月曜日, 3月 05, 2007

問うこと自体の問い

縁あって田沢湖に行きました。
スノーボードをウェアまで借りると
1日3500円です。
スノーボードは2回目です。

自分が目覚めている間に思うことはたくさんあって、
それは決して口にされることはなく、
それらは聞けばきれいなだけの言葉でできているわけでもなく、
朝6時過ぎに苦しい気持ちになり、
7時過ぎに心が静かになり、
眠たさに誘われ、今すぐわからない場所の事情を思い、
流れる景色の美しさにほっとしたり、
気持ちは昂ぶってひどく不埒な気分になったり、
私自身に何かを問うことがあったり、
言えなかったたくさんのことに謝り、
納得のいかないたくさんのことに怒り、
思いを形にできぬたくさんのことに悲しみ、
そういうことを繰り返しています。
思考の一部を他人が覗くことができたら
どう思うだろうか、と不思議に思います。

この中で、問いかけの時間はずいぶん長くて、
なぜだろう、と思うきっかけを探すのに
少しも苦労しません。

しかし、どうしていろんなものを問い続けようとするのか、
その現象自体を問うことは発想しなかったように思います。
それは掛け算の九九のように体の一部になっていて、
自動的に問いが始まるような感覚です。

「問い」と「答え」のセットのようなものがあって、
学校で習い始めるのはこの反復です。
小学校には「自分で考え」から始まる標語が掲げられていました。

「問い」は主に言葉でできているので、
問いを作る段階は慎重に行う必要があります。
たとえば、言葉で「人はなぜ空が飛べるのか」と問いを発した場合、
人は羽根がないので空は飛べず、
「なぜ」に対する答えがありません。

「問い」が多く使われる場面は、
「私を揺るがすもの」に直面したときです。
その揺るがすものに近づきたい場合それは「興味」となり、
それから遠ざかりたい場合それは「恐怖」となります。




金曜日, 3月 02, 2007

アンパンマン考

昼間あまりにも暖かかった上に寝不足が重なって、
午後は睡魔とともにありました。

アンパンマンとバイキンマンは懲りることなく
15分一本勝負をしています。

バイキンマンの「欲」は大きかったり小さかったりするのですが、
干し柿が欲しいとかお菓子が食べたいとか
わりと即物的な欲求が多いです。

ふきのとうくんというキャラクターがいて、
そのストーリーがやなせたかしらしい雰囲気だと思いながら
見ていました。

ふきのとうくんは心の世界がこの世界に影響を及ぼすキャラクターで、
心に暖かいものを思い浮かべると
魔法の力で世界を春に変えることができ、
心が冷たく寂しくなると
魔法の力は世界を冬に変えてしまいます。

バイキンマンは「冬で遊べるなら何でもかまわない」と
ふきのとうくんを追い詰めてつらい気持ちにさせ、
そして世界は春へと向かう時に逆らって雪だらけになります。

そしてアンパンマンは「みんなの春を取り戻す」ために
立ち上がるのですが、顔を凍らされてしまいます。

最近のサブキャラクターはこむすびまんだったりして、
バイキンマンと戦ったりするのですが、
ふきのとうくんは戦わずに逃げて、
魔法の力で空にアンパンマンSOSの絵を描き、
パン工場はそれに気付いて出動します。

「お菓子を欲しがる」とかいうのもりっぱな欲なのですが、
時の理に逆らってたくさんの人を困らせてしまう程の欲がある、
そしてそれをあるべき姿に戻す、
アンパンマンのいる意味はこういうものに求めたいなと
ふと思っています。

そしてふと思うのです-
不老不死や不老長寿や永遠の命への憧れは、
春を冬にするような試みとなんら違わないではないだろうか、と。

木曜日, 3月 01, 2007

日本は狭いですか、世界は狭いですか

隣町に咲く梅の花のつぼみの形さえろくに分からないのに、
この世界を狭いと言うのは錯覚だと思いませんか?

火曜日, 2月 27, 2007

コモン・センスのずれ

年度末になると必要になる物品を
購入することがあります。
その時、6桁の値段のパソコンは比較的買いやすいのですが、
5桁前半まで値段が下がってきたディスプレイは
「雰囲気的に」あまり買えません。
画面が多いと「エラソウ」なのです。

計算機を使っていて、
作業が複雑になるほどウィンドウを切り替える時間が多くなって、
それが思考の妨げになっていると思います。
エディタ2つとコンソール二つ、C++開発環境とエクスプローラ2つ、
これらを順番に使って
ROOT、VC++、ImageMagickの3つの言語に
互いに通訳をさせながらデータを通していきます。

原研の先輩が
「データを視覚で見ることの大切さ」をしっかりした言葉で話し、
本当にそうだなと思っています。

このコモン・センス、
会社の頃にデスクの広さや椅子のグレードで
見た目に分かりやすい序列を作っていたこととおそらく無関係ではなく、
仕事の効率と序列の雰囲気の維持、
どちらを重視するかが問われる場面だと思います。
そして「雰囲気」や「序列」はある種の人たちにとって
大事なんだろうな、と感じるのです。

月曜日, 2月 26, 2007

それに名前をつけてはいけない

千葉へ向かう朝の道路は海へ向かう、
つまり行き止まりに向かって車が集まるような場所で、
よく混みます。
でも大きな朝日を浴びながら運転できるので、
今の時期は気持ちがいいものです。

Avenue Qというミュージカルに出てくる
There's a fine, fine lineという歌があって、
謎解きのように歌詞の意味を考えています。

「おとぎ話」と「嘘」の間にはほんのわずかな違いしかない、
「愛」と「時間の無駄」の間にはほんのわずかな違いしかない、と
歌詞は進んでいきます。

この歌詞、確かに真実性があると思い、
しかしどこか違う感じがしていて、それがうまく説明できず
何かがひっかかったままでいました。
わたしの心の中にあるものはそんなにあやふやでは

ないのが分かっているからです。
ただそれを「言葉」で説明しようとしてもどうしてもうまくいきません。

わたしがあなたを想う気持ちは、
あれこれと勝手な「名前」をつけられるものではないし、
封印して冷凍庫に入れて鍵をかけておけるものでもない、
だからそれに「愛」だと名前をつけても
「時間の無駄」だと名前をつけても、
言葉にした瞬間にそのものの「確からしさ」は失われるのではないか、
そんな感覚を持っています。

わたしは今までの全てで作られているのだから、
わたしにとって一切は大切なはずで無駄でなどないのです。

だからこの歌詞の意味は確かに正しくて、
あるものが「愛」だったり「時間の無駄」だったりできる、
それは「あるもの」に勝手に名前をつけて固定しようとするからです。

私に関して想像されることがどんなに具体的であっても、
それが笑い顔であっても悲しみの顔であっても、
怒っている顔であっても苦しんでいる顔であっても、
わたしを言い当てることはできていません。
そしてわたしに誰が何を言おうと勝手なのですが、
わたしが誰よりもあなたに笑って生きて欲しいと想う気持ちが
変わることはありません。

どうかわたしの言葉にも、わたしの姿にも、
わたし自身にも言葉で名前をつけないでください。
もし一切の言葉を忘れて見つめることができるなら、
そのときあなたはわたしを見るかもしれません。
でも、忘れた後でもし時がわたしを見ずに済むようにさせるなら、
それはそれで構わないと思っています。


火曜日, 2月 20, 2007

板ばさみ

カップスープは甘くて好きで、
インスタントの味噌汁は塩っぽくて好きです。

もう20年以上も前の両親の夫婦喧嘩の光景や感情を
わたしはいまだにはっきり思い出すことがあります。

わたしが小さい頃に思っていたことは
世界は絶対にみんなが幸せになれない定義がある、その証明は
「あるものがひとつあって、命がけで欲しいと言う二人の人」
の存在がなくならない限りにおいて、ということでした。

思想だろうが宗教だろうが恋愛だろうが、
どんなに真剣で命がけだから、といわれても、
それがどんなに正しいことだと言われても、
生きていくこと以上のイデオロギーや主義の主張が含まれる限り、
もしかしたら生きていくこと自体への主張であっても、
それはエゴであって愛ではないと思っています。

主義の板ばさみになったときに必ず思い出すのが
わたしの子だと主張する二人の女性を見極めるソロモン王の話で、
それでは公平にこの子を二つに切り裂いて与えようと告げます。

一人の女性がそれならわたしは親でなくてもいいので
どうか子を剣で裂かないでくださいと願い出て、
ソロモン王はその女性の愛をもって親を見極めました。

イデオロギーの嵐の中にいると、
わたしは勢力争いをしたくているわけではないのに、と
どちらにも与しない姿勢でいるのですが、
いっそのことわたしを二つに切ってしまえば
事はそれで済んでしまうのではないかと思うことがあります。

わたしが科学にもっとも願いをかけるものは、
「必要に応じて何でも完全な複製ができる」装置の開発です。
ただこの装置があれば必ず幸せになれるとは限らず、
ひとつのものを独り占めしたいとか複製は気に入らないとかいうことになれば
ある種の人々にとってはむしろ災いなのかもしれないなとも
ふと感じます。

そして文字は必要に応じて完全な複製ができ
神の表現だってそれならどう表現したって
文字のレベルでは完全な複製であるはずなのに、
それは二つあってはいけないなどという人たちがいて、
世界情勢でどんなに複雑な事件が起こっていたとしても
それは常に「幸せになれない定義」のうちにあるものだから、と
地球の裏側の「戦う出来事」に対しても思っています。

日曜日, 2月 18, 2007

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない

電気風呂というのがあります。
初めてその存在を知ったのは18切符で京都へ行った時で、
レンタル自転車で町を巡った夜に町をさまよって見つけた銭湯でした。
何の気なしに電極内にはいるとものすごい刺激で、
脚がつって動けなくなってさらに困りました。

「あしがつる」はこむら返りと言うのだそうで、
原因は判然としないそうです。
カルシウムとマグネシウムのタブレットを最近良く飲んでいます。

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない、
日本では憲法第19条に相当します。
2006年12月15日に「日の丸・君が代の義務化」が
教育基本法に明記された、ということを
どのように位置づけたらいいのかとわたしなりに考えています。

日の丸はこれを国旗とし君が代はこれを国歌とする、と
明記されています。
日の丸掲揚、君が代斉唱の義務化は、
なぜ「義務=強制」されなければならないのでしょうか。

長く続く歴史は、
自由を表現した思想とそれを抑圧する思想の繰り返しだ、と
わたしには読み取れます。

いくつかの生き物と同じように、
人は群れて生きる生き物の仲間です。
群れる理由は簡単に言えば食べ物を得やすくするためで、
狩りをしたり畑仕事をしたりします。
食べ物への安心感を巡って争いを起こすか、
性的欲求の充足を求めて争いを起こす、
すべての略奪や戦争は簡単に言えばそれだけの話であって、
それ以上でもそれ以下でもありません。

人が集まって役割を分担して暮らす、ということを
共同体と呼んでいます。
この成立は、「共同体を作るとこんな良いことがある」と説く面と、
「共同体を作らないとこんな悪いことがある」と説く面でできています。

共同体を作る利点は食べ物が得やすくなる、と言うのが
良い事を説く面です。
産業革命などは典型的な「分業による生産性の向上」の例です。
しかし食べ物が得られなくなった場合共同体は人が多くて困ります。

共同体を作らないと食べ物が得られなくて死んでしまう、というのが
悪いことを説く面です。
共同体を作ると言うことは一人で全てをまかなわないということであり、
報酬は共同体への貢献に応じて得られることにしています。

ここで「共同体への貢献」をどうやって測るかが問題になります。
全ての人がどのような貢献でもできるとは限らないからです。
ある作業に向いている者もいれば、向いていない者もいて、
その組み合わせで目に見える貢献の多少は変わるからです。

共同体は「人間が生きやすくする」ために作るものです。
だから共同体はその性質として、共同体を構成する全ての人が
生きやすくなるような仕掛けを持っている必要があります。

落穂を拾ってはいけない、は聖書が作られた時代の慣習で、
畑を持たない者も生きられるようボランティアを定めたものです。
税は本来このボランティアを拡張した概念であれば適切ですが、
その成り立ちとして「利権=不労所得」という裏面が必ず発生します。

世の中をもし分けるとしたらまず分けられるのは「ふたつ」です。
だから黙っていても働く人もいれば言われないと働かない人が必ずいます。

共同体の成立でいつもあれこれ言われるのはまずは後者の方で、
働かずに食べている人を見て不満に思う人とそうでない人がいます。
そうかといえば働いて貯め込むばかりの人もいて、
それを見て不満に思う人とそうでない人がいます。

わたしがあるということを認識した時点でこの世界は「ふたつ」に分けられていて、
わたしの外側の物質世界とわたしの内側の心的世界です。
物質世界には形があり、心的世界には形がありません。

共同体が制限するものはあくまで「物質世界」の取り扱いについてであり、
心的世界についてのありかたについてはこれを規定しないというのが
「法」がいう「自由」です。
しかし「自由」を恐れる人たちがいて、
それは共同体を維持できなくなると考えるからです。

司馬遼太郎「空海の風景」では、
空海の時代、税を逃れるために勝手に出家を名乗る人が増えて、
許可なく僧侶になる事を禁じたことがあるのだそうです。

自由を恐れる思想は主に、
恐れを持つ側から恐れを持たない側へと影響が及びます。
中国での仏教弾圧、江戸時代の踏み絵、ドイツのユダヤ人迫害などは
全て「共同体の崩壊」を恐れての行動です。

全ての現象に対照的な側面が生じるのだとすれば、
「国歌・日の丸」斉唱によって、
たくさんの人が助け合っている共同体を大事にしようというメッセージだと
捉える人と、
国歌という権威に服さなければならないというメッセージだと
捉える人が出てくるはずです。
たとえば「教育基本法の改悪」と呼ぶ人はこの後者の側面を危惧し、
石原都知事などは建前でもこの前者の側面を重視した、だから
肯定と否定がでてくるのだと考えます。

結局のところ、教育の現場で「日の丸と君が代」をやるというのであれば、
このような両側面を持つことを余さず説明し、
教育を施す人自身が「日の丸と君が代」に対して
「共に生きることの大切さ」という意味を与えて見せることが大事であって、
「組織というものの強制に従いなさい」という意味を与えてはならない、だと
思っています。

一方で、儀式的なことへの慣れというものは
シンボル=偶像に対する忠誠になる危険を常に内包することになるので
危険なものでもあります。
鉄人28号は強力な機械であり、
操縦者の心によって正義の使者にも悪魔の使者にもなるところを
正確に描いた点がとても気に入っています。
そしてその上で、憲法第19条の本質は
絶対に守られなければならないと思うのです。

金曜日, 2月 16, 2007

2007年2月18日

新しく世界暦を作る試みで祝い事を世界中から集めてきたら
年中日曜日が延々と続くような真っ赤なカレンダーができて、
快晴のそらも土砂降りの空も同じ休みの日で、
楽あればなんとかで仕事をしたがるようになるのかもしれません。

木曜日, 2月 15, 2007

不確定性と言葉について

http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/123.htmによると、
ビールの酒税は1kLあたり22万円で、
40度ウイスキーの酒税は1kLあたり40万円だそうです。
酒税はウイスキーがビールの2倍のように思いますが、
アルコール量としてはウイスキーがビールの8倍あるので、
同じ酔い方をするのであればウイスキーは1/4の税金でよいことになります。

もう少し考えて書いてみると、
たとえば750mL、度数40%のウィスキーが3000円だとすると、
定価3000円で買える度数5%ビールは4Lぐらいで、
アルコール量で言うとウイスキーが5割ぐらい多くなります。

人は物を移動させる代わりに言葉を持ち歩きます。
景色や状態の表現にも言葉を当てはめます。
そして最初に言葉を物と対応させた人は、
ただそれがそのものを指すだけの意味しか持たなかったのですが、
それが長く使われていくと言葉自体が一人歩きして
言葉が持つ意味の広がりを生じます。

その作用自体は言葉に対応する脳の特定部位はなく、
ある広がりの網の中に捉えられているせいで、
それゆえ意味がはみ出したり適切な場面で用いられなかったりします。

ある新しい現象を表現するために外国語の表現を借りてくるのは
日本人はとても得意で、
どんな呼び名もカタカナに変えて使ってしまいます。
文科省の白書作成指針ではこれを改めようという目標が定められ、
誰でも読めるよう日本語の表現に改めるよう促されているのだそうです。

この世界を構成している「ルール」が複雑になればなるほど、
本来はその区別をするために別の単語が必要であって、
たとえそれが日本語で書かれたとしても
内容の難しさは変わらないようにも思います。

ふと、カタカナを用いることの便利さを思います。
新しくつけた言葉には特定の古さがついていないもので、
そしてもとの言葉の意味を知らない限り単純なものです。
流行り言葉があり、しかしそれは流行ることによって多用され、
多用されることで聞き慣れ、聞きなれることで古くなります。

そして人はその言葉を当分の間使わなくなり、
すっかり世の中が忘れてしまった頃にまた引っ張り出してきては
その時代にあった意味を持たせます。
ファッションにも同じようなことが言えて、
流行というものの質はそれほど変化していないのに
数十年かけて循環します。
その循環は製作者によって意図的に起こされているようでもあり、
消費者が意図的に望んでいるようでもあります。

わたしたちは紙というガラスコップの中に言葉を注いでいるような
イメージを持っているような気がしていて、
しかしわたしたちは言葉というガラスコップの中に意思を注いでいます。

物理には不確定性というものがあって、
それは運動量と位置、あるいは時間とエネルギーの対になる物理量を
同時に任意の精度で測定できないことを言います。
わたしは言葉と意思の間にもある種の不確定性があるような気がして、
たとえばあるひとつの「意思」を正確に表現しようとするほど
途方もなく多くの言葉が必要になり、
ひとつの言葉の広がりをある状態に当てはめようとすると
途方もなく多くの意思が必要になります。

この原理があるから、
少ない言葉で綴られた詩は逆に多くの感情を呼び、
山のように積まれた法律書や物理の教科書や宗教書によってしか
人の「ある感情」の輪郭は捕らえられないのだと思っています。

そして理趣の経のようにさまざまな意味の表現を
ひとつの言葉=呪文に置き換える、という作業を繰り返すと、
全ての表現をひとつの言葉に置き換えようというところまで
人の思考は進みます。
そのときにその「ひとつの言葉」に何を当てはめるかが
人によって異なります。
だから仕事に邁進した人は、その仕事自身に自分を投影していて、
「あなたにとって仕事とは何ですか?」という質問に
「全て」とか「人生」とかいう言葉でその全てを含めようとします。

わたしたちは固有のある視点から世界を眺めていて、
恐らく自分の中でのみ対応できる言葉のどれかで
その「なにか」を当てはめています。
そして人というものが固有に異なっているとしたら、
全ての人が一生のうちに竜巻に出会うわけではないのと同じように
その「なにか」に全ての人が出会うわけではないのだと思います。
世界がある程度対称にできているのなら、
その「なにか」に会うことで幸せを得る人もいるし、
その「なにか」に会うことで苦しみを得る人もいるし、
またその逆もあって、
その「なにか」に会わないことで安らかな人もいるし、
その「なにか」に会わないことで苦しむ人もいます。

不確定性の話によると、一方の広がりが0に近づくほど
もう一方の広がりは無限に近づくため、
わたしたちが意思を無限に広げたいと思う場合、
そのとき言葉は必要ではなくなることになります。

土曜日, 2月 10, 2007

大杉君枝さん、そして鈴木君枝さんへ

雷が引き金となり、
思い出したように大雨が降っています。

「かがく=科学」のきっかけとして思い出すのは
所さんの目がテンという番組で、
日曜日の朝7時から放送されています。
スポンサーは電気事業連合会です。

見始めたのは中学生になるかならないかぐらいの頃で、
日常の科学を分かりやすく紹介してくれます。
取材もしっかりしていて面白いです。

その頃馬場憲治さんと共にナレーターをしていたのが
鈴木君枝さんでした。
明るくお茶目なナレーションが気に入っていて、
番組は毎週ビデオにとって観ていました。

一番よく覚えているのが水を入れたコップを真空容器にいれると
常温で沸騰した後凍ってしまう場面で、
フリーズドライは主にこの技術の応用です。

その後も鈴木君枝さんの名前は時々見かけて、
ジャーナリストとして世界に脚を運び、
写真を撮っていたのを覚えています。

自分にストイックであること、自分に厳しいことが
成果を出せたり褒められたりするのですが、
人間は「役に立たないと存在する場所を与えられない」のであれば
それはとても悲しいことだと思っています。

人は皆、
ただいるだけで十全にその価値が与えられている、と
いつもいつでも思っています。

自分に自信を持つと言うことは
何かができるようになって、共同体の中で生きて行けること、と
考えてしまいそうになることがあまりにたくさんあって、
その中で苦しんでいる人をわたしはたくさん知っています。
そして心の奥底で、自分は役に立たない人間ではないかと
潜在的に問いかけてしまうことがよくあります。

亡くなられて、さらにああして欲しかった、こうして欲しかったと
願うのはきっと重荷になることだと思います。
どうか苦しみのない世界で本当の自由でいてください。

水曜日, 2月 07, 2007

写像空間

真空容器の窓とフランジです。
ミッキーマウスのようでもあります。
美しいと思うものにはいくつかの分け方があって、
たとえばシンプルだという美しさと、
対極にある「なまなましさ=リアルさ」という美しさに
およそ分けられるだろうか、と考えたりします。

実数に対して虚数という概念があり、
もともとは大工さんが考えた量だそうで、
そのころの直角は90度でなく100度でした。
数学の先生はこの複素数写像が4次元的であるので
「あの世の世界のこと」とよく話していたのを思い出します。

虚数の世界へ写像すると、
とても複雑な空間が一本の直線で表現されたりします。
複素数の世界は2軸の平面ですが、
「無限大」の定義が実数の場合と違っていて、
どの方向の無限大もある1点に集まることが分かっています。
「両極相通ず」という言葉はここにあるのだと
なんだか納得したのを覚えています。

月曜日, 2月 05, 2007

Maxwellの方程式


真壁のひなまつりに行きました。
飾ってあるのは元禄時代に作られたおひなさまだそうで、
顔が大きく切れ長な目をしています。

宗教の歴史の中に科学の歴史が含まれ、
科学の道の中に宗教観が含まれていることが分かって、
わたしは科学へ戻ります。

方程式が書けて、それは常に正しいのですが
それそのものでは全く役に立たないものとして
Maxwellの方程式があります。
2つの発散と2つの回転の偏微分方程式で表される式は
静的だろうが動的だろうが
ミクロだろうがマクロだろうが
全く関係なく成り立っています。

ところがその方程式自体は
境界条件を入れてやらないと式にならず、
また条件によっては明示的に解くことさえできず
数値解として時々刻々の現象を得るだけです。

どうやら人間を構成しているものは
これに近い状態のものらしくて、
方程式自体が全体として入っているのですが、
それを見ることもできずまた知ることもできません。
外からの影響は方程式の変形として現れますが、
それぞれの変形になった途端もとの完全さは失われます。

制御理論でも同じような現象が出てきて、
微分方程式のゲインを決めてやると
安定した制御になるのですが、
その系は外界の状態に応じた答えを出します。

わたしはあるルールで構成されているのに、
それを自覚することはできないというのは
奇妙な話で、
それなら自分の思うように動いている気がする
わたしの体は一体何なのだろうと
不思議に思います。

火曜日, 1月 30, 2007

自転車に乗れれば

最初に自転車に乗ったときのことをおぼろげに覚えています。
大は小を兼ねると思ったのか小学生にしてはとても大きな自転車で、
走り出すまでにずいぶん転びました。

自転車に乗っている間、考え事ができるようになり、

自転車に乗ることは体の一部になりました。

どうも仕事も同じようなものらしくて、

仕事はいつも意識を持ってやろうと今まで心がけていたのですが、

あるところまで行くと複雑な作業でも体が勝手に動きます。



月曜日, 1月 29, 2007

人を機械としてみれば

甜茶を飲んでいます。
小学生のころ友達の家の近くにあったお寺で
花まつりに
甘いお茶を飲んだ記憶が忘れられずにいます。
あれは甜茶でしょうか、
あるいはアマチャヅルでしょうか。

加速器ではビームが光の数十%の速度で回ります。
光より速い情報伝達手段はないので
いくら高速の信号線を使っても
リアルタイム制御に間に合わないことがあります。

踊るロボットを作るとき、
音楽とシンクロして見える動きを出す場合、
腕や足の慣性があるため
動きの信号は音楽が聞こえるよりも
先に発生していなければなりません。

わたしたちが「リアルタイム」で見た、触ったと知覚しているものは
情報的に言うと0.何秒か前のものであって、
実時間での現象ではありません。

バットで飛んできたボールを打つ、
ただこれだけのことなのですが
意識の上では遅れてしまうので処理できません。

空間と時間は本当は区別がないので、
今の3次元空間で人間は右に行ったり左に行ったりできるのと同じように
時間も前と後にいける時空があります。

時間が一方にしか流れないというのは
いまだに不思議のひとつで、
普段「明日」と思っているものは
今までの連想で作られたものであって、
時間の始まりがあるかどうかは分からず、
かつ現在というものを捕まえることができないので
3次元の空間では実際には明日がありません。

理論は「宇宙の始まりが分からない」といいますが、
本当の現在というものも
人にはまた分からないものです。

木曜日, 1月 25, 2007

長高エネルギー宇宙線の閃き

世界には一体何の役に立つのだろう、と
首を傾げたくなる技術が発明され、
しかし時間が進んで少しずつ世界が変容すると
その技術なしでは成り立たない世界に
なっていたりします。

核の話は日本人なら
原子爆弾が最初に来るのですが、
原子核の応用は身近にあって、
普段食べているジャガイモの発芽を抑えるために
放射線が使われています。
その量は微量なので
改質することも遺伝子変異することも特にありません。

宇宙のはるかかなたでは
星が生まれたり消えたりしていて、
人間が地上では作り出せない
超高エネルギーの放射線が
たまに地球まで到達します。

宇宙船に積まれた電子計算機では
この高エネルギー放射線でメモリの値が書き換わり
故障の原因になるそうで、
耐放射線性に優れた=放射化しにくい物質を使った
半導体へと作り変えているのだそうです。

星の放射線がメモリを書き換えるほどの力なら
人間の脳だってこの放射線で神経に信号が発生するわけで、
わたしたちが何かをひらめくときには
本当に「星のお告げ」が届いているのかもしれません。

土曜日, 1月 20, 2007

似ていると思う曲

お酒はちっとも強くありませんが、
ウィスキーをストレートで少しずつ飲むのが気に入ってから
焼酎をストレートで少しずつ飲むのも
なかなかおいしいなと思うようになりました。
毎日飲むわけでもなく量はたかが知れていて、
750mlのボトルで2ヶ月以上かかります。

カーペンターズの"I need to be in love"という曲があって、
邦題は「青春の輝き」なのですが
訳した歌詞を見ても今ひとつ的を得た気になりません。

恋の歌として訳したのが意図的かどうかは分からないのですが、
"I need to be in love"のloveは
男女間の恋と神を象徴する愛の意味を重ねていて、
どちらかと言うと"神との愛に生きよ"という表現のように思うのです。
そうみるとその後の歌詞、
「この不完全な世界に完璧を求めようとして
それが馬鹿げたことだとしてもまだそう信じている」
という表現は、
欲を捨て神との喜びに生きよと人は言い、
それが正しいことだと頭では分かっているのに、
やっぱり私は愛する誰かを必要としている、
という風に聞こえるのです。

サザン・オールスターズの"Dirty Old Man"は
このカーペンターズの歌にどことなく近いと思っていて、
「明日を・・・信じるならば」
「神が決めた小粋なルールには
早幾年過ちと無礼見舞い中」という歌詞があります。

木曜日, 1月 18, 2007

この世界が「わたし」であるならば

確かジョン・グレイ著
「ベストフレンズ・ベストカップル」か
「本物の愛を手に入れる365日」かの
どちらかだったと思いますが、
章の始めのほうに、
「大切なことは、頭で理解し、実践し、身につけた後、
それらを一度すべて忘れ、再度思い起こした後に身につく」
というくだりがあって、
「忘れる」というところに妙な引っ掛かりを
覚えたことがあります。

アインシュタイン150の言葉の中に、
完全な羊の群れを作るには、とにもかくにも
自分が羊になることである、というくだりがあって、
この意味もまた考えの対象になっていたものでした。

クリシュナムルティ「恐怖なしに生きる」を読んで、
恐怖とは自分の記憶と思考そのものである、と書いてあり、
意識の上の記憶が積み重なるほど
恐怖は増えていく、という点にふと納得がいきました。

聖書の一説には
アダムとイブは「知恵の木の実」を食べたために
罪と死の苦しみを負うことになった、とあって、
なぜ知恵を手に入れることが罪と死なのか
いまひとつよく分かりませんでしたが、
意識と恐怖の関係からいうと
確かに知恵と記憶そのものに罪と死の概念が含まれています。

パンドラの箱に閉じ込めて封じられたものは
「未来を全て分かってしまう災い」であって、
それゆえ災厄の中でも希望を持って生きていけるというくだりで、
知ること、区別をつけることが苦しみのもとになるという
点につながります。

矢井田瞳の歌"BuzzStyle"に
もしかしたらあたし自体いないのかもしれない、という
一節があって、
やはりひっかかりの元でした。

中島義道「生きにくい・・・」の本の中には
「時間に関しては過去と未来はなく、
その認識のもとにはわたしは全てと一体化し、
そして「わたし」がなくなってしまう」という意味の
くだりがあります。

時間は記憶と思考が作るものである、という点には
クリシュナムルティもアインシュタインも同じように述べていて、
アインシュタイン150の言葉では
「過去、現在、未来の区別は、どう言い張っても単なる幻想である」
と綴られています。

無意識に人に暖かい気持ちを向けられる、
という表現なら
わたしにはこの気持ちはよく分かるのです。
長く調べていくと、
世界にある宗教の「本質」はどれも同じに見えてくる、
そしてそれらを拡張していくと
この世界の「あらゆるもの」がどれも同じに見えてくる
ことになります。

だからキリスト教の神への誓いは
「全てを信じ」という一見妙な台詞になるのだと
なんとなく納得しました。

小さいころに思った疑問のひとつに、
自分が意識で捉えたことを書いて残そうとすると
書いている最中にまた意識が発見する、
延々とそれを繰り返すので
いつまでたっても書き終わらず、
書くこと以外何もできなくなってしまうな、と
思ったことがあります。

九九を覚えたとき、
わたしは何も見ていないし、書いてもいないのに
どこを参照して覚えたことを復唱できるのだろうと
不思議に思っていました。

意識の上に知識を並べて執着しなくても
どこかで覚えているのだから
人は無意識という文字をあてたものは
もはや自分にさえ
見ることも知ることもできない「本来のわたし」
があります。

人にとても優しい気持ちを持ったときに
わたしには「降ってくる」イメージがあって、
それに従っている時はとても幸せで、
降ってくるイメージに選ばれた人も幸せになります。

そして「いろんな人が考えた」結論は、
私自身が「この世界」なのであって、
わたしが心を優しく暖かく保てていれば
この世界は喜びに満ちることになります。
表現することで誤解は生じるかもしれませんが、
わたしの心、今を常に暖かい気持ちで救うことが、
とりもなおさずこの世界全てを救うことになるのだ、
というところに行き着いた気がします。

そして「約束の地」と「さとりの境地」は
今ここにあるのです。

可能性という記憶の海に溺れるとき

黒豆をあげたらあんパンになって戻ってきました。
パン生地が柔らかくてとてもおいしかったです。

昨日ネットで行き当たった話題は、
イラクの劣化ウラン弾の話でした。
その話を文字として読むと、
今すぐにイラクに行って何かすることが
わたしの目的なのではないかという気持ちが生じ、
しかし物体として動けていない自分がいて、
自分に「その行動は実現できる」という可能性が
わたしに葛藤をもたらします。

仕事をしながら、
こういう類の葛藤が1日中続くことがあります。

それが可能である、という現象は
飛行機という機械を運転する人がいて、
外国へ出国できるビザや税関が用意され、
現地での生活に必要な物資と食料の調達ができ
現地でのネットワークに参加できて
初めて発生するものです。
あらゆる技術が可能になっていて、
たくさんの人がその手段を可能にしているから
わたしにはその可能性が「ある」と考えることになります。

この気持ちは、献身の気持ちか、
あるいは義務の気持ちなのか、
それとも死の恐れからなのかと
気持ちが生じたときにふと思います。
それに準じることとして
募金をしたり人のためになることを
日常の中で探したりするのですが、
満たされない心は続きます。

たとえイラクの問題に手を貸せたとしても
世界のどこかではやはり人を必要とする出来事が
起こり続けていて、
やっぱり包括的な解決にはなりません。

たとえば、この場所にとどまり、
この場所での仕事から人のためになるものを発信し
人や物の流れをあるべきように心がけ、
隣人を大事にするということも
またわたしには同じように必要であって、
そしてそれらすべてもまた叶わない願いです。

「なにか」に対する声にならない祈りが必要なのは、
すべての人に幸せになってほしいと願う可能性の大きさと、
その可能性の海に溺れてしまいそうなわたしの小ささの
隔たりを埋めるものとしてだと思っています。

水曜日, 1月 17, 2007

現代版「芋とかぼちゃ」考

仕事場の近くに中華やさんがあって、
香りが良くて気に入ってます。
回鍋肉が好きで、
大学の近くにある中華やさんの回鍋肉は
肉が皮付きなのが気に入ってます。

多くの人の前で話をするとあがってしまう、という人に
「大衆を芋とかぼちゃの集まりだと思ってごらん」と
話をするたとえを聞きます。

このたとえ、額面通り受け取ってしまうと
わたしにとってはとても奇妙に聞こえる台詞で、
ちゃんと見れば人の顔は人の顔の像をしていて、
顔もなくごつごつした芋とかぼちゃに
置き換えられるわけはないのです。

大量の芋やかぼちゃの中にいてもあがらないのに、
人の中にいるとあがる、というのは
それが「人」というなにやら別種のもので
芋やかぼちゃとは違う、と思うからです。

もし芋と人に共通の性質を見出すとするなら、
人だって芋だって原子からできてるじゃないか、と
考えてみることになりますが、
次は「人には意思がある」という点に
つまずきます。
つまり人はわたしを「解釈する」という作業をするのが
とても厄介だ、と思うのです。

わたしたちが危険だと「認識」したものを避けるために、
人はあらかじめ未来の予想を立てて
思考実験の中でその危険を取り除こうとします。
人前で何かをして笑われる、という可能性を
「危険」だと判断してしまうと、
これでは人前に出ることが困難になってしまいます。

ここで笑われる、ということの多義的な意味を見ます。

ある人は滑稽さやひょうきんな面に喜んで笑い、
ある人は人の失敗する姿で自尊を満たそうとして笑い、
ある人は周りが笑っているという雰囲気に連動して笑い、
ある人は周りが笑っているから
自分も笑わないとと妙な義務感を出して笑い、
ある人は昔何かで笑った記憶が再現して笑い、
ある人は目の前に展開されていることなど全く気にならず
自分の頭の中の面白いことに対して笑います。

その中には笑わない人がいて、
何かの記憶からけしからんと怒る人も、
また何かの記憶から嘆き悲しむ人もいて、
そして「たくさんの人」は一斉に異なった反応を
ひとつの行動を起こした一人の人に示します。

大衆、というものの難しさは、
何をどう努力してもその人たちすべてが
100%同じように感じるわけではない点にあります。
その中で心配になるのは、
誰かの心に引き起こした感情が
めぐり巡って自分の身を脅かすのではないかという点です。
特にすべての人に負の感情を与えたくないと思った場合
人前に出ることができなくなってしまいます。

そこまでたどり着くと、
自分の行動を現象の反応から
「良い」と「悪い」に分離し続けた場合
自分が極端に両方向に分離されてしまいます。

それでも人前に立って話すことを可能にするには
いくつかのアプローチがあるように思います。

人が話すわたしの行動についての「良い」と「悪い」よりも
わたしが人に優しくありたいと思っている、
すべての人を生かしたいと思っている、その状態が
わたしの行動を可能にする基準である、
その上でならば外的なあらゆる結果と感情の束縛から
自由である権利を得る、ということを
確認することが必要になります。

その権利は「わたしの意識」からは与えられず、
いかなる人間からも与えられず、
ただこの世界にあまねくある「何か」から
与えられることになります。

この問題を考え始めたのは、
遺伝子型が一致するのに
腎臓自体が病気であって摘出しなければならない腎臓を、
腎臓の機能不全で腎臓を必要とする患者に
移植することを是とした医師のニュースがあって、
人が文書で作った「決まりごと」の慣習や法に触れるとしても
人が生きられるようにすることを優先した、
この瀬戸際に立ってしまった医師は
一体どうすればよかったのだろうと思ったのがきっかけです。

法に従う側ではなく、法に携わる人間は
法が「人の作り物」であることを知っています。
そして法がこの世すべての「問題=苦しみ」を解決しない、
ということも分かっています。
人を大切に思う医師はその良心に基づいて
「人が生きる」ことを選択するために
敢えて法の制限を乗り越えたのだと思っています。

これを外野から
生きる死ぬはその人が解決すべき問題であって
あなたにはその責任がないとか、
法の解釈はたくさんの人で決めたのだから
守らなければならないものなのだ、とか
あれこれ言うのは勝手なのですが、
「ぜひとも生きたいのです」とすがりつくように
患者から頼まれ、
そして医師がその行動を起こすか起こさないかで
人の生きると死ぬが決まる、という現場では
人が作った法律やあらゆる決まりごとは
やはり人の作った法程度の力しかないのも知っていて、
法に従っても法そのものに
人の命が消えるという結果の因果を負わせることはできず、
絶え間のない葛藤となります。

この「問題」にはある種の解決があって、
もし「ぜひとも生きたい」という執着を患者がもたず、
この世界で生きていけたことを感謝できる、
そういう心の状態を持てるならば
医師に負担になるような苦しみも、
またこの世界から自分の生を解き放つ苦しみも
共になくなってしまうのです。
しかしその決心を起こすこと、は医師にはできず
それぞれの人が自発的に決心するしかありません。

この医師に慰めを出せるのはもはや人ではなく、
この世界を作ったなにかしかないようにも思います。

火曜日, 1月 16, 2007

人間がどう生きるべきか、の判断に宇宙論まで必要か

掌の中の無限、という本を手に取りました。
チベット仏教と天体物理学の知的交流で、
書こうとしていたことがよく書かれていて、
面白く読んでいます。

宗教は宇宙観を必要とし、物理学もまた宇宙観を必要とするなら
至る場所はおそらく同じで、
知的領域のすべてにわたって陣取り合戦をしているような感じがします。
ただ特に西洋物理が出した成果には特徴があって、
そこには誰でも再現可能な物理法則が適用されると
事物をコントロールできるようになることで、
人はそのせいで空まで飛べるようになりました。

宗教はやはり多義的な面を持ちたがるのか
そのあたりはよくわからないのですが、
「慈悲」とか「仏性」とか「愛」と呼ぶ感覚について
どうもうまく説明しているようには思えません。

自己犠牲や利他、というものなら動物も持っていて、
たとえば親鳥が巣を狙う鳥の注意を逸らすため
わざと目立つ場所で傷ついたような振る舞いをするとか
いくつも例はあります。

集団生活の秩序、というものも動物は持っています。
蟻などは立派に共同体を作り上げているし、
猿だってコミュニティを持っています。

人間はどうしても「この世界の特別」でありたがるようですが、
仏教的感覚で言うと
一切が空であるのなら
人も動物も意識の存在として変わりありません。
そして意識そのものの問題に関して
物理学と宗教はどちらも確証を持っていないのです。

生き物は和を持って生き続けることが目的であるのなら、
地球のサイズと生産力を考えて
人の数が地球全体として増加に向かうような
システムを考えることで十分で、
それを目指すものが「仏性」や「利他」に当たると考えます。
宇宙の始まりはどちらかというと
「この世を作ったなにか」を語っているようなもので、
仏性を語ることとはおよそ質が異なります。

ちなみに高橋伸夫「できる社員はやり過ごす」の中には
協調と拒絶に対してそれぞれに報酬があるシステムを仮定し、
協調同士は相互に得点し、拒絶と協調の場合は
拒絶側に得点があり、拒絶同士では得点がない、
というような過程で、コンピュータプログラムコンテストを行い、
二つのプログラムが対決するとどうなるか、
どのようなアルゴリズムがもっとも生き残るか、という
実験を行った様子が掲載されています。

最後まで高い点数を維持したプログラムの原理は
驚くほど簡単で、
「最初に協調を出す」
「相手が協調した次の手は協調にする」
「相手が拒絶した次の手は拒絶にする」
「履歴を持たない」
というだけの特徴しか持っていないのだとありました。

人がたくさん生きられるようにすること、という方法は
すでにある程度結論が出ているようにも思うのですが、
環境に適応した生物が選択的に淘汰で残ることや
特徴の異なる生物が混在して住む場合には
ひとつの種類の生き物だけが残ることがまれである、
というシミュレーション結果もあります。

たとえば消費エネルギーが多く必要で分裂が早い細胞と、
消費エネルギーは少なくて済むけれど分裂が遅い細胞が
同じセルの中にいると、
そのセルの中の食物の取り合いになって、
最初は分裂が早い細胞が優勢になるのですが、
セルの中の食物は枯渇するので
その段階で分裂の早い細胞は先に消滅が早まり、
結果として両方がある割合でセルに残るのです。

人は多様であることをその条件として持っているならば、
この世界は戦争を終わらせることはできないけれど
人が死に絶えることもない、という結論になるのだろうかと
ふと思います。
この結論に対して、すべての人に一致した知識の流布を望む宗教は
どんな意見を示すのでしょうか。

月曜日, 1月 15, 2007

風が吹けば桶屋が儲かる、の思想から

およそ学問と名づけられたもの、
それに対してわたしたちは「違うもの」と区別するのですが、
学問はすべて「言葉」によって成り立っているものであって、
それは事象を映したシンボルではあるけれど
それは物ではありません。

池谷祐二「進化しすぎた脳」の中に、
思考は言葉でできている、というくだりがあって、
「言葉」を使わずにこの世界を説明できるか、という
点に疑問を持ちました。
この世界の何かを「言葉」というシンボルに置き換え、
その「抽象化した概念」を操作することで
わたしたちは物理的な出力をしているのですが、
一方で「言葉」によって各人の意識世界が作られていて、
その意識世界がどんな状態であるかで
この「物理的な世界」での「個人の認識」が変わります。

言葉が厄介なのは、
「神」とここに書いた文字に対して
「わたしが定義した意味」と「わたしではない人が定義した意味」
は異なっていて、
どうしても単一のものにはならないという点です。
そしてさまざまな人が「感じた」という「神」が「感覚」なら
それは言葉で表現できるものではなく
個人がその全感覚で取得するものだとするなら
わたしたちは「神」の「何」を伝達しようとしているのか
不思議に思います。

わたしが苦しむとき、
わたしはわたしの意識が自動的に発する
「言葉の演繹」と「思考」の流れ、
そして感覚によって自動的に変換される言葉を
「言葉として扱うこと」を止めてしまえば
「未来」も「過去」も「時間」もなくなってしまい、
苦しいという「状態」は過ぎていくものだということに
ふと気がつきました。
それはできる人には簡単にできて、
できない人にはとても難しいことなのだとも思います。

感情を表そうとシンボル化した言葉、というものがあって、
言葉は継続して状態を保持するものであり、
言葉の組み立てや演算が思考であるため、
感情を離れるには自分の思考が延々と生成し続ける
「言葉」から離れ、
目に飛び込んでくる「文字」や耳に飛び込んでくる
「音声」を自分の思考=言葉として認識させないように
する必要があります。

時々言葉を忘れようと思います。

線形性と呼ばれている現象があります。
簡単に言うと、
初期値のわずかな変化は結果に対してもわずかに変化し、
そしてここの現象を分離した上で解析的に表現できる、という
性質を表したものです。

わたしたちが厳密に「解いている」気になっている数学は
解けるものだけを扱っていて、
方程式はその条件をわずかに変化させただけで
あっという間に解けない=人間はその解析式を知らない状態に
入ってしまうことがあります。

数学的にカオスと呼ばれる現象があって、
それは非線形方程式を主に数値的に調べたときに現れるもので、
初期値のほんのわずかな違いが時間発展すると
それが結果をまったく異なった予測不能の状態にしてしまいます。

カオスの例は蝶と竜巻で、
ある条件下では日本で蝶が羽ばたくか羽ばたかないかが
アメリカに竜巻が起きるか起きないかを決める
引き金になる場合がある、というものです。
どんな小さな出来事のどんな小さな変化も、
大きな体系の中では無視することができない要素であり、
この世界のすべての「パラメータ」を一瞬にして取得することは
今の人間には不可能であるため、
物理的現象に関してはどんな予測を立てても
それが本当なのか確かめることができず、
しかも計算精度の問題から
どうやら現実世界のコピーをとったとは言えないのではないかという
心配が生じます。

カオスの「混沌」はしかしもう少し説明する余地があって、
ただ乱れるだけではなく、
あまり遠くまで演繹しなければ擬似的な線形性を保つものや
循環した状態に入るものなどがあって、
その場合比較的良い予測ができることもあります。

現実世界にこのことを当てはめるならば、
わたしの行動は「何かの現象」を生み続けていて、
当座は予想がつくのですが、
「思考」による未来の予想はまったく役に立っておらず、
そしてわたしの行動はおそらく、
知らない誰かを生に留め、知らない誰かを生から開放している、
ということになります。

それは「この世界には善と悪という二つのものがあるのではなく、
それらは同時に起こり、かつ不可分なものである」
というところが当を得ている気がします。

日曜日, 1月 14, 2007

似ているようで違う二つの目標

杉樽醤油というのを使っています。
今日買いに行くと売り切れだったので
紫峰という醤油を試してみました。
割と気に入ってます。

クリシュナ・ムルティの本を
2冊取り寄せました。
一つは「恐怖なしに生きる」で、
もう一つは「自我の終焉-絶対自由への道-」です。

既存の宗教団体への所属や組織や手段に拠らず、
「神と呼ぶ、本当は名前をつけられない何か」と
私との結びつきによる、
全ては神から与えられ、預けられ、
通り過ぎる感謝というものと、
日本語訳で「愛」と訳されたものが必要であると
彼は説明します。

この彼、既存の宗教団体は全て「世界の問題」を解決しない、と
看破しているのですが、
他の宗教の本や心理学の本を読んだことがない、という彼に
果たして「解決しない」という台詞が出せるのかと
疑問に思います。

仏教では「法と己のみを灯火にせよ」と説いていて、
仏教聖典の中でかなり早い段階で目に止まった言葉でした。
ここで「呼び表せない何か」には
「法」あるいは「仏」の文字が当てられています。
キリスト教系の本で「愛」と訳された漢字は
仏教なら「仏性」に当たります。

そして色々な宗教を調べていくにつれて、
中心的に謳っているエッセンスはどれも大した差がなくて、
理解ある人が読めば同じ状態に近づけるような気がします。

たとえば聖書と教典、おなじように日本語で書いてあっても
用語の違い、意味範囲の違いがあるので
同じ漢字を同じに訳すことができません。
言葉の並びと比較に捉われる限り
相互変換はできないのです。

クリシュナは「愛」を広めることで
この現実世界に変革が生じる、と説明しますが、
そう心から思う人とそれを誤解した人の混成集団によって
教団は構成されています。
そして平和への道のりが
「精神への不断の注目」を必要とする、つまり
何らかの条件が必要なのであれば、
それは条件がつくなら誰でもできるものではなくなるので、
この世界には苦しむ人と苦しまない人の二つが必ず現れます。

宗教が目指しているものは、
「争いのやまないこの現実世界を平和にすること」なのか、
「争いのやまないこの現実世界で平和に生きること」なのか、
どうもこの二つが混在しているようで分からなくなります。

たとえば比喩的にいわれるのは
小乗仏教とか原始仏教と呼ばれるものは後者の思想で、
大乗仏教と呼ばれるものは前者を含む思想です。
そして後者は人間として可能なのですが、
前者が人間という生き物に実現可能なのかと考えると
なぜか無理だと思ってしまうのです。
全ての人が逆立ちすることはできないように、
おそらく神や愛の思想を感覚として理解し維持することが
全ての人にできるほど人は均質ではないからです。

地球の始まりにおいて、DNAの鎖という単位から細胞へと変わり、
細胞群は種となるのですが、
種が変化しても細胞は細胞のままで、
生き物なのですが進化が取り残されたような感じがします。
人を構成する細胞はその一つ一つが目的を知りません。
細胞群を手として使っているのは人という意識です。

これと同じように、
「」を構成する人間はその一人一人が目的を知りません。
人の群れを何かとして使っているのは「」という意識なのかと
ふと思います。

その上に拡張するならば、
『』を構成する「」はそのひとつひとつが目的を知らないことになります。
「」の群れを何かとして使っているのは『』という意識なのかと
ふと思います。

その「」や『』に人のような意識があるのかどうかはよく分かりません。
しかし人がその構成要素になっているのは確かなようです。
ということは、もし「」に上位概念の神という名前をつけるならば、
神が我々を作っているのではなく、
我々が神を構成していることになります。

体の各所が適切な信号、喜びや痛みを『私』に伝えることで
私は体全体を適切に保とうと努力します。
ということは、人というシステムが適切な信号、喜びや悲しみを
「」に伝えることで
「」は人間全体を適切に保とうと努力するはずです。

この上位にある意識、への移転というものが
来世とか菩薩の曼荼羅といった、無限に上位概念へと拡張する
思想を呼んだのだろうかとも思います。

木曜日, 1月 11, 2007

釈尊のメッセージは科学的な方針だったのではないか

小さな頃から海老が好きで、
100円回転寿司にいくと生海老、甘エビ、海老を
3皿ずつぐらい取ります。
ねぎも好きで、ねぎ焼きを喜び、
味噌汁にはねぎが山ほど入っているのが好きです。

この2年ほど、意識や実在に関する本を意識的に読んで
そこに意義が見出せるかどうかを探していました。
以前から科学のいくらかを知ってきて、
科学と宗教の整合というテーマに
何度か特別な興味を持ったことがあります。

宗教史の中ではそれは大問題だったようで、
ガリレオが受けた宗教裁判は天動説の否定であって、
天動説は当時のカソリックの支持教義であって、
それは天動説が崩れると無矛盾であって完成された教義に
欠陥があることになるから、という理由でした。

高校のときに聞いた話では、
仏教が須弥山(しゅみせん)という山の周りに海があり、
海の果てがあって鉄柵と断崖のようになっている、
という説を説き続けていて、
西洋から丸い「地球儀」がやってきたときに、
それが本当なら仏教の正当性が失われると
大騒ぎしたというのを聞きました。

今でこそある意味で「宗教」は「心」の問題であるという
認識がそれなりに発生し
物質に対しては「物理」を適用する習慣がつきましたが、
もともと「宗教」の守備範囲は全能を目指していて、
それはこの世界を完全に作った「何か」を説くための
基礎材料として必要な情報だったからです。
そして原理主義と呼ばれる人たちの思考の中では
今でもおそらく物理より宗教の本が説いた世界観が優先します。
そして物理の限界点にいる人たちが考える思考には
「神ならこの世界をどう創っただろう」と想像するのです。

そういう観点で行くと、
「宗教」という名前は「世界観」と同義であって、
今の科学者の役割も果たしていたことになります。
そして「あいまいだ」と揶揄されやすい仏教の本質は、
現代人でも混乱しそうな現代物理の思想:
物質の粒子・波動の2重性や
「物」の状態としてのエネルギー・質量の2重性、
量子論の不確定性原理、
物質の局在と存在確率、
「完全に無の空間=真空」に発生するエネルギーの存在などを考えると
現代物理とは今のところ矛盾しないように思います。

その理解の上で、「意識」の問題に触れます。

宇宙の始まりはビッグ・バンにあって、という台詞は
概ね誰でも聞いたことのありそうな言葉ですが、
その世界は超高エネルギーの世界であって
生物はもちろん原子さえ存在しない世界です。
生き物がいないのだから、生と死はなく、
生と死がなければ欲も意識もなく、善と悪もありません。

宗教はその「混沌」である宇宙の始まりと「人間の発生」との関係を
どう説明するかに長い間苦労してきました。
キリスト教の中心では「神のヒト創造」という問題を持ち出し、
「死」と「罪=悪」とを結びつけました。
そのうえで改めて「霊的に神と結ぶ」ことによる「人の救い」を説きます。

ダーウィンの進化論はこの「創造」に抵触するため
長らく解釈が待たれていましたが、
「突然変異」が不連続な生命の変容をもたらすことから
「ヒト」が長い生命の系譜を引き継いだ存在であることは
次第に理解されつつあります。

そして現れたのが生物と非生物の違いについての問題で、
神が生き物を「非生物的世界」とは別に作り出した、という解釈に対し、
原始地球の高温の海から生命が発生するか、という問いに
どうやら物理的現象として生命が発生する可能性がある、ということが
実験によって追跡されつつあります。

もし生命が物理的現象として発生したものであれば、
生命はすべて「物理的現象」で説明できてしまいます。
事実、たとえそのシステムすべてが理解されないほど複雑であったとしても、
人間の構成要素は原子であり、電磁気的信号が流れ、
化学反応が起こり、量子効果が働く世界であることは
疑う余地がありません。
宇宙の始まりに善と悪がなかったのだから、
生命の現象についても
何が「善」で何が「悪」であるかを説くことができなくなる恐れがあり、
それはやはり「生」と「死」であるならば
人が何をやっても罪にはならないことになります。
法の秩序を維持できなくなることを恐れ、
アメリカでは物理や生物学の歴史系譜に
「神の意思」をうまく説明できなくなりかかっていることが大問題で、
「サムシング・グレート」という「人を超えた何か」という表現を載せるかどうかで
議論が始まっています。

そしてこれらを理解したうえで、
なお物ではない「意識」がなぜ発生しているかだけが
問題として別個に残るのである、というのが
釈尊の解釈であり、
現在では脳科学者が「クオリア」と呼ぶものを追って
意識学会という活動が議論されています。

「欲」の根拠については
「自分という個体が生きること」を求めることと等価であって、
それは生き物の目的が生き増えることにあるから、となります。
ところが欲の追求だけでは
社会システムが動物と同じ状態になってしまいます。
「欲」の発動は遺伝子の働きによるもので、
それさえも物理であり何かを「分かる」という
「意識」とは別だというところまで話が進みます。

そして、「意識」は「何」を目標にすればいいのかと
おそらく釈尊は考えます。

ここからは想像ですが、
釈尊のいた2500年前でどのくらいのことが分かっていたか、というのが
ひとつの世界観を創る元であるので、
分かっている範囲を想像すると、
生物学的な発想には行き着けると思います。

盲導犬訓練に向いた犬の血統というものがあって、
それは何世代もかけておとなしい血統が続いて
遺伝が安定したものを呼びます。

日経サイエンスの本では、
手漕ぎカヌーに乗って漁をする民族は
何世代もその生活をするうちに
生まれつき上腕が発達するようになったといいます。

釈尊は遺伝学的な変容について知り、
そのわずかずつの可逆的あるいは不可逆的な世代変容に
気がついていたのではないかと思います。

これまでの進化の過程からすると、
人間もまた進化の過程の一つであり、
「意識」の使い方が何千世代にもわたって続いていけば、
人は既存の「生き物」の常識からかけ離れた
「新しい生き物」へと進化を遂げるだろう、と
考えたのではないかというのが今一つの仮説です。

恣意的に「新しい生き物の発生」を目標とすると書きましたが、
その根本で「欲」から離れた思想をするならば
実はその目標にさえも「とらわれない」ことが必要になります。

つまみ読みで勝手な読み方をすると
経典の中では華厳と理趣は異なった思想というよりは似通った思想であって、
「大いなる意思のメッセージの元に自由になる」という意味で共通しています。
わずかな違いを見つけようと思うと、
華厳が仏性を育てる意思によって未来を「意識」によって選択していくけれども、
理趣はそれらの意識によらずとも、「意識」の認識さえあれば
あらゆるものが自動的に進化のプロセスになっているはずだ、というところに
あるという感触を持ちます。
それが「抑制」と「開放」の表現の差として表れるのではないでしょうか。
ただ、どちらの方針にしても「意識」というものの存在を
この物体と物理とは独立したものとして明らかにし、
「メッセージ」を受信できる状態で「欲」というものに結びつけることを必要としています。

ここでは「意識」の拠りどころとして
「仏性」という言葉をあてます。
それはふとした折に「発動」するもので、
やはり遺伝子の中に書かれている「メッセージ」だと思うのですが、
欲があるうちは発動が抑制される類のものです。

たとえば自ら望んで他の生き物のために
自己犠牲を払える、それが喜びとなるという状態を
ひとつの仏性として解説してあります。
それは生物学的には「すでにある現象」ではあります。

通常遺伝子の故障というのは修復して直してしまうのですが、
人間の細胞レベルでは「アポトーシス」という現象があって、
遺伝子内の増殖抑制の機能が失われた細胞などが
体全体の機能やサイズを正常に維持するために
細胞自身が自殺します。
増殖抑制が失われ、
かつアポトーシス発動ができなかった細胞ががんと呼ばれるもので、
がんは病気ではなく遺伝子の故障です。

細胞は好き好んで勝手にアポトーシスするのではなく、
そして他の細胞からアポトーシスを引き起こされるのではなく、
システム内での役割を理解して自発的にその役目を終えます。

ヒトというのは「生き物として」死を恐れるようにできているし、
ひとという「意識」が「生き物」に結び付けられている限り、
死は避けられないものです。
そこに「苦しみ」と呼ばれる感情が発生し、
その状態を「生き物」は望まないことから、
知覚できる「意識」の定義を「生き物とすべての物理現象」から
切り離すことが必要であり、
現在の意識が生まれ変わりを確認できないけれども
「意識」の時間的な不消滅、つまり
「生き物という物質」に意識が発生する生まれ変わりの現象を
否定せずに説明することが生き物としての人の「意識」を
物体が発生した「欲」の束縛から解放することになります。
その自由を持って「救う」という表現にしたということと
解釈しています。
最終的には「生まれ変わり」さえ放棄する、
つまりこのただ一度の意識の発生を喜び、
その意識が「大きなシステムの維持」と
「生き物の進化の過程に参加する」こと、
そして「仏性という遺伝子に書かれた発動を維持・伝達する」ことを
目標とするよう求めているのではないかと解釈しています。

「意識」が「物理学的な何かを離れたもの」である以上、
「意識」が何であるかは現在でもつかむことができていません。
しかしあらゆる物理とまったく結びついていないからこそ、
「意識」は何の方法を使っても原理的に誰にも奪うことができないのです。
「わたし」は「わたしの意思」なのであって、物ではありません。

この意味で個人のたったひとつの「持ち物」とは「意識」だと言えます。
それは哲学でいう意識の不思議へとつながります。

「意識」が人の上に乗り継いでいく以上、
何千世代かかってもいいから
「欲」の存在に苦しまない、仏性に従った
「新しい生き物」を作っていくことを意識の目標に定め、
遺伝子を長い時間をかけて書き換えていくと、
仏性の発動確率が十分に高まってゆき
未来の時の中で発生した、しかし過去の生命の記憶を持たない「意識」は
「新しい生き物」のシステムの中で、生死の苦しみを意識せずに
「この世界を意識する」作業をより円満に続けられるだろう、
そして「新しい生き物」として完全ではなくても
これらのことを知ることができたのならば
現在の生き物であっても「意識」を徐々に自由にできるだろう、
というのが釈尊の考えた
「すべての「人=意識」を救うための妙なる慈悲」という
プログラムであるように思います。

もしそれが完全に行われるならば、
人のなかに細胞があり、細胞一つ一つが生命を持ち、
それらはすべての細胞が持つ「遺伝子のメッセージ」に従っていて、
発生のときと消滅のときを知っており、
その事実に何の矛盾もなく協調した動きとして「人」という物質があり、
発生のときと消滅のときが「何かのメッセージによって」与えられており、
そのメッセージに従うならば、人という意識と物体の集まりは
「巨大なシステムである何かを維持する」ことになります。

仏教に不思議な興味を持って眺めているのは、
たとえ世界に人の言葉や行動による法も秩序もなくなってしまったとしても、
人には埋め込まれた「仏性のメッセージ」があるので
どんな世界になっても人はその仏性の自動的な発動によってシステムを維持し続けるはずだ、
だから生と死に関しての心配はなくしてしまいなさい、と言っている点で、
人が「意識」に目覚めていることこそが大切だ、というアドバイスは
不思議とわたしを安心させるのです。

日曜日, 12月 31, 2006

神はカオスに、仏性は遺伝子に

どんなものも福袋になるようで、
ハム詰め合わせの福袋を見つけました。
ハムはいつ食べても好きで外れがないので
一つ買いました。

仏教聖典を読む以外特に何の入力も意識せず、
空いた時間は散歩をしてひたすら寝ていました。
思考というのは醸成するものらしく、
断片的だった記憶にまとまりが生まれます。

この本、左側に英訳が載っていて、
日本語の漢字ニュアンスがぴんと来ないときに
訳を読むと雰囲気がつかめることがあります。

さて、いくら「一切は空」だからと言っても
見えるもの全てが「あるようでないような」には
やはりなりません。
量子論的に言うと物とは「存在確率」の広がりの中にいるので
厳密には確かに「あるようでないような」ではあるのですが、
1kgの鉄が突然消えたりはしません。
ただ全てが線形方程式で記述されるわけではないので、
基礎方程式の形は明確であっても
それを現象として観察する際に非線形性による未来予測不能の状態や
統計的現象を一つの結果に置き直した場合の
「運」とでも呼びたくなるような確率過程があります。
この意味で確率は上げられますが絶対ではありません。

ひとの苦しみとは無明と貪愛、と書かれていて、
無明を解決する方法は物の理、因果を知ることとあります。
確かに物理が分からないままでは
教典も呪文のように曖昧な感触しかつかめないと感じるからです。
西洋の現代物理はそう言う意味で
再現性に「明るい」学問です。

物理、それらが全て明らかになったとしても残るのは
貪愛、もし言い換えるならば「死の恐れ」です。
生き物はその基本として死を遠ざけるようプログラムされているので
ひとも生き物である以上死の恐れを持ちます。
そしていくら物理が分かっても「死の恐れ」だけは
今のところ別途扱わなければなりません。

本の中では「仏性」が生じる、というくだりがあって、
この言葉は読み進んでいくと
現代では違う言葉に近くなっているような気がします。
仏はひとではなく、形がなく、普遍的に人の世にあり、
しかし普段は隠されていて、
ふとした折に人の心から発動するもの、というくだりで
最初は「物理」かと思ったのですが、
「仏がなくても物の理はある」というくだりからして、
「仏性」と訳されたものは「良心」と呼ぶものではないかと考えています。
貪愛を治めるものは仏性=良心の発露によるものだろうと
考えるのはどうでしょうか。

犬に生まれながら性格の硬軟があり、
それが遺伝子によって書かれた性質であるように、
良心の作用する理由は遺伝子に常に書かれていて、
捨てることはできず、その発動を待っているとすれば
だいぶ理解ができます。

ジャンヌ・ダルクが「神の名を勝手に語った」として
改革を為し始めた後に陥れられますが、
何に根拠を持って神を告げたのか、と問われたときのジャンヌは
「ただ神と良心に拠って」と答えた、というくだりを
伝記で読みました。
死の恐れに打ち勝てるものがあるとするならば
何らかのよりどころが必要であり、
仏性とはそういう「発動」を求めるものであるように思います。

遺伝子の読み解きが始まって、
「仏性」に相当するコードの仕組みを見つけ出せるのか、
私にはまだ分かりませんが、
それを見つけ出した時「良心の発動」が
この人の世に救いをもたらすことを願っています。

瀬戸内晴美と瀬戸内寂聴

じっくりことことがよい煮物の鉄則、
という不文律のようなイメージを振り払って、
「実験的に」思い切って圧力鍋で
黒豆を炊いてみました。

煮方は黒豆を買った袋の裏に書いてあって、
水6カップ、砂糖150g、塩としょうゆが小さじ1/2をはかり、
水を沸かして砂糖と塩としょうゆをいれ、
沸いた中に黒豆を放り込み、
そのまま一晩おく、とありました。

袋の記述ではそのあと水を足しながら4時間煮込み、
さらに一晩おくようにとあったのですが、
そこまで待っていられないなと思い立ち
圧力鍋で沸騰後12分加圧して火を止めました。

豆がしわになるとか、ふっくら煮えないとかが
成功と失敗の基準点で、
豆はしわにならず、皮も破れず
つやよくふっくら仕上がりました。
来年から圧力鍋で黒豆を作ろうと自信がつきました。

瀬戸内晴美、とは瀬戸内寂聴さんが
仏門にはいられる前の作家名で、
「愛の倫理」という本を
18切符で神戸へ向かった時、
駅のガード下の本屋で手に入れました。

女性が働くことの難しさとともに、
結婚と離婚を経験し、道ならぬ恋をし、
様々な人の像を経験した中身が綴られています。

仏教の本の中に、
「迷いや過ちから仏の種が生まれる」というくだりがあって、
仏教では成功や失敗や善や悪と「決めてしまう」ことがなく、
縁起の不思議を説くその様は
強い迷いの中から自分の行いを元に身をもって一つ一つ確かめ、
道を求め続けた「晴美さん」だから
人の心に訴える優しさを持つ「寂聴さん」になれたのだろう、と
ふと得心したような気がしています。

安らかさ、という言葉を元に、
迎える年をよく過ごせますよう
いつも願っています。

木曜日, 12月 28, 2006

過ちと誤り続けることと

友達の話では、武蔵野線は地理的特性からも線路状態からも
止まりやすいそうです。
ダイヤが遅れるたびに社内放送で
「お客様にはお急ぎのところ
大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
という台詞が流れます。

日本人は急いでいることが前提で、
それは何かに一生懸命であるポーズになっていて、
しかし本音では誰も忙しいことなど望んではおらず、
ところが世の中に対して文句を言うときは
「私達は一生懸命やっているのに」と言い、
そして件の車内放送が文句に対する返答になっている、
という不思議な構図です。

忙しいのは臨まないのに
忙しさの呪縛から逃れられない、という理由は、
精一杯を続けなければ生きていけないという
潜在意識があるからで、
その気持ちが自分の喜びも人の喜びも
受け入れられなくしてしまうようです。

何かがうまくなるためには
人が好んで失敗と呼ぶ、
試みたけれど思う結果に至らなかった、
という体験をしておかなければならない、という
ある種の絶対的な定理によく戸惑います。

うまく行く結果は
それ以前の失敗経験を種としてのみ導かれるものなのですが、
失敗と呼ばれるその体験の最中は、
こんなに辛いなら試みなければよかったと
心の底から思ってしまうからです。

だからといって真剣にならず
最初から成るようになるという気持ちで望んだのでは
何もつかめないままです。

人が失敗と呼ぶ「それ」は一体何なのだろう、と
今日も思いを巡らせます。

「過つは人、赦すは神」という英語の諺があって、
それはその通りだとふと思います。
ここで神と呼ぶものは人のようなものではなく、
この世全てと訳し直したほうが適当なものです。

「神」が「難しい」のは、
それがあまりにも強力で複雑な概念であるために、
正しいバランスの元で用いるためには
受け入れる人の側に相当の容量が必要になることです。

火曜日, 12月 26, 2006

昔は良かった、にまつわるあれこれ

わたしたちは昔に向かっても夢を見るようにできているのかもしれません。
中島義道の本の中で、「昔は良かった」と語る人を
「その印象は正確ではない」と言い放つ一節があって、
しかし「昔は良かった」と多くの人が
共感して言いたくなる理由はどこかにあるのです。

未来に対して夢を描く場合、
現在の物事と今まで得た情報から連想する想像で世界を作るので、
比較的構成要素が少ないのですが、
未来には過去にはない
「現実化する可能性」という特性があるため、
楽しみが大きいのです。

一方で過去は現実化する可能性は
既に失われているのですが、
たくさんの情報があるために
その過程を自分にとってなじみのよい形に
変えてしまうことはさほど難しくありません。

近いもの同士が一番うまくいかない、というのが
世の習いのようで、
過去と未来は遠く、
しかし触れられずにいるから自由な想像ができ、
現在は近く、
触れられるほどの距離にいるから状況が縛られています。

過去の記憶、未来の希望、
どれも癒しや安らぎになれるとよいなと願います。

月曜日, 12月 25, 2006

素粒子の思想

たとえば素粒子でもっとも小さなクォークという単位は
分割しても必ず対で生成して
決して単体では観測できないとか、
真空という場は何もない場ではなくエネルギーが非常に大きくて
そこでは非常に短時間の間に
高エネルギーの粒子が絶えず生成・消滅しているとか、
なんとなく相通じる思想のようで面白いのです。

死の恐れは超えられるか

固い床に寝ると
なぜか目覚めがよくありません。
ホットカーペットで寝ても
やはり目覚めがよくありません。
しかし固い床やホットカーペットで眠ると
次の日は眠さより辛さが勝るせいか
起きていられるような気がするから不思議です。

神戸に地震が起こった日、
消火活動を行おうとした消防隊員は
救命活動を求める人の渦に巻き込まれたといいます。
常時であれば叶えてあげられる行動ですが、
非常時には要求が処理能力を超えています。

消火活動をしていると、
瀕死の妻や子供や夫を病院まで連れて行ってくれと
人だかりができ、
振り払うと「人殺し」と罵られたといいます。

それらの声に応じて救命活動にあった者があったといいますが、
結果として消火活動が不十分であったために
火事による犠牲者が増えてしまったと記事は伝えています。

私の中の今までの問いは、
「ではどうすればよかったのか」と考えていたことで、
消防士の視点からこの話題を考えています。

では自分が傷を負った者の立場なら、と考えると
恐れはあるのですが、応じてくれなかった人を責めるところへは
向かわないだろうと思います。

しかし自分が傷を負った人を見守る立場なら、と考えると、
わたしは必死になって誰かに助けを求めたくなるだろう、
そして応じてくれないものを責めるかもしれないと
ふと思いました。

今までと今の私にとってとても辛いことは、
私自身の身の上が辛いことではなく、
私が見守る人の身の上が辛いことです。
なぜそうであるのかはよく分かりません。
そして私が大事に思う人、というのは
自分の身の上の都合よりも優先できるかどうか、という点で
明確な区切りがあります。

仏教の最初には、死に至る過程は誰も助け合えない、
という内容を含んで書かれています。
教は死さえも、また愛着としてさえも執着してはならない、とあり、
確かにそうできれば心の安らかさは得られるのかも知れないのですが、
それはある日分かったような気がして安堵し、
しかしまたある日問題を引っ張り出しては悩みます。

発祥の地インドでも、それを伝えた中国でも、
一方はヒンズー教の台頭により、
もう一方は文化大革命時の訴追により
仏教はそれらの地から遠く離れてしまったと聞きます。
インドと中国に仏教活動を再建する努力をしているのは
実は日本のお坊さんなのだ、と聞いて
不思議な感じがしました。

それが何を伝えるのかは分からず、
それが広まったからといって善い解釈へと
みんなが向かえるようになるわけでもないのでしょうが、
以前誰かが解いてくれた問いというものは
素粒子物理学の基礎と同じように
脈々と語り継ぐ価値はあるなと認めています。

そして私と同じ思想を持つ特別な者が
私の姿を見せてくれたからこそそこに至れたので、
その不思議にとても感謝していますが、
一方でぬぐえない死の恐れを共有していたことを知っているので、
私自身のことのように心配しています。

水曜日, 12月 20, 2006

12/1に出会った一句

眠れず、ホテルの書机の引き出しを開け、
夜中に開いた仏教聖典に載っていた台詞で、
不思議と心が休まりました。

「例えば、蓮華[れんげ]が清らかな高原や陸地に生えず、
かえって汚い泥[どろ]の中に咲くように、
迷いを離れてさとりがあるのではなく、
誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。」

「あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、
価[あたい]も知れないほどにすばらしい宝は得られないように、
迷いの泥海[どろうみ]の中に入らなければ、
さとりの宝を得ることはできない。
山のように大きな、我[が]への執着を持つ者であって、
はじめて道を求める心も起こし、さとりもついに生ずるであろう。」

今度1冊買おうと思います。

月曜日, 12月 18, 2006

たとえば、政治というものについて

普段お世話になっている人を呼び、
肉を2kg、野菜、きのこ、とほうとううどんを買って
豆乳しゃぶしゃぶにしました。
豆乳を入れるとあくが固まるので
スープが澄んでうどんもおいしく食べられます。

あっちを立てればこっちがたたない、というのが
どうも人の願いの原則のようで、
政治は何をやってもなぜか怒られています。
改革をすればついていけない人が困る、
保守的であれば腐敗や談合で困る人が出る、
とどんな路線に向かっても100%の結果が出ません。
ということは、選択する行為自体が罪になるのなら
人はみな罪を負うことにもなります。

税を上げれば今事業に困る人が出る、
でも上げなければもっと困る人が増える、
たとえばこういうことの繰り返しです。

ちなみに善と悪という概念は
結局のところ生と死を読み替えたもので、
自分が生きられるようになるものを善と呼び、
生きられないようにするものを悪と呼ぶのだろうと
ふと気がつきました。
だから「自己犠牲」を払う人は
「他人にとって生きる可能性が増える」から善だと
「自己犠牲を払ってもらった人」が呼ぶのです。

木曜日, 12月 07, 2006

優しい風に吹かれて

納豆に漬物、特に青菜を入れるのが好きです。
とてもよい食感と香りになります。

今必要なものが一体何なのかとふと考えます。
町の吊り広告は妙に偏っていて、
男性誌は欲望を前面に押し出したような内容で、
女性誌は愛されを前面に押し出したような内容で、
一体それで何が満たされるんだろう、と
ふと思ってしまうあたりに
自分は「強い」人ではないんだろうなと感じることがあります。

生きることの本質は生きることそのものであって、
欲があるから生きていけるのだとは思うのですが、
何を欲に選ぶかというところが実は任意性があって、
みんなが幸せになってほしいという願いが欲であると
昨今の時勢ではあまり欲が満たされていません。

幸せの定義は難しい、といいますが、
幸せなときには笑っていて、
死の恐れ、正確には死のイメージの恐れから
意識が遠ざかっているものです。

どうしたら心から笑えるだろう、と思うときに、
無心で助け合えたとき、という連想が浮かびます。
松本紳助の本にあった一節で、
友達とは助け合わないもの、というくだりがありますが、
もしそうであるとするなら
心から笑うための条件というのは
それぞれができるだけ助け合わないでいられること、
あるいは助けると助けられるを意識しないこと、となります。

ふと疑問に思うのは、
それなら溺れそうな時は一体誰に助けを求めればいいのだろう、
という点です。
ソーシャルワークが常に完全に機能していればいいのですが、
実際には荒いざるのように漏れがあります。

時々会う友達とは無心で笑えるのは、
それぞれの生活の実体部分が繋がっていないからで、
相互作用が生じる関係では
作用が強くなればなるほど
なかなか何もかも忘れて笑うというわけにはいかなくなります。

相互作用が非常に強く、しかも無心で笑える、というのが
ある種の理想で、
果たしてどんなロジックが頭にプログラムされれば
これが叶うのかと思いを巡らせています。

月曜日, 11月 27, 2006

そして神とは、時のことかも知れず

つくばは落葉樹が街にたくさんあって、
黄色やオレンジや赤の景色が続きます。
雨が降っています。
不思議と寒くはありません。

曲からの連想で
「ふぞろいの林檎たち」に行き当たりました。
ドラマといえばシンデレラ・ストーリーか
勧善懲悪ものか、ただの惨めなストーリーか、という流れの中で、
時の流れそのものに翻弄される「ふぞろい」のドラマは、
その「時の流れが発生した嵐」を正確に描いている点で
もっとも現実らしいのかもしれないと思います。

そういう意味では、ハッピーエンドにならなかった
「東京ラブストーリー」も
実は時の流れを描こうとしていたのかな、と
思うこともあります。

現代物理学では、
時の流れがなければ
すべての物事は止まってしまうだけでなく、
すべての物質が消滅することになっています。

でも、
本当は世界のモデルが何であるかなどはどうでもいいのです。
私に与えられた時の流れが私に望まれているかどうかが
ただ私が時という神に意味を見出せるかどうかの
分かれ目なのです。

金曜日, 11月 24, 2006

夢や希望の示す中身

夢や希望というのは、
「すべての人が幸せになる」という
共通点を持つもの、と定義できそうです。
言葉は正確でないのですが
「災害後の天国」という表現があって、
さまざまなものを失った人たちは、見ず知らずの人とも
助け合って生きていこうと協力することを指しています。

「すべての人に与えられる」という表現に変えると、
本当は地球のあらゆるものは
食べ物にしても石油にしても
太陽の熱か光かあるいはその変化したものを与えられていて、
夢や希望というのは太陽のようなものかなとも
ふと思いました。

雨上がりの空

ひたちなかで朝の5時まで
キムチ鍋を作りました。

ずいぶん遠回りして考えて、
怒ったり、悲しんだり、悩んだり、苦しんだりという感情は
すべてどこかで死に結びついているなとふと思いました。

生き物としてプログラムされた反応として
生き物は死から遠ざかるように行動します。
生き物の目的は「生きること」だからです。

わたしが恐れや心配なく生きるためには、
物があればいいわけではなく、人がいればいいわけではなく、
いつか自分も人も、あらゆる命が
いつか地に戻ることを恐れずに受け入れることが
必要なのだ、という所に至りました。
そしてそれは生き物としてのプログラムに反することであり、
難しいことだなという印象になりました。

月曜日, 11月 20, 2006

ある晴れた金曜日の朝

CHAGE&ASKAの歌で、
ビルの窓掃除をしていて転落して天に召された男が、
次の希望欄に「ビートルズ」と申し送りをし、
そして次の世でビートルズは5人になる、
というくだりの歌があります。
アップテンポでとても好きな歌です。

科学は生まれ変わりを証明できません。
科学の限界は人が一生分の記憶しか保持できない、と
されていることにあります。
証明されていないものは「存在しない」のではなく、
「存在の可能性が残される」です。
この空間では時間が戻らないことになっていて、
与えられるのは未来だけです。

今の世で救えなかったもの、
足りなかった時間のもの、
喜びを与えられなかったもの、
願いを叶えられなかったもの、
私はすべて預かっておこうと思います。
何万年、何十万年かかっても
私は何度でも「わたし」に生まれ変わり、
そのたびに新しい国の新しい言葉を覚え、
砂漠の真ん中、深海の底、切り立った崖の上、
眠らぬ都市の街角、向日葵の咲く丘の元、
何度も生を受けあらゆる場所に私は向かい、
出会い続ける人に喜びとなれるよう、
預かった願いを叶えられるよう
時間の旅を続けたいと次の世に申し送りします。
そして地上のすべての人と出会い、
そのすべての喜びになれることを待ち望みます。

もし今世でも来世でも私にできることがあれば、
遠慮なくご一報ください。

土曜日, 11月 18, 2006

私を成り立たせる3つのもの

寒いのでもつ鍋にしました。
もつは一度酒を足して煮ると臭みが取れます。

いつでも持ち歩いていたいものを
曲からひとつ、絵からひとつ、本からひとつ選びました。

曲はルイ・アームストロング「このすばらしき世界」です。
世の中には恋の歌、未来の歌、希望の歌などいろいろあるのですが、
どれも過去とか未来とかばかり歌っています。
スローなイントロから始まるこの曲は、
今見えるもの、聞こえるものを素敵だと歌います。
日本語でこういうテーマを歌うと
なぜしっくりこないのだろう、とも思います。

絵はパブロ・ピカソ「科学と慈愛」です。
臨終の床にある婦人に対して、八方手を尽くしたけれど
死を止めることができない医師は脈を取るだけの姿、
向かいにいる修道女は渇きを癒す一杯の水を差し出し
子供と共に祈りを捧げます。
科学の進歩や技術だけが決して人を幸せへ導くのではない、
人は決して無力ではなく、
精神の座においてその最後まで何かできることがある、という
訓戒と希望を与えてくれる絵です。

本はミヒャエル・エンデ「モモ」です。
「灰色の男」なる時間泥棒が、人の時間を奪っていく様子は
都市社会の忙しさ、心が奪われるプロセスを
とても正確に描写しています。
時間が奪われるのは灰色の男と
「無駄な時間を減らして時間貯蓄をする」契約を結ぶからで、
貯蓄した分だけ後で何倍にもなって戻ってくる、という
約束を交わすからなのですが、
効率を追い求めることで人は「仕事をする機械」になってしまい
人間ではなくなっていきます。
効率よく働き、事業が成功し、貯蓄をし、
美しい服装、豪華な食事、大きな家、あふれる名声、
手に余る文化的生活と情報、
しかしそれら全てをもってしても幸せとは程遠い気分から
抜け出せないのです。
資本主義がもつ「拡大再生産」の罠を指しています。

仕事の中に喜びと生きがいを見出すのなら構わないのですが、
成功と富を見出すのなら多分違うものになるのだと思います。

「この時間は、本当の持ち主から切り離されると、
文字通り死んでしまうのだ。人間というものは、
ひとりひとりがそれぞれのじぶんの時間を持っている。
そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、
生きた時間でいられるのだよ」というくだりがあります。

「もし人間が死とはなにかを知っていたら、
こわいとは思わなくなるだろうにね。
そして死をおそれないようになれば、
生きる時間を人間から盗むようなことは、
だれにもできなくなるはずだ」ともあります。
物語の中では輪廻が説かれていて、
もう一度新しい生を受けるのだ、あるいは
神の国へと加わるのだとも解釈できる説明もあります。

モモが心の中で見た世界は、
咲くたびにこれが一番美しいと思う花がひとつずつ現れ、
そのたびにモモは心から喜び、
しかしそれは必ず枯れてしまう、
そのたびにモモは心から悲しむ、
そして美しい花はまた必ず咲き始めるという光景で、
それがこの世界なのだという説明です。

時間を守るとか、約束は絶対だとか、
ある意味では人間的美徳とさえされるそういう縛りそのものが
この世界を狭くしてしまうのです。

いつもこの3つのものがあれば、
心の座標は同じ場所へ戻せるような気がするのです。

水曜日, 11月 15, 2006

宇宙人になりたいわけ

カーペンターズの
"CALLING OCCUPANTS OF INTERPLANETARY CRAFT"という曲があって、
最近よく聴いています。

リクエストで曲を流すラジオ番組の周波数帯を通じて
宇宙人が地球人とコンタクトを求める、というイントロで始まります。

宇宙人になれれば
地球人とは争わなくて済むのだろうか、という話は
なんとなく「最終兵器彼女」の最終話にも似ている気がしています。

土曜日, 11月 11, 2006

うまくは言えないが、ある雰囲気について

久しぶりに日記を書こうと思いました。
書きたい事がなかったというよりも、
読み返して良かったと思うような話題を思いつくのが
難しかったからかもしれません。

電車で仕事場に通うと時の雰囲気が良くわかります。
使われている文字をみると、
横文字はすっかり消えてしまって日本語だらけです。
もしくは日本人に読める程度の中国語が増えています。
恐らくイラク戦争や牛肉問題などの影響で、
日本がアメリカを敬遠しているからでしょう。

スタンダード=基準となるべき男性像について、
この国は迷います。
社会の仕組みには大きく2種類あって、
女性系の社会と男性系の社会があるのだそうです。
日本は女性的社会と呼ばれます。
アメリカというリファレンスをなくしてしまったことは、
ある意味で自分たちが主体的に社会を作る権利を得ることになりましたが、
どういう社会を作るかについて少しもまとまりません。

禅や道はストイックなものが良いとされていて、
地震雷火事の続きは怒った親父です。
そうでなければ卑屈な立ち回りか、
古狸のような悪代官みたいな老獪さばかりが目立ちます。
自己犠牲的に命を捧げ、
あとは涙ばかりが残る、そういう人生は
「意義深い人生であった」と思い返すことができるのでしょうか?

ルイ・アームストロングのCDを聴きながら、
日本にいないのはこういうタイプの男性なのだ、と思いました。
それは自信に満ちた明るさであり、
現実と生命を肯定して微笑む懐の深さです。

神の存在が関係しているのだろう、とふと思います。

日本や中国には強い神がいないために、
人がルールを定めることになっていて、
風が吹くたびに人間が揺らぎます。
居心地のいい環境ではないのです。

日本は西洋から技術ばかりを輸入したので
「和魂洋才」なんて言葉になってしまいましたが、
本当に輸入すべきだったのは肯定的な「魂」なのではないか、と
ふと思いました。

日本とアジアを見渡す限りルイのような人物には
ほとんど出会えないような気がするので、
わたしがなりたい人物像を見つけた、ということで
今日は納得しておこうと思います。

土曜日, 10月 21, 2006

人間は神様ではない、といつになったらちゃんと理解するのだろう

筑波山途中のおまんじゅうやさんで
出来立てあつあつの栗饅頭を買いました。
黒糖色の皮のふくよかな香ばしさ、
荒く挽いた飾り気のない控えめなこし餡、
黄金色に染まった丸一個の栗が
とても美味しかったです。

この国はいつしか転んではいけない国になった、
とは島田紳助、松本人志「松本紳助」の一節です。
知り合いの会社員は話の端に
この社会は減点しかしない、とつぶやいたのを
ふと覚えています。

何かの本で読んだうろ覚えの記憶は、
たとえば犯罪の責任が個人にある、という考え方が
普及したのは
たしか17世紀に入ってからなのだそうです。

日本では死んでしまうと許されて忘れられてしまうのに、
中国では死んでも許されないのだそうで、
逆賊の汚名を着た歴史上の人物の記念碑には
今でも訪れる人がつばを吐いて罵るのだそうです。

日本、中国、東南アジアのいくつかの国に共通するのは
主体的な神様がいないことで、
責任の終着点は人になっています。
ヒンズー、イスラム、キリストなどの教義がある国は
責任の終着点が神になっています。

19件搬送を拒否された事件を報道したフジテレビで、
「誤診の疑いもあると見られています」という
裏を取っていないような台詞が現れて、
なんともやりきれない気持ちになりました。

現場の医師が患者を救おうと懸命であることと、
状態から疾患を見抜く見当を外してしまうこととは
まったく別問題です。

切迫した事態の場合、
医師はわずかな時間と情報で判断を下さなければなりません。
呼吸、血圧、体の状態、黄疸、浮腫の有無、
バイタル、既往歴、連鎖的症状の発現順番などから
患者の疾患を「推定」しますが、
情報が分かれば一義的に疾患が特定されるわけではないのです。

熱があって胸が苦しい、という訴えには
風邪から肺炎、結核、心不全、肺気腫までさまざまな
状態が考えられるのです。

間違いを責任だと責める風習がなくならないから
いつまでたってもミスは隠されて
自らが改善されないのです。
外国の人が事故報告などを纏めて
苦労して対策されたガイドラインを買ってくる、
自らの手をかけずに進んでしまう傾向は
島国だから直らないのかもしれません。

どんな人でも必ず間違う、
どうかそのことだけは絶対に忘れないで欲しい、と
いつも思います。

金曜日, 10月 20, 2006

わたしたちが「地球市民」になれないわけ

安倍晋三「美しい国へ」を読みました。
地球市民、という概念がひとつの理想であるように語られるが、
実際にはどの国にも属さないということはできない、という
くだりを読んで、しばらく考えました。

地球市民が作れない理由は
哲学や宗教が違うというだけではなく、
その本質的な理由は人が有限の大きさを持っているからで、
たとえば今日作った出来立てのパンケーキを
地球の裏側の人とは共有できない、という直感に基づくものです。
人が協力し合う、というものの中には
世界の資源をやり取りする過程とともに、
日々の生活を協力するという過程があります。

たとえば共同体の大切さを説いてもらうのは
一面で必要なことですが、
仕事でさまざまな土地を渡り歩く人にとって
「属するもの」の概念とは何だろう、と
ふと思います。

火曜日, 10月 03, 2006

パソコンの置き場所

久しぶりの加速器試験で徹夜明けです。
今までデスクの上にパソコンを置いていたのですが、
どうも音がうるさいのか電磁波が出ているのか
近くにいると気分が良くなりません。
というわけでパソコンを床に置き、
デスクと引き戸で見えないところへ置きました。
なんとなく気分も良く気に入っています。

水曜日, 9月 20, 2006

既に物語は書き終わっている

夏が戻ったような日差しの色です。

以前見たイミダスのページ下コラム集の中に、
「名医という言葉がある限り、医学は科学ではない」
というくだりがありました。

人は自分に自由意志があることを
自分にとっての人間性の根幹として認めています。
「人の意志」が本当は自由ではなく、
物理的プロセスによって既に決められたもののはず、
それならこの世界の全てがどうなるかは
「分からない=決まっていない」のではなく、
人が知りえないだけでもう決まっているはずだと
昨日帰りの電車の中でふと思いました。

現代物理学が示したのは、
この世界には時間軸のある一点でビッグバンという「始まり」が生じ、
全ての現象はそこからの時間発展で起こっている、
という事実です。

高エネルギーの世界では時空のねじれがありますが、
人間が生きる時空では時間が元へは戻らず、
あらゆる現象は、瞬間ごとの厳密解は分からなくても
基礎となる物理法則の組み合わせで動いています。

人の理解が進み、現象論的空想が減り、
人の精神活動も生命も脳が化学的プロセスに従っていること、
そして化学的プロセスが物理法則に従っていることを
そのまま演繹すれば、
自分も人も、実は「今何を考え、次に何を考えるか」は
既に決まっているはずなのです。

人間はどこかでこの物理的世界と切り離された存在があると
勝手に思っていて、
だから「自分の人生を自分で決めて生きている」ことになっていて、
意志と現実は違うもの、
神様はリアルタイムに筋書きを書き換えるものだと思っていますが、
「意志」という何かさえもこの世界が作り出したものであり、
基本法則に一度も手を加えられていないのであれば、
全ての物語は「始まりの時」に書き終えられていて、
時間の流れに沿って現象=プロセスが進行しただけということに
なります。

たとえ神という存在を信じようと信じまいと、
人の心に生じる感情を含めた全ての出来事は
この世界の必然として生じていることは
物理学が証明していることになっています。

かつての全ての文明が滅んだことも、
世界中で戦争が止まないのも、
地球の裏側から食料が届くようになったのも、
そして人が地球上に非常に増えてしまったことも、
たとえば生きがいを持つ人と持たぬ人がいることさえも、
既に物語の中には描かれていた話です。

自分が自由意志で物語をずっと作っていき、
全て自分という存在が
全ての現象とは独立に判断している、としたら
それは未知の只中にずっと放り込まれたようなとても苦しい話なのです。
しかし自分が誰かに合い、さまざまな境遇にあうことさえ必然なら、
私の心がどう振舞うかもまた必然の元にあるはずで、
私に会う人が何を話し何を感じるかもまた必然の元にあります。

自分の体と心は常にある物理法則に従って動いている存在で、
自分が思いこんでいた「自由度」というものは自分にも他人にも一つもなく、
世の中の現象と解釈は時間発展的に必然として起こっているのであれば、
私があることも私が考えることも既に決まっていて、
私が何を為し何を知り、どこにいるかも本当はもう決まっていて、
迷うことが必然なら実際にはもう迷う必要がなく、
人の感情について難しく考えることはなくなります。

この考え、一見「自由度」がなくて不便なように思いますが、
実はその逆で、非常に安心できて意味のあるものです。

火曜日, 9月 19, 2006

都市生活的「自給率」の定義

弁当を詰めてみました。

料理を作ると不思議と心が落ち着きます。
自分が食べる=生きていくということを
自分でまかなえているという実感が
はっきり持てるからかもしれません。

実家には田んぼと畑がありました。
柿や栗やびわがなり、
いくつかの野菜は畑から採れたものでした。

あらゆるものを「買う」ということは、
物を手に入れる流れの中に自分ではない誰かが
仲介していることになります。
そして「買う」という行為に
自然とつながっていない心細さを感じることがあります。

もちろん自然というものがいつも優しいわけではありません。
台風がくるし、旱魃が起きるし、
夏もあれば冬もあります。
それらを安定化するために農業と科学が発展し、
以前より安定した生活ができるようになったのですが、
生きるために人の手を借りなければならないことが
次第に増えていきます。

都市生活者は自給率がゼロなのだろうかと
ふと思います。
農業用機械があるから農業がうまく行き、
よい肥料が作れるから農業がうまく行き、
よい医療があるからお百姓さんが健康に働くことができ、
そういうよい循環は間接的な自給率なのでしょうか。

どうか、自然の力が人に多くを与え続けてくれますように、と
今日も願います。

金曜日, 9月 15, 2006

座禅は目を「閉じない」

ハウスみかんは緑色のまま出されます。

小さい頃読んだ事典の中に、
眠っているほうが静かに座っているより
エネルギーを消費する、と書いてあり、
子供ながらに不思議に思っていました。

眠ることは決して脳を休めるわけではありません。
むしろ忙しく記憶の整理などをはじめます。
ダイナミクスとしては眠っているほうが変化が大きいのです。

最近、目を見開いた状態にせず、
軽く開けた状態にすると気分が楽になるような気がしています。
座禅は「目を閉じる」のではなく、
「うすらぼんやり開いている状態にする」のだそうです。

幸い目は良いのですが、
見えすぎるのも困り者だ、とふと思います。

水曜日, 9月 06, 2006

悲しみの遺伝子も大切に

カフェインは苦手ですが
お弁当と一緒に飲む熱い日本茶は好きです。

特に大きな問題もないのに
なんとなく気分が悲しめな日がかなりあります。
いつも笑顔、というのが
世間としては喜ばれるんだろうなと思いながら
なかなかそうもいきません。

平安時代は男も女も
喜びにつけ悲しみにつけ涙を流したといいます。
その後は無常観、諦念へとつながります。

戦後の復興があって、
笑顔でみんな乗り切ってきたかというと、
なぜか激動の時代を歯を食いしばって、という感じです。

たとえば犬は血種によって性格の傾向が
決まっているように、
体つきの違いと同じように
感情の持ち方は遺伝するような気がしています。

笑顔だと免疫が高まって長生きできる、
そんなニュースが流れていたりして、
じゃあ今日本のご長寿の方がみんな快活で笑顔な
人生を送ってきたか、というと
決してそうではないと思うのです。

良いか悪いかとは関係なく、
この国が持っている一番大きな感情は
悲しみである気がします。

これが大陸のほうへ向かうと、
一番大きな感情は「怒り」だったりして、
戦うことで生きているような感じです。

自分の中にふと生じる悲しみは
ずっと昔から受け継がれてきた
感情の続きなのかもしれない、と思い、
そういう悲しい自分をうまく表現できると
自然と心は休まってきます。

火曜日, 9月 05, 2006

既得権益という壁

理屈の上では問題ないように見えるシステムに
何らかの違和感を感じ続けていて、
それが「既得権益」というものであることに気づいたのは
今朝のことです。

程度の問題はありますが、
一度自分が手にした権利を守るために
他人を排除する、という行動を基本的に好みません。
全体として助けあって生きようとしない者を
人間として理解することは難しいと思います。

「労働貴族」という言葉があって、
縮小しようとする経済の中で
最も問題となる存在だと思っています。

水曜日, 8月 23, 2006

とても矛盾した要求の試み

人は何かを認識する生き物です。
認識すると同時にそれは「存在」へと変わります。
ということは、普通に生きて覚えているだけであれば
認識の時間が増え、つまりは
「その人にとって」存在する事や物の量が増えます。

何かのメッセージを自分の中に残したくて読んだ
ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」の
最後に書かれている言葉は、
「私の話は忘れて生きていきなさい」という意味で、
徹底的に記憶し証明した過程を
最後に捨ててしまえという点がとても意外で印象的でした。

世界に悲しいことはいつでもたくさんあるはずなのですが、
悲しくないとき、というのは
「悲しいこと」がなくなっているのではなく、
悲しいことを忘れているときです。

一つの仮説ですが、人が戦争をしないとき、というのは
「戦争」という概念がなくなっているのではなく、
戦争自体を忘れているときと解釈できないでしょうか。

世界は、どうも覚えるほうが好きらしく、
知識も歴史もあればあるだけ覚えよ、
忘れることなく問いかけよと要求し続けられます。

人はどこかで自分が決めた特定の事柄を「忘れる練習」
をする必要があるのではないかと考えています。
特定の事柄、を「意識的に選び出して」
しかもそれだけを忘れよというのだから論理自体は矛盾しています。

記憶は思い出す限りその人にとって存在します。
新しいこと、美しいこと、もともと目的や価値を持たないものに
意識を向けることは、
縛り付けられた記憶を積極的に忘れるために必要です。

役に立たないものに触れ喜んでいる時間が増えること、
音楽や芸術や自然の景色、が
人の心に「忘れる」という効用をもたらしてくれるような気がします。

I'm not "the only one"

朝の通勤にあわせて
ココア味のプロテインを飲み始めました。
アラビアかどこかの諺で、
「腹が満たされれば精神は肉体になり、
腹が空けば肉体は精神になる」というのがあって、
体と精神は互いに支えあっているという印象を受けます。

まだら模様の世界の続きです。
確かに世界中からいつまでたっても
争いはなくなりません。
哲学の本によると、
「取得可能と思っているものを求める限り
世界全体が幸せになることはない」とあります。
富も権力も恋愛でさえも、
それ自体を追い求めるなら争わなくてはなりません。

世界がどういう状況であるか、ということと、
自分が何をどう解釈し何を願うか、ということは
本来別物です。
自分という「独立したもの」が世界のありようを、
全体として矛盾が生じない解釈ができれば
どう解釈しても自由です。
そして世界の解釈や向かう方向と私の希望が違っていても
本来は一向に構わないはずなのです。

確かに欲や希望だってたくさんありますが、
自分のありたい自分の中で一番強いものは
「全ての人が争いも欲も競争もなくして
静かに幸せに生きていけたらいいのに」という願いです。

現実を解釈する限り願いとはいつも違っています。
欲を信じて生きていきたい、
傷つき、傷ついてもそれで構わないという人にとっては
ずいぶん迷惑な願いであるだろうからです。

時々自分が現実と違う願いを
持ち続けていることに苦しくなります。
ただ儚い夢を追う者かもしれないと感じるときは
時に無力感を強く持ってしまいます。
そしてなぜか世界から
一人取り残されたように錯覚してしまいます。

今朝、Keiko Leeのカバーで
"Imagine"を聴きながら、
"You may say 'I'm a dreamer',
but I'm not the only one"という言葉が流れてきました。

世界のどこにいるかは分からないけれど、
この世界でこう願う仲間が必ずいる、という一言は
内なる自分のもっとも深い部分を満たします。

世界の争いを争いの衝突によって消滅させるのではなく、
争い自体を
「自らも争わずに、そして自らも苦しまずに」
消滅させたいのです。

http://www/sitesakamoto.com/wtc911/20010926-j.html

成果主義、生産性の増加、拡大再生産、
声高に叫ばれる競争原理はいったい誰のためなのか、
社会は「あなたのため」だと言っているようですが、
それは本当なのでしょうか?

積み上げられた技術の成果として作られた
「仕事をする」機械や計算機の山、
空を飛ぶ銀の翼や地を駆ける鉄の馬、
それらは心あるものが使えば人の役に立ち、
心無いものが使えば人の存在を追い込みます。

大人は子供に戻ることはできない、
つまり力のない存在、権利のない存在へと
戻ることはできません。
どうか、自らの今を自ら自身の心で満たせますように。

http://www.sitesakamoto.com/wtc911/debrisofprayer/index.html

日曜日, 8月 20, 2006

体を冷ます水

暑さ寒さも彼岸まで、という言葉があって、
暑さの峠もあと一月です。

暑くて、というよりも
体が熱くて眠れなくなるときがあります。
小さいころからどうも体が熱いのに慣れることがなく、
夏はプールに行ってました。

半年振りぐらいにプールに行き、
しばらく泳いでいると、
自然と体の芯が冷えていきます。

ほかの運動、たとえばジョギングとか散歩とか、は
だんだん体に熱がこもってくるのですが、
プールだけは例外で、
泳ぐスピードが上がるほど体の周りに流れる水が増えるので
それほど体温が上がりません。

まだいけるな、まだいけるなと思っているうちに
自分の体力を使いきっていることに気づくのも良いところです。
ジョギングではたいてい辛さが先に来て、
体力を使い切るところになかなか行かないのです。

一昔前までの世代は
体を動かすのがほとんどの仕事だったのに、
今はオフィスで頭脳労働がメインになってしまっています。
体を動かさないと体が弱るからいけないのではなく、
体を動かさないと入力のバランスが悪くて脳が困ってしまうのではないかと
ふと思います。

都会の人が気軽に水に触れることも減ったのでしょうか。
プールに行くと、エアコンでは冷えない体の芯が冷えます。

火曜日, 8月 15, 2006

ほとんどの場合、逆演算してはいけない

停電の影響はもうありませんが、
お盆で人が少ないせいか電車が空いていて
慌しさを少し忘れます。

人はいろんなことを知るほど
「未来予測」をしようと試みます。
鉄が1500℃位で解けるのは何度も実験された結果で、
知っていく知識は「普遍的に使えるもの」が多いものです。

未来予測とは逆運動力学の逆演算と同じです。
あるべき将来の姿を定め、
それに必要な手順を割り出すものです。
手順には複数の方法があります。
「将来」の予想は10分先のものもあれば
2年後とか3年後とかいうものもあります。
そして逆運動力学というのは
答えを出すのに非常に長い時間がかかり、
場合によっては解けないことさえあります。

「どのくらい普遍的か」ということには
相当に程度の差があります。
りんごを手から離せばすぐ落ちるのは
地球の上ならどこでも100%に近い確率ですが、
電車が今日も順調に乗り継ぎできる、ということは
りんごの確かさとは程遠いものです。

分からないことに対して
「どうしたらいいのだろう」という問いがあります。
未来に関して言えば、実は打つ手がないことが多いものです。
このとき、「どうしたらいいのだろう」は逆演算で、
逆演算する限り不安定な気持ちはなくなりません。

逆演算が安定に行える、推奨される条件は二つあり、
一つは目標である「何をすべきか」が明確であって、
もう一つはその途中を埋めるプロセスに無理がないときです。

1年はあっという間、という表現が苦手です。
去年と今年はあまりに違いすぎるからであり、
去年思っていた1年先が今年その通りだったことがないからです。

順運動学の演算というのもあります。
現在のプロセスを見て、一つ思考し一つ試み、
一つ振り返ることです。
この方法の利点は、
逆運動学に比べて非常に解が簡単なことです。

世の中にあふれたHow-to本は
「何をすべきか」が分かっているときに役に立ちますが、
分からないときには役に立ちません。
そこで分からないときに
何かしなければと焦ったり不安になったりしますが、
「何をすべきか」分かっていないのでは
何をしても何を思考しても=いくら逆演算で解こうとしても
答えには行き当たらないのです。

人が生きる中で、逆演算が必要な瞬間と、
逆演算をしてはいけない瞬間があることが分かります。

未来予測に逆演算は通用しないとすれば
何をすればいいのか、と考えると、
そんなときこそ順演算をすればいいのです。
遠い未来を見て現在のベクトルを考えるのではなく、
過去と現在を見て近い未来を観察する作業に当たります。

未来が不安なときに現在へ視点を移せ、というのは
非常に難しいことだと思います。
確かに過去起こったからといって
もう一度それが起こる保証はないのですが、
その中でも比較的「普遍的」と思っていることは
もう一度起こる可能性は高いものです。

未来が不安になったら、「どうすればいい?」という
逆演算を強制的に止めることが必要です。
未来について考えることはやめ、
過去と現在から「ヒントを得ようとする」のではなく、
どんなことがあるかだけを観察してみましょう。

「どうなるかわからない」という時は
大抵不安なときの台詞ですが、
もしかしたら
想像以上に良いことが起こるのかもしれないのです。
逆演算の欠点は、
「欲しい目標」への達成度が100点満点になってしまうことで、
ミスすれば原点しかないような気分になることです。
順演算はもともと目標がないために、
良いことがあれば、少し行動できればプラスだと思えます。

過去と未来の大きな質的差は
「逆演算が求められる量」の増加に由来すると思っています。
リクエストに答えることは逆演算が必要で、
もしかしたら逆演算をする脳の機能は
ひどく疲れてしまうと動かなくなるのではないかとも思っています。

日曜日, 8月 13, 2006

100点満点で10点を出しても許される場所が欲しい

土曜と日曜は
ハンバーグと豚の角煮にしました。
ハンバーグがとてもよくできました。
付け合せのポテトもおいしくできました。

料理の美味しい香りを大切に出せるような
作り方が少しずつ身についたように思います。

褒められることは一般に嬉しいものです。
褒めようとしてくれる人も特に悪気がありません。
むしろ良かれと思ってくれています。
ところが褒められることを
どうしても断りたい気分になることがあります。

褒められることの中に「期待」が含まれていると、
なぜか叶えなければと緊張してしまうのです。
期待をされる、ということは
がっかりされる危険を伴うことでもあるからです。

人がどのくらい期待しているのか、
なんとなく感じる力が強くなっていると感じます。
本当は期待に応えるかどうかは自分の権利であるのに、
期待はその権利を時に使えなくしてしまいます。

私が望む「本当の安らぎ」は、
実は期待で振り回さずにただ向き合って欲しい、
特に何も望まずそっとしておいて欲しい、
という一点にあります。

自分が何か結果を出せば出すほど、
だめな自分がどこかへ置いていかれるのです。
そしてその「だめな部分」は消えることはなく、
置いて行かれた時間だけ増えていきます。

時に非常に強く自分を苛む感情は、
「期待に応えなければだめになってしまう」というものです。

本当は期待に応えられなかったら
次がある、と思えればよかったのですが、
たった一回しか訪れない出来事に対して
「また次がある」と思うことは難しいことです。

そして人の「期待」というものが
私というものの成り立ちを難しくしてしまいます。

私は神様ではないのだから100点は取れない、
では何点だったらみんな納得してくれるだろう、と思ったときに
私が考えた点数はなぜか95点で、
これでは生きていくのは非常に難しいな、と
いつも思っていました。
これは常識的に考えれば理不尽な話で、
意識を修正する必要があります。

失敗は許されないという思いは、
時に非常に強い前向きの力となって
一心に行動に向かわせる原動力となることがありますが、
他方で非常に強いストレスになり、
できなかったときの自分を責め続けることにもなり、
また失敗したらどうしようという強い不安も呼びます。

「失敗しても大丈夫だよ」という安心があれば
もっと前向きに挑めるのに、とも思いますが、
人間は未来が見通せないので
「失敗するかどうかは分からないね」と言うのが関の山です。

失敗をたくさん経験した人は
「失敗しても何とかなるもんだよ」と言ってくれます。
ふと「失敗恐怖症」の連鎖に入ったときに、
そういってくれる人が必要だなと感じます。

「成果主義」という表現があって、
私の最初の解釈では「90点以上をとり続けること」が
その意味だと漠然と思っていて、
実は日本人のかなりがそう感じたのではないかと考えたのですが、
その解釈はあまりにも間違っています。

この解釈、試験制度に強く由来する連想でしょうか?
そうであれば一刻も早く
理不尽な連想を修正する必要があります。

野球のバッターは3割打てれば賞がもらえる、
つまり30点でいいのです。
成果主義も試みの30%が成功すれば
もうそれで十分すぎるほどなのです。

とにかく、人生の評点に対する印象は
「赤点」ラインの60点でも高すぎます。
がんばっても24点ぐらいで、
「よくできたね」というところにしたいものです。

そして「期待の量も24点まで」ということで
自他共に納得しておきたいものです。

土曜日, 8月 12, 2006

一人になって読む本

たとえアマゾン奥地への探検でなくても、
何年も週刊誌を読まなかった自分が
思い切って「週刊文春」を買ってみたのは
かなり大冒険です。

よりによって「週刊文春」である理由は、
通勤電車の吊り広告にびっしりと載せられた
「他人の醜聞」にいつも腹を立てていたからです。
芸能界、皇室、政治、風潮など
話題のねたはいくらでもありそうです。

そこまで悪く書けるんだったら
どこまで徹底的にやっている覚悟なのか
試してやろうじゃないか、と決心し
買って読んでみました。

実際には吊り広告は「張子の虎」で、
日本人らしく良心的な記事も載せながら
署名記事でさえない「マイルドな書き口」の文書が
わずか数ページ並んでいるだけでした。

ジャーナリズムがワイドショーが、と騒いだところで
徹底的な追及のレベルが低く、
西洋のタブロイド誌のように
これでもかと醜聞を煽るようなことはありませんでした。

醜聞以外にも地味で良心的な読み物があって、
それらのタイトルを前面に持ってきた吊り広告を作ったら
違う雑誌になるんだろうな、とさえ思うほどです。
今度タイトルを並び替えてみようかと思います。

久しぶりに良書を見つけました。

鴻上尚史「孤独と不安のレッスン」です。
もちろん共感する部分も多く、
さらに著者自身がきちんと不安について語っていることが
何よりの慰めになると思います。

自分で考え、自分に身についた思想だけが
どんな場所でも通用するたった一つの「拠り所」です。

たった一人でいること、そのときに考えていること、
誰でも不安と孤独には向き合わなければならないこと、
それを優しい書き口で教えてくれます。

しばらく持ち歩く本になりそうです。

ちなみにわたしは
「曲は比較的ゆっくり、明るめで
しかし歌詞が悲しい歌」がとても好きです。
悲しさが惨めさではなく歌で美しく表現されるからでしょうか。
または世界には悲しいことがある、ということを
忘れず、しかし優しく諭してくれるからでしょうか。
それとも悲しいときにやってくるものが「絶望」ではなくて
穏やかな喪失感や緩やかな感情の高まりになりうることを
示唆してくれるからでしょうか。
何度聞いても暗い気分にはならず、
むしろリラックスできます。
前向きで明るく前進的、もちろん自分には
そういう日もありますが、それは「他人向け」の自分であって、
自分本体には人と抱えることが困難な悩みがあります。

木曜日, 8月 10, 2006

問いかけを「忘れていなければならない」問い

自分の読んだ本の「内容」が理解できる段階と、
いくつかの本の内容を比較できる段階は
違うものです。

哲学あたりの本、
ショーペンハウエル「幸福について」、
ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」、
カント「純粋理性批判」、
大乗仏教、坐座仏教なんかを読んで
現在までに思った共通認識は、

「なぜ生きているかという問いだけは
可能な限り忘れていなければならない」

というものでした。

カントはそれが
「生きることには理由と意味を持たない」という言葉で、
ヴィトゲンシュタインは
「生の問題の解決は、問題自体の消滅によって為される」という言葉で、
大乗仏教は
「生きているそのものこそが生きる理由である」という言葉で、
坐座仏教は
「現在にのみ集中した自分のみが全てである」という言葉で
それぞれ共通した思想を語っています。

私たちは数式を解く際に確かめられた公式を使って
便利に生きています。
もちろんその公式が正しいかどうかを自分で考えることが
一度は必要ですが、
証明がすめば後は安心して使うことができます。

命がけで哲学研究というものをした
過去たくさんの人の「公式」を使わせてもらうことにして、
この問いを可能な限り忘れることにしようと思います。

火曜日, 8月 08, 2006

魔女の血、絵描きの血

久しぶりにメカ設計始めました。

時々頭の中が矛盾だらけになります。
客観的にみれば何も変わっていないようで、
実は1秒1秒をやり過ごすのがやっとであるほど
存在とか意味とかに強く囚われていることがあります。
それが解けていくと、
落ち着いた自分を取り戻すことができます。

「魔女の宅急便」を買って観ました。
飛ぶこととそれに自信を持っていること以外取り柄がなくて、
でも飛べることだけを頼りに街へ出る
13才の女の子の話です。

素直な田舎で育ち、疑うことを知らず、
正しいと思った方向へまっすぐ進みますが、
最初はなぜか世間と歯車が合いません。

孫を想うおばあちゃんの「にしんのパイ」に心から共鳴し、
壊れた電気オーブンの代わりに薪のオーブンを提案し、
パーティーに遅れそうになり、大嵐の中で届けたのに、
受け取った孫は「あたしこのパイ嫌いなのよね」と
冷たく返事をされてしまいます。

一生懸命やってきたことは何だったのだろう、
そう迷う気持ちが魔法の力を弱め、
ある日たった一つの「飛べる」自信さえなくしてしまいます。

なにも取り柄がなくなってしまった自分を
絵描きの女の子が訪ねます。
自分の中にある「力」は不確かなもので、
そんなときはどうするの?と問う小さな魔女に
「じたばたするしかない、
それでだめならしばらく諦めるしかない」と告げます。

絵描きも決して悟っているわけではないし、
苦しまなくなったわけではないのです。
ただ何度も壁にぶつかり、
その度に問い直した結果なのだと思います。

この映画が特に好きなのは、
「世間から見るとありふれたものかもしれないけれど、
自分に備えられた、好きで大切な何かを
生きる糧にする」ことが
描かれているからかもしれません。

与えられた仕事をひたすらこなし、
評価基準が比較的明確である段階から、
自分が発想して環境を作っていく段階へと
時間が経てば全ての人が移行するように
この世界はできているのです。

そのときに社会の瞬間的な流れに沿うのか、
それとも沿って行かないのか、
答えのない判断を絶え間なく続けなければなりません。

先達がいるところは楽です。
でもそこに自分だけの場所はありません。
生きる辛さは分からない辛さと同じで、
人は一生かかっても全てを知ることはできず、
しかし自分を知りたいという声を
ごまかすことがなかったものだけが
至ることのできる感覚や意識があると思います。

世界に対する感覚を鋭くし、
たくさんのことを知れば知るほど、
世界は矛盾だらけで混沌としていることも分かり、
自分も人も理不尽で不条理な存在であることも分かり、
そんな日は生きる意味が見出せず
気持ちが大雨になります。

しかしそれら全てを超えて
優しく受け入れたいと願う存在だと至りたい、
生きていること自体に意味があると思っていたい、
気持ちが晴れた日にはそう思います。

なんだかカップ麺が食べたくなってきました。

土曜日, 8月 05, 2006

お酒を規制する必要のある人と、むしろ勧める必要がある人について

お酒は健康を害するものである、
だから基本的に節制しなければならない、
こんな台詞ばかりが世に並びます。

さて、先進国の中で
実は日本はお酒の消費量が少ない国です。
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/1970.html

大人のたしなみとして同列に挙げられるのは
酒とタバコです。
どうも表向きの声は「酒はできるだけ控えましょう」なのですが、
酒はタバコと違って重要な薬理作用があります。
http://www2.health.ne.jp/library/5000/w5000392.html

処方箋なしで買えるある意味で非常に強力な薬であり、
タバコはなくなっても酒はなくしてはいけないもののはずです。

依存になるかどうかは難しいのですが、
私には酒を「嫌いでも意識的に飲まなければならない人」が
少数ですがいると思っています。
思考回路が循環してしまう人の場合、
自分の思考回路だけでは発振してしまう人の場合は
発信を減衰させる役目として酒が有効です。

酒は判断力や明晰を鈍らせるから
車に乗るためにはもっとも向かないものですが、
思考回路が循環して苦しんでしまう人にとっては
これほどありがたいものはないはずです。

池谷祐二「進化しすぎた脳」の観点から言えば、
肉体労働から頭脳労働へと移行するに当たり、
複雑に構成された脳こそ不安定性は非常に高まります。

脳の負荷と能力は非常に高められているのならば、
それを何であれ安定に動作させなければなりません。

ブラックジャックの一節に、
一杯飲んで忘れましょう、というくだりがあるのですが、
もし辛いことや苦しいことが
たとえ一時でも心から忘れることができるなら、
逃げられない牢獄のような意識から開放されうるなら
それは必要なことかな、と思います。

私は酔ってうまく動けなくなる自分が好きではなく、
それで意識的に飲まないようにし続けてきたのですが、
私は実は定期的に「飲むこと」を要請されなければならない
タイプかも知れないと思いました。

酒を飲んで理性のたがが外れ、
我知らず何かをする人もいますが、
私の理性は酒を飲んで酔ったぐらいでは外れそうにもなく、
酔ったままでも意識を纏めて日記を書き続けられます。

決して表からは聞こえない「必要な言葉」

せみが鳴いています。
アブラゼミの鳴き声は
なぜか暑さを増していく感じがします。

哲学書を読んでいてふと思ったことは、
「人間は何であるか」はとことん追及できても、
「人はなぜ生きる意味があるのか」は追求できない、
という一点でした。

「あなたはただ生きているだけで素晴らしく意味がある」
この言葉をとても必要としている人がいます。
もしかしたらその数はとても少ないのかもしれませんが、
それが満たされていれば自らは進んで譲り、
人にたくさんのものを喜んで与えることができるタイプの人です。

ところが、その声は現在の社会では厳重に隠蔽されています。
「あなたはただ生きているだけで素晴らしく意味がある」
とこれを自由に解釈されてしまうと、
奪い合いも殺し合いも何でも構わないのだ、と
非常に極端な発想を止めることができなくなるからです。

現に紀元前後の特に西洋世界というのは
戦いに明け暮れ、都市が成立しては崩壊する繰り返しを辿ったので、
ひとまず生命だけは確保できるようにと
道徳、風習、宗教が便宜的に
「社会的意義によって生きる意味」を持たせようとしました。
その台詞は
「社会的に尽くすことができなければ生きてはいけない」
という強い表現で表れます。

社会的意義がなければ人が存在できないとしたら、
それはなんと残酷な世界になることでしょうか。

何らかの期待にどうしても応えることができず、
それでも赦された者は、
社会的意義とは別に自分自身に意義を見出すチャンスがあり、
区別ができるのですが、
偶然が重なって様々な要請に応え続けることができてしまった者は
社会的意義がそのまま自分自身の意義になってしまう可能性が
非常に高く、
社会的意義がなければ自分が存在してはいけないという
極端で解きにくい錯覚に陥ってしまいます。
これは決して幸せなことではありません。

王監督ががんから2週間で復帰したといいます。
人間として王監督を見るならば、
2週間で社会復帰すれば体に無理が来るのは必至で、
どうしてもしばらく休ませなければならないと思います。
即座に現場復帰したからといって、
プレッシャーの中で自らを傷つけて欲しくはないのです。

正確に表現するならば、
社会性が不足していて、
宗教や道徳や社会性の規制による社会性の醸成と
尽くす活動をより推進することが必要な人もいれば、
社会性が過剰にあるために
自らを省みて自己犠牲への希求を和らげ、
自分自身を大切にしなければと許すことが必要な人もいます。

社会的システムの中では
後者が望まれているはずなのですが、
ところがその社会が「通常出している」メッセージは
主に多数存在する前者に向けたものであるため、
後者が社会の表向きのメッセージだけを正面から受け止めると
彼らにとっては社会に尽くし望まれていながら
皮肉にも非常に生きにくい世界になってしまいます。

日本社会が「社会性」側を極めて重視する構造であることは、
実はある意味で日本人が「強力な社会性」で縛らなければならないほど
ただ自由意思で生きている存在だろう、と
お互い思いあっているからかもしれません。
そしてその構造自体に苦しむ、「社会性がもともと強い人」が
かならず少数ですが存在するのです。

宗教も哲学も倫理性も法も社会的プロパガンダも、
ある人にとっては必要でありある人にとっては必要ありません。
実は普遍的に広める事自体に問題があり、
恐らく多くの人を救えますが少数の人は救えません。
しかしこのことを公に認めてしまうならば、
実はそれぞれの存在意義を強く揺らがせてしまうために、。
「ある人にとっては必要である人にとっては必要ない」という一言は
極めて強く隠蔽されます。
「良いことだから広めなれば」というのが
それらの存在意義の大前提になっているからです。

社会の表側からは聞こえない台詞であるとするならば、
優しいを善とするとかそういうことではなく、
社会性と自己犠牲を非常に強く持った人たち、
存在意義を見出そうとしている人に対して、
「あなたは生き、存在意義を探そうとしているだけで素晴らしく意味がある、
だからもっともっと一人の人間として自分自身を大切にして欲しい」
というメッセージを
わたしは社会の裏側から大きな声で発信します。

それは社会とは多数派の意思によって流れが決まるだけの存在であり、
多数派が良いわけでも悪いわけでもなく、
しかし生きやすい人と生きにくい人を必然的に作ってしまう、
そういう構造のものだからです。

自分がもし多数派になれないのであれば、
多数派に逆らうわけでもなく離れるわけでもなく、
少数派であることは認めてしまって、
社会的「中心」の教義は丸呑みにできないのだけれど、
折り合いをつけてうまく付き合っていけばいいのだろう、と
今は思います。

金曜日, 8月 04, 2006

ほのかに嫌いあうことを認めること

理系には理系の本ばかりが与えられ、
文系には文系の本ばかりが与えれる、
という枠を少しはみだして
哲学の本に触れる機会ができました。

読む本が難しいと思うかどうか、という点では
いろんな要素が作用します。
慣れ親しんだ用語が少ない本はつまづくし、
興味がない話題は頭に入らない、
それはまるで話の合う人と話の合わない人がいるように
ある意味自然なことです。

もう一歩話題が進んで、
”共感できる本は好きで共感できない本は嫌い、
でも嫌いな本でも役立つから置いておく”、
こういう経験はあります。
しかしここで「本」を「人」と置き換えた場合、
その中身が成立しないことがどうも頻繁にあります。

「村社会」という独特の表現があって、
和を保つことが生きることより優先される、という雰囲気は
人の移動が少ない社会で起きる
ありふれた現象なのだろうと感じます。

人は嫌い合う生き物である、
この表現を自然に出して受け入れられるかどうかは
多様性を認めるかどうかの試金石として作用します。

中島義道の本
「人を嫌いになるということ」の中に、
「ほのかに好き」があるなら
「ほのかに嫌い」もあっていいのではないか、
という表現に目が留まりました。

好きなものがあるからこそ嫌いなものがあり、
嫌いに段階があることを認めることができなければ、
仲間か仲間はずれかの極端な2極しか現れません。
自然と生じてしまった感情を単純に押さえ込んでしまえば、
「和をもって」という言葉は調整役にならないのです。

「嫌い」が「生命の危険」と分かちがたく結びついた場合、
「嫌いの表現」を抑圧することによって
「肉体的に生きてはいるが精神的に歪んだ世界」ができます。

村社会が健全であるためには、
極端な「和への束縛」は好ましくなく、
感情的には緩やかに繋がっていれば十分です。

しかし「人は嫌い合う生き物」ということを
何の補足もなく単純に野放しにし、
多様性を原理主義的に肯定してしまうと、
主観で見ることや違いを放っておくことが増えていく心配があります。

極端な例がアメリカで、
コミュニティの中ではやはり村社会らしいのですが、
表向きには成果主義が認められていて、
ある意味で出来ないものはできないままだったりして、
相互扶助の精神が成り立たない場面が現れます。

田原総一郎の番組では、
よく政治家に「では理想の国家像とは何ですか」と問う場面があって、
しばしば一緒に答えに詰まっていました。
ある人はスウェーデンだと言い、
ある人はスイスだと言い、
そういう人は
時代がマルクスの頃ならソ連だと言ったのでしょう。

対比して考えれば考えるほど、
どんな国家スタイルにも弱点があるのです。
ということは、理想の国家へと変容する果てしない試みとは
現実的にほとんど意味を成しません。
それは虹のふもとに宝物があると信じて
虹のふもとを目指す試みに似ています。

現在の国家にあまりに弱点があり、
その弱点は未来永劫消滅できないことをせめて正直に認め、
それを単純に排除するか忘れてしまうよう動くのではなく、
その弱点による被害が可能な限り押さえられるには
どんな対策があるだろうか、と
現実的な行動へと移すほうが有用です。

「人生において重要なのは
役立つことと適切であること」と言ったのは
イギリスの哲学者アラン・ド・ボトンで、
「日常使う全ての言葉を
市場でのやり取りに限定できたら」といったのは
モンテーニュです。

西洋でなぜ哲学が生まれたのか、
それは一神教的宗教がもたらした「精神の極端さ」の弊害を
宗教を排除することなくいかにして和らげるか、
そんな切実な願いがあったからなのかもしれません。

人間とは、極端では生きられない生き物のようです。

「多様性の拡張」

仙台へ行く新幹線やまびこは2階建てで、
少し景色が高く見えます。
会場裏手にはしっかり月日の経った公園があって、
木々に触れ不思議な落ち着きを感じました。

人間の多様性を認めなければならない、
こんな言葉が出始めたのはバブルが終わって
一極集中型の社会、
つまりみんなが同じものを求め、
それを集団として好ましい概念とし、
それが最大の利益を生む構造であった社会に
一つの区切りと変化がついてからのように思います。

それで街が大きくなったのですが、
いくら街が多様で文化がどうだとかいっても
生き物といえば所詮人間しかいません。

駅にあった広報誌に、
森を歩くことによって落ち着きを得られる感覚に関する研究が
始められたという記述がありました。

その公園を歩きながら、
寄り添う「生き物」は人でなくてもいいのではないか、と
ふと思いました。
最近の研究では、植物は頭脳がないけれど
「全体として」意思を持っていて、
水をあげてくれた人や葉をちぎった人を覚えているのだそうです。

多くの人が遊園地やバーやデパートなどに足を向ける代わりに、
森へ足を運ぶような雰囲気ができれば、
喧騒と混沌で混乱する世界の歩みは
少しだけ食い止められるのではないか、と思います。

火曜日, 8月 01, 2006

新聞をやめてみました

久しぶりに少し頭痛がします。
ただ頭痛薬は胃が荒れるので控えています。

本を読む量が増えました。
本は確かにさまざまなことを教えてくれますが、
基本的には特別な人の特別な記録です。

大人がきちんと参考に読む本ってちょっと難しい気がします。
大偉人と呼ばれることはないだろう、
わたしを含めたたくさんの人たちが
世界のトップの話を読んで実行したとしても
必ず成功するわけではないからです。

本は時々便利で時々不便です。
一度読み慣れてしまうと、本にはなんとなく
任意性の高い世界があって、
何冊も読めば自分の味方になる台詞がどこかに載っています。
最近本の量が増えていたのですが、
本が時に逃げ場になってしまうことを知って、
しばらく読むのを控えてみようと思いました。

社会人になったら新聞を読む、
なんとなくそんな意識で新聞を始めましたが、
世界の裏の必要かどうかわからない情報まで手に入れて
心配の量が増えるのではどうも納得がいきません。
新聞を片付ける手間も相当なものなので、
定期購読をやめてみました。
情報源は違うものを探してみます。

朝のニュースも同じです。
情報が生ものなのは知っていますが、
ニュースは「毎日流す何かを探している」状態で、
流すべき情報が他のニュースに埋もれてしまったり
何もねたがないときにある事件の追及ばかり行われたりして
見る意味を感じません。

情報に鼻先をつかんで引きずり回される、
株の世界はまさにこんな状態です。
生き馬の目を抜くように生きるペースを上げなければ
成り立たない、
みんなはそんな世界が本当に欲しいのでしょうか?

株の短期投資は1/1000ぐらいしかうまく行かないと言います。
さまざまな使い方があるのは知っていますが、
それでも自分は儲かると思っているのでしょうか?

国政は国の基本で大切ですが、
みんなそろって小泉さんに届かぬ一人文句を言うくらいなら
自分の町の市長さんとか町長さんとかに
具体的な相談を持ちかけたほうが良いような気がします。

巷の雑誌が喧伝するように
聖人君子に名を連ねなくても、
どこかの会社の上役にまで上り詰めなくても構わない、
自分には自分の人生があって、
全ては自分の足元から始まる、
そんな風に思いたいのです。

月曜日, 7月 31, 2006

何をpainに選ぶか

どうやら梅雨明けしたらしい、という一報を聞きました。
この知らせ、さわやかな風の匂いで先に感じるのです。

CHAGE & ASKAの曲に
"NO PAIN NO GAIN"という曲があります。
何かを得るためには何らかの痛みが伴う、という意味は
漠然と分かっているのですが、
何を痛みに選ぶかは今ひとつ検討の余地があります。

日本人的発想ではpainを
忙しさ、苦労、辛さと解釈して
とにかく仕事を前に進める、という解釈になるでしょう。

しかし会社の中で自分が必要だと思うことを推し進めるときに
同意が得られずに感じる疎外感、だって
立派なpainだと思います。

できるだけ痛みは感じずに前へ進みたい、
それはきっと誰もが思うことです。

少し意味は違うのですが
win-winの関係、というものがあって、
これはお互いがよい関係でいるようなもので、
このときのpainはどこに発生するのだろう、と思います。

人との関係、財産、一見何も失わないようですが、
経験と引き換えに時間は失われていくもので、
それが過去の郷愁に繋がったりします。

永遠という概念、を手に入れようとするならば、
限りある命が終わった後に手に入るものかもしれませんね。

金曜日, 7月 21, 2006

役立つこと、適切なこと

透明のビニール傘は安物だというだけじゃなくて、
太陽の少ない雨の日には空の光が入る明るい傘で
そのことが気に入っています。

物にはさまざまな評価の基準がありますが、
哲学者アラン・ド・ボトンの言葉の中に
人生で重要なのは、役立つことと、適切なことというくだりがあり、
ふと立ち止まって考えます。

役立つことと適切なことが同時に含まれている、という解釈は
自分の心を調整するうえでとても重要なことのように思います。
必要か不必要かという判断よりも
役立つかそうでないかは個人らしい視点であり、
正しい、間違いという判断よりも
適切かそうでないかという判断はより人間らしい指標です。

がん治療に関する加速器の研究を始めましたが、
どこでもそうですが現場では目標が収束しないことがあります。
アメリカでは医学物理士が5000人もいて
技術スタッフが非常にたくさんいて
翻って日本には500人しかいないとかで、
さあ増員、という流れのようなのですが、
アメリカの医療は基本的にお金がかかり過ぎていて、
皆保険のない国なのに放射線治療費は大体日本の3倍で、
その制度の下で医療の質が保持されているのだそうです。

一方で皆保険で充実した医療が行き届いている日本では、
医療スタッフの数が極端に少なくてとても忙しいのに、
一方で薬剤による出費が非常に多く、
こういうところに日本らしいモノ社会の一端が
問題を現しています。

どちらの状態も、
役立ちはしているのですが何かの適切さを欠いています。

皆保険であるか、皆保険でないかは制度の問題で、
どちらにも欠点はあります。
それぞれの状態が生じる不適切な場面を
どのようにして改善していくかが重要です。

月曜日, 7月 10, 2006

「気楽」を正確にイメージする

久しぶりに良い休みになりました。

仕事場では真剣に取り組むもの、
という気持ちばかりが増えてしまって
気楽に楽しむということをほぼ完全に忘れていました。

求道精神、なるものがあって、
日本人は極まったことが大好きです。

さまざまなノウハウ本を読んでいても、
ただひたすらつらいことに立ち向かう、というくだりばかりで
行間が埋められています。

この原因はおそらく、
求人超過でバブル期に就職が楽にできた時代と違って、
難しい事柄をこなせないと、特殊技能がないといけないという認識から、
安易さに逃げず、少々の辛い事があっても我慢して乗り越え、
風雨に負けず花を咲かせましょう、
というメッセージが込められているように思います。

しかし根が真剣にものを考え、極めて忠実に実行する人にとって、
このメッセージが続きすぎるとバランスを崩します。

しかしここで、好ましくないとされる「安易さ」と
現在の社会に極めて必要な「気楽さ」は非常に似た概念であり、
正確に分離して取り出す必要があります。

少し真面目に考察してみようと思います。

どちらの言葉でも、
「なんとかなる」という表現が伴います。

(三省堂辞典)
安易
(名・形動)[文]ナリ
(1)困難がないこと。たやすいこと。また、そのさま。
「―な問題」
(2)特別な工夫や努力のないこと。深く考えないこと。また、そのさま。

気楽
(形動)[文]ナリ
(1)気兼ねや心配がなく、のんびりしているさま。
「隠居して―に暮らす」
(2)物事にこだわらず、のんきなさま。

辛い事がこれから続くからこそ、「気楽」の具体的方法を
強く意識して開放してやる必要がありそうです。

よく「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあって、
以前何かで読んだ本の中には
(天命を待つだけの状態にするまでには
これでもかというぐらい努力が必要である)
という言葉ばかりが載っていた記憶があります。

しかし努力して、すべてが報われるわけではない、というのは
水木しげる(水木さんの幸福論)にも載っています。
社会がルーチン化から解かれた以上、
尽くすべき人事が思いつかない時だって
多分にあるのです。

では努力しすぎて燃え尽きてしまう人、
現状を真剣に打破しなければならないと思っている人の
「心の固さ」を上手に受け止め、
柔らかくする方法はないのでしょうか?
この問いは人に向けたもの、というより、
かなりの部分で私に向けたものです。

一生懸命に念じている人は
何かを諦められないものです。
諦められない理由はいくつかあって、
ひとつはそれでなければならない、
そうでないと生きていけない、と思ってしまうことにあります。

これは、さまざまな作業や仕事のプロセスが
「忠実に履行される」ことを前提になっていて、
しかもそのプロセスが非常に長くなりつつあることにも
問題があります。
そういう思考様式ばかり取らされれば、
おのずとその思考様式が身についてしまいます。

仕事、という言葉の中に、
忠実で長いプロセスの実行、という側面と、
分からないことに試行錯誤する、という側面があって、
どちらの概念も強力に必要で
かつ渾然一体となって来ている、ということが
顕在化したのが現代社会のようです。

「天地人」という言葉があります。
すべてのことに、天命、地の利、人の努力が揃っていないと
物事は前へ進めない、という意味です。
とてもよいバランスの言葉だと思います。

地の利まではある程度検討の余地がありますが、
天命の流れ、運命の流れだけはどうにも変えようがないのです。

ひとしきり十分な努力をしたあとで、
「今はその時じゃないな」と思える、
自分を解放できることもまたとても必要です。

知識と手段は非常に強い力で、
何らかの解法を与えてくれることも非常に多いのですが、
それらは有力ではあるけれど万能ではなく、
分からないときこそ今の自分の決断の方向性を認め信じ、
思い切って天=この時の流れに委ねる勇気を強く持てることが
安易さに流れず「気を楽にする」有力な方法だと考えます。

戦後経済が右肩上がりばかりというのは、
世界的に見ても異常な状態だったのです。
ある一定の安定状態に落ち着くためには、
景気と不景気が同じ強さで循環しなければなりません。
経済成長、ばかりが謳われますが、
世界がひとつになり、富の不均衡が急激に解消される中で
世界中が世界中を巻き込んだ循環経済へと移行するでしょう。
決して成長ばかりは望めない世界です。

そんな世界の中で「ハイリスク・ハイリターン」は非常に危険です。
日本人が生活に必要とするコストが非常に高いのであれば、
これは「ハイリスク」以外の何者でもありません。
儀式のようなお歳暮や義理チョコがなくなったのは
非常に喜ばしいことだと思っています。

人間が生きていくには、
好景気のときに生きられることではなく、
不景気のときにも生きられることのほうが重要です。
もちろん時には強さも必要なのですが、
強くなくてもそれなりに生きる安心が必要なのです。

好景気ばかりしか知らずに育った上の世代では、
環境のせいでもしかしたらそういった類の知恵が
十分に醸成されなかった可能性があります。
こういう世代に対してもし訴えかける必要があるとすれば、
富をきちんと分配しようという動きだと感じています。
そして不景気だからこそ
さまざまな「欲」-それはたとえ愛や希望や夢のようなものであっても-を
上手にコントロールできるようにならないといけません。

一生懸命な人にとっての「気楽」は、
人事の及ばない天の動きがあることを認め、
欲を小さくし、
勇気を持って不安を世の流れに積極的に預けることから始まるようです。
結論としては、
「気楽」は「無為」ではなく、
積極的な心の働きである、と感じました。

水曜日, 7月 05, 2006

幸せ感の原因

時差で少し眠れずにいます。

創造性を発揮して生きる、ということは、
そして「創造性」に込められた意味とは
どういうことかとふと考えました。

人と違っていなければ仕事にならない、
そしてその違いが人よりも優れていなければならない-
大量消費社会が終わった時に求められたのは
こんなことでした。
競争の苛烈感、のようなものは
すべての人が何らかのプロになることを要請する風潮から
来ている気がします。

自分がどれほど平凡であるかというのは
非常によく分かっていて、
平凡でも生きていく手段が欲しいと思っているのです。

現場の、会社の、人の輪のどこに行っても
「その場所でがんばる存在を」
「若い力でこれからを支えて」と矢のように聞きます。

経済規模が縮小する世界は、
激烈なまでの個性の表出と
単なる競争の世界になってしまうのでしょうか。

生きていくこと、それ自体が生き物の目的なら
人間は本来、「共生」ができればよいはずなのです。

本態的に恋愛は競争を含みます。
優れた人を選びとる、ということ自体が熾烈な競争であって、
選び選ばれるが相思相愛であっても
見かけ上競争に見えないだけです。
恋愛が与えるものは「究極の幸せ」ではないのです。
もちろん、個性によって選ぶ基準は違うのですが、
どういうわけかその基準は驚くほど画一化していて、
将来性があるとか包容力があるとかばかりです。

個性を好きになる、ということは
決して優れた面を好きになる、とか
何かを与えてくれる、ということとは関係ないものです。
個性とは本来的によいとか悪いとかでは表せないもので、
それがその人そのものなのです。
だから少し頼りなく、仕方がないところもあるけど
この人がいい、というような選び方は自発的で、
きっと幸せ感に通じるでしょう。

十分な幸せ感をもたらすもの、それは
「今の自分で十分である」という意識が満たされることでしょうか。
小さいころ、上手に本が読めるようになった、
それだけで褒められ幸せになった記憶は
きっと多くの人が持っていると思います。
背伸びせず、自分ができることで喜ばれる、
ということで得られる喜びが
これからの人の意識の根底を支えていく気がします。

使命感に突き動かされる心の良い若者が、
今非常に疲れています。

これからの社会に望まなければならないこと、
それは「24時間背伸びを強要されるような社会ではなく、
せめて人生の過程で平凡に休むことが十全に許された社会にしてほしい」
ということです。

お受験、投資、選別、私のため、我が家族のため、
これらはいかようでも結構ですが、
それが「個人」として生きようとする社会に
強烈な不安定性を持ち込んでいることを
もっともっと強く認識して欲しいと思います。

私ができること、それは
今いる、今あるものを「それでいいんだ」と認めてあげることであり、
それが今の自分に一番必要としているものです。

火曜日, 7月 04, 2006

風凪ぐ海に帆を上げて

小さいある日、ふと思ったことがあります。

「孤立、死への不安、悩み、
憎しみ、争い、奪いあい、殺しあい、
とめどもない精神破壊、環境破壊から、
個人や人類が生き延びるためにはどうしたらいいのか」、
これはずっと考え続けてきたテーマでもありました。
ただその答えが単なる「慣習」「宗教」ではないことも感じていました。

医療において、ようやく「精神」を超えた「Spilituality」が
意識されるようになって来ました。
嬉しい、楽しい、悲しいといった「精神」の面から発展し、
「生きる喜び、生き甲斐感、達成感」というものこそが
生きているうえでもっとも大切なものである、という思想です。
そして自然の力、絶対的なものの存在などを
受け入れていくことが自我を支える助けとなる、というものです。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%E9%A5%F3%A5%B9%A5%D1%A1%BC%A5%BD%A5%CA%A5%EB%BF%B4%CD%FD%B3%D8?kid=48025

それを考え続けたのが宗教なのですが、
その体系は複雑なためどうしても解釈の誤りが生じていきます。
組織として成り立ったから正しい、ということは決してないのです。
その強烈なノイズの中からSpilitualityを読み取れるか、
それが悟りと呼ばれるものである気がします。

金曜日, 6月 30, 2006

見知らぬ街に落ち着くまで

観光地に向かって、綺麗な場所ばかりを見ていると
なぜか不安な気持ちになってしまいます。
人間がいる、と思えなくなってしまうのです。

人の姿をしたものは歩いているけれど、
知らない街は降り立った途端
何の問題もない街のように感じられて、
そしてガイドブックはその町の「とっておき」を見るだけで
時間を一杯に埋めてしまうので、
そんな良い面ばかりの街には
様々な感情を持ち込んだ自分の居場所がなく、
困った人や辛い人の居場所もまたないような気がしてきます。

人の住む街には
多かれ少なかれ何らかの問題を抱えていて、
いつもそれが見えていればいいというわけではないのですが、
人間が一片の曇りもないと無心に信じ切ってしまう世界より、
人にはこんな面もあるよね、と思えるほうが
不思議と安らぐのです。

見知らぬ街に落ち着くまで

観光地に向かって、綺麗な場所ばかりを見ていると
なぜか不安な気持ちになってしまいます。
人間がいる、と思えなくなってしまうのです。

人の姿をしたものは歩いているけれど、
知らない街は降り立った途端
何の問題もない街のように感じられて、
そしてガイドブックはその町の「とっておき」を見るだけで
時間を一杯に埋めてしまうので、
そんな良い面ばかりの街には
様々な感情を持ち込んだ自分の居場所がなく、
困った人や辛い人の居場所もまたないような気がしてきます。

人の住む街には
多かれ少なかれ何らかの問題を抱えていて、
いつもそれが見えていればいいというわけではないのですが、
人間が一片の曇りもないと無心に信じ切ってしまう世界より、
人にはこんな面もあるよね、と思えるほうが
不思議と安らぐのです。

火曜日, 6月 27, 2006

この世界を知りたいと思ったものに対し、
科学が変えてしまった点が一つあります。
核兵器の存在によって、
人がその意思の選択によってこの地球を壊せるような
可能性と印象を初めて持った、というものです。

この事実はあらゆる物事を見る時の印象を変えてしまいます。
どんな時でも人は自然の現象にひれ伏すだけの状態から、
人は吹き飛ばし形を変えてしまうというたとえわずかな一瞬でも
自然より優位に立つ事ができるのだと
感じてしまうからです。

もし自然の力の前にただ為す術がなければ、
我々はその力に対しての恐れや不安と共に、
それらを敬い、人間の小ささや不完全さに対して
もっと謙虚に、もっと穏やかに受け入れることも
できていたのだと思います。

しかし科学は人間が常に必要としている
「不完全な自己」に対する許しを少しずつ奪っていきます。
驚異的な能力を持ち、
不可能だと思われていたことを可能にした過去の英雄たちの名前が増え、
人のチームワークによって
自然の中の制御できないことが人の制御下に納められていきます。

たとえば地震や火事などの災害に対してさえも、
人、機械、物資のネットワークがしっかりしていれば
生き延びることができる、と思われています。
生き延びることができない理由は決して
「自然の力が大きくて
人にはどうしようもないという原因」からではなく、
「必要なことはわかっていたのに
人の不注意で対策を怠ったため」、
という原因とする見方が大勢を占めます。

これらのことは、人が意識の上で理解しておかないとならないこと、
以前に誰かが分からないことは明らかにしており、
「努力によって」知ることができたはずのことがあらゆることに用意され、
それらは選択を強要し判断の誤りは許されることが難しい、とされると
人は罪の意識から逃れられなくなってしまいます。

病気が悪霊からもたらされると信じられていた頃、
そしてそれらに対して為す術を何ら持たなかった頃、
たとえ病気から救う事ができなくても
人は自然の圧倒的な力をどこでも感じ信じることができたのです。

あらゆる症例に名前がつき、その原因、探し方と対策が明らかになると
「目の前の現象を見つけられない間違いを犯したから
治すことができなかったのだ」と責める可能性が生まれます。
一方で、その対策に多額の費用がかかる、ということになれば
治るかどうか分からない症例に対しては
一家が破産してもどこまでも有効な対策とされたものを行い続けなければ
誰かが見捨てた罪を負ってしまう、ということになってしまいます。

これほど極端でなくても
類似した問題はいくらでも存在し、
仕事の決定で誰が責任を負うかということが
常に無言と沈黙の中で議論の対象になります。
この責任の示す意味がこのままではあまりにも重く、
失敗すれば職を追われ死ななければならないようにさえ思われ、
不確定性と不完全さに対して
人が受け止められる量を超えてしまうように感じるのです。

生きていく上で、私から離れなかったものは
自分に対する罪の意識でした。

私には物心ついた頃から、
世界の裏側で絶え間なく起こっている戦争や貧困に対して
何の行動も起こせていない自分というものを感じ、
様々な幸せや喜びをこの世界で与えられ感じるたびに、
いつも罪の意識が伴いました。
ただ人としてできる限りの生き方をしよう、という目標は
この罪に対して完全な解決を与えないのです。

全ての人が生きる上で生じる辛さや苦しさから開放されて欲しい、
それは強い辛さや苦しさに打ちひしがれそうになってきた
自分が感じる何よりも強い欲求です。

自分にできることを増やし、たくさん与えられるよう努力することは
この問いに対するせめてもの抗いでもあり、
罪や自責の意識に対する償いの形でもありました。

しかし、それでも
全てのリクエストに応えることなどできず、
行動するほど反作用も生まれ、
自分に対する罪の意識の苦しさはいつまでも募るばかりでした。
そしてそれらの観念と無関係にまわっている様に見える他の人の世界-
芸術、楽しみ、自らの欲求の追求に対して
それを受け入れる方法がずっと分からずにいました。

日本は西洋的な哲学や思想の理由を持ち込まないまま
科学や法律の手腕だけを生活の中に取り入れましたが、
果たしてその状態は正常に続けられるのでしょうか?

私にはいずれ続けることができなくなるだろうと感じています。

興味や好奇心という人の心から発したものだけでは
科学の実際的で強力で反作用さえ持つ明示的な力とその結果を
正常な感覚を保ったまま受け入れられなくなる日が来ます。
そしてそれらから「離れて」生活することができれば
明示性を突きつける問題とは正面から向き合わずに済むはずですが、
一人で山にでも住まない限りその方法は選べません。

役立つから、という理由で科学を学ぶ者が増え、
その力と思想の一端に触れるものが増えれば、
必ず一度は私が突き当たった問題に触れるはずです。

人間を罪という概念から解放できるのは
人間が生み出した物の中にはではないのではないか、と思います。
私たちが「人間は取るに足らぬほど不完全で小さな存在だ」と感じられるものを
より身近に、より強く意識しなければならなくなっているのです。

宗教は「人に限界がある」という一つの指針を示します。
しかし宗教で語られる言葉は全て「人が作った」ものです。
そして言葉は人によって解釈が異なるものです。
一番の問題は「限界を超えた何か」に勝手に呼び名をつけ、
「人の限界」以外にも生きる方法にまで決まりを示してしまいます。
この決まりごとについて宗教は罪や死へと繋がる禁止を示し、
また「一つの神しか信じてはいけない」ということさえ言い切ってしまいます。

信じるもの同士が正しいと信じ切って争う背景には
常に人間の限界があるため、
争わないと決め、常に赦していることを根拠にして
我々が信じる宗教の解釈こそが唯一正しいと言う論理は
罪を救うためには何らの力も貸しません。
それなら「人間の限界を認め」「争わない」事を抱えているものなら
何の宗教だっていいのです。

人を全て平等に扱いたいのならば、
霊感を受けた特別な人などというものさえ一切作るべきではなく、
人間の力では「人間を超えた存在」について
どの誰であるかを特定することは本来できない、ということだけが
常に正しくあるものであって、
それが何であれ特定した瞬間に、
特定したという理由によって間違いになってしまうのです。

地球を壊せるようにさえなってしまった今、
宗教の力を使わずに
それを思い出させるものがまだこの地上にあるのでしょうか。
手付かずの自然、厳しく巨大な風景でさえも
人の手によって歪めることができてしまうなら、
残された場所は人の住む地、には既になく、
この空と天と、地球を離れた宇宙だろうと感じます。
幸いにしてこの宇宙全体は
地球のように探してまわることすらできないほど
大きくて未知であることが十分に、そして永遠に保証されています。

人も、人の浮世で起こる
喜び、悲しみ、怒り、慰め、過ち、誤解、悩み、苦しみ、そして死さえも
人として大切ではあるけれど
遠くから眺め返せば本当に取るに足らぬ一つの過程である、
まだそう本気で信じられるものが見える場所にあった、ということ、
その中で人としての不完全さ、無力さを認め赦してもらいたいと
今は強く信じていたいのです。

空はいつでも、どこからでも見ることができます。
どこか遠くへ行かなくても、
いつも無限に遠い物、手の届かない大きなものを
その体で感じることができるのです。

私はこれからいつも、時間の許す限り
空を眺めて暮らします。

火曜日, 6月 13, 2006

金ではなく鉄として

街の賑やかさが
時にカンフル剤のように感じることがあります。
カンフル剤は一時的に効くのですが、
次第に疎ましくなってしまいます。

テレビ番組というのは少し哀しいもので、
喋ってないといけなくて、賑わってないといけない、と
何かに要請されています。
どの番組も元気で溌剌で、
しかしどことなく無理があるのです。

中坊公平という弁護士の半生、
「金ではなく鉄として」を手に取ったのは、
とある漢方薬を出してくれる内科のロビーでした。
森永砒素ミルク事件を被害者の立場になって弁護した人です。

大きなことが為されると、何か人間まで特別なように
扱われてしまいがちなのですが、
取り柄や評価が欲しい年頃に行動では認めてもらえず、
自らを行動で明かすことができなかったのだと綴られています。
しかしそれでも認めてくれた家族や友人の特別な支え、
無償で与えられることを強く感じられた彼は
幾多の困難を自分なりの方法で一つずつ乗り越えていきます。

わたしのやり方は時に問題があります。
でもその人の人生に無償であげられるものがあればいいと
いつも思っています。
それらは時折「特別な何か」という枠で括られてしまい、
その関係が永続的になるよう少しずつ縛られていくことがあります。

無償で手渡すことが新たな欲を呼ぶ、というのであれば、
わたしは無償で与えることを控えなければならないのでしょうか。
それとも無償で与えていい大きさには限度があるのでしょうか。
そのときに残ったさまざまな関係は、
すべてgive & takeであったりするなら、
片手に自然、片手に人をつないでいた手の一方を、
人ではなく「かみさま」という何かに繋ぎ換えてもいいな、と
ふと思うのです。

火曜日, 6月 06, 2006

アイデンティティが自動的に失われる社会

39℃の熱が出ていて、
しかし意識は比較的はっきりしています。

どこにいても落ち着かないことがあります。
その原因が何であるか分からず、
熱っぽい頭でしばらく考えていました。

部屋中にあるものは、
主に「それと同形同機能のものがある」ものばかりです。
CDも、テレビも、本も、住んでる家も、
世界のどこかには完全なまでに見分けのつかない複製品があって、
自分だけの何かを象徴してくれているわけではありません。

この悩みは一度解決しようとしたことがあって、
その組み合わせの中に自分自身が見出される、
ということで纏めたかったのですが、
時折うまくいかなくなります。

労働力として役に立つならば、
自分でなくても構わない、という精神があったとすると、
個人のアイデンティティを保つのはさらに難しくなります。

デジタル化と工業化の問題についてふと思います。
なるほどそれらは人の生活に完全なまでに平等な恩恵を与えたのですが、
まったく意識されないところで自分を見失う機会が与えられています。

情報化はさまざまなケースの分類を可能にしました。
病気はほとんど名前が特定されるし、明日の天気は既知のもので、
人という要素は内臓と器官と骨格でできていて、
すべからく平等ということになっています。

地図は世界中の地形を表してくれていて、
自分しか知らないことなんてまるで無きに等しく、
何もかもが「分かったような」気になっています。

分からないことを恐れながら、
しかし分からないことに挑むから自分らしさが現れるとしたら
この世界の「分からないこと」の二面性を思います。

分からないことに挑むこと、
それは恐ろしいことであり、
同時に誰のものでもない自分をつかむことです。