」にするかは、
一人一人がお金に左右されやすいかどうかという傾向の総和として
現れてくるでしょう。
そしてルールが「買えないもの」であるよう保てれば、
人に行動を左右されない個人の自由も
またその中に保たれることでしょう。

水曜日, 2月 01, 2006

心の声

明け方まで印刷機を回しました。
寝不足で目も回りました。

意識というものを重要視とか特別視する、
特に現代はその傾向にあります。

意識が特別なのはなぜでしょうか。

意識によって自分と他人の区別をしています。
一切の行動表現をしなくても意識を変えることはできます。

腕が動くように意識は自在に操れると思い込んでいますが、
まんがのトレースがとても難しいように
意識の操作は簡単には行えません。

同じ表現が違う意味を表すことがあります。
横断歩道を手を上げて渡ることと
歩きながら手を上げてタクシーを呼び止めるしぐさは
同じ表現で違う意味です。
意味の違いは意識が行います。

意識を作る要素がいくつかあります。
未解明の超自然性を除けば、
哲学は思考のアプローチ、特に思考の繋ぎ方を変えるもので、
薬剤や栄養学は脳を含む体としての性能を変えるものです。
思考の変化は体の性能に影響し、またその逆もあるため、
システムのように連動した働きになります。

万物の動きが、人間には理解し把握できなくとも
厳密な法則の元に成り立っていることは間違いなさそうで、
人間も物体であるならある法則に従って動いていることになります。

ここで意識というのが全て物理反応の経歴で示される、
この前提を受け入れるなら、
自分が思っている自由という概念も、
その概念が何らかのきっかけ、本や行動によって変わることも、
目に映る現在の像もある法則によって自動的に成り立っていることが
疑いのないものになります。

頑なに旅行を嫌う人がいて、
たとえばその人を説得するとか、
それでも良いと放っておくのか、
その選択は自分という自由存在がしているようでいて、
実はその決定は物理法則が決めている、としたら
既に定められた法則の上をさまようしかない意識は
何を思えばいいのかと少し考えます。

自分の中のこの問いは最近考えが進んで、
物理法則が決めていたとしても、選択を判断する時点で
人間にはその作用素を全て理解できる能力がないため、
支配されているように「感じる」かどうかは感性に委ねられます。

ではこれで十分かというとそうではなくて、
物理法則が選んだ一形態が人間であると、
人間そのものに関してはある規則性があります。
食事をし、眠り、社会的行動をする特徴から
その「社会的まとまり」と意識との関係は
十分考察されべきテーマだろうと思います。

物理の法則は確かに存在している、
しかしそれがなぜかを知ることは人間である以上不可能であり、
人生に目的があると考えるとするならば
それは人間が生き物と呼ばれるシステムを持っているために
生存を第一目的にするためだろうと考えられます。

全てが物理法則の元にあっても社会学に意味がある、
この関係はたとえば素粒子物理学があっても
流体力学が存在する関係に等しく、
それは素粒子物理は流体力学を内包しますが、
流体力学はそれに固有の法則や性質が厳密にあり、
一見素粒子の成り立ちとは無関係に取り扱えるからです。

哲学というのも
ある限られた条件において定められる
応用=バリエーションのひとつであります。
それがいかに複雑で機能に富んでいるとしても、
それは基礎法則の境界条件に基づいた展開の複雑さを
解いているようなものです。

哲学者、特に意識の絶対化が前提になった思想は
たとえば宗教です。
世界は球形だと科学が証明したとき、
仏教は世界を須弥山という山とお盆でできていると説いていて、
物理の受け入れ、仏教の実在性に相当な論議を呼んだそうです。

意識さえも基本則の展開であると認めるならば、
この時点で実は人格を持つ神の存在が間接的に否定されます。
ほとんど全ての宗教は「神の意思」に自分の自由意志を固定することを
要請するもので、神の存在が物理的に知覚されない以上、
その議論の展開はあくまで仮定が前提です。
素粒子物理でも実験によって証明されないうちは
さまざまな仮説が実験事実をうまく表現しており、
仮説はいくらたっても仮説のままです。
そして物理法則の展開が人間に「神」なるものの存在を思い付かせるわけで、
神が存在し人間がそれをあらゆる制約とは独立に、自由意志で発見した、
ということにはならないからです。

人間も物理諸法則にしたがって成り立つ「物体」である、
この意識がもっと正確に広まらないかな、とふと思います。
人間の目的性やロジックとしての悩みというものは
勝手に作った仮定と仮説の上で遊んでいるようなもので、
生き物として自動的に反応してしまうことはあっても
それが世界の全てではなく、
本来苦しむことではないからです。

長い助走区間

1枚、と英数字の1を出したいときに
なぜか"i"のキーをタイプしてしまいます。
"iti"と"1"の回路が干渉するのでしょうか。
それとも文字の形的に干渉するのでしょうか。

ライブドアの話、少し詳しく書いて見ようと思います。

ちょっとした論調として、
「彼は善か悪か」という雰囲気のものばかりですが、
個々の事象については冷静に見たものが良いものが多いです。
自分たちはさんざん通信簿という多面体的評価をされてきたのに、
人を二元論で片付けるのはバランスが悪すぎます。

彼が「古いしきたりを壊す」と言ったその姿勢には
建設的な意味も多く含みます。
カネボウの例にあるように
日本が封建的で閉鎖的な社会構造であることは確かで、
新規参入を拒み、既得権益を守るのに都合のいい
システムができています。

買収劇は少なからず既得権益の上にあぐらをかいていた人にとって
ポストを奪われるという戦慄を感じたものと考えます。
正しい競争原理は必ず必要で、
ソフトバンクやウィルコムが携帯に参入することで
市場原理に沿わないサービス料が改善した経緯と同じように、
最終的に消費者が良い選択をできるよう促されます。

そう考えると、
買収劇は競争原理というより
支配・被支配の関係に近い感じがしてきます。

お金で買えないものはない、このことは
多分バブル的な発想を持っているかなりの人は
当たり前のこととして思っているはずなのですが、
あまりに露骨なので表に出しません。
明言したことは社会的な追い風を得るには不利に働きます。

急成長しすぎたことにも問題があります。
球団買収などを手堅く行い、買収した企業で
実業方面によい成果を上げていけば
顔の見える会社になれた可能性があります。
実業方面に影響が残らないということは
経営が傾いた後で形になるものが残らないわけで、
形がないものは比較的早く忘れられます。

もし彼が社会システムを変えるつもりだったのなら、
支配関係ではなく競争関係として参入すればよかったのだと
考えます。
しかし彼は会社でお金を得る方面に集中しすぎたために
手段を選ぶのを忘れてしまったのかもしれません。

生意気だからつぶされるんだ、
だからみんなもおとなしく言うことを聞きなさい、が世論の結論だと
納得してはいけないのです。
正しいことをし、正しい競争をもって、
しかし会社が大きくなっても巨大企業同士のもたれあいや
談合状態で馴れ合いにならず、
既得権益に対してまっすぐ戦っていく、
そうあるならば社会の風が押してくれたかもしれません。

この国は正しい風を吹かせる力が少し弱くて、
追い風によって大きく育つのではなく
大きく育ったものにより強く追い風が吹く状態で、
そのことに歯がゆい思いをしている人たちがきっといます。

早上がり、早熟ばかりが目立ちもてはやされる空気ではなくて、
風雪に耐えきちんと花を咲かせる人たちをよりよしとするなら
もっとみんなが強くなれたという手ごたえがもてるでしょう。

月曜日, 1月 30, 2006

書き物考

大きなドラムです。

検出器の外側のようです。

書いていた論文、150pと予想していて、
できた量が最初130ページだったのですが、
レイアウトをやり直した結果149pになりました。
だいたい思った通りです。

書き物がほとんどなくなって
久しぶりに心は平和です。

しかしなぜ書き物が心を乱すのか、
時々考えます。

肉体的辛さというのは確かにあるのですが、
数日眠れれば元に戻ります。
精神的辛さというのはあまり元に戻りません。

いろいろな人に話を聞くと、
書類書きというものにはとても抵抗があります。
文字をたくさん見ると、多分意識が混乱してしまうのです。

火の玉を出す魔法はありませんが、
人の意識に訴える言葉は魔法のようでもあります。

月曜日, 1月 23, 2006

繋がっている、切り離されている

紙飛行機の代わりに、
封筒に切手をつけて飛ばしました。
研究者は一つの自営業だと思っている
今日この頃です。

会社が利益を得るための方法の見方として、
売り切りにするか継続にするかの区別があります。
お菓子のように売ってしまうと終わりなのか、
携帯電話のように一度もつと維持費がかかるものに
大きく分けられます。

売り切りでよいものは生産物で、
本や車や洋服、ipod音楽などのメーカーは常に売り切りです。
その生産物に対して維持するサービスは別にあって、
車の修理工場やファッションアドバイザーなどはそちらです。

物が売れない、というのは
景気が落ち込んでいるという比喩的な意味と、
売り切りタイプの生産物の購買が減少しているという
二つの意味で使われます。

必要不可欠な生活商品が揃うと購買が減るので、
方向としては単価の引き上げかメンテナンス型サービスへと
向かいます。

売り切りは商品さえしっかりしていて返品が少なければ
その後の面倒を見る必要はなく、
売れば売るほど利益が上がります。
その代わり売れなくなると商材の生命は終わりです。
維持型は一度顧客を囲うと継続して利益が得られます。
しかしメンテナンス料に足るサービスを提供し続ける必要があります。

飽和型社会を面倒に思う点は、
いろいろなものが連動し始めていて切り離せない点にあります。
それは集落型の人間関係と都市型の人間関係の違いと同じで、
結びつきが強くなればなるほど不自由感がでてくるものです。

エステだって売り切りのようにすると
サービスを買う側に自由さがあって楽なのですが、
エステの会社は継続して通ってくれることを求めてくるため、
とても不自由に感じてしまいます。

銀行やローンの会社も事情は同じで、
よく返してくれそうな会社には
その資金が必要であるかどうかに関わらず割増しで貸付を行って
継続的に金利を得ようと必死になります。

求める立場なのか、求められる立場なのか、
それは時間にも相手によっても異なり、
いろんな糸が立体的に交差しているようにも感じられます。

以前日本史の研究者から
「本当の自由とは何の制約もないものだ」という言葉を聞いて、
時折その意味を考えます。
以前も考えたとおり「自由」と「自由度」は違うもので、
「義務と権利」の「権利」に当たるものは自由度であって
自由ではありません。

自分の周囲には自由が少ないと雰囲気で思っている人は
きっとたくさんいて、
それは連動することのオーバーヘッドを
毎度解く必要があるからです。

自由をもてあまして不安になってしまう人は
何らかの外的条件に拘束されているほうが落ち着くもので、
ただそういう人が多すぎると
都市全体で村社会を作る結果になります。

自由になるということは、
制約条件を打破するという面が一方で必要で、
しかしもう一方で自由の頼りなさと本気で向き合うことで
相手を拘束する願望をもっと減らすことが必要です。
それは一人の人間の存在と頼りなさの源を同じにするもので、
実行はなかなか難しいものです。

plan, do, and see

食べるのも好きですが
作るのは同じかそれ以上に好きです。

スコッチウイスキーで香りをつけます。

バルサミコ酢はお醤油のような旨み調味料で、
付け合わせが楽に作れます。

木曜日, 1月 19, 2006

あれとこれを繋ぐもの

アンチモンの鉱石です。

人工の造営物に魅力を感じることもありますが、
石が自然に作る規則性に魅入られることがあります。

朝日新聞の絵本について語る一節があって、
鬼に峠の橋をかけてもらう代わりに目玉をよこせと言われる
話があって、つなぐことの難しさをふと思います。

あれとこれ、簡単に繋がるようでいて
実は繋がる部分がとても難しいものです。
たとえばエンジンとシャフトを繋ぐギアは台形歯車を4つ対向した
ディファレンシャルギアと呼ばれるもので、
見るからに複雑な動きをします。

インターネットが難しかったのは、
仕様も速度も違うネットワークを統一することで、
TCP/IPはいくつもの階層に分かれて差を吸収しています。

メーリングリストはある、けれどもそれが機能するには
文字以外の繋がりが必要だったりします。

カタログで構成部品は規格品がいくらでも買えるのですが、
それを繋いで機能化する段に独創性が現れます。

あれとこれの境界部分に自分を置く、
自分は頻繁にその作業を続けています。
繋ぐ作業は決して単調な仕事にはならず
頻繁に難しさを感じますが、
それらが機能として一体に振舞う瞬間というのが
とても嬉しいのです。

水曜日, 1月 18, 2006

EXPACK500

パッションフルーツが好きで、
トロピカーナ夏季限定のオレンジ+パッションフルーツを
見つけて1箱買って来ました。
研究室に非常食用のカップ麺をたくさん買って
置いているのですが、
思ったよりほんの少し予定が早まったので
食べ切らないかもしれません。

速達には手続きが必要、というわけではないのですが、
重さが分からなくて結局郵便局へ向かってしまいます。
その点EXPACK500は便利で、
ポストに入れるだけで無条件に速達扱いにしてくれます。
ちなみに、厚紙の封筒に入れば少々膨らんでいても良いのも
なかなか気が効いています。

封筒は248mm*320mmの厚みがないサイズですが、
20mmぐらいは平気です。
こうすると容積は1.5Lぐらいになります。

郵便局のHPには"30kgを超えて入れられません"と書いてあって、
1.5Lで割ると比重20g/cm2まで大丈夫という計算になります。
これは金の板を封筒一杯に詰めて送っても大丈夫という規格で、
全く心配が要りません。
しかしこんな封筒が30kgもあったら大変だなあと
真面目に考える一方、
30kgにした背景は上記と同じ思想で考えたんじゃないかと
なんとなく想像してしまいます。

金曜日, 1月 13, 2006

叶わぬ願い

ボスが生きていてくれていたら、
ここ一番で絶対に推薦状を書いてもらおうと
心に決めていたのを今さらながら思い出しました。
今日はなんだか悲しくて泣いてしまいそうな1日です。

水曜日, 1月 11, 2006

加速度

運動という言葉にはややストイックな修行のイメージ、
活動的で競技的なニュアンスがあって
もう少しいい言葉がないかと考えています。

物体の位置は見ることで分かります。
物体の速度も見える範囲で分かります。
ところが加速度は目で見ることはできず、
力として感じるものになります。

ニュートン方程式の示す式は
とても少ない文字で書けてしまうもので、
アインシュタインの質量とエネルギーの等価性も
とても少ない文字で書けてしまいます。
じゃあ世界は簡単かというとそうではなくて、
簡単な式は適用する場面に応じて無限にその姿を変えます。
質量の項が複数になり、行列になり、
加速度が積分されたり、相互作用が生じたりして
もともとの簡単な式とは似ても似つかぬほどになります。

速度が速いものは見た目に派手ですごそうですが、
抵抗のない系ではエネルギーが失われないので
一度加速してしまうとエネルギーが与えられなくても
飛び続けることができます。

それではあまりつまらないのです。

常に力を感じたければ加速度を与えるしかなく、
そのためにはエネルギーが必要です。
こう書いてしまうと読みようによってはただの物理の話ですが、
こんな人生でいたいなと願う自分のヒントのようでもあります。

木曜日, 1月 05, 2006

3冊選びなさい、といわれたら

今日は妙に血が頭に集まっているようで、
めまいがします。

信教の自由、というものがあって、
「公共の利益に反しないように」と定められています。
受刑者が希望する持込図書は
経典として認められれば別枠扱いされるそうで、
オウム説法集は3冊までと定められた「一般図書」とされたことに
訴えが起こっているのだそうです。

いろいろと考えを巡らせます。
一般図書とされた理由は、一種の「危険思想」であって、
読み進めた場合犯罪やテロを招く恐れがある、という解釈が
言外のうちに進められているはずなのですが、
それを言うなら他教を排除するキリスト教やイスラム教だって
立派に犯罪やテロを招いています。

「公共の利益に反しないように」という言葉は曲者で、
さまざまな解釈ができるからこそ問題が起こります。
言論統制が行われようとしている国会インタビューの話を見ると、
人権を盾にとって悪事を隠そうとしています。

それぞれの名前のついた個人にプライバシーはあります。
しかし国会議員という公人に秘密は必要ありません。

信教の自由というのは
それ自体がリスクの大きい権利なのだろうと思います。
人が決めた全てのことには
完全な正解や間違いが定義できないからです。

ただ衝突のない画一化された世界を理想とせず、
自由な言論が確保された上で常にせめぎあいの中にある、ということこそ
本来は揺らぐ世界の健全な姿であるのかもしれません。

もし3冊選べといわれたら、
最初の1冊に岡本太郎の本を入れ、
残りは適当な物理の辞典と厚い英語大辞典を選びます。

火曜日, 1月 03, 2006

前衛と、モダニズムと

「今日の芸術」からの一節で、
芸術の側面には前衛とモダニズムがあるといいます。

モダニズムは心地よくて好まれる、
前衛は理解されにくい、この図式は
量産技術と先端技術の構図にも当てはまります。

ちなみに、前衛はモダニズムの領域を開きますが、
その逆は成り立ちません。
つまり、スマートさを身につけたいと願うのであれば
まず前衛に立つ必要があります。

そしてこの「前衛」と「モダニズム」とは
人によって分けられているわけではなく、
一人一人の時間配分によって分けられています。
前衛に立つ時間を生涯にどれだけ確保できるか、
これがモダンを自分に身につける鍵となります。

アンチテーゼ・その2

ひつまぶしとひまつぶし、
全て自分の時間に合わせれば暇は作れるのですが、
決まりごとという観念的要請が時にそれを阻みます。

季節感を放棄してみたらどうなるだろう、と
ふと思います。

ここで言う季節感とは、
世界の時間は春、夏、秋、冬が
順に巡ってくる、という意味においてです。
宇宙の時間で言えば一時も同じ状態はありません。
なので、去年「春」と呼ばれていたある時間と
今年「春」と呼ばれているある時間は違うものです。

最近のニュースキャスターは
暑くなったり寒くなったりすると、
「異常気象ですね」と口ぐせのように言います。
観測史上一番の暑さが来たといっても、
観測は100年もしていないのだから、
特に驚くことはありません。
冷夏の年も旱魃の年も、
昔のようにたくさんの人がそれで死んではいないのです。

春だと観念的に思っているものがあります。
桜が咲くのはだいたい春ですが、
今年や以前に、秋の終わりに咲いた桜を見かけたことがあります。

冬でも夏野菜のトマトが食べられるなら、
季節感がなくなっても不思議ではないし、
頭脳労働の世界にはもともと季節感がありません。
季節で式が変わるような憲法や物理法則では困るからです。

自然という言葉の定義も気になります。
地球環境とか、野山、という意味での自然なのか、
普遍的に存在する‹この世>という意味での自然なのか、
これがよく混在しています。

季節感を大事にしよう、という表現はやや謎めいていて、
季節感とは気になるかどうかだと考えます。
意味がわからないものを大事にするといっても、
どう大事にするかがつかめないものです。

春夏秋冬なんていりません、
常に時間は戻らないのですから、というと
‹自然を忘れた現代人›と呼ばれるのかもしれませんが、
春夏秋冬のサイクルだけに縛られていることこそ
[自然]を忘れていることになります。

月曜日, 12月 26, 2005

効率化がエネルギーを失わせる

論文を書きながら、
たった1行、文字にして40文字程度の事実を述べるために
年単位の時間を費やす時間かかったことを
ふと思います。
何事かを為すための時間は短い、とよく言いますが
もともと何かを為そうと思うこと自体が
僭越な問題なのかもしれません。

是と非のスタンダード

自然から離れた労働、
機械生産や情報処理、を担当していると、
信頼性の度合いが自然労働に比べて桁違いに上げられています。
たとえば、昼という時間は1日の1/3しかないし、
晴れた日中は1年のうちの3割くらいしかないのです。

問題は人間が同じだけの信頼性を出そうとした場合、
人間そのものは自然から生まれたものであるために
信頼性を確保するのは非人間的な作業だったりします。

是非、という言葉は
是が非でも、という言葉の短縮で、
この意味を良く考えます。

栄養学というものは今ひとつ要領を得ません。
油が体に悪い、という理由しか大抵出てこないのです。
そんな中でキューピーのHPには注目したい記事があります。
http://www.kewpie.co.jp/know/magazine/releace_30.html

脳は脂肪が50%もあって、
コレステロールの20%が集中しているのだそうです。
蛋白質のかたまりのイメージがありながら、
実は脂肪の方が量が多いのです。

油は体に必要であるからこそ食の満足感を高めます。
だからあく抜き、油抜きをたくさんする日本食は
西洋食に比べて満足感が低いのです。
子供がハンバーグが好きなのは、それが子供だからではなくて
人間の節理にかなっているからです。

しかし一方で、油は消化器にとっては負担です。
理由は分子量が大きいからで、
主に肝臓が分解の役目を果たします。
そういう意味で油のとりすぎは体調を崩す原因になります。
体調の崩れは脳にとって負担になります。

部品にこだわる、ではなくてシステムとして思考する、ということを
何かの対象で身につける必要があるのではないかと思います。

たくさんの本は読めませんが、
いくつかの読んだ本の共通する一節を
ネットワーク状に思い出すことがあります。

「車はこうして作られる」の一節で、
ホンダがV10エンジンを開発していたときのことが載っていて、
エンジンとしての出力限界を出し切るために
システムを設計する、という思想から、
「速く走るための車を作る」という目的から
エンジンを見直す思想へと変化したという
パラダイム・シフトが起こった時期があったのだそうです。

畑村洋太郎「失敗学のすすめ」でも、
局所最適、全体最悪というキーワードが出てきて、
全体への影響を考慮せずに一部分だけ改善してしまうと
取り返しのつかない事態になるとあります。

システムフローであれば線形計画法、
フィードバックであれば制御理論で
全体を見る道具立ては与えられます。

昔の人は「大局を見る」という表現で
このことを言っていたのかもしれません。
分業化によって著しく生産性が上がった文明社会では
各人間が忠実な要素=コンポーネントとして
振舞うことが必要とされ、
最初に全体像の理解を求められない場合があります。

しかし社会としては要素であっても
個人としてはいろいろな要素の集合体であり、
生きている時間は大きなシステムでもあります。
その全体を見て、今の自分に何が最適かを探ることで
次第に「自分に必要なこと」は見えてくると考えます。

日曜日, 12月 25, 2005

アンチテーゼ

スーパーで保存食をたくさん買う気分になると、
それは部屋にこもって仕事をする、という
心の準備が始まったことを意味します。
人は行動として体を動かす10秒以上前には
気持ちの準備がされるのだそうで、
現在の意識というものの不思議さを思います。

この世で確かなことというのは
それっぽく用意されているのですが、
万物流転ということ以上に正しいものはない気がします。
それは法や道徳やそういういろいろが定めた人間的な正しさではなく、
地上では林檎が落ちるのと同じ程度の確かさのものです。
物理的に正確に言えば、空間と時間は同じ価値の存在ですが、
時間だけは進みっぱなしで戻ることができません。

ASKAの「晴天を誉めるなら夕暮れを待て」の歌詞が好きです。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=55123
青い空は誉める、雨は面倒に思う、
本当にそう思うときと、観念で思っているときがあります。
観念が自動的に作る循環の真偽をを見極めたいとよく思います。
突然降り出した大雨が
忘れられない思い出になる事だってあるのです。

ザ・テレビジョンの表紙の話を聞いたことがあって、
以前は満面の笑みだけを採用していたのだけれど、
最近はすまし顔も使うようになったのだそうです。
良い流れだな、と思います。

写真家が残す写真が膨大な試作の結果の上に成り立つ、
時折このことを思い出します。
本当の「一瞬」はgiftとして与えられるもので、
人間が意図しただけで作れるものではないのです。

NHKの公開録画とかラジオ体操とかに立ち会ったことがあって、
「盛り上がってますか」と
約束事のように掛け声をかけられるのですが、
この言葉は「当然盛り上がりますよね」という答えを期待されていて、
問われれば問われるほど
シンクロせず盛り上がっていない自分を強く意識してしまって
盛り上がるきっかけを全く失ってしまいます。
心のベクトルの急変更がききません。

寒い朝にココアが飲みたくて
ミルクを早く温めたいのですが、
強火にかけると百発百中で焦げます。
だからミルクを温めるのには必ず時間がかかります。

笑いが良い写りならそれで構わないし、
撮る写真が笑い顔でなくてもいいと思います。
満面のスマイルが良い、という連想もまた観念的なものです。
すました顔からほんのり覗く笑みが綺麗な人だっています。

スープを皿に盛りたいときに、
スープが冷めるからといって沸かしてしまうと
香りが飛んでしまいます。
温かく香りの良いスープを最後まで楽しみたいなら
より注意を向けるべきはスープ自体ではなく
厚いボウルを熱湯で温めておくことにあります。

無用の用、という言葉もとても好きです。
一見無用や無駄に見える何かは、
それがあることによって
支えられている何かがある、という意味で、
英語で言うとセレンディピティ=serendipityの思想に
なにかつながるものを感じます。

西洋と東洋の大きな違いは、
神が人を統治するか、人が人を統治するかという意識に
あるのではないかと思ったりしています。
そして神と言う象徴を持ってくることによって
人はみな平等だという意識が生まれるのですが、
最終的な統治で人の統治に読み替えるシステムが必要で、
この点で社会の解釈や理解が大きくこじれてしまいます。
宇宙人によって統治されるようになったら、
人という生き物は団結できるのでしょうか。

絶対的な王を立てた中国、象徴的な神格を分離した日本、
どちらにも最終的には人の統治という解釈があって、
なまなましいけれど正直な解釈が気に入っています。

敢えて科学がこの見解に挑むならば、
人間のように感情や道徳を定義するような「人間みたいな」神は
いないとし、
しかし人間と言う存在を超えた何かがあるだろうという解釈は
十分考えられる、とすべきだと思います。

日本習字の原田観峰さんも
「神はもう[あ]」という名前でいいじゃないか、
それを修飾すればするほど本来の定義から逸れていく」と
いうくだりの文を載せていたことがあって、
なるほどと納得したことがあります。

神は教えられるものではなく、
勝手に心に生じる気持ち、というぐらいのあやふやさだとしたら、
死ぬまで神が生じない人だっているわけで、
世界の混沌としたまだら模様はいつまでも続きます。

水曜日, 12月 21, 2005

長い助走区間

1枚、と英数字の1を出したいときに
なぜか"i"のキーをタイプしてしまいます。
"iti"と"1"の回路が干渉するのでしょうか。
それとも文字の形的に干渉するのでしょうか。

ライブドアの話、少し詳しく書いて見ようと思います。

ちょっとした論調として、
「彼は善か悪か」という雰囲気のものばかりですが、
個々の事象については冷静に見たものが良いものが多いです。
自分たちはさんざん通信簿という多面体的評価をされてきたのに、
人を二元論で片付けるのはバランスが悪すぎます。

彼が「古いしきたりを壊す」と言ったその姿勢には
建設的な意味も多く含みます。
カネボウの例にあるように
日本が封建的で閉鎖的な社会構造であることは確かで、
新規参入を拒み、既得権益を守るのに都合のいい
システムができています。

買収劇は少なからず既得権益の上にあぐらをかいていた人にとって
ポストを奪われるという戦慄を感じたものと考えます。
正しい競争原理は必ず必要で、
ソフトバンクやウィルコムが携帯に参入することで
市場原理に沿わないサービス料が改善した経緯と同じように、
最終的に消費者が良い選択をできるよう促されます。

そう考えると、
買収劇は競争原理というより
支配・被支配の関係に近い感じがしてきます。

お金で買えないものはない、このことは
多分バブル的な発想を持っているかなりの人は
当たり前のこととして思っているはずなのですが、
あまりに露骨なので表に出しません。
明言したことは社会的な追い風を得るには不利に働きます。

急成長しすぎたことにも問題があります。
球団買収などを手堅く行い、買収した企業で
実業方面によい成果を上げていけば
顔の見える会社になれた可能性があります。
実業方面に影響が残らないということは
経営が傾いた後で形になるものが残らないわけで、
形がないものは比較的早く忘れられます。

もし彼が社会システムを変えるつもりだったのなら、
支配関係ではなく競争関係として参入すればよかったのだと
考えます。
しかし彼は会社でお金を得る方面に集中しすぎたために
手段を選ぶのを忘れてしまったのかもしれません。

生意気だからつぶされるんだ、
だからみんなもおとなしく言うことを聞きなさい、が世論の結論だと
納得してはいけないのです。
正しいことをし、正しい競争をもって、
しかし会社が大きくなっても巨大企業同士のもたれあいや
談合状態で馴れ合いにならず、
既得権益に対してまっすぐ戦っていく、
そうあるならば社会の風が押してくれたかもしれません。

この国は正しい風を吹かせる力が少し弱くて、
追い風によって大きく育つのではなく
大きく育ったものにより強く追い風が吹く状態で、
そのことに歯がゆい思いをしている人たちがきっといます。

早上がり、早熟ばかりが目立ちもてはやされる空気ではなくて、
風雪に耐えきちんと花を咲かせる人たちをよりよしとするなら
もっとみんなが強くなれたという手ごたえがもてるでしょう。

月曜日, 12月 19, 2005

First, follow the music with your heart

音楽と気分との付き合い方をずいぶん考えていました。
上手に気分とマッチする曲をかけると
うまく集中する事があるのを知っているからです。
ところがうまくはまらないと
曲が気になって集中できなくなってしまいます。

集中できる曲は一種類に決まっていません。
ユーロビートのようなすごく速いテンポの曲がいいときもあれば、
静かなピアノ曲がすんなり馴染めることもあります。

今日見つけたキューピーのHPには
よく研究された記事が掲載されていました。
たとえば落ち着かないときに、リラックスを狙って
いきなりスローテンポの曲を聞くと
逆効果なのだそうです。

まず自分の気持ちと同じテンションや曲調の音楽を選び、
それを聞いて曲と自分を同調させてから、
徐々に目標とするテンポへ近づけていくと
導入がうまく行くのだそうです。
つまり落ち着かないときには
まずハイテンションのダンスナンバーを聞くということになります。

好きでよく聞いている曲を見れば
その人のモードが分かる、ということにもなりそうです。
ユーロビートの中でも超高速側が好きなわたしは
時折すごくテンションの高い人間らしいということになります。

大きな街が好きな理由

上手な電話との付き合い方、ただそれだけのために
ずいぶん時間が必要だったように思います。
直接行かなくても情報がやり取りできる、
中身は会話であっても効果はずいぶん違うものです。

大きな街が好きです。
新宿を歩いていると、宝くじを売る声、
街頭募金の社会鍋を掲げる声、
神の道を説く声、
クリスマスの呼び込みなど
人が行いうるさまざまな出来事が
同時に目に映ります。

人間は性善説の生き物か、あるいは性悪説の生き物かと
悩んでしまいそうなとき、
それらは全て混沌としている、という明快な回答が
街の風景に現れているように感じます。

人間以外の動物が悠久の時を過ごしていそうなのは、
彼らが環境を変えてまで住もうとしていないからであって、
環境を変え、社会的構造を変えながら生きている人間には
「変わる」ということが宿命付けられているから
急ぎはやって生きていこうとしてしまうのかもしれません。

これと種類の似た質問として、
人間は世界が理解できるか、という問いもあって、
明快な答えは、脳の演算量と人間の寿命に限界があるので
全ては理解できない、という答えがあります。
可能性は無限大、とは響きの良い言葉で、
しかし人間そのものの実体は有限です。
人の目の前には、無限の数ではなくて、
常に片手に余るほどの選択肢が考えられる程度です。
しかしどう変化するかが予測できない、ということも
合わせて知っておくと気持ちは落ち着くかもしれません。

月曜日, 12月 12, 2005

物言わぬ肝に思いを寄せて

科学をやっているものは2種類いて、
SFが好きなものと、
SFより現実を選んでいるものとに分けられる気がします。
SFを読んでいてどうしても気になることは、
物理的には正しくないことがたくさん現れるからです。

人間関係の世界なら、想像の範囲内で
なんでもありかもしれませんが、
何もしないのにりんごが地に落ちずに
空へ吸い込まれたりはしないのです。

体のあらゆる部位に意識が届くかというと、
感覚のない部分については意識ができません。

明確に意識できるのは胃とか心臓で、
鼓動の様子とかストレスで胃が痛くなったりとか
自分で知覚ができます。

脳は一見知覚できそうですが、
たしか感覚神経はなかったような記憶があります。
だから脳に関していえば、周辺部の知覚によって
間接的に分かる、といったところです。

全く意識できないのが肝臓です。
体の大きい割合を占めるのに、調子が良くても悪くても
痛みや苦しみを感じないのです。

それ自体は確かに苦しくないのですが、
肝臓の調子が悪いと全身に影響が出ます。
そういうわけで、「自分の肝臓が悪いのではないか」という
意識は脳と同じで間接的にしか分かりません。

ところが間接的にしか分からないはずなのに、
肝を冷やす、肝心かなめ、肝の据わったなど
肝の表現はたくさん見られます。
英語でliverだと
liverishで「肝臓の悪い人」という表現があるぐらいで
それほど意識的に使われてはいないように思います。

ちょっとした演繹でいうと、
全ての臓器は時折不具合になるのであれば、
肝臓だって調子の良いときと悪いときがあります。
ところが調子の悪さが痛みや違和感として感じられないので
原因探しが路頭に迷います。

バイオリズムと言う言葉があって、
長い周期で気分や体調が変化することを指しますが、
肝臓の調子がバイオリズムを決めていたとしたら
自分でわからなくても納得が行くようにも考えます。

感覚がない部位に対して
先人がちゃんと意識するよう用意していたというのは
とてもありがたいことです。

この物言わぬ部位に意識を寄せてみようと思います。
丹田という場所はへその下だとかいうのですが、
それは肝を含むおなか周りの意識を指すのかもしれません。

人間は意識によって自分の一部を制御下におくことが出来る、
これはトレーニングをする際には使われる筋肉を意識すると
効果が上がるという例で証明されています。
意識というものを肝においたら、
一体どうなるのでしょうか、という言葉は
一見ことば遊びのようで楽しくもあります。

金曜日, 12月 09, 2005

モノクロの文字を見て色を観る

ひところに比べると画面の解像度がとても上がりました。
この解像度は、画面のサイズとは関係がなく、
画面のサイズが10インチだろうが20インチだろうが
1280*960だったりします。
大きい文字は見やすい文字で、
解像度が高くなったからこそ
できるだけ大きな文字で作業を心がけたいなと思います。

女性が美しいさまを色っぽいといいます。
この「色」という言葉が指し示す色は一体何色なのだろうと
思ったことがあります。
鮮やかな紅か、爽やかな藍か、引き立つ翠か、
いろいろ想像してみたのですが、
「色を失う」という表現を本で読んでから、
色とは色彩を感じること全てなのかなという気がしています。

極彩色とか総天然色、と呼ばれたものは
カラーの映画とかテレビとかです。
総天然、という言葉の通りかというとそうではなくて、
テレビや映画は赤と青と緑の3色しか出していません。
人間の目にはこの3色を中心として
他の波長域をカバーするセンサーがあるから
ほかの色彩を落としても変わらず見えるのですが、
夕日のオレンジは「オレンジの波長」なのであって、
赤い光と緑の光の合成ではありません。

着色されたモノクロ映画というのがあって、
いまだに原理を知らず不思議に思います。
モノクロ映画を観ていると、
ふと色が載っているのではと錯覚することがあります。
池谷さんの本によると、
この時色は見えているのではなく、脳が補っているのだそうです。
また、目の感色細胞は目の中心にしかついておらず、
周辺の色はみんな脳が補完しているのだそうです。

色っぽいと思うその「色」、
どうも脳が直接作るもののようです。

木曜日, 12月 08, 2005

車のおもちゃ思想

畑村洋太郎さんの講演
「失敗学のすすめ」を受講しました。
成功や失敗の取り扱いについて実に深く掘り下げた見識と
とにかく現地・現物で取材を重ね
たくさんの人に会う力をもっていることに
強く感銘を受けました。

日記はいつも通り、思いついたことの
書き連ねです。

車のおもちゃが大人も面白いと感じるのは、
そのおもちゃを拡大したり精緻化したところに
本物の実体が存在するからではないかと考えています。
盆栽が美しいといいますが、
あれはおもちゃ的な小サイズの精密さを楽しんでることと、
雄大で厳しい自然に支えられた巨木のエッセンスが
凝縮して映りこむからだと思っています。

さまざまなイメージを支える実体、
それは実業と虚業の関係にも似ています。

複製に戸惑いを覚えることがあって、
デジタルデータの中では氏名も会社も
一発でコピーできてしまいます。
それでなんとなく手書きのような手順を踏まないのが
失礼に当たるような気分になることがあります。
ところが貰うほうにとっては
それがどのような過程を経て製作されたかということが
重要である場合とそれほど重要でない場合とがあります。

作る側の戸惑い、
裏方を知るものの戸惑い、それは
美しく理論的な一面だけを知ることだけでは済まない者が
共に感じる迷いのようです。

水曜日, 12月 07, 2005

器用さ、不器用さの感覚

この1ヶ月、外見的には変化がなく、
内面的な変化ばかりが起こっています。
目新しい何かも誇るような話もない、こういうのを
平凡と呼ばれる状態なのかとも思いますが、
本人の意識は至って満たされています。

本を読みながら、時折気になる言葉の中に
馬鹿になれ、という表現があります。
似た表現として、不器用でもいいから
愚直にやり通すこと、とか
ある種の非効率さが必要なのだという言葉もあります。

この表現、なにか的を得たような、
今ひとつ理解へ至らない言葉のようで、
少し考えを進めます。

器用であることで困ることは概ねありません。
ほとんどのことは不器用さによって困っていて、
思ったことが言えないとか、やりたいことが分からないとか、
自分の気持ちを前向きに転化できないとか、
そういう不可能性というものに結びついているからです。

器用であること自体が問題になるのは、
どんな問題にも「スマートな解決」というものが
存在している、という連想へと結びついてしまうことに
あるのではないかと思います。

目の前にある問題が、霧が晴れたように
前へ進むなら、どれほどいいだろう、と思う気持ちは、
感情のどこかに焦りを抱えています。
それで、自分が今できる器用なことの組み合わせによって
その問題がスマートに解決できないかと考えます。

ところがいくつかの問題、
自分にとって新しいことや
必ず時間がかかると分かる事象に対しては
現在の手段の組み合わせでは解決できません。
たとえば、
ドミノ倒しの駒を一瞬で並べる方法は
どこにも存在しないのです。

ところが全ての方法に「不器用な方法」を持ち込むことには
大きな問題があります。
不器用な方法を続けていくと、次第にその中に潜む
「規則的な原理」というものが現れてきて、
ある閾値を越えると不器用さに対する認識を
改めなければならない転換点が訪れます。

未知のこと、というのは
何も壮大なことである必要はなくて、
じゃんけんをして勝つ、という命題にも
未知のことが含まれます。

じゃんけんをして一生勝ち続けることがないように、
未知のことに挑むときに
器用な方法、不器用な方法のどちらで突破できるかは
事前に知らされておらず、
選んだ手段が外れてしまうことは必ずあります。

しかしどちらの方法を使ったとしても、
目標は「未知のことを突破する」ことであって、
それさえ叶えばどちらの手段であってもいいのです。

不器用な方法を使ったときに、
後で器用な方法に気が付いてもがっかりする必要はないし、
器用な方法が通らなかったからと言って
不器用な方法を選べなかったと自分を責める必要はありません。

人は過ち、神は赦す、
過ち、というものへの認識を
あとスプーンひと匙だけ緩めることができたなら
それだけで人は幸せになれるかもしれないのです。

月曜日, 12月 05, 2005

roll-play

朝車を走らせていたら、
雨上がりの空で遠くの山が見えて、
雪で白くなっているのが見えました。
今年も冬がやってきた実感が湧いてきます。

できる限り本音に近い自分でいる、ということに
どこかこだわりをもっている気がします。

TEXという書式を使っていると、
論文というプログラムを送れ、という
指令のように思います。
製本用のフォーマットを文の中に組み込むよう
求められていて、
さながらHTMLのようでもあります。

How-to本であるとか、~の方法とか、
とかく求められていることの多い世の中です。
この「求めること」が、自分に対する要求なのか、
他人に対する要求なのかというところが論点になります。

ほうじ茶にもカフェインがやや入っているのを知り
ちょっと驚きました。
今まで濃いほうじ茶を多めに飲んでいたからです。
明日からは昆布茶に変えるかもしれません。

ラフランスを食べる時期を迷います。
固い時は味がしないのに、
一度熟し始めると加速度的にやわらかくなってしまうのです。

決まった言葉はキーボードを急いで叩いても
出てくるのですが、
自分の中から生まれてくる言葉をつかまえているときには
どうしても作られる文字の速度が落ちます。
ブラインドタッチができるようになっても、
自分が言いたいことまで早く出てくるわけではないのです。

外国の研究者はそのあたりを知っているのかいないのか、
人差し指だけで文字を打つ人が相変わらずいます。
事務仕事はもちろんそのペースでは間に合わないはずですが、
しかし論述の際にはそれで十分すぎるほどなのです。

私に合った役割と居場所、
少し数えてみようと思います。

金曜日, 12月 02, 2005

風邪の因数分解

年に3回ぐらい風邪を引くわたしは
よく風邪薬を飲みます。
ところがこの風邪薬、
西洋系の総合感冒薬ほど効き目がやっかいで、
飲んだ後の調子が優れません。

漢方の葛根湯は
よいタイミングで飲むと劇的に効いて
次の日には治っているものですが、
いろいろ調べてみると
タイミングが違うと全く効かないことがわかって
それはそれで困っています。

そこで引いてしまったけれどその場を凌ぎたいとき、
各症状だけ抑えることにしました。

くしゃみが止まらない時はくしゃみ止め、
喉が痛い時は咳止め、
頭痛がする時は痛み止めという具合に
薬が混ざる種類を減らしていくと
比較的体のもちもいいようです。

風邪を引いたら頭を使わずに寝ていればいいのですが、
それができないという世の中なのかという問いを
時折考えます。
もちろん少しの具合でいろいろな約束事が進まないと
困ることはたくさんあるのですが、
いたずらに納期や期限が短い設計になってはいないだろうかと
考え直したくなることがあります。

熟練して手際よくなることは大切だと思いますが、
スピードは力である、
一般的に言われているこの言葉を
どう受け止めたらいいのか分からず、
まだまだ思索は続きます。

月曜日, 11月 28, 2005

hardware, software, data

朝3時に目が覚めました。
少し書き物をしてもう少し眠ります。
機械に関して言えばハードウェアの得意な日本です。
最近は良質なソフトも増えていますが、
良質で安価なデータが少ないと思います。

需要と供給、の話で言えば、
需要が多ければ供給する値段が高くなります。
ものやソフト、つまり目に見えるものに関しては
需要と供給というのは成り立つのですが、
データに関しては
なかなか需要と供給が成り立っているとはいえません。

もう少し深く入り込めば、
需要と供給自体は成り立っているのかもしれませんが、
データが広く流通していないので
おのずと値段が高くなります。

学術書の類で、
値段を高くすると売れなくなるから、と言います。
確かに辞書以外で1万円以上する本が飛ぶように売れることはないのですが、
しかし外国の学術書なんかは300ドルでも平気で売っていたりして、
それを買う人も多くいます。
一方でネットに広まる情報では無償で手に入るものが充実していて、
それらのバランスは一体どこから来るのかと不思議な気分になります。

休暇になると日光浴をしながらひたすらペーパーバックを読んでいる、
そんな話を聞くと、
日本で思われがちな本の虫とか雑学おたくとかではなくて、
活字に親しみを覚えるという肯定的な意味を
もっと前面に出してもいいかもしれません。

生きた知識、という言葉について考えます。
どんなものを「生きた知識」と読んでいるかというと、
それは実体化して何かの役に立つ、という暗喩を含むような気がします。
役に立つは利益を得るとかいう経済ベースの話ではなく、
不安定な自分を支えたり人に快い感情を与えるものも
生きた知識だと思います。

本宮ひろ志の話の中に、
漫画家が絵が描けるのは当たり前で、
その絵で何を伝えたいかが問題なんだ、という一節があって、
時折思い出します。
ただ、こういう言葉を聞くと、認められる絵が描けなければ
公表する意味や価値がないと連想してしまうことが
表現の量を少なくしてしまうのだと考えます。

何かを下手な人間は、表現が許されない、
こう書き切ってしまうと、「そんなことはない」と
反応が返ってきそうですが、
今でもそういう雰囲気は強くあります。
そしてそれは自分の中にも強い意識としてあるものです。

下手なところを見せて笑われると傷つく、
その「傷ついたもの」は何なのだろうと思います。
下手だというその結果、
へんてこな絵とか調子の外れた歌とか、を見て
その行為自体や状況という非人間的な現象を笑っているのか、
それともその行為を行った自分自身というもの、
つまり人間的な価値の薄さを笑っているのか、
これがよく混在しています。

持つ者はさらに与えられる、という言葉があって、
この意味をよく考えることがあります。
最初に人より少し得意であったものが
練習を重ねていくうちに上手になっていくという過程でもありますが、
最初に持たないものについての言及がありません。
持たない者だって与えられるようチャンスが必要です。

最初に少し持っている者が続けられるのは、
自分の行動に価値があると信じられるからで、
また周りもそういう視線を送るからだと思います。
少し持っている、持っていないの観念が比喩的なものならば、
ほんの少し持っているところからでも始められる、
そんな風に思えたらいいなと感じます。

あれほど流行ったのにわたしがちっとも知らないのが
ミスチルの歌で、それは最初の流行に乗れなかったから
そのまま追いかけられずにいたもののひとつです。
その手の苦手意識というのはたくさんあって、
苦手意識を持つと思考を停めてしまったように前へ進みません。
後追いするとなんだかかっこ悪く感じるものですが、
それが好きだと公言できなくても
せめて曲ぐらい聞いてみればよかっただろうにと
ずいぶん後悔をしています。

後追いをかっこ悪いと感じるのは、
知識の量を勝った負けたと優劣で決める傾向のせいでしょうか。

物と知識の決定的な違いは、
物が使うと減ってしまうのに対して、
知識は使うほど増えていくことにあります。
100%満足する結果でなくても、途中であっても、
行動を起こしたことを評価する、
そんな気持ちがもっと広まればいいと願い、
そして自分の意識もそう近づけたらいいなと願います。

木曜日, 11月 24, 2005

コンビニ弁当をレンジ弱で7分

とかく「温もりが足りない」といわれがちな
電子レンジは、
早く温めるのとゆっくり温めるのでは
ずいぶん風味が変わります。
レンジ強2分のお弁当は
レンジ弱7分で加熱すると
芯から全体まで温まっておいしくなります。
時間のあるときにお試し下さい。

南無阿弥陀仏と、ひつじが一匹

カフェインの入ったコーヒーが苦手です。
体がとても緊張してしまいます。
たくさんは飲めないので、
小さなカップで飲むか、
カフェインレスのコーヒーを頼みたくなります。

自分の軸を時折見失うことがあります。
おおむね集中できないときに起こります。
ひつじを数えると脳が忙しく動き出して眠れなくなると
何かのメディアが言っていたようですが、
わたしはひつじを数えると良く眠れます。

想像、という定義は
頭の中だけで世界を作ることであって、
小さい頃はよくやっていて、
大人になるとなかなかしないものかなと思います。
この「脳を落ち着かせる」という方法に、
繰り返し脳の中だけの入出力を行う、という行為が
有効なのではないかと思っています。

全ての宗教に祈りという反復行為が伴い、
唱える言葉が存在します。
実在の論議を少し脇において話を進めるならば、
それはひつじが一匹と数えながら眠るのと
特に違いがないような気がするのです。

思考はひとつではない、というのは
かなり前に気がついたことで、
さまざまな感情が自由に表れたり消えたりしています。
これは脳の細胞が個別に活動できるからであって、
手と足を同時に動かせることの理由と
特に大きな違いはありません。
そして脳の中の協調動作が乱れると
混乱してしまいます。

脳だけでの入出力というのは、この乱れた動作を
もう一度まとめ直す意味があるのではないかと
最近思っています。

人の心を落ち着かせるのには「ひつじが一匹」で十分で、
神様を登場させるのは
概念としてちょっと強力すぎる施策じゃないかと考えます。
100mを10秒で走れる人が限られるように、
神様の概念をうまく援用できる人も限られているように
感じるからです。

火曜日, 11月 22, 2005

redundancy

パルス発生器の主電源が入らなくなりました。
予備機を当てて実験を続けています。

小集団の中での個人と、
大集団の中での個人は振る舞いとして異なります。
小集団でキャンプに行ってテントを持ってきた人が
誰なのかはすぐ分かりますが、
大集団で株の売り買いをして
値下げ傾向に導いた人は特定できません。

同じ集団のためとはいっても、
世の中のためになることをしようと考えたときに、
いきなり「汚職のない世の中を作る」とか考えても
うまくは行かず、まず自分が不正のない政治家になるところから
始めなければなりません。
そして自分も一人の人間であるなら、
「不正のない政治家とある政治家」のバランスを
ひとこま変えるのが精一杯かもしれないのです。

たくさんの集団の中では
良い意見ばかりもたれないことがあります。
amazonの書評などを読んでいると、
評論というのは感性によるところが大きいせいか
良いとか悪いとか好き勝手に書かれています。

良い意見ばかりもたれずに過ごしていくことの
難しさを思います。
それ自体はいつでも起こりうることなのですが、
好ましくない反応に対して
無視して過ごすわけにもいかず、
かといって自省ばかりして過ごすわけにもいきません。

何かの行動原理を最終的に興味へと結びつけることに
時折必要性と疑問を同時に感じます。
そこにある必要性があれば決めるのは楽なので
何らかの必要性を探してしまうことがあります。
50:50の大賛成と大反対があったときに、
それでも一歩を踏み出せるかどうかを悩みます。

この国の人らしい感情であれば
50:50の時に踏み出すのはきっとためらいます。
そして行動そのものにも正の側面と負の側面があるとすれば
行動というもの自体はリスクの大きなことです。

しかしためらうことというのは
重要であるけれども行動に移すには
まだ時間があると思っているか、
あるいはどちらでも構わないと感じるようなことかの
どちらかです。
しきたりやマナーというものでその場であたふた悩んでいるのは
それが「本当はどちらでもいい」ことの
明確な表れだと思います。

食器を持って食べてはいけない中国、
食器を持って食べなければならない日本、
それはどちらがよいという言葉では
本来説明をしてはいけないものです。
だからテレビで「マナーの先生」とやらが
偉そうに正負善悪の番人のようなご口上を述べているのを見ると
なんだか腹が立ってきます。

盲目的に従うことは極めて不自由でありながら、
他方で非常に心地の良いものだろうと思います。

月曜日, 11月 21, 2005

prohibited?

黒パンを食べるロシア、
とうもろこしを食べるメキシコと
食べ物は千差万別ですが、
人に関する歴史があるところには
なぜか酒だけはあります。
自分の意識という壁をなんとかして取り払いたいと思うと
何らかの外力が必要なのかもしれません。

気持ちの壁で思い出す話は象を飼いならす話で、
小さい頃に脚を紐のついた杭に縛られて過ごすと、
大きくなっても地面に打たれた小さな杭を見ると
動くのを諦めるのだといいます。

得意なことはいくらでもできそうで、
苦手なことはとても続かないものだったりして、
「持つものはさらに与えられる」の理由は
こんなところにあったりするのだろうかと思うこともあります。

心理学以外の心的効果を除けば、
占いやまじないの類には
まったく信憑性がないことは明らかなのですが、
夜の新宿駅前にはたくさんの占い師がいるし、
雑誌には星座占いが載っているし、
縁起を担ぐ人がたくさんいたりします。

非科学には幾通りもの「答え」なるものが存在するため、
できるだけ気持ちのよりどころに
非科学を持ち込まないようにしてきました。
しかし最近少し発想が変わってきて、
全てが正しく「固定された真実」であるという存在に
人というものは耐えられるのか疑問に思うようになりました。

固定された真実には逃げ場がなく、
好き勝手な行動が許されないことが増えてきます。
もちろん日々の出来事は現象として一つで、
その効果と解釈は関わった人の分だけ存在するのですが、
自分がおかれた状況の解釈を
丸ごと受け入れられない時が時折あります。

そんな時に、世の中的になんだか良く分からないが
受け入れられている「非科学なもの」というのは
その解釈に新しい可能性を残すことができそうで
なんだか期待してしまうのです。

川本真琴の歌の中に
禁止したって人類はぐんぐんはみ出してゆく、
というくだりがあって、
その表現はとても確かな感じがします。
果たしてこんなことをして何になるのだろうと
考えたくなる気持ちは、
生きるために一生懸命になっている時には思いつかないものです。

人間だけがこの世界で住む仕組みを変えてしまう、というのは、
考えることの1/10しか表現できない人間の脳の
せめてもの頑張りなのかもしれず、
そのためにいろいろな壁を感じるということ自体には
それが必要な何らかの意味がありそうだと考えます。

金曜日, 11月 18, 2005

教えてもらいたかったこと

デスクの中の余っていたペンが
最近増えなくなりました。
そういえば身の回りのものも増えなくなりました。
ちょっとした意識改革です。

情報に関して最近さまざまなことを思います。
会社に入るまで会社のことが分からないと心配する
卒業間際の大学生を見ながら、
それは会社が決して積極的には教えようとしないからだろうと
思います。
「門戸は何らかの方法で開いてるのだから
だったら知るよう努力すればいいじゃないか」と言われると
ひどく反発したくなるのは、
「情報開示」と言ってただ雑文交じりの膨大な資料庫の
鍵を開けただけの状態のお役所のある課と同じだからで、
それが誰にでも通じる積極的な開示ではないからです。
特殊な方法、先輩を頼るとか裏口から入るとか
そういう方法は決して「門戸が開いている」とは言いません。

メディア・リテラシーの重要性を思います。
「本人のためにならない」とか分かったような理由で
面倒な気持ちを隠しながらお茶を濁したりせずに、
読みやすく、分かりやすいということを
なぜもっと純粋に追求しないのかと思うことがあります。
禅の思想だか問答なのか知りませんが、
それはひどく人を不公平に、そして不幸せにします。

自分でやらなければ分からないこと、というのは
確かに存在します。
覚える過程で手を使い、頭を使うのですが、
しかし先に手順を聞いたからといって
それが中途半端になることなど少しもありません。
洗練された情報によってより早く理解できるだけです。
物理がここまで進んだのは、
遠回りせずに知識を積み重ねる方法を選択したからです。

これらがどこかで「きれいごと」と言われるのも
どこかで感じています。
人はその淘汰を乗り切るために
個人としては情報戦を繰り広げているからです。
しかしチームであるという意識があるならば
積極的に開示することがプラスになる事だってあります。

大事なのは、
何ができるかではなく、できるようになったことで
一体何が表現できるかにあります。
やってみなければわからない、という言葉は、
半分は本当で、半分は嘘です。
だから何も教えずにただやってごらん、と言うのは
少しも足しになりません。

自分が知らずに困り果てたことがたくさんあったので、
教えて欲しい、という気持ちに
可能な限り応えてあげたいといつも思います。
いざと言うときには
とにかく今自分が持っているものと知っていることを
総動員して事に当たるもので、
知るということはよりよい選択を導くための力です。

木曜日, 11月 17, 2005

階段建設屋

最近試している健康向上対策は
なぜかことごとく成功しています。
しかしそれはストレスそのものを感じなくなっているかもしれなくて、
ストレスがあるときには健康対策って
効果が殆ど現れないんじゃないかと思う今日この頃です。

結果が出て名を残すことばかりでしか評価されない、と
まことしやかに言われる風潮がいやで、
初期の苦しい段階でとても力になってくれた人を
どういう言葉で形容すれば確かな賛辞になるのかと
よく考えていました。
ボスの追悼文の中に
「道をつけてくださいました」という一言があって、
ああ、この言葉だと納得しました。

道を歩くことと道を開くことは別物です。
開いた道は誰でも歩けますが、
何もないところに道を開くことは限られた人しかできません。
このできないという表現にはかなり問題があって、
やればできるかもしれないけれどやりたくないと思う人は
少しぐらいやったらいいじゃないかと思ってしまいます。

この国に新しい宗教も文化も多分必要ないのですが、
正しい気高さ、ある種のプライドのようなものって
少しぐらいは必要じゃないかと感じることが最近増えます。
全く棘がなくて攻撃性のない人が
マスコットのように愛される、というのは
確かに理にかなっているような気もしますが、
多少手ごわくても芯がある人というのは
この国ではとても警戒されます。

ビルを作るには重機が必要で、
電力を作るには核燃料が必要です。
人が進み登る道を作るのであれば、
それに叶った強さを持つ人が求められます。

最近、同じような気持ちを
繰り返し違う表現で書いているような気がします。
こう思う気持ちののなかに何があるのか、
なぜそう思うようになってしまっているのか、
その理由はまだ聞かされていません。

水曜日, 11月 16, 2005

畑の概念

家では玄米茶を良く飲んでいました。
香ばしくて気に入っています。
時折塩を口に含みます。
冬は体が乾燥しやすいのです。

秋になるとさんまが一尾50円くらいで
スーパーに並びます。
安くて新鮮なので買いますが、
ふと一尾50円で経済はちゃんと回るのか
すごく不思議に思うことがあります。

供給が多すぎると値崩れする、
これは市場原理の講義の初期の頃に現れる
基本定理です。
人間の労力と機械の労力を足したものが
市場が求める量より多い場合、
労働が値崩れします。
しかし労働が続かなければ給料は得られず、
どこかで調整が必要になります。

一生懸命働くことは必要だと思いますが、
何のために働こうとしているのか時々考えていないと
労働過多の世界の調整ができません。

この間「叩き台」を作る難しさを話していて、
最も必要な仕事は「叩き台」にあるのではないかと
認識を持ちました。

叩き台は手探りで作られます。
そしてたいていの場合不恰好です。
叩き台があるからこそそれを純化して
より洗練した姿にすることができます。

どちらかと言うと、人は
叩き台を作ることよりも、
洗練させることのほうを好むようです。
楽に何か良い結果が出たような気分になるからです。

叩き台を作るのには
ずいぶん泥臭い手続きが必要です。
情報を集めて試行錯誤して、
それでできたものはその時点では
どこか垢抜けないものだったりします。

でも一度核ができてしまえば、
あとはその核の可能性に応じて
自由に発展させることができます。
それはおもちゃを作る人と、
おもちゃで遊ぶ人の違いでもあります。

どんなに面倒でも、
叩き台を自分で作る気持ちを忘れたくないし、
余剰の労働力は創造的な事柄に振り分けれたらいいなと思います。
それを横取りしたりちょっとだけ使おうとする人は抵抗を持ち、
別の場所で叩き台を作っている人は大好きです。
そして「荒野に畑を広げる」ことに相当するものが
「未知の世界に叩き台を作る」ことだと考えます。

火曜日, 11月 15, 2005

「野球が好きな人」

昨日はずいぶん外が暗くて、
午後4時半になると真っ暗になった感じがします。

野球が好きな人、と表現すると
野球をするのが好きな人、野球を見るのが好きな人、
その両方、という3種類に分けられます。

趣味で野球をする場合は、
観客というのはあってもなくても野球自体はできます。
仕事で野球をする場合は、
野球をする人には野球を見て楽しみにする人がいることで
野球が続けられます。

時折出てくる話の中で、
世の中には2:6:2の法則と言うものがある、といいます。
ある出来事、集まり、など多数のものの集合に対して、
最も重要な寄与をするものは全体の2割、
日によって変動する寄与をするものは全体の6割、
全く寄与しないものは全体の2割、
という風に解釈されます。

野球でも芸能でも、
熱心に応援へ馳せ参じ通うファンの存在が
その後の発展を決めるのだといいます。
彼らは自分自身が「応援するもの」をやるのではないけれど、
それと同じくらいの努力をして注目し応援しています。

ちょっと立ち寄って気の効いたことがひとこと言えて、
立ち寄るも立ち寄らないもその日の気ままで、
という「しゃれたお客さん」の立場でいる場所も
十分あっていいと思いますが、
そういう人もどこかの場所に「一生懸命さ」というものを
持っていて欲しいなとつい思ってしまいます。

お気楽で楽しくて、という感じが持てれば
もっと気持ちには余裕がたくさんできるのかもしれませんが、
そうすることを自分に許すことは難しいし、
そういうものに魅力を感じる感覚も発達していません。

ずっと楽できる生活にはなれないのかもしれませんが、
それでも一生懸命さというものを出せる意志の強い魅力を
自分にも相手にもどこかで求めていくだろうと感じます。
それは何度も自分を試してみて、
一度も変わらなかった部分の一つです。

月曜日, 11月 14, 2005

気持ちが枯れていないとできない仕事

小さなハードディスクを買いました。
USBメモリにしばらく慣れていたのですが、
中途半端に容量が多いとうまく使えません。

およそ力仕事を続けている時期に、
デスクに落ち着いて座って思考するのは難しいものです。
「素早い気持ちの切り替えを」とよく言われ続けてきたのですが、
もともと考え込んでしまう性格もあって、
切り替えろといわれると妙にへそを曲げたくなります。

意識すればするほど増していくものがあります。
タバコを吸いたい人が「タバコをやめろ」と毎日聞かされると、
逆にタバコを忘れられなくなってしまいます。

何か困ったことを手放すには、忘れてしまうことが良いようです。
逆に大事なことは何度も思い出す必要があります。
そういえば学校では覚え方は何度も繰り返し学びますが、
忘れ方を教えてくれることは一度もありません。
人は覚えにくく忘れやすい生き物だから、というのかもしれませんが、
時に忘れられないタイプの人間もいます。

脳を自在に使えるということは、
自在と言う言葉は双方向の意味を成すものであるため、
覚えたことを自由に取り出せるだけでなく、
不要なものは自在に忘れてしまえる能力も必要です。

もの想う秋、とはよく言ったもので、
デスクに座って考え事をするのは秋が向いています。
いたずらに活動的な時期より、
少し気持ちが枯れているほうが考え事は楽なのです。

日曜日, 11月 13, 2005

人にはそれぞれ「必ず理由がある」

秋の山をこれほど美しいと感じるようになったのは
関東に出てきてからです。
九州の紅葉はオレンジ色が多いのです。

タイトルはC&Aのブックレットの一節です。

ニュースとテレビを見ない生活を送っています。
概ね見なくても生活はできます。
しかし人と共通の話題を求めるときには
少々不便に感じることもあります。

この「不便さ」、国によって違いはないようで、
イギリス紳士は社交場のたしなみとして
新しいジョークと最近の話題を用意しておくことが
求められていたといいます。

生きやすさ、というのは
制約条件の少なさ、という尺度で測れば分かりやすく、
条件が増えれば増えるほど生きるのは難しくなります。

争いや矛盾や衝突や、
そういったものは生き物の中では脳の活動という「おまけ」の部分であって、
それらは単体では特に意味を成さないのかもしれないのですが、
しかしそれらが人という種を選び進化させるプロセスの一つで
あるとするなら、
それらには何かの理由があるのだろうと思います。

人間は進化の最終過程に生まれたという説がまかり通っていて、
しかし人間は進化し間違えた生き物かもしれないことは
あまり問題にしようとしないものです。

月曜日, 11月 07, 2005

食塩は体に悪いか

24時間以上起きていたので睡眠不足明けです。
旅する行と座禅の行があったら、
多分旅する行のほうが気分はいいと思います。

今日はすこし食べ物の話です。

食べ物の環境は遺伝します。
たとえば塩味の濃い食事が日常の場合、
体は塩分に慣れるように変わっていきます。
菜食主義と言う人がいて、
その人たちの体は野菜の成分の中から
必要な蛋白を吸収できるように変わっています。

「人間」という単一の標準モデル、という概念が
どこまで通用するかを最近考えます。

個性には、頭で覚えたことから生まれる性格に根ざす面と、
体のつくりや環境・経験から生まれる実体に根ざす面があります。

極端に言えば、脳は単一世代で書き換えることができます。
脳はただのネットワークで、それに何を覚えさせるかで
結果が変わってしまうからです。

これに対して、環境が体の働きを変えてしまうことがあります。
イヌイットかエスキモーなどのカヌー生活をする民族は
生まれつき腕力が強いのだといいます。

食塩を多く取る地域の人たちは
自然と塩分を代謝できるような体になっています。

それでいろいろ考え直すと、
一人暮らしを始めてからしょっぱいものを
あまり食べなくなったような気がしたのです。

数日日常を変えたぐらいでは体は異常になったりしないので
たまに自分を試すことがあります。
そこで昨日から多めに塩分を取ってみました。
夜食の後も眠くならず、
眠い以外は意識ははっきりしていました。

実家にいたときの味付けの濃い食事は、
自然と自分の中に身についているのだろうかと
不思議に思った今日の夕暮れです。

木曜日, 11月 03, 2005

人は皆違っていく生き物

世の中的に平日か休みか、を
一番肌で感じさせるものは、
町の様子とテレビ番組です。
テレビを殆ど見なくなって、
世間と距離を置いてみるのもなかなか楽しいものです。

記憶にはある日不思議だと思って
心に引っかかった言葉が集まります。

「この業界は狭いから」と言う言葉は、
なぜかどこの業界の人からも聞かれます。
業界に広いところなんてあるのだろうか、という疑問が生じます。

「あの人とは根本思想が違っていた」ということが
仲違いの原因になったりして、
しかしある一時期は共通点を持っていたからこそ
そこに共通の時間が生まれたわけで、
果たして「違っていた」ことは
世間的に言われる「勘違い」ではないのではないかと
不思議に思っています。

年は取りたくない、と言いながら、
忙しい今週は早く終わらないかと思う気持ちは
よく分かる心境なのですが、
時間的に厳密なことを言うと矛盾しています。

キャバレーに通う紳士、
マイクを握ったら離さない後援会幹事、
立ち話に熱中する淑女、
共通するのは「話し相手が欲しい」という欲求で、
それは年を重ねるごとに増していくもののようです。

似ているものから始まると、
若者は個性が少ないとか個性を求める、と言う気持ちは良く分かって、
同じ時代環境で育てば多かれ少なかれもともと似ています。

このような連想から行くと、
よくブログの質問にある
「あなたと瓜二つの人が現れたらどうしますか」の問いに対して、
多くの人は「一生理解しあえる話し相手にする」と答えるのが
自然なような気がします。

違う個性に刺激を受け、同じ個性に安心を得るとすれば、
人が違い続けていくということは
安心ではなくなっていくということなのだろうかと
時々難しく考えます。

西洋では個の概念、東洋では集団の概念、と
区別したとしても、
人はいずれ違っていく生き物であることは
どの世界でも変わりません。

水曜日, 11月 02, 2005

頭に優しいノートの取り方、とか

薄い紙が好きです。

実は薄い紙のほうが安いらしいのですが、
値段と好みは関係がありません。

本は頭から読みます。
最後から読んだらお話にならないからです。
それでノートと言うのも本と同じように
最初のページに一番古い情報、
最後のページが一番新しい情報を載せるようになっています。

以前からこの「ノート」の使い方が苦手でした。
自分でメモを取るのに、後で読み返せないからです。

いくつか原因があることが分かりました。
ノートが「ある時間を基点に進む時間で記録される」場合、
一度記憶を「ある時間」まで戻した後、
そこから読み進める、という二回の操作が必要で、
私はこの「ある時点に戻る」際に混乱するのです。

そこでノートをバインダー型にして、
古いページが一番最後に来るようにしました。
こうすると、最近の情報はいつも上にあって、
過去に遡る一回の操作で目的の場所を思い出せます。

新しい情報ほど、最初は何度も復習する必要があり、
時間が経ってもたまには見ることが必要、とは
リビングストンとか言う人の学習曲線に繋がる話です。

ここまで書いて、
だったら今まで通りノートを書いて
逆からめくればいいじゃないかと思ったりするのですが、
こうすると「時間を遡る」ことがイレギュラーだと感じて、
あまりうまく行かないのです。

この方法、本がとても好きで、
お話として全体を理解できる人には向かないかもしれません。
しかし本に書かれたものを読む場合は、
実は現在から未来への時間を使っているので、
最初の情報が一番「古い」必要があります。

自分用のノートを書くという事と、
人に読んでもらう文章を書くことは、
実は頭の働きの方向が逆なのだと感じます。

story-tellingとは、
現在から未来に向かって行われる作業です。

日曜日, 10月 30, 2005

プラス1の処世術

マウスの一つボタンがMac、
二つボタンがWindows、
三つボタンがUnixと決まっています。
わたしはWindowsをメインに使いますが、
最近右ボタンをできるだけ使わないようにしています。
なんとなく思考の邪魔になるかもしれないと思ったからです。

相反することについて時々考えます。
「お金は後からついてくる」と、
「先立つものがないと始まらない」は全く逆です。
そしてこれらの言葉を、適切な状況の説明にも
諦めの理由付けを求めるためにも使います。

いくら大農場が効率がいいからと言っても、
大平原を一人で耕していたら
いつまで経っても作物は実りません。
といっても自分ひとりがやっと食べる分しか耕さなければ
いつまで経っても楽にはなりません。

どうもそこには「適切な大きさ」というものが
決まって存在するように思います。
アプローチの方法はひとそれぞれですが、
少なくとも大農場での農法と
小農場での農法は全く違うはずです。

量子論は確かに全ての物理の基礎を成しますが、
高エネルギーでの場合と低エネルギーでの場合は
基礎となる考え方そのものが違います。
そして複雑怪奇な量子論は突然生まれたのではなく、
もう研究することが何もないだろうと言われるまで
古典力学が精査された後に生まれたものです。

大きな事を為したいときに、
がむしゃらに無理をするわけでもなく、
かといって臆病さから行動範囲を狭めるわけでもなく、
今できることから一歩だけ先へ努力してみる、
そういう歩み方が必要だと思います。
そして、一足飛びではなく一歩ずつというのが
なぜか結果的には一番早く目的地へたどり着ける感じがします。

ただ時々無理をすることにはいい意味があって、
今までの自分の「方向」を変えたり、
日常に余裕を持たせる効果があります。
それは一歩ずつの歩みではもしかしたら得られないことで、
諸行無常の考え方で言えば
自分が生まれ変わることに等しいのかもしれません。

金曜日, 10月 28, 2005

朝日の当たる道

気分のいい朝は散歩をします。
おととい芝の畑の前に車が停まっていて、
助手席にバイオリンを置いて眠っている
作業着姿の男性がいるのに気がつきました。
そこには何か「おはなし」がありそうで、
なんだかいい気分でした。

ちなみに誰もいない野原に出ると
一人で歌を歌います。
好きな曲を最後まで覚えているというのは
こういうときに便利です。

火曜日, 10月 25, 2005

徹夜は意外とできるもの

もう若くないから徹夜が辛くなった、と
誰かがまことしやかに言い出したのは
20代の前半でした。

この話、一部には正しさがあるような、
しかし全体は正しくないような言葉で、
しばらく考えます。

20代前半は妙に体力がないような気がします。
それは、体力とは別に、
精神的な構造変化が起こるからではないか、と
最近考えています。

斉須さんの本の中に、
平気で3日ぐらいぶっ続けで働くフランスの料理人が出てきて、
血が違うなあと驚いたという表現がありました。
それは単に「血」ではなくて、
人間は体を動かし続けることに
慣れることもできるのだという表れのような気がします。

テレビで見たニュースで、飲み歩いて徹夜した後で
そのまま仕事へ行く、という話を見て、
徹夜する中身が話したり歩いたり、といった
体を使った時間の使い方であれば
意外と徹夜は簡単にできそうな気がします。

徹夜のコツ、みたいなものについても
時々考えます。

一仕事の前に腹ごしらえ、というのは
全く正しくないような気がしています。
食べたら内臓が運動するのが忙しくなって
眠たくなってしまうからです。
徹夜の時間帯には
できるだけ消化が良くて胃腸に負担の少ない
果物とか飲み物を少しずつとって過ごすのが
よいのではないかと考えます。

逆に眠りたいときには、
たくさん食べればいいのです。
良くないことがおこった時にやけ食いするのは
もしかしたら眠りたい連想なのかもしれません。

日本人は苦行みたいなのが大好きなので、
徹夜と聞くとなんだか辛くてすごいイメージを持ちます。
しかし徹夜することにも上手な方法があるのであれば、
飲み歩いて仕事したって特に苦しくはありません。

加速器は試験中歩きっぱなしで
一見体力勝負な印象で辛そうですが、
実はその事のほうが徹夜は楽だろうとも思います。
頭脳労働だけで徹夜するのは本当に苦痛で、
だから作家はわざわざ旅に出て
体を動かしているのかもしれません。

可愛くない顔

加速器試験はようやく終わりました。
最初にイメージした実験の理想的な姿に
だいぶ近づけたような気がします。

メールで大量に文書を書き、
何人もの人と会話をしながら仕事をする、という使い方をすると、
かなり精神的な体力が要ります。
人は人の中にいて生きていくものならば、
人付き合いが得意とか苦手とかいう感覚はあっても
必要なときに必要な人と情報をやり取りしなければなりません。

個人的なメールの中で使う顔文字の中で、
今まで一番多く使ってきた顔は笑顔の顔文字です。
自分がメールを送ることに対して
好ましい気持ちでいるということを表現したいのです。
もう一つは、他のいろいろな顔は
今ひとつ可愛げがない、と自分では思っていたところにもあります。

メールは会話のように言い直したり
説明を付け加えたりできないので
自分が笑顔でないメールを書いて
相手に良くない印象を与えるのではないかということが
内心すごく気になっているのです。

ところが、気分的には笑顔でない日というのも
実際にはあって、顔文字ながら
笑顔ばかりを使うことにたまに抵抗を感じることがあります。
同じ表情を続ければ顔だって引きつってしまいます。

笑顔でいなければいけないのだろうか、と
ふと思うことがあります。
「いつも笑顔で」とよく言われたとしても、
本当に毎日笑顔で過ごしているわけではありません。
人間は何にでも慣れてしまう生き物であるために、
笑顔にも慣れてしまう、というのは
笑顔だけではなく涙顔が豊かに出せる女優さんに
人気が出るというところでも良く分かります。

できるだけ笑顔、とか
ため息をついたら幸せが逃げる、とか思わずに、
できるだけ表現豊かでいようと思います。
自分が寝ぼけていてかっこ悪い顔をしていても
それはそれで自分の姿だったりするのです。

かっこ悪いに慣れる、ということが
どうしても心配だった時期があります。
一度かっこ悪いに慣れてしまうと、歯止めがきかなくなって
これ以上努力しようという気持ちを失うのではないかと
考えてしまうのです。

しかし人はどんなことにも慣れることができ、
一方で慣れるとどんなことにも退屈する生き物です。
退屈というのはなかなか面白い感情で、
新しい事を始めるのが楽しくなります。
毎日が新しいことばかりだと、
少しは落ち着きたくなるものです。

人からもらうメールの笑顔の顔文字は
いつ見ても飽きないものですが、
自分が書くメールの中にはたまには他の表情の顔文字も
少しずつ使ってみようかなと考えています。
ただの白と黒が作る「ある情報」なのに、
人は自分を表す方法をめぐらせているものです。

月曜日, 10月 24, 2005

制御不完全な脳

どんな環境であれ
新しい人に会うというのはいい刺激になるといいますが、
新しいものを受け入れるにはキャパシティーがあるようで、
会うには気持ちの体力が要ります。

土曜日に出た集まりの中で、
最近脳のことについてみんなの意識が高まっているのを
感じました。

社会の教科書では、
類人猿から進化するために脳が大きくなった、と
あるのですが、
生まれつき普通の人の1/10しか脳がない人でも
全く日常生活に支障がないことを知ってからというもの、
どうも脳が大きいことは進化の過程で
どこか間違った選択をしているのではないかと思いました。

哺乳類は体に対して
比較的大きな脳を持っていますが、
そのおかげで感情的な表現が行えます。
ただそういった表現は「種として生き残る」ためだけであれば
全く不要なのです。

社会性というものを獲得するのでさえも
これほど大きな脳が必要ないということは
蟻を見ていれば分かります。

制御工学の言葉で言えば、
自由度に対して可制御量と可観測量が十分用意されないと
システムの動きが不安定になることを
避けることができないとあります。

人の脳は体10個分以上を楽に動かせる、というのは
23人のビリーミリガンのような多重人格が
存在することでも良く分かります。

こういうことから考えると、
脳は体の全入力、全感覚を使っても
完全な制御ができない物体だということになります。
アインシュタインの言葉によると、
すべての人は目に見えない笛吹きの曲にあわせて
踊っている、という表現になります。

逆に言うと、脳は自分の体のあらゆるものを
自在に変えられるだけの十分な潜在能力があります。
志が表情に出るとか、
恋すると魅力的になる、というのは
脳に上手なスイッチさえ入れることができれば
本当はたやすいことなのだろうと思います。

自分のことが思い通りに動かせないという
現実的な問題は、スイッチを入れるのが
そもそも非常に難しいことにあります。
脳のスイッチを入れるために用意された入力端子が少ないのです。
身をもった経験が大事、ということが言われる理由は
もともと体を使って脳に送れる情報量が
脳が要求する1/10以下しかなくていつも不足していることで
説明がつきます。
「知りたい」という欲求を強く感じる人は
脳そのものが導く行動に従っていることになります。

考えすぎはよくない、とか言うのは
脳が暴走してしまったときに止める手段を持てなくなる、
ということに繋がっているのかもしれません。
そして時折聞かれる「愚直にやる」という表現は
実は脳の機能の一部を強制的に「使わない」ことで
自分の脳を制御できる状態へおく、ということの
表れと考えることもできます。

おはなしではありますが、創世記の一節には、
木の実を食べた瞬間から
自我と恥じらいというものが生じて
体を木の葉で覆うようになった、という箇所があって、
それが神が定めた罰の一部であるというならば、
この人間世界がいつまでも混沌としているのは
神が脳をいたずらに大きくしてしまったからと
思うのもまた納得のいく説明かなと思います。

水曜日, 10月 19, 2005

純粋にうまくなりたいと思う気持ち

雨の日はずいぶん暗くて、
しかし気持ちが落ち着きます。
雨上がりの空は美しい海の底を眺めるように澄み切っていて、
気持ちが洗われるような気がします。

もやもやした気分が生じたときに、
頭と心を洗ってさっぱりする確実な方法がないものとかと
時々思います。

野球用品メーカーの宣伝で
「もっとうまくなりたい」という一言を
いろんな少年が繰り返すCMが数年前にあって、
その宣伝がとても気に入ってました。
憧れから何かを始める気持ちというのは
無心に行動できる原動力になります。

行動が縛られることがあります。
自分ができることが大きくなっていくと、
誰かの行いと衝突してくるからです。
それで自分が行動することに対して
ある種の抵抗感を持つことになります。

自分がこんなことをしてみたい、と思ったときに
それが上手で、そのことで人を楽しませている人を目標にするというのは
良い方法だと思います。
上手になるということが自分の快い感情と結びつくからです。

仕事について最近はこんなことを思います。
仕事で成果を上げる過程も大変だとは思いますが、
その成果で人が幸せになっているところをイメージできないと
その仕事をする意味を失います。

自分よりも何かが上手な人を見ても、
どういうわけか競争心とか張り合う気持ちを持てません。
それが上手である人を見て満足し、
自分も少しでもそうなれたらいいなと思うところまでです。
切磋琢磨という表現をあまり受け入れられないので
あまり男性的ではないのかもしれません。

自分の年齢が上がってくると、
友達の活躍する場も大きくなってきて、
話すのがとても楽しくなります。
そこには自分がもう到達できない場所があって、
そういう場所にいてくれること自体が
良い目標になるのです。

幸せな気持ちというのは状態であって実体ではない、
だから日常の生活であればずっと幸せでいることはない代わりに、
ずっと不幸せでいることもないのです。

月曜日, 10月 17, 2005

人に表現し、人を集める練習

Windows Media Player9.0には
曲の再生速度を変化できる機能があります。
デジタルとは再現性に優れたメディアの記録法ですが、
毎度完璧なまでに同じ調子の曲を聞くと
どうも調子が悪くなってしまうようで、
いつも聞き慣れた曲を15%くらい遅くして聞いていると
とても気持ちが落ち着きます。
暇なときにお試しください。

毎度同じ調子が完璧に来るとどうにかなりそう、というのは
高校のときにピアノを教えてもらっていた
音楽の先生の話です。
MIDIを使って曲を直接弾いて録音する際に、
一瞬の狂いもないような指使いが求められて、
そのときにこの話を聞きました。

人の曲の中には、気持ちに由来した揺らぎがあります。
機械的完全な正確さではなく、
この揺らぎが必要であるというところに
人の面白みがあります。

完全なもの、完全なリズムを求めて
音楽を操る機械は頑張ってきたはずなのですが、
必要以上のところまで突き抜けてしまうと
やはり人は人を求めるのだなあ、と
人の進歩の限界点を見るような気分でもありました。

集まりの案内を出す係をしています。
出すこちらは一人か少数で、
返事があるあちらはたくさんの人がいます。

人が集まるところには理由があって、
その目的がはっきりしていると良いのですが、
あちらの人がたくさんになっていると
なかなかその目的がはっきりしなくなることもあります。

人が集まっているものの一番大きなものは
市場になるのでしょうか。
不特定多数の人が混在して存在している、ある場所に
何かのアクションを起こしてあるリアクションを得ます。

表現は何のためにあるのか、表現は何なのか、なんて
素朴かどうかさえ分からない疑問を持ちます。

現代的に使われている「表現」とは
「勝ち抜くためのアピール」としてほとんど使われます。
宣伝、歌、さまざまな表現が
「何かに勝つために」準備され競われます。

表現が競争と同一視されてしまうのであれば、
心優しい人にとって「表現」は実にやっかいな代物になります。
表現が他人を排斥するものでしかなければ、
それを好む理由になれないからです。

競争原理を感じずに表現を学ぶ場というのは
一体どれだけあるのだろうとふと想像します。

岡本太郎の本を読んでいて思ったのは、
踊りや歌といった身体表現は
それ自体が生きるために存在するから美しいのだ、という
くだりを見て、とても納得しました。

競争が完全に不要だといっているのではないのです。
良いものが選ばれて世に広まることで
多くの人が生きやすい環境を得ることができるからです。

しかし表現の全てが競争である必要がない、
だから「競争とは無縁の表現」というものが
もっともっと広まらないといけないのではないだろうか、と
最近はこんなことを思っています。

営利目的ではないその集まりは
自由意志でできていて、どことも競争関係にありません。
肩書きや利益追求を外した表現ができます。
ところが最初に感じることは、
「集まりの案内を出して来なかったらどうしよう」と
思ってしまう感情とどう付き合うか、ということでした。

集まりには明確な目的がもともと存在しないので、
たくさん集まる必要さえ本当はないはずなのに、
「集まり=大盛況」であることが暗黙の了解になっています。

少し思うことは、
自分の行動を認めてもらいたい、というのは
誰しも思うことだな、ということです。
それで案内を出して断られたら、
親身にしている人の数が計られそうな気がして
一瞬怖気づいてしまうのです。

でも知り合ったばかりの人たちの中で
親身にしている人がそもそも多いはずなんかないので、
断られることもままあることではあります。
たくさんの人はそれぞれ複数の用事を抱えているので、
いつもうまく行くとも限りません。

そんなわけで、「断られることに慣れる練習」というのを
少しずつ始めてみよう、と思い始めた時期があります。
まずしなければならなかったことは、
断られることは悪いことであるという連想を解くことでした。
この連想が解けなければ、
断られるたびに自分の感情が傷ついてしまうからです。

たくさんの人が、
心をある意味で裸にして向き合っているのかなと最近思います。
それは科学のせいかもしれないなとも思います。
たった一つの真実がある世界、という観念自体が
心の逃げ場をなくすのかもしれないと感じるのです。

自分の意識が何もかも白日の元にさらされている、というのは
現実には錯覚です。
人はそのくらい分かり合うのが難しい生き物のはずなのです。

寒い日には厚着をすればいいのであって、
わざわざ裸になって乾布摩擦をするだけが能ではないはずです。
心も同じで、
深く痛んだときには時々温かい服を着せてやる必要があります。

漠然とみんなが思っていて、
しかしそれが表現になって出てこない、
それを見つけてちゃんと表現すると
ふと潜在的な緊張が解けることがあります。

表現が人を結び救うものである、
いつもそういうものであったらいいのにと
毎日思います。

火曜日, 10月 04, 2005

いまだにプリンタの類が信用できません

物理シミュレーションソフトにANSYSというのがあるのですが、
「アンシス」というチョコレートが出てたので
思わず買ってしまいました。

紙出力をあまり信頼できません。
目の前でよく詰まるのを見るからです。
詰まる原因はそれほど単純ではなくて、
部屋の湿度によって紙の状態が変わるとか
難しい要素も含みます。
だから雨の日はトラブルが増えたりします。

プリンタと同様にFAXも信頼できません。
相手のところが紙詰まりだったら読んでもらえないからです。
それでFAXを送った先には
一言電話をすることになります。

最近は電話だけの注文というのは受けてもらえなくて、
工業国際規格のISOに習おうとすると
ほとんど全ての作業を文書化することになります。
言った、言わないの揉め事は
水掛け論になる場合が多いものです。

たった一つのメディアで情報のやり取りが完結する、
ということ自体が
そもそもありえないことではないか、と最近思います。
それは人間を信用していないとかそういうことではなくて、
もともとそのようにできている、と考えるのがいいと思います。

水曜日, 9月 28, 2005

スパムメールのはやりすたり

デスクワークの日々が戻りました。
季節変わりの風邪が流行っている、と聞くだけで
どうやら風邪を引いてしまいました。
風邪を引くと頭の回転がよくなる、
どうもこのことは変わらないようです。

破壊型の幸せと、調和型の幸せについて
小さい頃ふと思いをめぐらせたことがあります。

破壊型の幸せというのは、
どちらかを幸せにするとどちらかが幸せにならないもので、
調和型の幸せというのは
どちらも幸せにできるものです。

破壊型の幸せが必要である場合、
すべての人が幸せにはなれないことが導かれます。

一見調和型の幸せを求めているようで、
破壊すること自体に幸せを見出してる人もいます。

時々思いますが、
食べ物を食べる喜びというのは
多くは破壊衝動によるものだと思います。
緻密な組織でできた食感を楽しむ、というのは
まさに何かを壊す楽しさから来ています。

世界は壊していいとされるものが減りました。
壊してはいけないようにできているとさえ思います。
それで破壊衝動は
どうしようもないベクトルを向くことがあります。

責任の重いアメリカの裁判官、外科医が
幼児偏愛や性的倒錯に陥る、などという話は
よく現れます。
彼らは「破壊することが許されない」ものばかりに
囲まれて暮らすからだと思っています。

破壊衝動自体が人の持つ避けられない本質であるならば、
法的に許されていて、しかも他の人間に害のない、
破壊衝動を満たす方法とは一体どんなものがあるのでしょうか。

長い寄り道をして
タイトルのテーマへと向かいます。

スパムメールは、メールができてすぐの頃から
やってきました。
携帯が受け取れる情報量が増えるにしたがって、
メールの数は突然多くなりました。

最初からあるのが
露骨な表現のタイトルと成りすましメールです。
法規制が整う前には
「間違って登録した可能性があり、
返信しないと違約金を請求します」などの脅しがありました。

法がある程度整備された後では、
「ご紹介させていただきました」とか
「あなたは特別です」とか
持ち上げるようなタイトルのメールになってきました。
確かに届いたときの印象は和らぎましたが、
スパムメールに変わりはありません。

ここ数ヶ月ぐらいは、男性がお金を払うタイプではなくて
女性が援助するタイプのものも増えています。
運営業者にしてみれば
収入になればどちらでもいい、ということなのでしょうか。

電子メールに代わる通信手段に
何が選ばれるかはよく分かりません。
ただ、それは音声や映像といった時間を要するものではなく、
やはり文字伝達によるものだと思います。

リテラシーの必要な時代は
これからも長く続きます。

火曜日, 9月 27, 2005

find a path to the dream

メーラーはMessage Managerというのを使っています。
送信機能が1MBまでしかないので、
大きなファイルを送るときだけメーラーを使い分けます。

辞書は人間が作ったもので、
言葉も人間が作ったものです。
夢の説明を見ると、
気持ちが想像したこと、という意味で一致しています。

充実した時間を過ごす、というのは
生きていること自体を忘れているときであるような気がします。
心配事というのは生きること自体を考えることで、
この気持ちが長く続くと気持ちが落ち着きません。

さんざん考えてみた末に、
いっとき考えるのをやめる、という方法もあるなと
最近思うようになりました。
今わからない答えはいつも気持ちの中に残るのですが、
だからといってすぐ分からなければ不安になるというのでは
いつも不安だらけだからです。

年齢を重ねて思考の自由度が増えてくるほど、
それを束ねるのが難しくなってきます。
パソコンをさわってうまく操作できない時に感じる
あのもどかしさと全く同じようなことが
自分の脳の中で起こるのです。
パソコンの複雑怪奇な中身に対して
入力装置はせいぜいマウスとキーボードなので、
重故障は入力装置だけでは直せません。

脳も同じで、
五感の入力を全て動員して調整しようとしても
悩みが深ければ直らないこともあるだろうと思います。

やっかいなのはこの世界そのものではなくて、
この世界に振り回される自分の脳なのです。

金曜日, 9月 23, 2005

街歩きの方法論

何も知らずに街に行く、
何かを調べて街に行く

書を捨てよ、街へ出ようの一節から考えると、
自分の目で見よう、という言葉が印象に残ります。

「自分の目で見る」という言葉は
分かったような分からないような言葉なので
少し説明を試みます。

自分ではない目というのは他人の目で、
主には聞いたり読んだりした「人の話」の印象の部分に
自分の印象が支配的に影響されることを指します。

歴史書には、
起こったことを書いた部分と、論や観を書いた部分とがあります。

起こったことについて書かれた場合、
その出来事に関連した場所に注目する能力が上がりますが、
それ以外の視点が忘れられがちになります。

論や観について書かれた場合、
感情の共有によって見るもの自体の主観的な印象に
大きく影響を与えてしまいます。

日常において、
言葉自体にとらわれる、という現象がよく起こっているのに、
なかなかそれを拭うことができません。
言葉が独り歩きする、それは
ものと言葉は必ずしも一対一で結ばれていないからです。

「花」という言葉があって、
最初は植物の花に対しての単なる呼び名であったものが、
そのうち華やかさを表す印象まで帯びてくると
使われ方が変わってきます。
かけことばや短歌の隠喩などは
言葉の持つ複数の意味を多面的に使った結果です。

日本にとって西洋から外的にもたらされたもっとも強い感覚は
「絶対観」だと思っています。
それは技術として受け入れ、非常に器用に操れるようになったのですが、
絶対観の欠点を補正する哲学の導入バランス、
つまり人間の不完全性への理解が不十分だったために
ある意味で人間性という感覚がつかめなくなってしまいました。

絶対観はしばしば単一観と混同されます。
本来は複数の観点が有機的に繋がっていても、
それらが全体として矛盾なく閉じていれば絶対なのです。

数学オンチな側面も大きく作用していると考えることがあります。
数学は演繹の方法によって解が変わることは
確かにありませんが、
数式がどう表現されるかによって
物理的表現の意味が大きく変わります。

めぐりめぐってこの話のまとめは、
街歩きの前に書を読む、
これがうまく行くためには
得た情報の力に対峙できる、ということが必要です。

水曜日, 9月 21, 2005

マッチポンプ、というわけではないけれど

西洋医学的に難しい症例には
漢方薬がいいよ、と言って
初めて人に勧めたのは10年前です。
最近になってやっと
自分も漢方薬を使ってみることにしました。
予後は良好です。

2度目の装置組み立てにあたり、
新しい試みを始めました。
と言っても「何かを増やす」とは逆のことで、
「前もって起こると自分だけが予見できたことでは
行動を開始しない」というものです。

これまでは、潜在的な危険性に気がつくと
先回りして全て手を打ち、スケジュールが円滑に流れることに
意識を全て集中していました。
これだと確かに狙ったとおりのスケジュールで流れるのですが、
現場を理解されず時間が過ぎてしまうことが
次第に分かってきました。

そこで今回は、
トラブルが起こりそうでも
重大な事態に至らないものについては
少しのスケジュールの遅れを容認し、
トラブルについては全体で対処する、という方角に
舵を切り替えました。

結果として理想どおりのスケジュールからは程遠くなりますが、
手を動かさなければ現場に対する認識を持てないという
人特有の問題からは
少しずつ解放されつつあります。

相変わらず思考作業の難しい部分は
負担が大きいのですが、
労働作業を肩代わりしてもらえるだけでも
成果は大きいのです。

木曜日, 9月 15, 2005

1分以内は全て「同時」です

近くのネットカフェには
最新式のマッサージチェアがあって、
腰の下のほうやふとももまで指圧球が付いています。

「同時」の概念を変える、という作業を始めています。

物理的な「同時」は
本当に小さな瞬間でも同一ではないのですが、
人間にとっての「同時」は
概念によってずいぶん変えられます。

毎年終わりごろになると聞かれる
「1年って過ぎるのが早かったよね」という台詞は、
1年という時間を瞬間のように扱っている証拠です。
1年前のことを思い出すことと、
昨日のことを思い出すことの間には
頭の働きとしては何の違いもないのです。

ところが1年という長い時間を「同時」と思うには
かなり無理があります。
1年の間では、活動的な日も、ふさいでいる日もあるからです。

かといって全ての瞬間が同じではない、と
真剣に思うと、思考がまとまる自信がなくなります。
少しずつでも変わっていく自分のどこに
自己同一性が求められるか自分で疑問になり、
まるで狭い空間の中で追い立てられて
逃げるように走り回るような
日々のイメージができてしまっています。

「いまを生きる」という言葉を読んでも、
「いま」の瞬間が非常に短い時間であったなら、
ナイフのエッジを渡るようなイメージにしかなりません。

人間は思考が前後できる、ということは
人間にとって「同一である」「いま」という時間は
過去と未来にそれぞれ1分ぐらいあると
みなしてもいいのではないだろうか、と考えた瞬間に
気分が落ち着いてきました。
思考が少しでも過去へ戻って、
方角を変えて再生できるのなら、
見てしまった嫌なことも少しだけなかったことにできるのです。

現実の世界でも時間は不確定です。
量子論から導かれた不確定性原理と呼ばれる現象では、
非常に大きいエネルギー幅を持つ不安定な世界では
時間のぶれが非常に小さくなり、
エネルギーの非常に低い状態である安定な世界では
時間のぶれは非常に大きくなります。

揺らぎ自身は不安定と受け止められがちですが、
揺らぎが許された世界はとても安定なのです。

火曜日, 9月 13, 2005

おめざとおやつを推奨します

二つの世界を知る、という作業は
下手をすると二つの逃げ場になってしまいますが、
うまく行けば相乗効果が得られます。
知るということはそれ自体が難しいと思う
今日この頃です。

朝ごはんにご飯と納豆と味噌汁、という
食事は栄養価的に見ると非常に素晴らしいらしいのですが、
どうもわたしの朝の胃には合いません。
食べ物を取り扱うのにもエネルギーが必要なせいか
起きてすぐにはたくさんの栄養価を取り込めないのです。

おめざという言葉を辞書で引くと、
子供が朝起き抜けに食べる甘いもの、とあって、
なんだか納得してしまいました。
ちなみにアジアのどこかの国では
朝冷たくて甘いミルクティーが出されるのだそうです。

朝の果物は金、とか言っていて、
ビタミンのせいもあるのですが、
多分甘いものは朝に合うことを指してるのだと
思います。

一時期友達が食事の代わりにお菓子を食べていたのを思い出して、
なぜ弁当ではなくてお菓子なのか不思議に思ったこともあります。

こういう断片的な記憶が繋がって
「朝は好きなお菓子を食べる」ということにしました。

やってみると胃は軽いし意識ははっきりしているし
調子がいいものです。
その代わり昼よりすこし早くおなかが空きます。

この間読んだ新聞記事で、
午後3時に食べたものは脂肪になりにくい、というくだりがあって
おやつは敬遠するものではなく歓迎すべきものかもと
思いました。

栄養学の世界というのは未開の部分が多くて、
定説になっているものが簡単に覆ることがあります。
コーヒーはガンを助長すると言っていたら
翌年にはコーヒー4杯でガン抑制なんて言っているのだから
鵜呑みにすると振り回されてしまいます。

オーダーメイド医療という考え方も、
カイロプラクティックの概念も、
漢方の証判断も、
人間が1種類の方法では取り扱えないことを指しています。
これは恐らく、人間も進化の過程であって、
さまざまな種類の人間の中から
「次の新しい生き物」へと緩やかに変わって行く途中の
試行錯誤の段階だからかもしれないと思っています。

聖書の中では、
人間は本来完全であったが、木の実を食べて不完全になったという
くだりがあって、
不完全であることは許されざる罪の象徴と捉えられるのですが、
もし最初から不完全に作られていたとしたら、
矛盾や葛藤も人間のために用意されたものかもしれないなと
ふと思います。

弱い相互作用にカイラル対称性がない、ということを
学者たちは「神が傾いた塔を作った」と表現しています。
人体も見た目は対称で内部は非対称です。
すべてが対照的で美しい世界がこの世の理想の姿ではなく、
もともとどこかが歪んでいるのがこの世の中の最終形だとしたら、
それはなんとなくほっとする世界なのかもしれません。

同時だと思っているものに対する、タイミングのずれ

「反省しないアメリカ人を扱う方法」という
アメリカ人自身が書いた本があって、
ちゃんと評価してあるのかな、と思ったら
だいぶアメリカ人を弁護した書き口になっていて、
やっぱり反省しないアメリカ人だなあ、と
少々おかしくなりました。

そういえば、
おかしいという言葉は
「面白いさま」と「異常なさま」を表すのに使います。
面白いと言う言葉は
「笑いたくなるさま」と「興味深い」を表すのに用います。
たのしいのなかにも
「楽しい」と「愉しい」があります。
"fun"や"enjoy"のように
純粋に楽しみを抽出した言葉が日本語として必要であるように感じます。

脳科学の本の話題が最近多いのは、
なんだか頭に残っているからで、
見ている現象を人間が感知するまでに
最低0.1秒かかるのだ、というのは、
どっきりカメラのスローモーション写真を見ていると
よくわかります。
顔にカエルが張り付いてから少し間をおいて
人が慌てふためくさまを
ちょっと不思議に思っていたところでした。

しかし、半導体産業のマザーマシンで使うような
表面粗さがナノメートルのすごい精度の平板を作る段階では、
人の手がどうしても必要になります。

人間には機械のような正確さがない、
人間は機械よりも精密である、
この言葉はどちらも正しいものです。
しかし時間に関してはあまり当てになりません。

音楽にあわせて踊るロボットを作ればわかることですが、
音楽と同時に手足が動いているように見せるためには
音楽よりもほんの少し早めに動力を発生させる必要があります。
ということは、
ダンスと言うのは現象を先読みして早く動いていることになります。

バッティングセンターでバットを振っていて、
なぜかボールにバットが当たらないときに、
ボールが飛んできたのを目で確認してからバットを振るのではなく、
飛んできそうなタイミングを予想してバットを出し始める、という
普通に誰でもできそうなことで悩み発見をしたことがあります。

言葉を認識するソフトでは、
まず数秒の音波を記憶した後で、
単語に直し、意味を考える動作を行います。
少なくとも人間はこれより高度なことをしていて、
音波を聞きながら先読みをして
残りを早く補完しようともします。

この話をもうすこし拡張すると、
人間がなにか現象として行動を起こすときには
その前に十分な気持ちの発生が必要であることがわかります。

最近の研究では、ちょっとうろ覚えですが
コーヒーを飲む動作をする数秒以上前に
「コーヒーを飲む動作をする」という指令が
脳からは発生しているのだと言います。

「今は一瞬しかない」というとき、
科学の言葉では
一瞬の定義は無限小の時間を指すのですが、
どうも人間はかなり幅の広い時間帯を纏めて取り扱っていて、
同時という言葉さえかなり緩やかな定義で済みそうです。

一瞬を大事に、とは言っても
ほんとうの一瞬では何も思考できなくて焦り、
数秒から数十秒の自分がまとまった一瞬だと思えるだけでも
気持ちはなぜか緊張から救われる気がするのです。

日曜日, 9月 11, 2005

宇宙観

日を浴びると体力を使うので
今日は全身が倦怠感に包まれています。
たくさん汗をかいて体中の水分を入れ替えたので
実は気分が良かったりします。

TVチャンピョンの番組の最後に
「あなたにとって・・・とは何ですか?」と聞く場面があって、
優勝者がその競技テーマについていろいろな言葉を残すのですが、
「生きがい」と答える人や「人生」と答える人が
多くいます。

自分が深く関わったものの中に、
自分の人生や世界観を重ねてみる、というのは
人間学的にいえば連想の一つです。
全く同一ではないのですが、
しかし人間が為したことという点で共通しています。

この世界はこのようになっている、と
写真や数式でいくら説明されても、
それは真の姿の「ある断面」にしか過ぎません。

もし人間に電波でものを見る能力が備わっていたら、
全ての物体は二重に見えたり、
可視光では見えない障壁の後ろ側の物体を感じることができるので、
この場合かくれんぼをやろうとすると
全く違うルールを作ることになります。

美しいものを見ている、といっても
美しいのは可視光で見たものの姿であって、
こうもりのように音波でものを見る場合には
美しさの定義が変わってきます。

世界にあるありふれたものの中に
社会や宇宙の一部分を感じるというのは、
自分の中に社会や宇宙というものの詳しいモデルが
備わってきたことも意味します。

フランス料理を極めたシェフが
家に帰って食べる好きなものはただのキャベツの千切りだったりして、
しかし彼はただキャベツの千切りを食べているのではなくて、
そのキャベツが調理でどんな味に変わるかを
心の中でいくらでも想像し感じられるからこそ
キャベツの千切りが普通の人よりおいしく食べられると思っています。

日常のありふれたことを楽しく感じるために、
非日常の極まった部分の情報が必要というのは
逆説的で結構面白いことだと思っています。
平凡だからこそ日常を楽しめるのではなく、
極まったからこそ日常のありがたさが分かるのです。

前向きに行こう、という言葉があって、
どうしたら前向きになれるのかということについて
しばらく考えていました。
でたらめに「明るく楽しく」でも何とかなると言うのですが、
追い詰められたときほど「明るく楽しく」は叶いません。

真剣に成功させたいという強い思いと、
前向きな気持ちが矛盾なく同居するには、
「こうすればどうなるか」が分かっていることが大事じゃないかと
最近思っています。
ある物事が成功するにしても失敗するにしても、
分かっているなら覚悟ができるし、
次善の策を考えられるからです。

もう一つ大事なことは、
ここまでは大丈夫、ここからは注意が必要という
上限や続きをきちんと決められるようになることです。
高校野球のほうがペナントレースより人気なのは
確かに一瞬の輝きというものがあるからなのですが、
それが叶わなければもう次はないという世界より、
失敗してもうまくいかなくても続けられるという
しぶとい希望のほうが楽しい気がするのです。

先を考える上で一番怖いのは、
失敗することではなく、予想外のことが起こることです。
無知は幸せなり、でいうと
知ることを受け止めるのは力が必要なので
自分にあった分だけ世界を知ればいいのですが、
知ることができれば変えることも考えられるようになります。

毎日が退屈だという人と、
明日を心待ちにする人の前にあるのは、
どちらも同じひとつの世界です。

月曜日, 9月 05, 2005

あの人の真似事

日本海を渡っている台風なので
風だけ強くて雨が降りません。
強い風が吹く日が大好きです。

おととい、ボスの形見分けで
50冊ほどの蔵書を貰い受けました。
その半分が今の仕事に役立つもので、
残りの半分が読み通すのに20年以上ほどかかりそうな
レベルの高い物理の本です。

なぜ自分がその人のようになりたいのか、
論理立てて説明することはできません。
ただその人がいたことを本当に嬉しく思い、
その意志が少しでも現実のものとなることが
自分にとっての生きる手ごたえであると信じるからです。

多分、ボスの真似事を続けると
どうしようもなく苦労するだろうというのは
少し考えればすぐに分かります。
それでも自分は、
自分が何かをもらう時に感じる喜びよりも、
人に何かを与えられている姿を目にしたときの喜びのほうが
大きいのだと思います。

その意思を継ぐ、というのは
ボスをエミュレーションで人間の形に生き返らせる
たった一つの方法なのかもしれません。

土曜日, 9月 03, 2005

道行きの決め方

朝日を浴びた加速セルです。

10月から実験の新たな戦力に加わります。

なくなったのは終身雇用、という実績ではなく、
終身雇用で人集めができるイメージ、だと思っています。
戦後から高度成長の間が45年、
会社員の勤続年数は約40年だから
完全に終身雇用できた世代の数は5年間分だけです。

しかしイメージがなくなってしまったので
会社側が「もう終身雇用の努力はしません」と放棄してしまったのは
人を大切にすることよりも
会社が生き残ることを選択した結果です。
法人、とは法の上で全く人と同様に扱われ、
簡単に死ぬことが許されないものになっています。
そんな会社は信用や忠誠心の源も失っているわけで、
選択を誤った会社=法の人は
数十年のスパンで大きな変化が表れるだろうと考えています。

今日は道行きの決め方の話です。
ある日の日記には書いたのですが、
おそらくブログ引越し前の日記です。

世の中の事象は、
原因と結果が分かっていて、
その過程を調べるのを内挿と呼び、
現在までの結果から
未来の結果を調べるのを外挿と呼びます。

内挿にはいくつかの選択肢があるだけですが、
一般に外挿はあまり当たりません。
未来のことが分からないのは外挿をするからです。

外挿が分からないなら、誰か結果を出した人に
聞いてみよう、とその時に言葉になったわけではありませんが、
自分がなりたいものに困ったときに
知っている教授に片っ端から
「どうしてこの道を選んだのか」を聞いたことがあります。

電気の教授は
「小学校の頃の理科の抵抗の計算が得意だったから」と言い、
メカトロニクスの教授は
「こどもの科学の工作が誰よりも好きだったから」と言いました。

聞いて回りながら、
どこかで職業との運命の出会いをしたのではないかと
期待していたイメージからは遠く離れて、
普通の人でもあるような、ちょっとしたきっかけを
大切に温めたような話ばかりをたくさん聞きました。

ちょっとしたきっかけ、とは
人が聞けば小さなきっかけのお話で、
しかし自分に起こったきっかけは
自分の未来を変えてしまう出来事になるんだ、と
そのとき思いました。

それから始めたことは、
新しく何かを覚えたり行動したりすることではなく、
自分にとって何が面白くて、
自分は何が好きだと思えるのかを
小さなことまで思い出してみることでした。

仕事にはどんなところでもしんどい時があって、
それは人間関係であったり勤務時間であったり
将来性であったりさまざまなのですが、
その仕事に意味を見出すことができれば
ひとつづつ越えられると思います。

しかし越えられる、と書いてみたものの、
自分には物理も機械も本気で嫌いになった時期が
1年間以上ありました。
こんなことをやって数十年過ごしたところで
一体何のためになるのかさえ分からないじゃないか、と
心の底から思ってしまったのです。

社会にとっての科学は偏執狂の手中にある斧のようなもの、
とはアインシュタインの言葉です。
科学を進めた先にある世界が何をもたらすかは
それを用いる人たちに委ねられます。
人が科学を使う限り、その用途の一つに
兵器転用が必ず表れます。

仕事にはどこかで共通の性質があって、
それをやったからといって100%の純粋さで
世界を幸せにする方法というのがないと最近は思います。
どこかに反作用があって、時々によって
自分であったり周りの人であったり、
時にはライバルや商売敵と競り合ったりしなければなりません。

それでも自分は仕事をするのであれば、
選択によって最大公約数に近い人が
良い効果を得られるような方向に向かいたいと
今は思うのです。

これは大災害が起こったときの救命の方法で、
軽いけがの人から治療する、という決まりがあって、
それは最大公約数の人を生きながらえさせるための決断に
どこかで似ているような気がします。

非常時などないほうが本当は良くて、
できる限りの手を尽くすことが人道だと信じますが、
人ひとりの力はあきれるほど小さく、
懸命な選択を繰り返すことがせいぜいです。

その仕事によって、自分は誰かの罪を負うかもしれない、
そのことを申し訳ないと思いながら、
人である限りこの世界のすべての人に
同時に幸せや安息は訪れないけれども、
それでも世界には昼と夜があるように、
持ち回りで幸せな日々が迎えられるようにすることが
人として望める精一杯かなと考えています。

そして「自分の好きな道を選べる」ということは、
非常時ではない自分に与えられた幸せな選択であり、
幸せな道が何かの選択で選べると考えるよりも
その道を歩いていくことで人と自分を幸せへと連れて行く、
そんなイメージが持てればいいなと思います。

夢の大きさは持った本人にしか分からない、
だから、どうか自分が持った夢はつまらないなんて思わずに、
大切に持ち歩いてください。

金曜日, 9月 02, 2005

何者にもなれていないわたし

ボールペンは、なぜか
外国製の、イベントでもらうおまけみたいな
非常に安いものがとても書きやすいと感じます。


わたしは何者にもなれていない、
そんな気持ちがいつもあります。
なくなるのかどうかは分かりません。

とても強く意識したのは学部を出てすぐのことで、
目の前にある仕事というものの広さと
それに対して自分ができることの少なさに
ショックを受けています。

自信がもてればいいな、と思うのですが、
気持ちには影も形もないので
何かを成し遂げたということが自信になるのかなと
焦って過ごす日々がたびたび訪れます。

しかし本当に、
自分は相変わらず何もできないのだろうかと問うと、
あの頃できなかったたくさんのことができるようになり、
あの頃知らなかったたくさんのことを知っています。

自分を明かす何かを必要とするのは、
主に人と向き合うときに用意する盾のようなものです。
それが必要なのは、立派な飾りをつけて
いい印象を与えたいと願うためだと思います。

何もなくても、素のままの自分でいいんだ、という
台詞がありますが、
社交界に出るのにスーツなしではおさまりがつかないのであって、
華美ではなくてもそれなりの準備は必要です。

わたしにとって一番自信になったことは、
資格を取ることでも高価な装飾が似合うようになることでもなく、
自分がとても良いと思う人に認めてもらえた時であった様に思います。
あの人が認めてくれたのだから、と思うと
その自分を人に見せても大丈夫な気がするのです。

自分だけで自信を持つ、
これが非常に難しいことは良く知っていて、
果たして自分だけで自信を持つことがもともと可能なのか
証明された試しはありません。
人間はもともと社会性を持つ生き物だからです。
しかしストイックに自分で閉じた自信を求めるくらいなら
誰かに認めてもらって十分な自信を持つというのでも
全然構わないと思うのです。

詩を書き、時には論壇に立ち、絵画を残し、彫刻を施した
岡本太郎のコメントの中に、
あなたの本職は一体何ですかと問われるが、
わたしには本職などない、
わたしの本職は「人間」です、というくだりがあって、
強く印象に残ったのを覚えています。
もちろん各界で成果を残せたから言える台詞ではありますが、
しかし成果というのは人が決めるものであって、
自分が発したものではないのです。

人柄も優しく、たくさんの人に好かれそうな
建設会社の会長さんに会ったときに、
自分は、自分のことを応援してくれる人がどこかに一人でもいるなら、
その人のために生きていける、と話してくれたことがあって、
その言葉のどこかに思いつめたような気持ちを感じて、
しかしそれこそがいつか至る本質なのかも知れないと思いました。

自分というものが本当に一人だと思ったときに、
すべての人は「自分ではない」他の人であって、
すごい人も偉い人もなく、
正しい道も誤った道もなく、
それぞれが個別に思う人生の中に生きている不思議を思う、
そんなときに「自分ではない人」は「ただの人」に
なっていくのかな、と思ったりしています。

世の中には確かに何事かを為した人はいる、
自分にできることは大して多くない、
でも自分の毎日の積み重ねと専心は
自分にとってunknownであったことがknownに変わっていく、
そのこと自体が幸せなんだとよく考えます。

この世界全体を表す統一理論が見つかったとしても、
人は悩みながら生きる、それは
個別の事象に対しては
個別の取り扱いが必要だという明快な理由に依っていて、
世界は誰かが全て理解できるような代物ではもともとないのです。

木曜日, 9月 01, 2005

ご褒美をもらい損ねた人たち

小中学校で踊ったのは
ラインダンスじゃなくてタップダンスじゃなくて
なんだっけ、と思い出したらフォークダンスでした。
フォークダンスというとどうもぴんときませんが、
Folk=民族の、と感じると
なんだかおしゃれな感じがします。

バブルは、
途中で終わってしまったフォークダンスに
似ていると思っています。

意中のあの人とはもう少ししたら踊れるから、
今は我慢して待ってみよう、
先生もそう言っているし、
こんな気持ちに近い感情で
お城のような会社は新入社員が
お殿様のような上司の命に右左と飛び回っていたのでしょう。

自分にもいつか日の目が来る、
だから今は辛い仕事でも頑張る、というのは
自分自身でそう思うときはいいのですが、
人を説得する種にはあまりなりません。
将来はどうなるか分からないからです。

情熱や、感動という本来つかまえにくい言葉に対して
歯車のかみ合った明確な輪郭を与えるのは難しいものです。
ともすると情熱や感動の下支えになる実体が存在できずに
すぐに浮ついた言葉になるからです。
最近の啓蒙書は
・数年で数千万から数億稼げるか
・情熱を持って毎日を過ごす
かのどちらかに分類できる感触があります。

どこかで「我慢だけさせられて、
ご褒美にはありつけなかった」と思っている人が
たくさんいるのだろうか、と思うことがあります。
そういう人たちは世界が変わることなど望んではおらず、
せめて自分がご褒美をもらえるまでは
変わらずにいてほしいと強く思ってしまうのだと考えます。

後悔とは
「こんなはずじゃなかった」という言葉と同義です。

期待をしなければ後悔をしない、と
使い古された言葉の意味について考えたい時があります。

ブラック・ジャックによろしくの中で、
治る見込みが数%という患者さんと向き合うときに、
可能性はあるが保証はない手段が手元にあり、
しかし法や慣習に縛られて「ベスト」と思うことを尽くせず、
「期待しなければ辛くはないんだ」とつぶやく場面があります。

期待を上手に持つのは、
アクロバットより難しいことなのかもしれません。

ご褒美をもらい損ねた人たちは、
どうしたら溜飲が下がるのだろうかとしばらく考えます。
そのご褒美を何かの対象に求め続けるのか、
ご褒美のない人生の部分は諦めるのかと
大きく分かれると思いますが、
できればバブルは元に戻らなくても
皆の気持ちが満足するような方法が見つかるといいなと思います。

株価が回復しないかとすがるように報道されていた声は、
曲が終わって意中のあの人と踊りたい気持ちだけが残った
あの日の自分に似ています。

ここに、言葉の通じない魔物を連れてきて、仕事をさせなさい

お盆を過ぎると突然朝晩が涼しくなります。
深い眠りにつけるのはこの時期以降で、
気持ちが上向きになるのもこの時期以降です。

行き先の見えない仕事を任させる、というのは
言葉の通じない魔物を連れてこいと
言われてるのとちょうど同じじゃないかと
ふと思いました。

言葉が通じないので、
最初はどうしても格闘することになります。
しかも相手は魔物なので、
初めのうちは負けっぱなしです。

しかしいくつか通じる言葉が見つかってくると、
魔物はいくつかの動きをするようになってきます。
通じる言葉に対しては魔物は忠実なのです。

魔物の動きを掌握することができれば、
魔物に大きな仕事をさせることができます。

誰でもやればできる、は
可能性という意味で正しく、
現実的な能力という意味で正しくありません。
魔物を操れるのは限られた人たちです。

助けが少ない

倉木麻衣"Fairy Tale"を聞いています。
細かいことに文句を言い出すときりがないのですが、
夏の曲、ビーチボーイズ系バンドと
冬の曲、クリスマスナンバーが同時に入っていたりして、
しかしそれがいい感じだったりするのです。

助けるという言葉、
恐らく西洋文明による訳語製熟語が増える前からある
中世の日本語ですが、
助けるに近い表現の単語は
ほとんど見当たらない気がします。

これが英語なら、
help, support, rescue, save, ensureなど
そこそこの数が用意されています。
「助けを呼ぶ声」という表現がありますが、
「助ける」が抽象的過ぎて何をしたらいいか分からないのです。
「世界の中心で」の映画の中では
助けてください、と叫ぶシーンがありますが、
ここでの助けは"rescue"であって"help"ではないのです。

日本はhelpとsupportの少ない国だから、
転んではいけない、とは
松本紳助の本の一節です。

誰もが助けを求めているような気がして、
しかし助けてほしいという言葉はどこかへ追いやられていて、
さみしかったり心細かったりします。

~してください、という響きには、
敬体としての「ください」が使われているのですが、
耳で聞く限りでは要求を表す「ください」と区別がつきません。
敬体で話す限り、自然に言葉の中には
「ください」ばかりが増えていきます。

決まり文句のように使われる
「ヨロシクオネガイシマス」も
なにかをお願いして要求しているような気がします。
それで、この一文を見ると
なんだか気分が重くなるのです。

耳で聞こえる言葉を中心に考えて、
すこし日本語の使い方を変えてみようと思います。
目標とするイメージは、
さっぱりしていて、自立していて、ほがらかな感じです。

月曜日, 8月 29, 2005

現代うた考

つくばエクスプレスの駅に設置されている椅子です。

なぜFRPでなく、高価なカーボンファイバー製なのか
とても気になりました。

ちなみに「エキスプレス」と「エクスプレス」、
どちらを使うべきかいまだに迷います。

身も蓋もあったもんじゃない、とは
なんでもあけすけに物を言うときのセリフで、
何でも伝えればいいかというと
どうも言わずにニュアンスで伝えて欲しいと思うことがあるようです。

古い絵巻には恋の歌を詠みかわすくだりがあって、
読み手の解釈を間違ったためにすれ違う、ということも
起こっています。
解釈の違いは機械で言えば「あそび」の部分であり、
この部分で滑らかさと不確実さが同時に生じます。

現代の歌は短歌ではなく歌謡曲ですが、
それでも"music"に当たる音楽表現に歌という漢字をあて、
短歌に相当するはずの"poem"に詩という別の漢字を当てたということは、
歌詠みが持っている役割が詩ではなく曲に託されたということだろうと
解釈しています。

カセットテープがあった頃は、
46分なり60分なりの長さをどんな曲のどんな並びで埋めようかと
あれこれと悩んだものです。
それは自分が曲を組み合わせて持たせるイメージで、
短歌の引用と同じような使い方になるのだろうと思っています。

今はMDができてしまって、
曲のアレンジをすることは減ってしまいました。
好きな曲を好きな場所から聞ける、という特性が
続けて聞く方法から手段を遠ざけたのです。

「こんな曲が好きです」
そこに今の自分というものを重ねて伝えるのは、
ヤマトの時代から受け継がれてきた
現代の歌詠みだと思っています。

金曜日, 8月 26, 2005

Certified

語学が好きだったのを思い出してきました。

8年ぐらい前に買って、誰かに貸したまま行方不明になった
語源辞典をアマゾンで見つけ、
中国語検定問題集と一緒に取り寄せました。

メーラーが不調で、LANケーブルも信号が弱くなって、
すこし電化製品が風邪を引いています。

見た目が変わらない、中身も変わらない、性能も変わらないという
二つの品物があって、
しかし値段がまるで違うものというのが存在します。
一つは作っただけのもの、
もう一つは耐久テストが済んだものです。

このての品物は検査されることに手間がかかるので
検査証なるものが付いてきます。

試験に受からなくても仕事はできる、は
確かに本当だと思いますが、
試験の意味合いというのは一種の耐久テストのようなもので、
大丈夫だろうとなんらかの保証が得られることに似ています。

生産の立場と開発の立場で
検査の意味合いは大きく異なってきます。
生産では既知の手順を用いてたくさん作ることを目的にし、
検査とは省略可能であれば飛ばしてしまいたいものでもあります。
しかし検査によって価値を高めることもできるのであれば、
生産サイドでは積極的に検査を導入します。

開発では未知の手順を早く既知の手順にすることが目的なので、
検査の中でも動作試験はしますが長期試験はあまり行いません。

技術が未開の分野では
まず道筋をつけるところに労働が集中するため、
検査の時間をあまり取らずに開発速度を上げます。
しかし一度道ができてしまうと、
安全に、早く、安くを求めるようになり
検査の時間が長くなります。

問題はここからで、
技術が飽和してくると
開発さえも安全にできるはずだという錯覚が生まれたり、
これまでわけも分からずやってきたことが
危険なので検査を増やしなさいと勧告されたりして、
技術が飽和したらスピードを上げないといけないのに、
飽和した技術自体が開発速度を下げてしまいます。

ブレーキだけではいけない、アクセルだけではいけないというのは
本田宗一郎の言葉です。
それは「どちらかに捉われてはいけない」という、
人間性を特定の事象に固執させずに
自由な立場でいること、と読みかえられるかもしれません。

日本では保証はどことなく「標準添付」されて
当たり前だと思っているところがあって、
それが日々の生活を安全にしているところもあり、
一方で物に対して呆れるほどの労働を求められているところもあります。

水曜日, 8月 17, 2005

モード変更の距離

春雨スープが好きなのですが、
カップで売っているものはカップ麺位の値段がするので
もっと手軽に食べられないかと考えたところ、
わかめスープに市販の乾燥春雨をそのまま足しても
おいしく食べられることがこの間分かりました。

終戦の日に、
努力して終戦を意識しない1日を送りました。
そういう1日が送れるかどうかを試してみたかったのです。

8月15日だけは日本は敗戦の国になります。
しかし、負け、くじかれたものが何であったかというと
国家としての意志であって、
人々の思いというのは別にあると考えています。

「あの当時、あなたは戦争に賛成でしたか」と問う
国勢調査をやれば少しは「民の意志」がわかるはずなのですが、
国がこんな調査をしてくれた試しはなく、
ぼんやりした印象のまま「敗戦」であることだけが
この国の印象であるように伝えられています。

民主主義によって作られた国なら
戦争は国民の意思になりえますが、
もともと将軍だ天皇だという象徴支配体制の元で
民意によって戦争を回避できる手段があったとは
思っていません。

戦勝国からは
悪いことをして負けたのだから反省せよ、と言われています。
秩序が崩壊すること自体に端を発して
目を覆うような惨劇が生み出されるのだから、
戦争を選んだがゆえに反省せよ、と考えなければならないわけで、
応じた国も本来同罪なのですが、
戦勝国は自らの行いを正当化しています。

アフリカ、アジアのヨーロッパ支配については
何の感情的解釈もなく世界史で紹介されているのに、
同じ目的を達成しようとした日本の外交だけが
凄惨な言葉で綴られているのか、ということに
もう少し焦点を当てても良いと思います。

日本が何かの問題で非難されている、というときに、
日本が戦後の焼け野原からほんの少し脱したぐらいの状態のまま
現在を迎えていたら、
こんなに非難されるだろうか、と考えることがあります。
海の向こう側にいる人たちも、
行為と悪意がない交ぜになった同じ人間です。

2年前と今年のアメリカの人の気持ちを比べると、
テロによる恐れから外国人を排除する雰囲気と
イラク戦はどう評価されても正当化できないと感じて
彼らなりの申し訳ない気持ちを表現しようとしている雰囲気の違いが
印象に残りました。

バブルの頃は、
経済的には豊かになったのに、
どうして精神的には貧しいのかという問題について
さんざん議論がされていました。
戦争という大病にかかったような日本が
精神的に豊かになるためには50年とか100年ぐらいの
戦争のない時間がもともと必要だったのかも知れず、
どうしてに当たる答えはもともと存在しなかったかもしれません。

日本に500兆円の国債があると言う話で、
一人当たりの額に直すと、という話が良く出てきますが、
返すために死ぬほど努力して
這いつくばって生きていかなければならないようなイメージは
持っていても意味がないと思います。
国の政策をあてもなく恨んで結果が出ないぐらいなら、
少しずつでもせめて返す方法を探しながら、
何代もかけて緩やかにに歪みを取っていけたら良いのではないかと
今は考えています。

映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」では
アメリカ人は常に死への恐怖におびえている土壌があって、
だから銃が手放せないんだという一節があり
確かにそうだと納得したことがあります。
アメリカから輸入されたものが文化だとしたら、
恐怖心も一緒に輸入しているはずです。

時間が経ってしまって多くの人は、
戦争の経験も罪の行動もないのに、
なぜ自分たちが謝り続けなければならないのかと
どこかでわだかまっていないのだろうかと
考えることがあります。

それは右寄りな考え方とか言う問題ではなく、
戦争や戦争犯罪の評価がアンフェアである、
許されるための手段さえ示されておらず、
終わりなく保証や賠償にたかられている、
ということを無意識に感じるからです。

失敗したら、平身低頭したまま一生を送る、
こんな世界観でいたら
堂々と非を認め謝ることだってできません。
敗戦の国であっても、心優しく誠実で立派な民であり、
生き生きと生きながら他の国のためにも尽くしていく、
そんな風に世界へ顔向けしたいと思うのです。

火曜日, 8月 16, 2005

多元連立方程式

野生の生き物は
薬効のある野草を食べたり、土を食べたりして
時々調子を整えます。
五木寛之「養生の実技」では
できるだけ何の外科的・内科的療法も加えないのが
素晴らしいことだと書いていましたが、
野生の摂理に少しだけ合っていない面があるのではと
いろいろ考えています。

テツガクの言葉で「止揚」というものがあって、
一見対立する概念をよりソフィスティケイトされた見地から眺めると
矛盾せず存在する、というくだりについて
時々考えます。

物理にはパラメタライズという手法があって、
ある結果を表す方程式に影響を及ぼす要素を
ひとまず分からない関数として導入だけしておいて、
関数の形を探しながら使いやすい一般解を導く、
という作業を時々やります。

ある関数形がさまざまな現象に応用できると、
その関数は根源的な自然の決まりごとを表したものとして
重宝されます。

ニュートン力学以前の物理というのは、
さまざまな力学実験を行って、
それぞれにパラメタライズした近似的な方程式をつくり、
個々の現象にのみ使っていました。

微分という概念が用意され、
人間の目に見えるのは速度までだったものが、
その一段下の「加速度」というところへ踏み込んだところで
ばらばらだった現象説明の統一が始まりました。

物理の進展はこういう経緯をたどっているので、
最終的に「全ての物理が統一される」ということを
期待してしまうのです。

しかしふと、
最終的な統一式が仮に二つのパラメーターになると
何らかの方法で証明されてしまった場合は
科学者はなんと見解するのかと気になります。

このあたり、一神教の教義にも全く通じるもので、
無理やり二つのものを一つにしようと努力するかも知れず、
科学はガリレオの頃のように
再度人々の審判にさらされるかもしれません。

連立方程式、というものがあります。
いくつかの分からない数字があって、
それらの数字がいくつかの規則を作っているのを与えられ
その数字を当てる、というものです。

ただ四則演算を繰り返すだけなのですが、
とても面倒だったりします。

分からない数字が少し増えると
考えるのは急速に難しくなっていくので、
大きな連立方程式の中に含まれる
小さな連立方程式を解くだけで
満足してしまったりします。
解ける式を作るにはそれなりの力が必要です。

この方程式、
全ての場合について解けない場合もあります。
ただ、
局所的に解けていたり、未知の数がいくつか残ったままでも
使い道は結構あるものです。

人の世界も同じで、
いろいろな人の願いを多く叶えるための方法は
人が増えるほど難しくなってしまいますが、
小さな理解の満足で目をつぶるのではなく、
大きな理解が得られるような方法の組み合わせが
自分の中に用意できたら良いなとよく願います。

選択できることに意味がある

アルコール依存症はalcoholicで、
仕事中毒はworkaholicです。
今までワーカホリックを肯定的に受け止めていたのですが、
中毒であることに変わりはなく、
休みを取ると決めた2日目は
仕事に戻りたいと思う自分を止めるのが大変でした。

精力的に仕事をすることと、
ワーカホリックであることは同義ではない、というところから
仕事との向き合い方を考え直します。

研究室のデスクで使っている椅子を
部屋の中にある別の椅子に変えました。
この椅子、以前に使っていたもので、
その時はすわり心地が悪いと思って
昨日まで使っていた椅子と交換し
良い心地だと思って仕事をしていたのでした。

「良い椅子」というものについて考えます。

良い椅子はいつも心地が安らぐもの、と
どこかで思っていたりします。
ところがどんな椅子に座ったとしても
なんとなく飽きてしまったりします。

「良い椅子」は「飽きない椅子」、であるとは
限らないのです。

旅に出るとさまざまなものに
腰を下ろします。

公園の真ん中の噴水へりの石段、
プラスチックで格子に編まれた背もたれのついた
カフェテラスのアルミ椅子、
やや固い乗り心地の山手線のソファー、
日差しで熱く焼けた浜辺の砂地、
夜遅くなった通りのガードレールと
いろいろなものに体を支えてもらいます。

旅先で考え事が新鮮にまとまっていく、というのは
座るものが変わっていくからかもしれないなと
ふと思いました。

人間の背中にはあまり感覚神経が通っていない、とは
小さい頃に読んだ事典の一節で、
座るところはなんでも構わないと思っていたのですが、
座るというのは直接人が触れている箇所であって、
気分を変えるために椅子の交換は必要かなと
ふと思い立ちました。

クッションも背もたれもない
コンクリートに座る、とだけ言うと
丸の内のビルの真ん中の道路に座らされているなら
禅行のような辛いイメージがありますが、
静かに凪いだ浜辺の防波堤に座って、
月明かりに照らされた海の表面を眺めているなら
実に幸せな気分だと思うのです。

水曜日, 8月 10, 2005

「ワルモノ」の定義

住む場所から学校までの距離が近い方が
寝坊する、という話を聞いたことがあって、
車で40分の温水プールから
歩いて3分の所内プールに活動が変わった途端に
なかなか通うのが難しくなってしまいました。

堀江貴文「会社の作り方」、を読んでいて、
あまりに嫌気がさして
ゴミ箱に本を投げ捨ててしまいました。

強烈な嫌悪感が何から生じているのかさえ把握できず、
それでどこに嫌気がさしているのかを
しばらく考え続けていました。

それは、
自分は良いことばかりはしていない、ワルモノだと書いておきながら、
「多くの人がハッピーになって夢が叶うなら別に良いじゃないか」と
最後の最後で自分を肯定しているところに
あるのだと気がつきました。

何かを為すときに反対に合うというのは
よくあることです。
全てを満たす決断ばかりではないので、
決断をした後には決断しなかったほうの可能性について
何らかの後ろめたさのような不協和音が残ります。

決断はあくまで自分が望むものに対して
良い結果を得るために選ぶことですが、
自分が望まなかった結果や犠牲にしたものに対して
申し訳ないという気持ちを同時に持っていなければ
ならないような気がするのです。

日によっても違うかもしれませんが、
自らに対して、主に
肯定的な気持ちを持つ人と
否定的な気持ちを持つ人がいます。
自分はどちらかといえば否定的な気持ちを持ちながら
日々を過ごしてることがありますが、
ワルモノだと思われても、
これではいけない、もっとよい方法があるのではないかと
探す毎日を自分に課すことだけは
忘れないでいようと思っています。

Field-Multiply

佐賀放射光シンクロトロンのRF管です。

銅の筒から突き出した銅のパイプ、
マンガに出てくる実験装置そのままです。

考え事をしていて、
なんだかもやもやとしたところに
行き当たることがあります。
今までに知ったことや感じたことの中に
繋がりが見出せそうなときだと
自分では思っています。

実家の仕出しの手伝いをしながら、
どんなに忙しく動いても一人では前へ進まなくなったときに、
自分がどれだけ素早く仕事をこなせるかではなく、
仕事場全体のスピードをどれだけ速くできるかに
考えを移し始めた時期があります。

最終的に至ったそれは、
自分というものが行う仕事が
表立ったものになるかどうかは気にせず、
必要な箇所があれば
どんな場所でも自分をそこへ向かわせる、
というだけのルールで出来ているものでした。

結果として仕事は速くなりますが、
後で自分がした仕事は何であるかと問われると
「下準備と後片付け」と答えるのが適当だったりします。

コーディネータの仕事は
仕事という場に自分の意志を投影した
「意志の方向」を持たせるということであり、
明確な形がないのです。

コーディネータの数は
たくさんは必要ありません。
あまり多いとまとまりが悪くなってしまうからです。

それぞれの人がのびのびと仕事をしながら、
自分はその空間の中で形のない意志として存在している、
地味で面倒な仕事だったりするのですが、
自分の居場所はそんなところにあると考えています。

最近ずっと引っかかっていることは、
なぜ人には体の10倍以上の制御能力を持った脳が
与えられているか、ということです。
本には「無駄な要素」として取り上げられていることもありますが、
わたしには「何かの理由がある」と
どうしても感じられてならないのです。

ある人は千年統治を越えて生きられるため、と
説明するのかもしれませんが、
それなら人間は1000年生きるように進化するはずで、
的を得た理由付けにはなりません。

数字の分母と分子をさかさまにすれば
意志の1/10しか現実には叶えられない、ということであって、
かなり体というのは不便な装置です。
実体としての体に意志の量を合わせる、という試みが
ストレスの少ない生活をもたらしてくれないか調整中です。

月曜日, 8月 08, 2005

夏の1冊と読書感想文

音楽を自分に感じさせる方法は二つあって、
一つは音楽を流すことで、
もう一つは曲を思い浮かべることです。
調子が良いときには
自分の中の曲と流れている曲が
同時に聞こえます。

「すごいもの」に対する意識というものを
人はそれぞれ異なった形で持っています。
「すごいもの」は敬意の対象であったり、
力の象徴だったりするのですが、
科学で言えば最初の「すごいもの」は
「超高エネルギー」か「超大出力」などで、
次のステップの「すごいもの」が
「超微細」とか「ナノテクノロジー」といった
極大・極小の二つの無限に関連したものです。

無限というのは
イメージしやすい「すごいもの」なのですが、
正確に「無限の量」を見積もるのは難しいことで、
無限に至る過程を探すのも難しいことです。

ドラゴンボールの話は強くなっていく過程が面白い、
というのですが、
最後は宇宙を飛び出してよく分からないところまで
強くなってしまって、
結果的に面白くなくなってしまったりするのです。

ステップアップする喜び、というのは
確かにあって大切なことだと思いますが、
人には羽根さえ生えていないから
どこまででもステップアップできるわけではありません。

ステップアップすることだけが
喜びの全てであったとしたら、
人はどこかで喜びが終わってしまいます。

国語辞典の表紙に、
「大切なことは、ありふれた言葉で
非凡なことを表現することである」
という一言があって、
この表現がとても気に入っています。

料理をしながら、
世界にはどれだけの種類の料理があるのかと
楽しみにしてみてみると、
すごいコース料理であっても
材料はたまねぎとかジャガイモとかで、
作り方も焼くか蒸すか揚げるか煮るか、
あるいはそれの組み合わせで、
バラエティーには結構早く限界が来るんじゃないかと
思ったことがあるのは10歳ぐらいのときです。

高い材料があったとしても、
100万円もあればこの世の材料は買えてしまうわけで、
やっぱりどこかに限界があります。

この考えが外れていったのはそれからしばらくしてからで、
値段にして100円のジャガイモは、
作り方によって味がとても変わってしまう、と
感じることができた時であるように思います。

それは素晴らしいジャガイモに出会ったのと同時に、
自分が味の小さな違いに
気がつけるようになってきたことが大きく作用しています。
すばらしいジャガイモが味の違いに気づかせてくれて、
違いに気づいた自分が普段のジャガイモを
より楽しめるようになっていって、という循環によって
感じる力は深くなっていくようです。

もし物質としての世界が本当に一つだったとしたら、
世界をどれだけ豊かなものに感じられるかは、
それぞれの感受性に委ねられているということになります。

ジャガイモはこれからもずっとジャガイモで、
高エネルギーにもナノテクノロジーにもなりませんが、
それでも日々愛されていけばいいのです。

めぐりめぐってこの話は、
毎日の中にあるすごいことのイメージを
少し広げてみると良いのではないかと思うところへ
行き着きます。

時々大きな事を計画するのは大切なことで、
人の行動限界が広がる楽しみがあります。
しかし全ての週末が宇宙旅行が旅行企画にならなくても、
暑さが和らいだ夕方に冷たいお茶を片手に
他愛のない話が出来るだけでも
それはなんだか「すごいこと」だと思うのです。

暑い日も散歩をする

この世には自分に生き写しの人が3人いると言いますが、
一体誰がこんなことを言い出したのか気になります。
見かけがそっくりな人にはまだ一人も出会っていません。

博多駅に戻ったときに撮った
ゆふいんの森号です。

九州の列車はデザインも機能も良いものが多いと聞きます。

木曜日, 8月 04, 2005

言葉と世界観

FMトランスミッターです。

ラジオがあるところなら
どこでもヘッドホン音楽がスピーカーで鳴らせるところがみそです。

暇になったり文書を書いたりするときに
時折「言葉の守備範囲」を探すことがあります。

たとえば「華」と「花」の違いであるとか、
「緑」と「翠」の違いという
日本語のわずかな違いに注目したり、
英語で"flower"と言った場合に
イメージされるものがどれくらい「花」に似ているかという
比較をしたりしています。

言語の違いが何をもたらすのかについて
しばらく考えていましたが、
英語と日本語では対応する言葉の守備範囲の違いばかりが
気になっていました。

最近の脳科学の本で
言葉が意識を作り出す、というくだりと、
「英語を話すと冷静になる」という話を聞いたところが
結びついて、
「英語には感情表現の言葉が少ないから
ドライな人間関係が生まれるのではないか」という
仮説に至りました。

以前偶然見つけたテツガクのページには
「虹が7色である理由」についての言及があることや
http://www.law.keio.ac.jp/~hagiwara/pph1-05.html
「オペラ座の怪人」を観て涙が止まらなかったときに、
隣の女性はけろっとした顔で「美しかった」と言うのは、
一体どういうことだろうと考えていたことに
ようやく決着がつきそうです。

これらの結果から、
イタリアの女性は情に厚いというところを聞くと、
イタリア語には感情表現が豊かなのかなと考えたりします。

以前は感情こそがその人の本性なのだから、
表現する言葉はどれでも同じだという意識が外れて、
違う人間になりたい、と思ったら
違う言語を習ってみるというのは
とても的を得た方法であるように思います。

火曜日, 8月 02, 2005

たとえば、3割引の商品を買う

出張に行ったときに
ショッピングモールのブースで
VHSのミュージッククリップのセールがあったので
まとめ買いしてみました。
布袋寅泰のギターがかっこいいです。

太宰治「人間失格」の中に、
日本中で食べずに処分しているものの量があれば
どこかの国が救えるという仮説に対して、
それを集め、保存する仕組みが作れないから
いまだ実現しないのだ、という
話が出ているのを時々思い出します。

物理の世界には
原理的には可能であるが、実現されていない、というものが
たくさん存在します。
以前は政治自体をどことなく毛嫌いしていましたが、
政治がなければ社会が動かないのであれば
嫌いでも付き合うしかないなと考えたりしています。

節約の本を見ながら、
スーパーの特売チラシには毎日目を光らせて
安いものを買うようにしましょうと書いてあったとして、
個人の生活としては好ましいとされる事象でも
それを社会全体で実践してしまうと
スーパーは成り立ちません。

時々は定価で買うことの意味について
思いをめぐらせます。

多少「まあいいや」でお気に入りの物を
買ってしまう、というのは
全体として成り立つために必要なことだと思っています。

機械設計にも同じようなことが
成り立つことがあります。

オーバースペックの部品をつけていると、
普段は無駄だったりするのですが、
いざ改造するというときにとても楽だったりします。

設計には「最適化」という作業があって、
大変好まれて使われる用語なのですが、
「何を」最適化するかが問われることは少なくて、
無意識のうちにパフォーマンスだけの最適化が行われます。

「余裕度」の最適化を行うという意識があれば、
物の見方がだいぶ楽になるんじゃないかと
期待して試している今日この頃です。